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以下の小説にはBL・やおい・耽美と呼ばれる表現が含まれています。
その町では有名なそば屋があると部下から聞いて片山は車を走らせていた。本社の月に一度の会議の後、丁度昼時だったので会社に帰る前に寄ってみようと思ったのだ。カーナビのおかげで無事たどり着くことができたが、駐車場の込み具合から言って繁盛ぶりは窺い知れた。
「いらっしゃいませ」と引き戸を開けて景気よい声が出迎える。ぐるりと店内を見渡せば、四人掛けのテーブルが六つ、小上がり席も三つほどあったのだが、全て満席で、相席すらままならぬようだった。
片山は腕時計を見る。会社に戻ってやるべきことがあり、あまり時間はない。
「すいません。おかげさまで満席でして、少しお待ちいただけますか?」
カウンター席の向こうの店主が眉をへの字にして言ってくる。人が良さそうな笑顔だった。
「そのようですね、どうしようかな」と片山は各テーブルの食事の進み具合を軽く眺めるが、すぐに終えそうな客はいないように見えた。
また次回だな、と一ヶ月後に再来するしかないと諦めかけたのだが、そばつゆのいい香りといい、そばをすする音といい、どうにも踏ん切りがつかず、だらだらと時計を見ては会社での仕事の逆算を繰り返した。しかし、どう考えても食事に時間をとっている余裕がないと結論は行き着く。
苦笑いをして踵を返そうとした時、また一人客が入ってきた。
「あ、いらっしゃい」と店主がその客に声を掛け、片山も振り返る。三十ぐらいのサラリーマンで凛々しく整った顔のハンサムだった。
「どうも。相変らず繁盛してるね」
笑顔で店主と挨拶する。その口ぶりからすると常連なのか知り合いなのか。
「今日は?」と店主が聞く。
「カレーでいいですよ、忙しそうだし。二階、上がらせてもらいますね」
ん?と片山は眉を上げた。注文らしいことを言ったってことは客なのは間違いないと思うが、二階っていうのはなんだろう。二階に食べる場所があるなら通してくれてもいいのに。
「あ、ケンくんちょっと」
店主が片山の表情の変化を読み取って慌てて男に声を掛ける。片山はハッとして顔に手をやった。あまりにも食べたい欲求があったようで表情に不満が出たらしい。我ながら自分の行為を恥ずかしく思い、逃げるように店を飛び出した。
なにやってんだ。
片山は自分の行為に反省しながら車の鍵を開ける。乗り込もうとした時に、「ちょっと、すみません」と店の方から声が聞こえた。
思わず顔を向けると、先程のケンと呼ばれていたサラリーマンがこちらに駆け寄ってくる。
「あの」と片山の前に立って声を掛けてきたが、その後が続かない。なんと言ったらいいか、と視線を泳がせ顎を撫でている。片山は笑顔になって先手を打った。
「先程はみっともないところをお見せしまして失礼しました。あまりにもそばがおいしそうだったもんですから。卑しいんですね」
「あ、いや、私の方こそ考えなしで失礼しました」男は斜め四十五度のお辞儀をした。そして照れ笑い。「いつもあそこで昼をいただいているものですから、待たれている方の心情も考えずお恥ずかしい限りです。それで」
謝るだけかと思っていたが男には続きがあるらしい。片山がなんだろうと思っていると、
「実はあそこの二階は伯父の住居スペースでして、普通客は通さないんですが、カレーならすぐにお出しできると思うんです。あの、こういうお誘いも失礼だとは思うのですが、もしお急ぎではなくて、そばじゃなくても宜しいんでしたら、ご一緒にいかがでしょうか?」
親戚だったのか。だったら先程の会話も道理である。かえってお邪魔するのは図々しいのではないかと逡巡していると、片山を誘導するように己の腹が鳴った。相手にも聞こえていたようで、こちらに向けられている瞳が笑う。
「どうも気を使わせてしまって申し訳ありません」片山は顔が赤くなるのを感じながら、開けていた車のドアを閉めると素直に男に頭を下げた。
男は笑顔のまま「ご案内します」と言うと、店とは逆方向に足を進めた。そして丁度店の裏側の厨房の窓を叩くと、ガラスの窓越しに店主が顔を出した。
「カレーを二つお願いします。あと二階にお邪魔しますので」
店主は「あいよ」と頷くと、今度は片山に視線を合わせて先程の人の良い顔を見せた。
「ホントご迷惑かけましてすみません。本来ならお客さんを通せるようなとこじゃないんですが」
「いえ、こちらこそお気を使わせてしまいまして、ご迷惑じゃなかったでしょうか」
「いやいや、こっちの方こそ」などとお互い頭を下げる。堂々巡りになるのを気遣って男の方が「じゃあ」と途中で窓を閉めてくれた。
「こちらです」
男が案内したのは店舗裏の外階段を上がりきった一般住宅の玄関だった。鷲尾と表札がある。
どうぞ、と男はドアを開けて式台に上がる。廊下に入ってすぐ横が和室で座テーブルが置いてあった。壁の近くに積みあがっていた座布団を二つ、男は向かい合わせに置くと、その一つに座って胡坐をかく。「楽になさってください」と言われて片山も尻を預けた。
「煙草、いいですか?」
男はリラックスした面持ちで一本取ると片山の許可を取る。そしてゆっくりと紫煙を吸い込んだ。
片山は正座したまま男の所作を見詰めていた。部屋を見渡すのも失礼だと思っていたので借りてきた猫のように大人しくじっと動かなかった。
「そういえばいい車をお持ちですね」
片山は一瞬自分に言われたとは気づかず反応が遅れた。「あ、ああ」とどっちつかずの返事が口をつく。
「アウディは私も好きなんですが、一回事故りましてね。それからは資金難で安い中古車ばかりです」
きれいな所作で、とんと灰が灰皿に落とされた。
「こちらにはお仕事で?」
「え、ええ」と片山は男の指先から視線を離して男を見返す。「部下から美味いそば屋だと聞きまして。これから会社に帰って仕事ですよ」
自嘲気味に片山が笑うと、男は「おっと」と思い出したように内ポケットから名刺入れを取り出した。
「まだ名乗りもしませんで失礼しました」
そして胡坐から正座になる。ピンク色の名刺が片山に向けられる。
「鷲尾と申します。人材派遣会社の営業でして」
片山も名刺を渡す。「片山です」
ピンクの名刺を受け取って片山は珍しそうに眺める。そんな行動を見て鷲尾は笑顔で付け加える。
「珍しいでしょう?和紙なんです。名刺はほとんどは白ですから、色と材質が違う方が目立つと思って作ったんですよ。社の方針というか私のオリジナルですけど」
さすが営業らしい発想だ。片山は自分の名刺入れに鷲尾の名刺を入れると、なるほど背しか見えないのによく目立つ。
「片山さんは・・・大手の支店じゃないですか」
鷲尾の感嘆に、片山は愛想笑いを返した。確かに肩書きは大手の家電メーカーだが、総務兼人事担当者としてはあまり実感がない。何せやっていることは一般企業と変わらないし、こちらは社会保険の手続きやら採用面接をしたりと地味なものだ。そんなことを言うと、「それでも凄いですよ」と言って、紫煙を揺らした。
会話はそんなもので、世間話を二三して無言となった。片山は正座を崩さず鷲尾が煙草を吸い終わるまで何となく眺め、鷲尾はそんな視線に気づいているのかいないのか、さっさとまた足を崩して、短くなった煙草を灰皿に押し付けた。
「おまたせしました」と先程の店主から声が掛かったのは、それからすぐで、二人分のカレーをのせたお盆を持って現れた。
「いや、お客さん迷惑お掛けしまして」
店主は改めて片山に詫びると、水とカレーをテーブルの上に置いた。忙しいのか「じゃ、ごゆっくり」と言うや否やすぐにいなくなってしまったが。
「うまそうだ」と片山が独白すると、鷲尾は一つ笑顔を返した。
カレーは、そばつゆベースの和風で大層美味かった。具も大きく、量も多い。片山はあっと言う間に食べ終えたが、とても満足した。「美味かった」と手を合わせて時計を見ると、思ったよりも時間が過ぎていた。慌てて腰を浮かせて片山は鷲尾に問う。「御代はいくらだろうか」
そんな問いに鷲尾は口に入れたカレーを飲み込んで言う。「八百四十円ですね」
財布を覗くと小銭がなく、片山は千円を出すと鷲尾の前に置いた。
「申し訳ない。小銭がないのでこれを渡しておいていただけないだろうか。つり銭はご迷惑ついでに受け取って欲しいと」
「そんな、受け取れませんよ。今両替してきますので」
鷲尾が慌てて腰をあげたので、片山は「いやそのままで」と彼を止めた。鷲尾はまだ食べかけで、そんな状態で両替までさせるわけにいかない。
「じゃあこうしましょう。今度そばを食べに来ますのでそれまで預かっておいてください。店主にご迷惑でしたら、あなたでも」
鷲尾は片山が折れないと知るや苦笑いを浮かべた。「伝えましょう」
「バタバタと申し訳ない。店がお忙しいようだからこのままお暇させて頂くが、店主にはご迷惑を掛けたとお伝えいただけないだろうか」
「分りました」
苦笑いを再び返され、片山は頭を下げる。痺れかけた足を叱咤して立ち上がって歩いたが、店の常連のようならまた鷲尾に出会うかもしれないと思い、足を止めて振り返る。
「いずれまた」
「ええ、いずれまた」と鷲尾は座ったまま軽く会釈を返した。
片山は靴を履くと、駆け足気味に車へと戻った。渋滞していなければ予定時間に帰社できる、と自分を慰めたのだが、結局は大幅に予定が狂ってしまった。いつもなら後悔する片山だったが、この日ばかりは嬉しいハプニングで美味いカレーにありつけて気分がよかった。そしてふと鷲尾を思い出し、紫煙の向こうの凛々しい顔に思いをはせた。
鷲尾の元に片山から連絡があったのは、そば屋で出会ってから一ヶ月になろうとした日だった。
「S電器の片山と申しますが」
営業用の携帯に掛かって来て、伺うような口調だったので鷲尾は「お久しぶりです」と返事をした。睨んでいるわけでもないのに、視線が強くて威圧感があった男だ。忘れるはずがない。
「覚えておいででしたか?」
「もちろんですよ、ああいう事はあまりありませんので」
電話の向こうで片山の苦笑が聞こえた。
「あの時はバタバタしてしまい、店主にもご挨拶できず仕舞いで本当にご迷惑をお掛けしました」
「いえ、こちらこそ。伯父には話をしてあります。つきましては例のつり銭、実は私が預かってまして、いずれお逢いできたらお返しいたしますよ」
「はは、店主と一緒で人がいい。こう言っては何だが、ポケットに入れてしまおうとは思わなかったんですか?」
「人様のものには興味がないものですから。まあ、いずれご縁があれば顔を合わせるとも思っていましたので。ご縁、ありそうですかね?」
鷲尾が意味深に言うと、片山はまんざらでもないような含み笑いをした。
「実は今日は仕事のお話をしようとお電話を差し上げたのです。今、お時間宜しいですか?」
「ええ、どうぞ」
「実は当社の総務部から欠員がでましてね、今度は人材派遣を利用しようと思っているんです。事務職の方の登録というのはありましたか?」
鷲尾は「ええ、ありますよ」と答えながら、手近なメモ用紙に『S電器片山様より、事務職希望』と書き記す。ホルダーの中に入っていた片山の名刺を取り出すと、顔写真の彼を見詰める。
「何人か登録がありますので紹介はできるのですが、一応取引についての書類を整えなくてはならないので、お時間ある時にでもお伺いしたいのですが」
「ああ、それはよかった。実はここだけの話、貴社を利用するとフライング気味に話を通していたので助かりました」
鷲尾は思わず笑った。「いなかったらどうなさったんです?」
ちょっとの沈黙の後、片山は笑いを含んだような声で「あなたを引き抜いてもよかったかな」
「はは。ありがたいお誘いですが遠慮しましょう。デスクワークはしょうにあわないので。それでご訪問はいつが宜しいでしょうか。書類は明日でもご用意できますが」
そう言いながらデスク周りに置いてある書類をニ三用意する。署名と印鑑を押す場所に付箋を貼りながら、電話を肩に挟めて話を続ける。
片山が時計に目を走らせながら思案しているのが目に見えるようだった。
「では明日の午後からいかがでしょうか。詳しいお話もその時に」
「畏まりました」と鷲尾は言い、電話を切った。あの時名刺を渡しておいて正解だったな、と写真の片山に笑いかけた。
翌日片山の会社に着いた鷲尾は、支店とはいえS電器の会社の規模の大きさに感嘆していた。
受付嬢に名前を名乗ると、重厚なドアのある応接室に通される。革張りの四人掛けのソファーのある部屋で、壁にはいかにも値の張りそうな絵画が掛かっている。足元の絨毯は毛足が長く弾力があり、目の前のテーブルは飴色で、木目が美しかった。
鷲尾は正直ここまでの企業を相手にしたことはなかった。なにせ個人経営の人材派遣会社で、全国展開をしているわけでもない。よくこんな地方の会社を相手にしてくれたものだ、と身を小さくした。
数分とたたずに、片山が現れた。鷲尾が立ち上がって迎えると、「お久しぶりです」と笑顔が返って来る。一ヶ月前のそば屋で出会った時と少し感じが違う。強い視線は相変らずだったが、どうも平社員とは違うオーラがある。名刺では役職は記されていなかったが。
「すみません、これから人事部の谷末が参りますので、煙草はご遠慮いただけますでしょうか。嫌煙家で有名でしてね」
二人とも腰を下ろした所で、すまなそうな顔で片山が言った。鷲尾は恐縮する。灰皿がなかったから禁煙だというのは分っていた。いや、そもそも営業の途中に煙草など吸ったことがない。
「あの時はプライベートだったから吸ってましたが、勤務中は私の職場でも禁煙ですよ。あ、書類の準備だけ今しても宜しいでしょうか。捺印等は次回で結構ですので」
「はい、構いません」
片山の返事を聞いて書類を取り出す。相変らず彼の視線を感じる。そういえばあの時も自分が煙草を吸い終わるまでじっとこちらを見詰めていたが。ちらりと目を向けると、片山はこちらに気づいたのか素早く視線を外した。「失礼」
「あ、いえ」と鷲尾が言うと、片山は口元をゆがめた。
「どうも目つきが悪いようで上司にも注意されましてね。申し訳ない」
目つきが悪い、というのとは違うと鷲尾は思う。「じっと見る癖がおありのようですからそのせいじゃないでしょうか。見られるこちらは照れてしまいますが」
片山は鷲尾のその台詞に微笑むと、「フォローがお上手だ」と呟いた。どうやら目つきが悪いと本気で勘違いしているらしい。違う、と否定しようとした時にドアが開いて、一人の年配の男とコーヒーを持った女性が現れた。
鷲尾は慌てて立ち上がる。
「いやー、お待たせしたね」と谷末は鷹揚にそう言って入ってきた。年は五十過ぎ。鷲尾は四十五度の礼をし、名刺を渡す。
「この度は契約をご検討いただけるようでありがとうございます」
「ああ、うん。片山君が随分とおたくを推すものだから、よっぽど優秀なスタッフをお揃いなんだろうね」
にこにこ笑いながらも辛辣な皮肉だ。鷲尾は内心気分が悪かったが、笑顔で谷末の名刺を受け取る。人事部長。片山の方に視線を送ると、彼は笑いを含んだような目で頷いた。巧くやれよ、と言っている。コーヒーが目の前に置かれ、湯気が揺れていた。
「どこまで進んでいたのかな、片山君」
どっかりとソファーに腰を掛け、谷末はテーブルの書類とパンフレットに手を掛けた。片山は彼の隣に腰を掛け、「まだ挨拶程度です部長。鷲尾さん、申し訳ないがお話を最初から伺って宜しいだろうか」
最初から、といってもまだ何も話してはいない。鷲尾は片山の狸ぶりに苦笑しながら、話を合わせた。
「はい畏まりました。では、弊社のシステムについて改めましてご説明申し上げます」
鷲尾が説明をしている最中、ひしひしと片山の視線を感じた。緊張するのであまり見ないで欲しいと言いたくてもいえない状況に、鷲尾は困り果てた。
「ふむ。宜しい、大体片山君の言っていた通りだな。前向きに検討させてもらうよ。書類はこちらとこちらかな?」
鷲尾は谷末の言葉に引っかかりを覚えたが、気づかないフリをして書類を差し出した。
「はい。こちらとこちらに捺印と社印を頂きまして、あとこちらの書類には今説明させていただきました事の詳細が記載されてますのでご確認いただければ」
鷲尾はそう告げる。谷末はそれを確認すると、書類を入れた封筒を片手に立ち上がった。
「さて、私は先に失礼するよ。この後も来客があるものだからね。片山君、あとは宜しく」
「はい部長」と片山は谷末が応接室を出るのを見送った。鷲尾も慌てて追いかけて頭を下げる。
「お忙しい中ありがとうございました」
「いやいや、こちらこそどうも」
谷末は鷲尾にそう言い、応接間のドアを閉めた。
「よかったですね」と片山は鷲尾の隣で言う。
「まだ決まったわけじゃないので」と苦笑しながら鷲尾は言ったが、片山は意味深な笑みを返した。そして踵を返すと、壁際の棚から灰皿を取ってテーブルの上に置く。
「煙草、どうぞ」
「禁煙では?」
「なに、バレやしませんよ。第一灰皿があること自体、禁煙なんてのは表向きである証拠なんですから。ご心配なら私が吸ったことにすればいい」
鷲尾は片山の言い草に苦笑しながら、再びテーブルに着くと、煙草を取り出した。本当は吸わない方がいいとは思うのだが。
「では失礼して」
「どうぞ」
片山は先程と同じ席に再び腰を下ろすと、冷めたコーヒーに初めて手をつけた。ブラック派か、と何気なく鷲尾は思う。
「一つお聞きしても?」とコーヒーカップを置いて片山は鷲尾に問う。「あなたが谷末に渡した名刺、私が頂いたのとは違うようでしたが、気のせいですか」
さすがに鋭い。鷲尾は苦笑した。
「あれは会社が印刷した名刺ですよ。取引先にはあれを渡しているんです。あなたにお渡ししたのは、私のオリジナルです」
「つまり?」
「言わせますか?」
鷲尾がそう嫌がると、紫煙の向こうで片山の瞳が笑った。
「・・・やめておこう。勝手にいい方に考えることにします」
鷲尾はその答えに満足して煙草を消した。ガラスの灰皿に押し付けている間、やはり片山の視線を感じた。上目遣いで彼を見たが、先程とは違って今度は視線を外すことはない。
「煙草を吸う男は嫌いじゃないんだ。視線が気になるんでしょう?申し訳ない」
片山はそう言って薄く笑うと視線を外した。
鷲尾は片山のその言葉の意味を頭で考えながら、自然ともう一本煙草を取り出すと唇に挟む。火をつけずに咥えたまま、テーブルに残された資料類をクリアファイルに仕舞ってから目の前の男に言うべき台詞を思い出す。
鷲尾は口から煙草を離して片山に改めて向うと、今回の仕事の礼を言った。まさに棚ボタな話だった。本来なら地方の人材派遣がとれる場所ではない。先程の谷末の台詞でも分かるが、片山の口添えが大きいのは明らかだった。
「いやいいんですよ」と片山は鷲尾の礼を軽く流した。「他社と検討した結果の話です。こちらとしてもありがたい出会いでした」
「そう言っていただけると嬉しいのですが」と
鷲尾は言ったが、内心は首を傾げることばかり。第一今日会うまで当社のシステムの話などした覚えはないから、独自に調べてここまでお膳立てをしてもらったことになる。表向きの値段は確かに大手の人材派遣業よりは安いが、片山の決定は果たしてそれだけだろうか。そんな疑問が顔に出ていたのか、片山は付け加えた。
「安さっていうのは、上層部を黙らせる目くらましに丁度いいんですよ。だからスムーズに話が進んでこちらとしてもやり易かった。本当は選ぶ基準なんてないんですよ。所詮は働く方の意欲の問題ですからね。契約の値段なんて二の次だというのが私の本音です。少なくてもここ最近の退職者を見ている者としては、仕事に執着する人間が減ったな、というのが正直な感想でして。仕方なく辞める、のではなく、とりあえず辞める、という感覚でしょうか。気持ちが透けて見えるんですよ、今の若者の。一方終身雇用が当たり前だと思っている方々は、意欲もなければ努力もしない狸ばかりで化かし合い。企業としては、まさにかちかち山です。気づけば己の背中が燃えているってね」
「辛辣ですね」鷲尾は神妙にそう言うと、再び煙草を咥えて火をつけた。無意識だった。
「おしゃべりが過ぎました」片山は照れたように笑った。「今のはただの世間話として忘れていただければありがたいんですが」
「もちろんです」鷲尾は笑って紫煙を吐き出した。片山の言い方だと、実際の決定権は彼にあるような感覚を受ける。ハンコを押すしか脳のない上司は珍しくない。現場のトップはきっとこの男なのだ。意外といい相手と出会ったな、と鷲尾は改めてあの偶然に感謝する。
「世間話ついでといっては何ですが、鷲尾さんは絵に興味はありますか?」
あまりにも話しが飛びすぎて鷲尾は反応が遅れる。「絵、といいますと」
「絵画ですよ、美術品の。ビジネスではなく鑑賞の方ですが」
「ああ」と理解した鷲尾だったが、正直あまり興味はない。絵画など美術の時間に習った程度。ゴッホ、ピカソぐらいしか分らない。片山にそう告げると、彼は笑って「そうですか」と言った。何か話が続くと思っていたので尋ねると、「いやなに、あるツテでフェルメールとオランダ画家の作品を集めた絵画展のチケットが手に入りましてね。ご興味がおありでしたらいかがかなと」
フェルメール?聞いたことがない。鷲尾は苦笑した。普通にこんな話題を振るのだからきっと片山は芸術関係に興味がある男なのだろう。少々意外だった。