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以下の小説にはBL・やおい・耽美と呼ばれる表現が含まれています。

上司と部下とガーベラと

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 篠塚は専務の甥にあたる。躾と反省室代わりだった支店の部署が縮小されるのだ。旧体制が根っこにあるこの会社で、彼が本社に戻されないはずがなかった。仕事効率に難はあるものの、立場的には出世が約束されている身だ。
 私が彼に何か与えることができたかはは疑問だった。怒鳴ってばかりいた記憶しかない。酒見に関しても同様だ。
 自嘲しかでてこない自分にうんざりする。私は口を歪めたまま、椎名と視線を絡めた。先ほどとは違い、彼の瞳に何か映っている気がした。
「自分のことは聞かないのか」と椎名は私に言う。
「伺いましょう」と私は答えた。
 正直私は聞きたくなかったが、目の前の男が言いたそうだった。私は何の予測も覚悟もしていなかった。私の予想や希望などが、椎名という上司の行動や、ましてや会社の意志を言い当てたことなどなかった。分かっているのは、残業代ばかりかさむ男を会社がこれ以上おいていても何のメリットもないということだ。
「なにを笑っている?」
 ふいに椎名に声を掛けられて、私は笑っていたことに気づく。見返せば、彼の視線は上司のそれではなくなっていた。
 ああ、そうなのか。そういうことなのか。
 私は自分自身をようやく理解した思いがした。
「座っても?」
 私が返事の前に椎名の隣に腰を掛けると、彼は頷きながらも首を傾げていた。
 私は先ほどからずっと椎名の中で探していたものを見つけて安堵していた。昨日の一日が幻でもなく、偽りでもなく、確かに目の前の男だったのだと分かったからだった。
「ひとつ告白をしましょう」と私が言うと、「聞こうか」と椎名は静かに頷いた。
「私はずっとこの仕事をしてきて、自分にとってこれ以上向いている仕事はないと思っていました。机の前に座って伝票を書いていれば一日が終わるし、経理なら一年ごとにゴールがあるから目標に向って走り続ければよいと思っていました。ところが年をとり、人の上に立つ立場になると、私の周りには誰もいなくなっていることに気づいた。昔一緒に上司の悪口を言っていた同僚は誰一人として残ってはおらず、息子や娘でもおかしくない様な部下が付くようになった。私は上司というより、先に働いている先輩として、相手が間違った時は叱り、正しい道へのアドバイスをし続けたつもりでした。ところが気づけば私はいつも一人になっていて、何か間違っているのだろうかと振り返る暇はなく、孤独になって仕事は増えるばかりでした。私は歩んできた道を修正する機会を失ってばかりで、こんな年まで歩んできた。私は自分の指導力の無さを棚上げにして、いつしか部下はまたきっと辞めていくに違いないと思うようになりました。その度に自分が頑張ればいい、と思うようになっていきました。辞めていく人間に対して、孤独になっていく自分に対して、もっと執着や愛情があれば、何かがきっと変わったのかもしれないと今更気づいたりしています」
 私はそこで言葉を一度切る。椎名はこちらを見たまま口を挟まなかった。彼は迫田の退職届けを受け取って、いい加減気づけと私に言っていたのだった。
「今日、机がきれいに拭かれていたんです」
 私が急に話しの方向を変えたので椎名は不可解そうに首を捻った。私は続けた。
「入口に花も生けられていた」
 椎名は理解したように頷いた。
「ああ、あれは総務の子が当番制で各部署に活けているんだ。確か今日の朝は・・・ガーベラといったかな、あの可愛らしい花は」
「今日気づいたんです」
「え?」
「何十年も出勤しているのに、今日気づいたんです。誰かが私の机を拭いたり、花を活けたりしていたことに。迫田が私にあんな仕打ちをしたのも今更分かりました。彼女は言っていました、気づいてないのよ、と。そう、私は何も見えてなかった。彼女は私に恨みや憎しみがあったわけじゃない。気づいて欲しかっただけなんですよ」
 隣の椎名は私を黙って見詰めたままだった。しばらく無言だったが、小さなため息と共に彼が口を開いた。
「迫田くんは君に怒られた事がない、と言っていたぞ」
「え?」
「迫田くんがおれに退職届けを持ってきた時な、正直おれはまたかと思ったんだ。君が怖くて辞めるのかとね。一応原因を聞くと、彼女は叱られないからと答えた。おれは君から優秀な女子社員だと聞いていたので、優秀だから叱らないだけだと言ったが、彼女は首を振った。仕事は簡単なものしか与えられていないし、やりがいのある仕事は篠塚と酒見ばかりがやっていて、疎外感を感じると言う。・・・なあ、迫田はあの日君に嫌がらせをしたのがばれたんだろう?君はどうしたんだ」
「私は」と声を詰まらせた。「席についていた彼女に、再び茶を頼みました」
 きっかけは。彼女が急に飛び出した切っ掛けはそこにあったのか。
「彼女は叱って欲しかったんだそうだ。叱れることで君が自分に無関心じゃなく、期待されていると思いたかったんだよ。君は何があっても彼女を注意しなかったそうじゃないか。前に帳簿の桁が一つ違って、報告書で常務に吊し上げを食ったことがあったろう。君は彼女に注意したのか?していないだろう。してくれなかったと彼女はおれに言ったよ。いつも何も言ってくれないから、わざと一桁増やしたと」
 私は愕然とした。確か入社して半月がたった位の話だった。彼女は無口で私の手を煩わさなかった。あの間違いも彼女らしくないなと思ったが、注意するほどではないと思った。最後に私がチェックしていれば防げるミスで、私にも非があった。いや、それは詭弁かもしれない。本当は叱ることでまた辞められるのではないかと恐れていた。
「鏡、どんなに愛情を込めて人と接していて100パーセント部下が辞めないことなどありえない。辞める原因なんて一概には言えないものだ。恐らく複雑に絡み合っているのが常だとおれは思う。それでも指導だけに関して言うなら、おれは君のやり方は間違っていないと思っているよ。おれのように八方美人で誰とでも仲良くできるっていうのは傍から見れば円満に映るかもしれんが、蓋を開ければ薄っぺらい絆だ。君の指導を信じて受け入れてくれる部下が残っている。それでいいじゃないか。過去の人間は叱られすぎて去っていった、今回は叱らなかったから去っていった、それだけのことさ。君は君自身が思っているほど嫌われていないし、孤独でもない。ずっと残っている篠塚や酒見がいい例だよ。まあ部下が辞めていく率としては君のところが一番多いから、少しは数字だけじゃなく、花を観察するぐらいの余裕はあったほうがいいとは思うがね」
 冗談っぽく椎名は言って私に微笑み掛けた。そして、今度は私の手を握手するように握ると、その上に左手を添えた。その握り方は、今までの会話の内容と違和感を感じた。不信感を覚えて椎名を見返すと、彼は予想通り口調を変えてきた。
「鏡。聞いてくれ。先ほどの処分の件だ。本社は各支店の経理課を解体して、総務課会計係を置く事に決定したそうだ。新たな係は、本社までの中継地点程度の業務のみに限定される。今までの決算処理は外部に委託し、企業の請求、入金管理は本社に新たな部を設立、一括管理体制となる。・・・本社は、君に任せたいと言っている」
 私は我が耳を疑った。「なにをバカな」
「本当だ。まだ決定ではないが、本社ではそういう人事案が出ている。タネを明かせば、経理課解体の裏には各支店での使途不明金があったんだ。おれは本社から頼まれて隠密にこの支店の調査を一週間ほどさせてもらった。最後の遣り残しは君のところでね。ずっと残業ばかりするから夕べまでチャンスがなかった。申し訳ないが夜中に机をひっくり返させてもらったよ。当然何も出なくて、無駄足だったと本社に報告したが。そして先程本社から各支店のてん末を聞いた。どうやら古狸どもは多かれ少なかれプール金を作っていたんだそうだ。内部告発による一斉摘発ってわけさ」
「道理で。あなたが、ただの好意だけで残業に付き合っているとは思ってませんでしたよ」
 私のそんな皮肉に、椎名はバツが悪そうに顔を歪めた。
「汚い行為も仕事の内さ。でも君が好きなのは本当だ。きっかけはこんな形になったが」
「分かってますよ」
 私はそう頷いた。今の瞳の中は上司の色ではなく、椎名の感情が溢れている。目は口ほどに物を言うとはよく言ったものだ。残業中も彼は私をこんな目で見詰めていただろうか。いや、あの時は、いつになったら私のデスク周りを調べることができるのだ、と呆れ、腹を立てていた毎日だったはずだ。しかし、緊張と集中はそう何時間も続かない。夜中についにぷつりと上司である意識が消えたのだ。それが、私に対する告白したあの日なのだろう。
 しかしながら、私は経理課の解体となれば、てっきりリストラの対象か、それに順ずる何かの処分にされると思っていた。それがいきなり栄転などとは恐れ入る。本社は何を考えているのか。
「一人の残業代などたかが知れている。そんなことで長年勤めている君をクビになどしないさ。君は自分が思っているほど評価が低いわけじゃない。それより、もし君に意志があるなら本社の部長職だぞ、大出世じゃないか」
 隣の椎名は屈託のない笑顔でそう言った。
「部長は」と私は聞いてみたくなった。
「部長はどうして欲しいんですか?」
「おれの意見は関係ない」
 椎名の言葉はもっともだったし、私は彼のそんな答えを予想をしていた。しかし、想像していた以上に私は傷ついた。
「思ったより喜ばないんだな」
 隣の男はそう呟いた。私は握られている手を外した。この手の意味するものは上司としての意識で、添えられていた左手こそが私が求める意識のような気がした。私は左手をとって指を絡めた。椎名は上司としての顔を露骨に崩して頬に朱を走らせた。
「不思議なものですね」
「うん?」
「私は今まで部長が苦手で・・・いや、この表現はちょっと違うかな、嫉妬というか憧れというか・・・自分と同世代で出世頭であるあなたを見ていると、私のコンプレックスが益々刺激されて辛かった。ところが、あの夜、ほら部長が私に告白をしてきた日です。びっくりしましたよ。なんだか初めて春が訪れたみたいでした。私はあなたが男だということも上司だということも一瞬忘れて、ああこんな私を好きだといってくれる人がいるのかと浮かれてしまいました。ところが、一日たつとまた不安になりました。あれは本当に現実だったのだろうか、と。そう思っている時に、昨日のような」
 私は言葉を詰まらせた。昨日の情景を思い出し、顔が熱くなる。
「昨日のようなことが起きて、よかった錯覚ではなかったのか、とほっとした。ところが職場であなたを見ていると、また信じられなくなってきて、私は何度も何度もあなたの言葉や反応を確かめて、ほっとするのを繰り返している。もし私が本社になんて行ってしまったら、また不安になりそうで怖いんですよ。嫌われているのではないか、あれは幻ではないか、私はまだ孤独ではないのか」
 私が呻くように訴えると、椎名は優しい目で私を見詰め、絡めていた指を深くした。
「毎日電話するよ。おれを忘れないように」
 私は、あっさりそう言われて身体の力が抜けてしまった。私が初めて執着した男は、距離や立場など、変わっていく環境に順応する能力を持っているようで、私の悩みなど取るに足らないことのようだった。いや、もしかしたら、経理課の解体の話が出ている時から、何度も何度も彼の中で自問自答を繰り返しての笑顔なのかもしれない。
 正直私は残りたかった。今まで通り彼の近くにいて、この幸せな気分を堪能し続けたかった。しかし、そんな状態は長く続くわけがないことも分かっていた。私がこのままここに残れば、おそらく別部署に移動させられるだろう。今まで培ってきた経理のキャリアなど全く関係ない部署に。未来の私はそれで満足するだろうか。椎名はきっと今後も出世し続ける。彼への愛情よりコンプレックスが上回る日がこないと言い切れるか?私は私で誇れる何かを持って前進していくべきではないのか。
「鏡、おれは君が好きだ」
 椎名は考え込んでいる私をそんな言葉で我に返してくれた。
「私もあなたが好きです」
 驚くほど簡単に私はそう口にしていた。照れも何もない、ただの本心だった。私のそんな告白に、椎名は感慨深げに頷いた。
「ありがとう、とても嬉しいよ」
 私たちはしばらく見つめあった。絡ませた指をもてあそびながら、私は彼のキスを待っていた。しかし、こんな場所で椎名がそんなことをしないことを私は知っていた。
 絡ませた指がほどけて、視線も椎名の方が先に外した。ゆっくり彼は立ち上がり、ドアの前に歩いていった。
「出ないのか?」と椎名はドアを少し開けて私を即した。私は苦笑しながら立ち上がると、先に廊下に出た。
 長いような短い距離を私たちは並んで歩いた。私たちは無言だったが、居心地はよかった。時折椎名に目を向けると、彼はすぐにこちらに反応を寄越した。声を掛けずとも通じるこの現実に私は大いに照れてしまった。
「先程の件、前向きに考えておきます」
 経理課に到着した時、私は椎名にそう告げた。彼は満足そうに頷くと、時計を見て「おれはもう帰るよ」と言った。
 数歩離れて、私が経理課のノブを回したときに、椎名が突然こちらを振り返った。私が首を傾げると、「電話するよ」と一言、無邪気な笑顔を向けた。その笑顔は幼く、まるで少年みたいでいとおしく。
 私は思わず微笑みながらドアを開けた。誰かに好かれているということは、私を幸せにし、安らぎを得られるものなのだなと今更ながら気づいた。
 相手が男であれ、上司であれ、孤独じゃないことは、私を安堵させ、感動させた。初めて自分の存在理由を見つけた気がした。これは決して大げさな話ではなく、私は彼の存在に心から感謝した。
 本社から正式な辞令がおりたのは、それから一ヶ月後のことで、その人事は誰もが驚くほど大規模なものだった。裏事情を知っている私としては、降格、または依願退職扱いの各重役たちが裏金に関わっていたことに気づいたが、その一人に当社の支店長まで加わっていたことには度肝を抜かれた。まさかとは思ったが、あの時椎名はここがクリーンだったとは一言も言わなかったことを思い出した。
 私は彼が言っていた通り本社の経理部の部長職に栄転、篠塚も本社行きとなり、また私の部下となった。退職となる支店長の後釜には、椎名の名が記されており、結局私は一瞬たりとも彼の上に立つことが適わなかったことに苦笑した。
「まあ私の方が手取りは上だからいいか」と私が負け惜しみを言うと、椎名は賃金の地域格差の問題を取り上げ、一時間の弁論へと発展させた。つまりは、彼は約束どおり毎日私に電話をかけては、ドラマや野球、ゴルフのことなどを延々私に話し続けたのだった。私は彼の一方的な趣味を、これまた一方的に聞かされる苦痛を少しでも緩和しようと、余暇の大半を彼の話題を理解するのに費やした。おかげで部下とも仕事以外でニ三世間話をするようにはなったのだが。
「ようやく人生が面白くなってきましたよ」
 私は楽しそうに話す椎名に向って、そう本音と皮肉を混ぜて笑ったのだった。

読了ありがとうございます!

もの凄く難産だった作品。オヤジ同士の恋愛なので考え方や台詞回しを考えすぎて疲れました。
もともと某サイトのオヤジ特集にのせようとしていたのですが、締め切りを大幅に過ぎてしまい、今頃の発表となりました。
主人公が眼鏡なのはただの趣味。(最初は掛けてなかった)

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