ある本にこんな感じのことが書いてあった。

 

『壁にぶち当たった時、大別して人には二つのタイプが存在する。

 すなわちその壁に正面から立ち向かってうち破ろうとするタイプと

 その壁を迂回する策を模索するタイプである。

 どちらがより優れているかは別として、人の真価が問われる最高のシーンだ。』

 

でも、と私は思う。

もう一つ、壁にぶつかって負けたり逃げ出すタイプもいるんじゃない?

 

私は今、その三つのどれになろうとしているのだろうか?

 

 
 
 
 
 
 
 

 

【BAR children】

 

第三夜

 
 
 
 
 

 

 

ふとその階段が目に入った。

なぜだかわからないがその階段を下りたくなった。

気付いたらドアの前にいた。

 
 
 
 
 
 
 
 

BAR children
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
音楽とは不思議なものだ。

それぞれの楽器がめいめい好き勝手に演奏するだけで最高のハーモニーを生み出すこともある。

無論、それは最高の相性の面々が集ったときのみ。

でも、そのお店は楽器も無しに不思議な調べを奏でていた。

 

 

私は楽器ケースを入れたバッグを肩から提げて扉をくぐった。

鍛えた耳はうるさい店の中でもついつい音を拾う。

だから、お酒を飲みたいときは静かな店を探す。

 

だが、その店は少し変わっていた。

確かに右側のテーブルはがやがやとざわめいている。

しかし、左側のテーブルはどちらかといえば静かな談笑の声。

その中に入り込むように何かのメロディーがバックミュージックとして流れている。

互いの音が気にならない。不思議なバランスが保たれている。

…こんなことで驚くのも変な話だけど。

私が入り口で立ち止まっていても気付きもしないのか客達は顔も上げない。

 

(後で聞いた話だと初めての客はだいたい一度立ち止まるそうだ)

 

「いらっしゃいませ」

男性にしてはやや高い声が心地よく私の聴覚を刺激した。

どういう訳だか二つに折れ曲がったカウンターの真ん中でウェイターらしき男性が微笑んでいた。

 

 第一印象…綺麗、不覚にも。

 

テーブルは満席だったのでとりあえずカウンターに座る。

名実ともに店の真ん中の席だったので少し恥ずかしかったのだが、なぜかウェイター君の言うことに逆らえなかった。

 

背の高いウェイター君…年下の様なので君付けだ…はどこかで見たことがあるような気がした。たぶん気のせいだろうけど。

「何にいたしましょうか?」

水の入ったコップを置きながらウェイター君が言った。

…のどが乾いてるからなにかジュースでももらおうかしら

「はい、かしこまりました」

ウェイター君は頷くと右のカウンターのバーテンらしき…女性?…の所に向かった。

女性のバーテンなんて変わってるわね。

そう思いつつ反対側を見るとこちらも女性がシェイカーを振っていた。

 

 第一印象…二人とも綺麗。世の中どうやったってかなわない相手はいるものだ。

 

 

シンジから注文を聞くとアスカはグレープフルーツを取り出し皮ごとミキサーに放り込む。

「ねぇアスカ」

ジョッキ片手に夕食代わりのグラタンを食べていたミサトが口を開く。

「何?忙しいんだけど」

「この店ってたしか、初めてのお客の席はシンジくんが決めるのよねえ?」

心持ちニヤニヤと笑うミサト。

「そうだけど?」

「じゃあ、あそこに座らせたのって何か意味があるのかなぁ?」

ミサトの指さす先を見たアスカ。

一瞬で血液の温度が上昇する。

「なんか楽しそうに話してるわねぇ、あの綺麗な女性と」

「そ、そう?ま、アタシには関係ないわね」

そう言いつつもグレープフルーツを握りつぶすアスカ。

 

 

「お待たせしました」

そういって赤い髪のバーテンがグレープフルーツジュースを置いた。

近くで見るとますます綺麗だ。

「あれ、何で二つ?」

「あんたの分よ」

そう言うとバーテンさんはさっさと引き上げていった。

…あら、おいしい

グレープフルーツの味わいを残したままほのかに甘みが加わり何とも言えない味わいだ。

なぜかウェイター君はつらそうな顔をしていたが。

 

(後で聞いた話だと、足を踏みつけられ背中をつねられた上にジュースは死ぬほど苦かったとか。涙を流すほど笑い転げたのを覚えている)

 

 

…いつもこんなにお客が入っているの?

「ええおかげさまで」

本当に嬉しそうにウェイター君は笑った。

思わず照れてしまう。

この子に客商売をやらすのは逆にまずいんじゃないだろうか?

照れ隠しにカクテルを注文した。

ウェイター君は今度は左のバーテンに頼んだ。
 
 

 

「綾波」

「…何」

どこか冷たい口調のレイに戸惑うシンジ。

シンジにはわかる。

(…綾波、怒ってる。なにかあったのかな?)

そう思ってレイの前のカウンターに座る女性を見る。

「あら、シンジ。お仕事中でしょ」

そう言って軽やかに笑うユイ。

隣のゲンドウは無言でグラスを傾けている。

だが、ニヤリと笑ったのをシンジは見逃さなかった。

(…何か吹き込んだな)

 

水色の髪の女性が作ったカクテルは身体が芯から冷えるような味わいだった。

 

ウェイター君が厨房に引っ込んだため手持ちぶさたになった私は店内を見回した。

カウンターに座っているのは右に女性が一人、左に男女が一組だけだったが4つのテーブルは満席で皆楽しそうな表情を浮かべている。酒に酔って楽しい振りをしているわけでも無いようだ。本当の意味で楽しくて笑っているらしい。

 

…私が最後にそんな風に笑ったのはいつだったっけ?

 

ふと正面に顔を戻すと小さな、本当に小さなステージがあり、ボードに簡単に予定が書かれていた。

 

水曜の夜 ギター演奏

金曜の夜 チェロ演奏

土曜の夜 ソロ歌唱

他の曜日、演奏・歌唱希望者募集中

 

お金を払って演奏してもらうのではなく無料でステージを貸し出すと言った所らしい。

今日は…確か金曜日か。ふふ、たまには素人のチェロを聞くのもいいわね。

 

なぜか心が痛んだ。

 

傲慢ね…私の。そしてあの人達の。

 

 

『あなたのバイオリンには合わないわ』

『我々はお客を呼び入れてだね』

『オーケストラは完璧な調和が無くてはならない!』

『話題を呼ぶために呼んだのだよ』

『私、本当はもっと静かな曲をゆっくり演奏したいんですよ』

『あなたみたいな人と競演したって言えばハクがつきますね』

『時には質を落として協調することも大事だよ』

『変わったね、君のバイオリンは』

 

 

「…大丈夫ですか?」

…え?

その声で意識が明瞭になる。

この子の声はとてもよく私の音感に訴えるものがある。

なぜだろう?

「どうぞ」

小皿一枚に載せたピザを差し出す。

何の変哲もないピザだ。

でも、大きさを売りにするピザとは逆行するように可愛らしいピザだ。

ありきたりのトッピングだがなぜかそれが嬉しかった。

 

…なんていうか絶妙なバランスね。

「バランス…ですか?」

ウェイター君が何やら不思議そうな顔をする。

ざっと見たところそのバランスを作っているのは彼と思ったのだが…

どうやら無意識にやっているらしい。

すごい、と素直に感心する。

 

「そんな大したことをしているつもりはないんですが…」

そういいながら水を交換するウェイター君。

水を注ぎ直すのではなくグラスから交換している所が違う。

 

「ただ、何かできればと思って…」

…何かって?

そう言うとウェイター君は、これも無意識にだろう荘厳な口調で言った。

 

「僕になら出来る、僕にしか出来ない何かです」

 

この一瞬、女性的な顔立ちとか、細い体つきとかそういうありとあらゆるものを打ち消すほど男らしさを感じた。

 

 ちなみに私が数秒間、顔を赤くして固まっていたことは内緒だ。

 

 

「昔。ある人が言ってくれたんです。いつも逃げ出していた僕はそのときそれまでと違い自分の確固たる意志でそこから立ち去ろうとしていました。そのときだけは逃げようとしたんじゃないと思います。でも、そこを去る直前に事態が急変して選択を迫られたんです。そして、

 

『君には君になら出来る君にしか出来ないことがあるはずだ。

 誰も君に強要はしない。自分で考え自分で決めろ。今、自分が何をすべきなのか。

 ま、後悔の無いようにな』

 

 

…そして、君は今ここにいるわけね。

そのときの選択が正しい選択だったのかどうだったのかくらいは顔を見ればわかる。

「はい」

 

そのまま黙り込んでいると赤い瞳のバーテンが…最初はコンタクトかと思ったけど…頼みもしないのにカクテルを置いていった。

さっきとはどこか雰囲気が違っていた。

グラスもなぜか二つ。

…乾杯。

「どうも」

チン

 

心が温まる不思議な味だった。

 

 

…ねぇなぜ私にそんな話をしたの?

初対面の客にするような話では無いと思う。

ウェイター君は少し考え込んでいた。

「…そのときのことを後から話したことがあったんです。そうしたら、
 

 『俺はきっかけを与えただけさ。決断をしたのは君だよ』
 

 と言われたんです。

 確かにきっかけがあっても決断を行える人間は少ない。

 本当に強い人だけだと思うんです」

 

自分が強い人だよと自慢しているつもりはまったくないらしい。

たぶん思ったことをそのまま口にしているので気付いてないのだろう。

 

「だとしたら、決断できる人にはきっかけをあげたいと思ったんです」

 

少し、話が飛んだのでよく理解できない。

 

ウェイター君は…これも無意識だろう…反則気味に優しい目で私に言った。

 

「あなたはたぶん決断を迫られていると思ったんです。

 そして、あなたは自分で考えて決断を下せる人です。

 ですから、あなたにきっかけをあげたかったんです」

 

よけいなお節介だとは思うんですが、と付け加えたが私の耳は受け取りを拒絶した。

 

本当の強さを持っている人から、

「あなたは強い人です」

と言われたのに等しい。

 

カランと氷が音を立てた。

 

 

 

初対面の客に話すことではない。

なら、私の話も初対面のウェイター君に話すことではないだろう。

 

話は簡単。

私は好きなようにバイオリンを弾きたかった。

オーケストラで演奏するには確かに協調が必要だ。

だから、その方向で弾くのは構わなかった。

だが、主催者達の言い分は聞き捨てならなかった。

みんなの言い分が気に入らなかった。

 

 

私はお金の為にバイオリンを弾くんじゃない。

 

私はお客を呼ぶためにバイオリンを弾くんじゃない。

 

私は名前を売るためにバイオリンを弾くんじゃない。

 

 

 

でも、たくさんの人に聞いてもらう為に業界のしがらみから抜け出せずにいた。

 

私のバイオリンの音色が変わった。

 

いや、そうじゃない。

 

演奏しながら私のバイオリンと私の心が泣いていたんだ。

 

 

 

今度の演奏会はこの街で。

 

決断すべきは弾くべきか弾かざるべきか。

 

簡単な二択。

 

それで私の人生が決まる。

 

 

 

「本当にそうでしょうか?」

…え?

「本当にそうでしょうか、と言ったんです」

…だってそうでしょう?

…ここで弾けばとりあえずまた名前は売れて先に進める

…ここで弾かなければそこでおしまい

…違う?

…それとも他の選択をあなたは知ってるの?

「それは僕が考えることではありませんよ。

 言ったでしょう。自分で考え、自分で決めるんです。今自分が何をすべきかを」

そう言うとウェイター君は自分のグラスを片付けた。

話の途中でいなくなるタイプとは思えなかったので少し驚く。

「時間なんです。すみません」

ウェイター君は中央のステージに向かうと奥からチェロを取り出した。

店に流れていた音楽が止まる。

テーブル席の話し声が消える。

みんな知っているのだ。

時間だと。

 

金曜の夜 チェロ演奏

 

…まさかウェイター君が弾くとは思わなかったわ。

 

聞こえた訳では無いだろうがウェイター君が言った。

「よかったらどうぞ。もしかしたらあなたの知りたいことがわかるかも知れません」

 

演奏が始まった。

 

よかったらどうぞ?

まぁそれはさておいて澄んだ音色だ。

このお店の音響効果に今更ながら気付く。

徹底的に計算して設計されてる、ただ者じゃないわ。

 

 

「くしゅん!」

可愛らしいクシャミをするリツコ。

「先輩、風邪ですか?」

きゃー先輩可愛い!と思ったが口には出さないマヤ。

「大丈夫よ。たぶん誰か噂してるのよ。どうせミサト辺りだと思うけど…

 いいわ。次のデータを出して」

「はい」

 

 

深みのある音色だ。

心の奥底を揺さぶられるようでそれでいてしっかりと受け止めてくれるような…

 

…!?

 

思い出した!

今の今まで気がつかないとは不覚だったわ。

この子、確か第二東京大学の…

 

ウェイター君は目を閉じたまま演奏に没頭している。

何を考えているのやら…決まってるか

 

気付くと私はバイオリンケースを取り出していた。

客達は気付いていないようだが…

 

カウンターの全員が気付いていたと聞いた時は驚いた。

 

 

客達は別の音色が混ざったときに一瞬驚いた。

バーテンの二人に至っては殺気さえ感じた。

 

だが二つの音色がハーモニーを奏で出すと皆、静かにその調べに身を委ねた。

 

 

私はウェイター君に気を使ったりはしなかった。

ただ、弾きたいように弾いただけだ。

ウェイター君は眉をぴくりとも動かさなかった。

私が弾くとわかっていたのだ。

 

 

ちょっぴりだけ悔しかった。

 

 

 

 

 

演奏の後の拍手は私にも送られた。

青い瞳のバーテンさんが一杯奢ってくれた。

とてもさわやかな味わいのする青い色をしたカクテルだった。

 

…君、最初から私が誰か知っていたのね?

「…すみません」

ぺこりとウェイター君が頭を下げたが私は別に怒ってはいなかった。

…第二東京大、謎のチェロ弾きと競演できるとは光栄ね

そう言うとウェイター君が驚いていた。

自分を知っているとは思わなかったのだろう。

…君、私みたいな演奏中毒の間では有名よ。技術は確かに素人だけど音は別物だって。

「買いかぶりですよ」

…君がどうしてあの音を出せるのか少しわかった気がするわ。

「…でも、あなたの音も最近の音と違っていましたよ」

…え?

「…今の音は最初にあなたの演奏を聴いた時と同じ本当に素晴らしい音色でした」

 

 

 私が再び数秒間、顔を赤くして固まっていたことは内緒だ。

 私はこれでもお高い女性で通っているんだから。

 

 

「それで決まりましたか?」

さらりとそんなことを聞くあたりこのウェイター君はただ者じゃない。

でも、私も負けてばかりはいられない。

…君の耳で判断して

そう言って私は微笑んだ。

プロの音楽家たるものこういう台詞を吐かなくちゃね。

 

「はい、わかりました」

そういってウェイター君は微笑んだ。

 
 

 私が三度、数秒間、顔を赤くして固まっていたことは内緒だ。

 天然物には勝てない。私はそう学んだ。

 

 

…おいくら?

そう聞くとウェイター君は明細書をポケットにしまい込んだ。

「次のコンサートのチケットでチャラにしますよ」

そう言って笑った。

ふふん。やるじゃない。

…安くつくか高くつくか、楽しみにしてるといいわ。

「ええ、楽しみにしてます」
 

 

 さすがに四回目となると何とか耐えられた。

 

 

席を立とうとした私をウェイター君が呼び止めた。

とてもすまなそうな顔で口を開く。

「…すいません。図々しいお願いなんですが」

…何?

「…チケットは並びで3枚お願いできますか?」

右を見る。

赤い髪のバーテンが睨んでいた。

ただし、ウェイター君を。

左を見る。

白い肌のバーテンが目だけこちらに向けていた。

ウェイター君はあの瞳を見て何を考えているかわかるそうだ。

正面を見る。

ウェイター君がなんとも情けない顔をしていた。

 

 

恥も外聞も捨てて大声で笑った。

こんなに笑ったのは久しぶりだった。

そんな私を客達も笑って見ていた。

そんなお客さんが来る素敵な店なのだ。

 

 

 
 
 
 
 
 

 

 

 

しばらく月日が流れてから私は店への道を歩いていた。

バッグの中にはチケットが3枚。

当然S席。

VIP席もあったけどこっちの方が音がいい。

でも、一回の飲み代にしては高すぎるわよね?

 

その夜、ボードに一行加わった。

 

時々、バイオリン演奏。金曜の場合はチェロと合奏。

 

 
 
 
 
 

BAR children
 
 
 
 
 
 

 

そのお店は今日も不思議な調べを奏でている。

 
 
 
 
 
 

 
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