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蝉の鳴く日

一日目。

 戦争が当たり前のように起き、それを非難できるほどの余裕が人々になかった時代。その土地でもご多分に漏れず、争いが起こっていた。
 兵士達は番号で呼ばれ、自分のベッドの上に寝ているのが誰なのか、己の上官が何て名前なのかも見失うほどの混迷を呈していた。夜中にはどこかで起こる爆撃の音と誰かのうなされる声が子守唄だった。
 ここにある兵士がいる。彼は特に何か得意なわけでもなく、幸せな家庭を持つでもなく、かといって同情をさそうような不幸を持つわけでもなかった。けれどもその日、誰もやらなかったことをした。些細なこと。
「なあ、起きているか?」
 夜中に響いたそんな声。彼は自分の上に寝ている人物に興味を持ったのだった。
 周りの兵士たちはその異端な声に一瞬目を開けたが、すぐに耳を閉じた。そんなものを聞く興味も気力ももはやなかった。
「なあ起きているんだろう?」
 上の兵士はいつも男が眠る前に三度の寝返りを打つ。ところが今回は彼自身、妙に目が冴えているせいか、ベッドの軋みが何度も耳を刺激した。三回しか聞くことが無いはずなかったそれ。そんなことがきっかけだった。
「・・・眠れないのか?」
 囁くような声がした。それはカサカサに乾いていて、時折ひゅうと空気が漏れた音がした。
「ああ、眠れないんだ」
 彼は上に言葉が通じる人間がいたことにほっとした。もしかしたらと、思っていたのだ。
 もしかしたら。
本当は誰もいなくて、ベッドの軋みすら幻聴ではないかと。そう自嘲気味に言えば、ひゅうと音がした。
「今日はいつもより静かだからじゃないか?風の音がよく聞こえる」
「そうか。だから君も眠れないのか?」
 男は納得して呟いた。「いつもより寝返りが多いと思っていたんだ」
「あああ」とうめき声。「そうか、悪かった」
「いや。なんか久しぶりに会話をした気がする。自分が人間であることを思い出したよ」
 しばらくの無言。
「・・・俺もだよ」

ニ日目。

「眠れないのか?」
 上から下へ掛けられる声。
「ああ、眠れない」と男は返事をした。
「今日も静かだからな」
 昨日と同じように自分の寝返りの音がうるさいのだろうと上の兵士は思って言ったが、男は否定する。
「そうじゃなくて・・・怖いのさ」
「怖い?」
 窓から指す月明かりがぼんやり周りを照らしている。ぐるりと見渡せば膨大な数の二段ベッド。
 二人の兵士は偶然にも同じように視線を辺りに向けていた。しかし思うところは別であった。
 下のベッドの男は感傷的になっていた。この夜が妙に静かなのと、月明かりがきれいなのとで、心の奥がざわめいたらしい。
「自分の眠っている間に時が過ぎているなんて、考えると怖くならないか?」
 知らぬ間に時が過ぎて、その間には何十万という人間が死んでいく。自覚がないまま、気づけば隣の人間も死体になっていて、己すら死んでいるのかもしれない。
 そんなことを思っていた。
「妙なことを考えるな・・・?」
 男の感傷は理解されなかった。不思議そうな声が上から下に向けられた。
「そうかな」
「そうさ」と素っ気無い。
「俺は逃げ出したいよ。一刻も早く眠ってしまいたい。夢の方がよっぽど平和で楽だからな。俺は・・・平凡でも争いの無い世に生まれたかった」
 しんと静まり返った。ふと風が窓を叩いた。
「なあ」と男は上の人間に聞きたくなった。「もし俺が」
「何だ?」
「---なんでもない」

三日目。

「眠れないのか?」
「眠れないんだ」と男は答える。
「眠りたくないんじゃなくて?」
「そうじゃないよ、今日は」
 今日は風が無い。ただ遠くで爆撃音。そして、無数のいびき。
「死体を見たんだ」
 その言葉に呆れた声。「俺なんか毎日見てる」
「俺ははじめてみた」
そう、初めて男は死体を見た。むせ返るような血の匂いも、こげた肉の匂いも初めて嗅いだ。それは、何ともいえない光景で。
「そして感想は?」
 上の兵士は問うた。男の声が恐怖に怯えているわけではないと気づいた為であろうか。
「興奮してるよ」と男は答えた。
「それはどんな死体だった?」
「どんな?」
「男か女か?」
「女さ」
「血はついていたか?」
「付いて流れていた」
「上半身に?下半身に?」
「・・・下半身」
「それは死体じゃなくて、肢体というんだ」
 上の兵士は事も無げに言う。
「屍姦が好みか?」
「・・・試したことはないよ」
 そして沈黙する。
「今度試してみたらどうだ」
 上の兵士は言う。
「考えておくよ・・・」

四日目。

「眠れないのか?」
「ああ、眠れない」
「今日はどっちだ。怖いのか?興奮してるのか?」
 上の兵士は問う。
「怖いんだ」
 男は答える。
「例の時間の話か?」
「そうじゃないさ」
「ではなんだ」
「君の言っていた、平和を考えていたんだ」
 男は神妙に言う。
 朝から降り続いている雨の音が耳を打つ。
汗と泥と血が混じったような空気が湿り気を帯びて、更に兵士達を憂鬱にさせた。
 男が尋ねる。それは質問であって独り言のようでもあり。
「平和とは・・・何だろうね」
「哲学?」
「そうじゃなくて」
「では、話しても無駄だな」
 その声は熱を帯びていて男の疑問を切り捨てる。
「何故?」
「平和を感じたことの無い奴に、それを語る権利はないと言うことさ」
「君は知っているのか?」
 男は静かに尋ねる。
 平和というものを。その漠然とした、未知の世界を。
 上から降ってきた声は、いつものように乾いていなく、空気も漏れていなかった。
「夢さ」

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