男は仰向けに倒れた。

赤い液体がゆっくりとアスファルトに広がっていく。

カラン

右手から地面に落ちた物体がそんな音を立てた。

満足感などまるでなくむしろ喪失感を覚えながら私はその場を立ち去った。

 
 
 









【BAR children】
 

第六夜

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

ふとその階段が目に入った。

なぜだかわからないがその階段を下りたくなった。

気付いたらドアの前にいた。

ドアにかかった看板に店の名前が刻まれていた。
 
 
 
 
 
 
 

BAR children
 
 
 
 
 
 
 
 
 

店の扉を開けると変則的な店内が目に入った。

不思議な作りの店だ。

人生の終わりに来ても驚くことはあるらしい。

L字型とでも言おうか?その店内でL字の内側にこれもL字状のカウンターが配置されている。

カウンターの前にはテーブルが並んでいる。

L字の各辺のまえにそれぞれ二つのテーブル。

棚に並んだいろんな種類の酒瓶が目に映る。

末期の酒を飲むにはいい場所の様だ。
 

「いらっしゃいませ」

L字の角の部分で青年が言った。

私は気を取り直すと彼の言うことに従ってカウンターに座った。

テーブルを汚すこともないし第一テーブルは満員だ。

 
 
 
 

「シンジ君もめっきり板についちまったな」

加持はグラスを置くと言った。

アスカが手招きしていたが丁重にお断りしてシンジと談笑している。

加持とて落ち着いて飲みたいときはある。

「ありがとうございます」

少年…いや、もう立派な男だな。

男の笑顔には人々の心を和ます力がある。それが何事にも代え難い彼の才能だろう。

「おや?」

微かな音と共にドアが開いて背広姿の中年男性が入ってきた。

同時に加持は男性から漂うその臭いをかぎ分けた。

「………」

「加持さん」

立ち上がろうとした加持をシンジが止めた。

「ここは僕達の店です」

シンジの目を見る加持。

…男の目だな。あの時と同じ様に

「わかった」

 
 
 
 

水とおしぼりを置いた青年、ウェイターは人の良さそうな顔立ちをしていた。たぶん、実際にお人好しなのだろう。こんな子だったらあの子も…

…愚痴だな

自嘲気味に呟く。

「どうかなさいましたか?」

ウェイターが怪訝そうな顔をする。

…いや、なんでもない。それより少しお腹が減っていてね、何か頼めるかな?

「わかりました。特にご要望があれば…」

少し考え込む。

…そうだな。肉はやめてくれ

 

店内を見回す。

テーブルはさっきも言ったように満席だ。カウンターは私の他には3つほど隣の椅子に男が一人座っているだけ。カウンターの中ではバーテンがそれぞれ一人ずついて、グラスを磨いていた。

…美人だな

そんなことを呟く。神というものが本当に存在するのなら結構気前がいいようだ。

向かって左のカウンターには透けるように白い肌の女性。髪が水色だが別に染めているわけでもないようだ。一瞬こちらを見た紅い瞳がなんとも印象的だった。

対して右のカウンター。どうやら外人の血がまじっているらしい赤毛の美女だった。長身でモデルもかくやというようなプロポーションをしていた。何の変哲もない服装だがどこか気品めいたものを感じた。
 

「どうぞ」

いつのまにやら戻ってきたウェイターが料理の入ったお皿を置いた。

ただのピラフ…肉は入っていない…だがなんとも言えぬ深い味わいだった。

…最後の晩餐としては十分すぎるな

そんなことを考えていた私は気付いていなかった。

自分の右手が震えていることに。

だからこそウェイターはスプーンで食べられる料理にしたのだということに。
 
 
 

気付くとお皿は消え氷が一つ入ったグラスが置かれていた。

氷は溶けながらゆっくりと琥珀色の液体と混じり合っていく。

私はグラスを取ると一口、口に含んだ。

………。

本当にうまいものに出会うと人は言葉を失う。

その液体は私の身体に深く染みいっていった。
 
 

 

「お怪我はありませんか?」

何気ない一言が私を現実に引き戻す。

私はウェイターを凝視したが彼は静かに水割りを作るだけだった。

狼狽した自分がどこか滑稽に思えてくる。

…何だ気付いていたのか

そう言うと彼はうなずいた。

「その臭いを嗅ぎ慣れていた時もあったんです」

………。

コトン

静かにグラスが元の位置に置かれた。

「どうぞ」

 
 
 
 

…聞かないんだな

私はそう尋ねた。

「…聞いて欲しいんですか?」

彼の言葉に返す言葉はない。

カラン

氷が鳴った。

 

…私が何者なのか、何をやったのか気にならないのか?

「…気にならないと言えば嘘になります。

 ですが僕はウェイター、あなたはお客…それじゃだめですか?」

最後の時を過ごすにはぴったりの場所を見つけたようだ。

…おかわりもらえるかな?

「はい」

 
 
 
 
 
 

…さっき、人を殺してきたんだ

衝撃的な内容にも関わらず彼は平静だった。

「…その人は本当に死んだんですか?」

…わからない。わからないが、たぶん死んだと思う

 

…警察に連絡しないのか?

「…してほしいんですか?」

…いや

 

キュッ

彼がブランデーの栓を閉じた。

…聞かないんだな

「…そんなに聞いて欲しいんですか?」

私は自分の心を覗いて見る。

ああそうか、私は聞いてもらいたいんだ

最後に誰かに自分のことを話したかったんだ

この苦しい胸の内を

そして…そして、どうする?

 

「じゃあ聞きます。なぜあなたはそうしたんですか?」

…そうだな

娘は嬉しそうに男のことを話してくれた。

大学の成績は悪くなく就職難でもいい会社に入れただろうに。

それでもその嬉しそうな顔を見ると、たとえ娘が自分の手元からいなくなると思っても祝福してやれる気持ちになれた。

娘が手首を切ったのはそれからしばらくたった日の事だった。

 
 
 
 

発見が早かったため生命に別状は無かった。

だが、娘の心は帰ってこなかった。

そして三ヶ月経っても娘の瞳は何も映していない。

 

その男を今日やっと探し当てた。

ちょうど奴は娘と同じように他の娘を地獄に落とした所だった。

その娘の涙を見た瞬間わずかに残っていた理性のかけらが音を立てて砕けた。

 
 
 
 
 

…だから私は、

「そんなことは聞いていません」

…え?

顔を上げる。

厳しい表情だった。

かすかに哀れむような表情だった。

そして、どこか…遠い所を見ているような表情だった

「僕はなぜそうしなければならなかったのかと聞いたんです」

…だから、

私は再び口を開こうとした。だが彼は首を振り、

「そうじゃありません…どうしてあなたはその選択肢しか選べなかったのか、と聞いているんです」

声の大きさはそのままだったが威圧感とでも言おうか?そういうものがこもっていた。
 

…なぜ、これしか選べなかったのか?

決まっている。もう他にやるべきことが見つからなかったからだ。

そう言うと、彼はひどく悲しい表情をした。

 
 
 
 

レイは身体の向きを変えた。そしてシンジの方へ一歩踏みだそうと…

コン

指でカウンターを叩いた音だと気付く。

音の主に視線を向けるレイ。

ゆっくりと顔を上げた加持は彼女の知らない顔をしていた。

 
 
 
 
 

…邪魔したね。

そう言って私は席を立とうとした。

「…逃げるんですか?」

彼はあくまで静かに言った。

「そうして逃げてどうするんですか?」

私はカウンターに身を乗り出した。

…逃げるつもりはない。決着はつける。

威圧するように言ったつもりだった。

だが、彼が私に与える威圧感はその比ではなかった。
 

「死んでお詫び…ですか。何もかも放り出して勝手に死ぬ。それを逃避というんですよ」

その目に私は恐怖を感じた。

まるで親にしかられる子供のように、飼い主に悪戯のばれた子犬のように。

彼の言葉が胸に突き刺さる。抵抗すら出来ずに、そして悟らされる。

責任も果たさず償いもせずに死を迎える。自分だけ解放される。それは潔い最後でも何でもない、ただ逃げるだけだと。
 
 

 

「逃げちゃ駄目だ…それが僕の口癖でした」

ふと彼が言った。

…逃げては駄目?

「そう、逃げては駄目です」

…なぜだ?

ふっと彼は笑った。

「…だってつらいからって逃げたらもっとつらいだけだから」

澄み切った笑顔。

誰もが好感を抱くであろうその顔。

なのになぜこんなにも哀しく感じるのだろう。

彼は一体何を体験したのだろう。

「…そして逃げている限り、それが終わることはないんです」

だから逃げては駄目だ。

…でも死ねば終わりだろう?

「…あなたは死後の世界を見たことがあるんですか?」

…無い

「ならどうして終わりだと言えるんです?死んでも苦しみは続くかも知れない。そして死んでしまったらもう何もできなくなるんです」

…どちらがよりつらいのだろうな

逃げないことと逃げ続けること。

「同じですよ」

…え?

「つらいから逃げる。つらいから逃げない。結局、同じ事なんです」

…それが君の結論かい?

「…さあ?ただ僕はこうしたいと思うだけです」

…?

「つらいから………逃げない、じゃなくて立ち向かうために踏みとどまる」

…逃げない、じゃなくて踏みとどまる?

「ええ」

 
 
 

ドアが開いて客が入ってきた。

「いらっしゃいませ」

彼がそう明るく言った。

先程までの表情は消えている。

営業スマイル…そういったものではない。

では何なのか

彼はどうして笑えるのか

 
 
 

また一人、客が入ってきた。

その女性は入ってくるなり彼に一声かけバイオリンを取り出した。

そのまま女性は一曲演奏して拍手とカクテルを一杯もらうと再び颯爽と出ていった。

思わず私も拍手をしてしまったが、その時初めて自分の手が震えていることに気付いた。

 

そんな私を見ていた彼が聞いた。

「何か感じましたか、彼女に?」

…そうだな。なんというか生気の溢れた女性だったな。

そう言ってから全く生気の感じられなくなった娘のことを思い出す。
 

「…あなたが逃げたら残された人はどうするんです?」

心の中を見透かしたかのように彼の告げる言葉が私に衝撃を走らせる。

「あなたが逃げようとしているのは人を殺したという事実からじゃありません」

そうだ。私が本当に逃げようとしているのは…

「あなたが本当に逃げようとしているのは…あなたの娘さんからです」

そうだ。

「あなたは人を殺したから死ぬことしかできないと言い訳して逃げようとしているんです」

そう、だ。

 
 
 

「…でも、結局自分を動かせるのは自分だけです。あなたがどうするかはあなた自身にしか決めれません」

………。

「でも…」

無言の私にためらいがちに彼が言った。

…でも…なんだい?

「…きっと、待っていますよ」

カラン

氷が音を立てた。

…そうだな。あの子が帰ってくる場所を残しておかなければな。

「…ええ」

 

 
 
 
 
 
 
 
 

 

…すまないが近くの交番か警察署までの道を、

「送りますよ」

いつのまにか隣に座っていた男性が言った。確かもっと離れた場所に…

私はしばしその男性を凝視していたが、

…ご面倒をおかけします。

そう言って頭を下げた。

「ちょっと待って下さい」

彼は新しいブランデーの封を切ると新しいグラスに注いだ。

「どうぞ」

…すまない。頂くよ、しばらく見納めだからな。

クィッ

一息であおった。
 

カラン

今日何度目かに聞いたその音は、なぜかとても澄んだ音をしていた。

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

シンジはステージでチェロの調弦をしていた。

店の開店まではまだ時間があるのでレイもアスカもカウンターでくつろいでいる。

「そういえばさ…」

アスカは何気なく…少なくとも本人はそのつもりで…口を開いた。

「あの事件って例の女検事が担当するってさ」

「………」

「刺された奴も生きてたって話だし…」

「…そう」

シンジが呟く。

レイは終始無反応だった。あえてそうしたらしい。

チェロをしまうシンジ。

「…なら大丈夫だね」

シンジの顔に彼女たちの好きな笑みが浮かぶ。

バーテン二人は顔を見合わせ、そして同時に答えた。

「「そうね」」

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

店を出る間際に彼が聞いた。

「お名前を聞かせてもらえますか?」

……?

「ボトル、キープしておきますから」

そう言って彼は開けたばかりのブランデーの瓶を示した。

私は彼に笑顔を向け、そして彼もあの笑顔で応えてくれた。
 
 
 
 
 
 
 

BAR children
 
 
 
 
 
 
 
 

それがあの店の名前だ。

次に訪れるのは随分先になりそうだが…

私はまだ笑うことができる、あの日のことを忘れない限りは。

そしていつかきっと娘と笑いながらこの道を歩いて来ることだろう。
 
 
 
 
 

 

 
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