涙が枯れる…と言う。

それはすなわち心が枯れることでもあるのではないだろうか?

私の涙は枯れてしまった。だからもう枯れるものは心しかない。

そして…心も枯れつつあった
 
 
 
 
 

 

 

 

【BAR children】

 

第四夜

 
 
 
 
 
 

 

 

ふとその階段が目に入った。

なぜだかわからないがその階段を下りたくなった。

気付いたらドアの前にいた。
 
 
 
 
 
 

 

BAR children
 
 
 
 
 
 

 

思うにこの店には不思議な吸引力があるらしい。

 

 

カラン

氷が鳴った。

それを正しく受け取ったのだろう。

バーテンダーが新しい水割りを作る。

「…どうぞ」

このどうでもいい一言がなぜか嬉しい。

「ありがとう、レイ」

リツコは微笑みを返した。

その時、ドアが開き新しい客が入ってきた。

 

 

酒は百薬の長、というが思うに病は気から、という言葉とセットで初めて意味を成すのかもしれない…あまり、らしくないことを考えながら私はその扉をくぐった。

 

アルコールの臭いとか人の体臭とかそういったものがむわっと漂っているかと思っていたのだが…地下の店にはとかくありがちだ…そんなものはまったくなかった。かといって嫌な香水の香りとかそういうものでもない。なんというか歴史を経たたたずまいを見せる古い屋敷か何かに似た雰囲気を感じとった。また、私の職場などでは決して味わえない居心地の良さとでもいったものさえ感じる。なんだろうか?

 

空いている席を探して店の中を見回した。

変わった作りの店だ。くの字型の店内でくの内側にカウンターがくの字型に配置されている。その更に内側には厨房などがあるのだろう。カウンターの前にはそれぞれテーブルが二つずつ。収容できる人員はさほど多くないだろう。いずれにしろテーブル席は全て埋まっている。ちなみに私のくぐったドアはくの字の角の部分だ。

私が左右のカウンターのどちらに座ろうかと考えていると声がかかった。タイミングから察すると私が店内を観察し終わるのを待っていたのかも知れない。

「いらっしゃいませ」

二つに折れたカウンターの真ん中でウェイターらしき青年が言った。妙な位置だが客がこの扉が入ってくる以上当然の位置かも知れない。

近寄ってみるとこんなところで商売をするようには見えない爽やかな好青年に見えた。

そこで照明の明るさに気付く。不便がない明るさと雰囲気を崩さないための暗さを正確に見極めているようだ。

そんな変なことに感心しながら気付けば入って左側のカウンターに座らされていた。

目の前には水とおしぼりがおいてある。先程の青年だろうか?いずれにしろ客を放っておいてくれる店のようだ。

…ありがたい、今夜の私には

反対側のカウンターには何人か客がいてバーテンダーらしき女性と…女性?まぁいいか、とにかくあれこれ話しているらしい。同じカウンターは一番奥に女性が一人座っているだけだ。目の前にバーテンダーがいるが特に話しもしないで静かに飲んでいる。

…そうだな、私も一人静かに飲むために来たのだから

視線に気付いたのだろうバーテンダーがやってくる。こちらも女性だ。透き通るような肌に………

…アルビノか

そんな言葉をついつい思い出す自分が嫌になる。別に白子に生まれたのは彼らの責任ではないのに…

その女性は水色の髪に白い肌、そして赤い瞳をしていた。

 

思うに私はかなり長い間その女性を凝視していたらしい。

それでも彼女が気を悪くしなかったのは慣れているからだろう。

…もっとも無表情だから実は怒っているのかも知れないが

アルビノだからというのではなく…というか逆にそれが拍車を掛けているのだが…彼女はとびきりの美人だった。その瞳を見ていると…

 

私は妙にばつが悪くなり水割りを注文した。

彼女はそれで初めて声を発した。

「…わかりました」

とても透き通るような声だった。
 
 
 

 

彼女はそれから一言も発しなかった。

しかし、用がない限り私の前から動こうとはしなかった。

私の相手をしてくれているらしい。

心地よい沈黙が私を包んでくれていた。

あまりの心地の良さに私はなぜ飲みに来たのか忘れてしまいそうだった。

ただただ時間が流れていく。

心の中も流れて…

 

 

「…何が哀しいの?」

 

 

………え?

声がした気がして彼女を見たが、彼女は無言でグラスを磨いているだけだ。

…酔ったかな?

そう呟くと彼女がグラスを取り替えた。

薄くしてくれたのかと思って呷ったらせき込んだ。

…濃い

彼女はぴくりともしなかった。

…結構くせ者なのかも知れない

そんな失礼なことを考えた私はやや頭が冷めてきた。

自然に飲むスピードが上がってくる。

 

 

「…何を泣くの?」

 

 

………え?

私は辺りを見回した。

誰も泣いてなどいない。

最後に彼女に視点を戻す。

無論、彼女も泣いていない。

視線は下に向けたまま、口が動くのが今度はわかった。

 

 

「…泣いているのはあなた」

 

 

…私が泣いている?

私にはわからなかった。彼女がなぜそんなことを言うのか。

…なぜそんなことを言うんだい?

単刀直入に聞いてみた。

…見ればわかるとおり私は涙も流していない。

 

「…わかるから。あなたが泣いているのが」

彼女の表情には全く変化がない。

 

思わず立ち上がろうとした私の前にコトンと音を立ててグラスが置かれた。

…これは?

なにやら湯気が立っている様に見えるが一応カクテルらしい。

 

「………」

 

紅い瞳に無言で見つめられているとなんとなく心が澄んでいくようだ。

カクテルを一口飲む。

…なんだ?この味…

 

 

「…それが今のあなたの心」

 

 

…私の心?

…今の?

…ああ、そうか

…私は泣きたかったのだ

…泣いても構わないように飲みに来たのだ。

…たとえとっくに泣くことが出来なくなっているのだとしても

私は目頭をおさえるとそのまま泣いた。心で、泣いた。

涙は…流れなかった、一滴も。

 

 

 

「ねぇシンジ」

「なにアスカ」

シンジはフライドポテトを載せた皿を持って厨房から出てきたところだ。

「…あのお客、レイに任せっぱなしだけど…いいの?」

リツコの何席か横に座っている客を目で示す。

「…いいんだよ」

そういってシンジは微笑んだ。

(なにかごまかされた気もするけど…ま、いいか)

「…じゃ、今日はシンジはずっとこっちね」

アスカはにんまりと笑った。

「へ?」

 

 

 

その男の子は私の担当する患者だった。

病身でありながらも明るいいい子で、その元気で回りの患者達を元気づけていた。

そして私も同様に元気づけられていた。

だが、彼の余命はもう長くない。今年いっぱい持てばいい方だ。

彼の病気は私の息子を奪った病気と同じ名前だった…

 

治療する方法、もしくは治療できると思われる方法は考え出されている。

その手術が成功すれば悪くても後数年、うまくいけば全快の見込みもある。

だが、危険な手術であるため失敗すれば残りの寿命を縮めるばかりか死ぬまで苦痛にさいなまれることとなる。

 

私がそう告げたとき息子は笑って言ったものだ。

「つまり悪くてもあと何年も僕は生きていられるんだね」

 

その一ヶ月後私は一番大事なものを失った。

 

 

先日、彼の両親に会って手術について説明した。

私の息子の件についても正直に話した。

しばらく考える時間を、といって彼らは帰っていった。

そして今日、

「「息子の望む様にしてしてやって下さい」」

 

確かにそれが一番だろう。

私はかつてそう考えたし、今もそう思う。

だが…

 

…明日、あの子に話さなくてはいけない。

それが親達の唯一の願いだった。手術を行う私から今の話を聞くこと。

私はそれを承諾した。

 

 

「…それで?」

 

 

………え?

彼女が問いかけた。

くれぐれも言っておくが私は一言も声に出していない。

だが、あまりにもタイミングがよかった。

 

 

「…今は泣く時じゃないわ」

 

 

…そうだな。

私はカクテルの残りを飲み干した。

今度は声に出して自分に言い聞かす。

…あの子の意志を確かめる。

…あの子が…息子と同じ事を望むなら…何が何でも成功させる。

…だから、もう泣くことは許されない。

…誰かを泣かすことも許されない。

…それに、

…私には、

…もう泣くことは出来ない。

…涙を枯らしてしまったから

 

 

「…それも間違い」

 

 

…え?

私の疑問に答えたのは新しい水割りのグラスだった。

…濃いな

だが彼女は答えずに私の前を離れた。

 

音楽が別のものに変わり、照明がやや落ちる。

そして…
 
 
 

 

NOW IT’S TIME, I FEAR TO TELL I’VE BEEN HOLDING IT BACK SO LONG…
 
 
 

 

ただ彼女の歌声だけが流れていた…

 

 

 

その歌声に思い出した。

息子を生むときに死んでしまった妻のことを。

彼女も歌うことが好きだった。

私の仏頂面も彼女の歌を聴いているときだけは変わるから。

そうよく言っていた…

 
 
 
 
 
 
 
 

 

カラン

氷が鳴った。

気付くと歌は終わり彼女が私の前に立っていた。

…惜しかった。何か忘れてはいけないものを思いだそうとしてたのに

 

「…大事なことなら思い出すわ、必ず」

 

…そうだな。

ひどくその声が心にしみた。

きっと彼女も何か大事なことを思い出したことがあるのだろう。

真実の声は重みが違う。

…私の声には真実が足りないからな

 

医者とはそういうものだ。

患者を安心させ元気づけなければならない。

そのためには嘘でない嘘をつかなくてはならないときもある。

だが、えてしてそう言う時こそ患者は医者の嘘をよく見抜く。

…みんな間違っているのかもしれないな

 

 

「…それも間違い」

 

 

…え?

彼女が繰り返した言葉に私も繰り返す。

思えば不思議な娘だ。

何もかも見通しているようなそんな気が…

そう、母親の前の子供のような心境だ。

…いいか、どうせ私は酔っているんだ

 

 

…教えてくれないか?私は何を間違えているんだ?

 

 

彼女は顔を上げた。

その瞳がまっすぐ私を見つめる。

 

 

「…あなたは泣くわ、もう一度」

 

 

私はかっとなった。

だってそうだろう!?私が泣くと言うことはつまり手術が失敗するということじゃないか!

 

 

「…それも間違い」

 

 

…え?

今夜は何度これを繰り返したのだろう?

もう私には訳が分からなくなってきた。

 

 

「…ヒトが涙を流すのは哀しいときだけじゃないわ」

 

 

『綾波!?無事なのか綾波!?』

 

 

「…そしてあなたがしなくてはならないのは」

 

 

『笑えばいいと思うよ』

 

 

ポツリ

何かが私の手のひらの上に落ちた。

…これは?

 

 

「…それは涙。泣いているのはあなた」

 

 

私の目から次々と滴が落ちていった。

 

 

「…あなたの涙は枯れていないわ」

 

 

ひどく優しい声だった。

私の胸が熱くなった。

 
 
 
 

それは滑稽な姿かも知れない。

40代半ばの中年が20代の娘の前で

だが、私にはひどく当たり前のような事のように感じた。

声を押し殺し私は…泣いた。

客も彼女も私が泣き終わるまで放っておいてくれた。

だから私は気が済むまで泣いた。

私はまだ泣けるのだとわかった。

 
 
 
 
 
 
 
 

 

コトン

レイの前にカップが一つ置かれた。

カップの中には暖かいココアが入っている。

レイは視線を横に向けた。

「綾波、お疲れさま」

シンジは微笑んだ。

「…ありがとう碇君」

「え?」

怪訝そうな顔をするシンジ。

レイは心からの微笑みを浮かべた。

 

 
 
 
 
 
 

 

私はコートの襟をかき合わせた。

風邪などひくわけにはいかない。

私には明日大事な予定があるのだ。

そして私の予想通りの答えをもらったら…

 

「…うれし泣きだったらもう一度泣かせてくれるかな?」

年甲斐も無いことを考えて私は顔を赤くした。

 

…もう私の心が枯れることはないだろう。大事なことを思い出したから

妻の口癖はこうだった。

『あなた、嬉しいときには笑うのよ』
 
 
 

 

 

BAR children

 

 
 
 
 

私は店の名前を確認した。

あの子に私の涙と…笑顔を見せてあげた後でもう一度ここに来るために。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
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