※このページは郁カイリのホームページの一コンテンツです。

蝉の鳴く日

十三日目。

「起きているかい?」
 男が声を掛ける。
「痛くて眠れない」
 上から声がする。
 月明かりに照らされた多くのベッドは主人を失い、ただそこに存在し続けている。
いびきはほとんど聞こえず、隙間風も今日は音を発していない。不気味に静かな夜だった。
「何か臭わないか?」
男はすんと鼻を鳴らして言った。
「俺が腐っていく臭いさ」
上の兵士は言った。
「冗談だろ」
「いや、本当さ」
「軍医にいったほうが」
「行きたくないんだよ」
「なぜ?」
「医者が嫌いなんだ」
「なにを馬鹿な!」
 男は思わず声を荒げて身を起こす。
 ぼそりと上の兵士が何か言った。
「人間のまま死にたい」

十四日目。

「眠っている?」
 下から声がする。
「いや、眠れないんだ」
 上の兵士は呟いた。最近、ベッドの柵に刻まれた言葉がいやに目に付くようになっていた。
 "我が国家に栄光あれ"
 前の使用者の最期の言葉。
 "我死するも魂は永遠なり"
 その前の使用者の言葉。
 さらに前の、ずっと前の、前の、前の、前の、・・・。
 ベッドの枠や壁にびっしり刻まれている呪いと賛歌。
「お願いがあるんだ」と下の兵士に言う。
「何だ?」
「君の顔が見たい」
「今更なぜ?」
 戸惑ったような声がした。
「今だからさ」
 上の兵士は言う。視線をベッドの柵から強引に引き剥がす。
「明日」と口から言葉が出た。
「明日?」
「ナイフを持って来い」
「ナイフ?」
「・・・そうしたら----」

十五日目。

 下に寝ているはずの男は、左手にナイフを持ち、二段ベットの梯子に片足を乗せていた。
「来いよ」と上から誘う声がした。
 梯子を三段ほど上ると、人影が見えた。
 月明かりがその人物を不気味に照らしていた。
 常に自分の上から語り掛けてきた兵士は、白い壁に寄りかかり、黄ばんだ包帯の間からこちらを見つめている。
「初めましてというのはおかしいな」
 包帯の向こうでそう笑ったらしかった。
 男は梯子を上り詰め、対峙し、無言のままナイフで包帯に切れ目を入れた。
 全身を解包すると、焼け爛れた肉体がそこにさらけ出された。
 両腕なし。右足なし。
「医者は嫌いなんだ」
 瞳をぎらつかせてそれは言った。血走った白目ばかりが闇に目立っていた。
「俺は人間だと思うか?」
 肉塊はそう尋ねる。
 瞳がまるで生きているかのように濡れていた。肉塊がまるで意思があるように震えていた。
「怖いんだ」とナイフを持ったまま呟く。
「怖い?」
「・・・君が怖い」

十六日目。

 下に寝ているはずの男は、じっと何かを見つめていた。
 彼の目の前には、目にナイフが突きたれられた死体がある。壁には血糊がつき、目からは赤い筋が流れていた。
 朝日が差し込んでゆく中、男はゆっくりと頭を垂れる。そして、彼女の唯一きれいな左の乳房に歯を立てる。
 彼女の肉を口に含み、男はナイフをゆっくり抜いた。
 ずるりと死体が壁を滑る。
 男は白亜の壁に咲いた深紅の華を見た。それは朝日に照らされて、てらてらと濡れている。
「あ、」
 男は動きを止めて耳を澄ました。
「ねえ、今、蝉の鳴き声が聞こえなかった?」
 ・・・返事は無い。
 男は笑った。

読了ありがとうございます!

戦争というのは幼少の頃から私の中で渦巻いているものの一つで、おそらく一生消えることのないテーマです。
実は二回ほど原文を書き直しています。本筋は変わらないのですが、あまりにも文章が稚拙だったもので。
※ 作品を呼んでくれた方から、感想まで頂いて感謝してます。

もし気に入って頂けましたら、下のWEB拍手にてご感想お待ちしております。

template by AZ store