岩瀬の清水 Iwase's Shimizu 阿賀野市
「岩瀬の清水」は、笹岡小学校の一角に湧き出していて、昭和40年代までは小学校の飲料水としても利用されてきた。 古くから『越後三清水』の一つといわれ、重病患者などが愛飲し、末期の水としても使われた「霊水」であった。 800年ほど前、このあたりに移り住んだ西国の浪人・岩瀬信四郎が、この清水を気に入り、好んで飲んだことから名づけられたといわれているが、江戸中期に『越後名寄』の中で「岩瀬清水山崎町東山麓四・五丁極めて善水」と記されており、この頃には名水としての地位を確立していたようだ。 明治36年(1903)に、すぐ前に小学校が建てられた時以来、清水は学校に引かれ学童の渇きをいやしてきた。相馬御風が作詞した当時の小学校の校歌にも『岩瀬の清水 湧く里の…』とあり、この里の人たちと清水の緑は深かった。 昭和57年4月(1982)には、四ヵ校統合校舎が建てられた際には、里人たちの強い要望もあって、清水は昔のままの姿で保存されることとなり、地域の人たちや子供たちの手によって大切に守られ今日に至っている。 水汲み場には東屋が建てられ、四季を通じて変わる事の無い水量と水温で、絶えることなく湧き続けている。 放課後には小学生たちの憩いの場にもなっていて、ポリタンクを手に汲みに来る人の姿も絶えない。地元の人々や子供たちに愛され、昔も今も変わらず静かに水を湧き出している。ほっとするような情景がそこにある。 また、昭和63年(1988)5月に笹神村(現阿賀野市)の文化財に認定された。※ストリートビュー
《案内板》
笹神村指定文化財 岩瀬の清水 この清水のいわれは、今から約八百余年前の長寛年間、西国の浪人岩瀬信四郎が当地に住みつき、この清水を愛飲したことから「岩瀬の清水」と命名されたと伝えられています。 古くは越後三清水の一つに数えられ、江戸時代の中ごろ、宝暦六年に著された「越後名寄」には「岩瀬清水山崎町東山麓四・五丁極めて善水」と記されており、今から二百四十年前頃にはすでに名水としての地位を確立していた清水であります。 万延年間、水原代官里見源左衛門が近郷各地の名水を集めて飲みくらべたところ、この清水に優る水がありませんでした。 そこで出府にあたり、この清水を江戸屋敷に運んでも少しも味に変わりがなかったといわれています。彼はなかなかの愛水家であり、 「類なき岩瀬清水やいやまして 出る泉の苔むすまで」と詠んでいます。 明治三十六年に、この清水場のすぐ前に小学校が建てられました。それ以来、子どもたちの飲料水として喉をうるおし、地域の人たちや子どもたちの手によって大切に守られてきました。また、昭和三十年に宮中の歌会始めの御題「泉」に入選された本村出身の中野正吾氏は、この「岩瀬の清水」を題材にして次のように詠んでいます。 「湧きいずる山の泉を引き入れて 先生も生徒も大切に飲む」 この清水は、昭和六十三年五月に笹神村の文化財に指定され、貴重な村の財産として後世に伝えてゆくことにしています。 平成七年四月 笹神村 笹神村教育委員会 ![]() |