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以下の小説にはBL・やおい・耽美と呼ばれる表現が含まれています。
「申し訳ありませんが、とんとそちらの方は疎いものでして」
鷲尾がやんわりと断ると、片山は気にしてないようで「まあこういうのは好きと嫌いで分かれますからね」
「お好きなんですか?」
「フェルメールですか?」
「ええ、そのフェヌメールとかいう」と鷲尾が怪しい発音をすると、片山が笑う。
「ヨハネス・フェルメールですよ。そうですね、結構画法が面白いので好きなんです。まあ偉そうなことを言ってますが、実はうんちくを語れるほど私も詳しくはないんですよ。絵画なんて要は好きか嫌いか、高いか安いか、そんな判断基準で十分じゃないですか」
鷲尾は苦笑しながら煙草を消す。灰皿を見てようやく二本目を吸っていたことを思い出す。図々しかったか。バツが悪くて冷たくなったコーヒーの残りを飲み干すと、鷲尾は立ち上がった。
片山も鷲尾にならって立ち上がると、ドアまで二人並んで歩く。
「帰り道、覚えておいでですか?」とドアを開けて片山が聞く。鷲尾は来るまでの道順を思い出していた。そう複雑ではない。エレベーターまで着ければ単純だ。
「ではここで失礼させていただきますよ。証拠隠滅をしなければならないので」
片山は笑った目を後ろの灰皿に向けると、鷲尾は申し訳なさそうに頭を下げた。
「ではまた」と片山は言い、鷲尾も頷き返した。
重厚なドアが目の前で閉まって、しんとした廊下に立たされると、鷲尾はそのドアを再び開けたくなるような衝動に駆られた。彼はそんな自分の感情に戸惑い、首を傾げながらエレベーターへ向ったのだった。
鷲尾との商談がまとまったのは一週間もしてからで、片山はその間何度か彼と会う機会があった。車の話や、お気に入りのレストランなどの話題に華が咲いたがそれっきりだった。最後の書類を交換し、実際雇用する何人かと面接をした。満足のいく人選だった。
ようやく物事がひと段落したその日、片山は仕事を終えて自宅にいた。シャワーを浴びて下着一枚でソファーに座ると、ウィスキーを煽る。久しぶりのアルコールは刺激的で気分を高揚させる。
テレビをつけると、丁度十時のニュースをやっていた。番組の一つのコーナーで、例のフェルメールを含めた絵画展が好評を博しているニュースが流れた。前売り券が売り切れだったと片山は聞いていたので、その混雑振りを見て驚きもしなかった。最後の字幕に、最終日が今度の日曜日だと表示されると、自分は日曜日に何か用事があっただろうか、とソファーの横に置いた鞄に手を掛けた。
そこで携帯が鳴る。
夜に電話が鳴るのは珍しい。日中なら耳障りな着信音だが、自宅で聞くと少し感覚が違う。
誰だろうと思ったが、番号の羅列。
「はい、S電器片山でございます」
プライベートで電話をくれる人間より仕事絡みの方が多かったので、迷うことなくそう名乗る。相手は「お世話になっております、ヒューマンスフィアの鷲尾ですが」
思ってもみない相手に片山は驚く。
「こちらこそお世話になりました。何かありましたか?」
片山は挨拶もそこそこに用件を聞く。聞きながら手帳を取り出すと、土曜と日曜に用事がないことを確認した。
「仕事の話ではないのですが、今お時間宜しいでしょうか?」
「ええもちろん。風呂入って酒飲んでいるだけですから」
片山の軽口に鷲尾は笑った。「逆にお邪魔じゃなければいいのですが」と話を続ける。
「以前片山さんからお話いただいてました絵画展なんですが、チケットはまだ手元におありでしょうか?」
随分タイミングよく話を持ち出してきた、と片山は内心驚きながらも「ええありますよ」と返事をした。手帳のカバーに挟んでおいた券を二枚、取り出して眺める。
「貴社の中でご興味ある方でもいらっしゃいましたか?最終日は今度の日曜のようなので、お譲りするにしても早い方が宜しいかと思いますが」
片山がそう言うと、鷲尾はどういうわけか沈黙した。訝しげに思っていると、小さな声で「そういう意味だったのか」と呟きが聞こえる。
「すみません、少し聞き取りにくいのですが?」
片山が聞き返すと、慌てた声が返って来た。
「あ、いや、その、お恥ずかしい話ですが、私をお誘い頂いたものだと勘違いしてまして。今ニュースで混雑ぶりを拝見して断ったのを後悔したんです。案外ミーハーなもので、そんな有名な画家だとは露知らず失礼なことをしたな、と。はは、でも今考えれば取引先の男なんて誘うはずないし、いや、それ以前にペア券だとおっしゃってなかったし、普通一枚を譲るってお話ですよね。ははははは」
うろたえている鷲尾の姿が目に見えるようだ。片山は笑いを堪える。「ご覧になってたのは、ニュース10ですか?」
「え?ああそうなんです。凄い混雑振りで」
「鷲尾さんは土曜か日曜はお暇で?」
「え?ええっと、たぶん土曜は午後から何もなかったはずです。日曜は公休ですし」
片山は顎を撫でた。あの時はチケットが二枚あるが行く相手もいないので、興味があるなら鷲尾に一枚譲ろうとしていたのだが、考えてみれば同じ日に同じものを見に行くのなら二人で行ってもいいのではないだろうか。
「ご迷惑でなければ一緒にどうだろうか?」
「え?」
「今度の土曜か日曜で宜しければ私も行けそうでしてね。チケットは二枚手元にあるんです。お気持ちが変わらないのであれば、いかがですか」
鷲尾は少し沈黙した。微かだが、吐息が聞こえる。紫煙に包まれた男の顔を思い出す。
「煙草、吸ってます?」
ごほん、と鷲尾がむせた。「失礼しました」
とそんな詫びの言葉が返って来て、おそらく煙草をもみ消しているのだろう。それぐらいの沈黙だった。
「ご迷惑でなければ」と鷲尾は小さな声で呟いた。「ご一緒させてください」
「では決まりですね」
片山は忘れないように手帳に書き記そうとして妙案が浮かんだ。どうせ暇なのだ。一日中潰すくらいの予定を立てるのもいいかもしれない。
「宜しければ前に話に出ていたレストランとバーまで行きたいのですが、いかがだろうか?どちらも興味があるので」
鷲尾が言っていたレストランは昔ながらの洋食屋で、バーは地味な個人経営のものだという。どちらも女性と行くには面白みに掛ける場所だと鷲尾は以前こぼしていたのだった。男同士の方が楽しい場所もある。
「そういえば私もその二件に行くのは久しぶりなんですよ。いいですね、たまには」
案外あっさりと鷲尾は承諾した。
余暇を人と過ごすのは何年ぶりだろう、と自分の生活に苦笑しながら片山は手帳に記入する。二人で話しあって、美術館は土曜に行こうと決めた。夜酒を飲んで羽目を外しすぎてもいいように。
「羽目、外すんですか?」と鷲尾のからかう声に「たまには本能を出すべきなんですよ、人間は」と答えた。
鷲尾とその後ニ三言葉を交わした。沈黙交じりの会話は、仕事絡みのリズムと違って居心地がよく、先程飲んだアルコールが全身によく回った。
土曜の勤務を終えて、鷲尾は一旦自宅に帰ると、ジーンズとTシャツに着替えた。そしていつもつけている時計と指輪、チョーカーをつけて家を出る。電車に乗る間に財布の中身を確認し、約束の美術館に着いたのは、待ち合わせ十分前だった。
最終日前日の混雑ぶりに辟易しながら周りを見ると、まだ片山の姿はない。手持ち無沙汰で煙草を咥えると、火をつける前に後ろから肩を叩かれる。
「禁煙ですよ」
「おっと、失礼しました」
鷲尾は慌てて咥えていた煙草を仕舞うと、目の前の片山を見て慌てた。「ドレスコードなんてありましたか?」
片山はスーツ姿で、着崩してもいなかった。
「いや、本当は休みだったんですが、急遽仕事が入りまして着替えが間に合わなかったんですよ」
苦笑いを浮かべて片山は言う。走ってきたのだろうか、額には汗の粒が浮いていた。
「そろそろ入りましょうか」
片山は腕時計を眺めて鷲尾に声を掛ける。美術館など来たことのないので、従うことにする。
館内は外と違って、しんと静まり返っていた。大きなホールに受付嬢が座っていて、片山は慣れた手つきでチケットを渡し、半券とリーフレットを受け取る。
「いきましょう」
片山からリーフレットを受け取って会場まで歩く。靴の音が反響して聞こえる。あんなに人がいるのに静か過ぎる場所に鷲尾は妙な緊張感を覚えた。
会場に入ると、多くの人が壁に掛けられた絵を見詰め、ひそひそと楽しそうに会話していた。ロビーほどではないが静かだ。
片山を見ると、さっそく最初に壁に掛けられた絵を見ている。きれいな風景画だ、と鷲尾は思ったが、それっきりだ。片山は動かない。
まずい、どうすれば。と鷲尾はこの場に来たことを後悔していたが、先に進んでいいものかどうなのか分からず困り果てた。
と、ようやく片山の視線が最初の絵画から外れて次のへ向う。やっと一歩前進か、と苦笑すると、片山が気づいて笑いかけた。
「鷲尾さん。順路は決まっているので自分のリズムで鑑賞されて構いませんよ。出口でお待ちいただければ」
そうなのか、と鷲尾は思ったが、こんな未知な場所を一人で回るよりは、牛歩の片山と一緒にいた方が精神的にいいのではないかと思いなおす。
「あ、いえ、十分楽しんでますのでお構いなく」とおずおずと鷲尾は言ったが、返って来た片山の顔を見る限り、こちらの心情はばれていると思われた。
ゆっくりと片山のペースに合わせて鷲尾も進む。絵の横の説明書きをじっくり読めば、大体同じリズムで次の絵画へ行けることに気づくと、心理的に楽になった。最初片山も鷲尾の反応を気遣っていたが、段々絵画に集中し始め、後半には鷲尾の方を見ることもしなくなった。
しばらく歩いて、一際人だかりが多い場所を見つける。なんだろう、と思いながら、片山に視線を送ったがこちらに気づく気配がない。自分のペースで回っていいと言っていたので、鷲尾はその人だかりに歩み寄る。壁には、どこかで見たことがある絵が飾っていた。
タイトルには『牛乳を注ぐ女』と書かれている。
光と影の陰影が印象的で、女性のエプロンの青が美しかった。なんだか不思議な気分で呆然と突っ立っていると、片山が隣に立っていた。
「何か見たことがある絵です」と独り言のように呟くと、「この絵画展の目玉ですよ」と片山は言った。「どうです?」
「感想ですか?うーんそうですね、コントラストが面白いですよね。俺、あんまり詳しくないんですが、こういう絵柄ってあまり見ない気がします」
片山は薄く笑うと、満足げに正面の絵を見詰めた。その横顔を見ながら、鷲尾はこんなつまらない感想しかいえない自分を呪った。先にネットで調べてくれば気の利いたことも言えたのではないか。
結局、鷲尾が心引かれたのは、例の絵だけで、出口に着いた時に片山にそう言うと「それでいいんですよ」と笑った。
そういえば、絵画は好きか嫌いか、高いか安いかだと以前言っていたのだった。
ロビーの一角に喫煙スペースがあったので、鷲尾は自然とそちらへ足を向ける。片山もついてくる。ガラス張りの見世物小屋のような箱に二人で入り、鷲尾は煙草に火をつけた。こんなところへ寄り道したことを片山に詫びると、彼は首を振り、時計を見る。
「まだ夕食には時間がありますね。どうしますか?」
つくづく時間が気になる人なのだな、と鷲尾は少し呆れながらも煙草を咥えたまま、携帯を操作した。夕食まで二時間弱程度、映画でもどうかと思い、ネットに繋ぐ。
「ああ、この時間なら、ミニシアターで何本か映画をやってますよ。二時間どこか回る場所があるわけでもありませんし、いかがです?」
鷲尾のその台詞に片山は頷きつつも、顎を撫でた。不満かな、と言葉を待つと、片山は紫煙の向こうで「失礼だが、鷲尾さんはおいくつですか?」と問われる。
「え、二十八ですが」
いきなりどうしたのだろうと思っていると、片山は照れたように頭を掻いた。固めていた髪が少し乱れて額にかかる。
「やっぱりそうか。最初会った時から同い年ぐらいに思っていたんですが、そうですよね」
「なんですか?」
「お恥ずかしい話、私はあまり携帯が詳しくないので、映画のそういう情報とか有益に活用してらっしゃる姿を見ると、どうもね。それに今日のあなたの格好を見て、逆に仕事帰りでよかったと安堵している始末です。私服じゃとても一緒に歩けない」
鷲尾はその台詞に逆に恥ずかしくなった。私服とはいえ、指輪とかチョーカーとかをつける年齢ではなかったのかもしれない。反省する。
「はは、すみません、ガキっぽくて」
自虐的に笑うと、鷲尾は煙草を捨てる。
「実年齢のアンバランスさはお互いさまか」
片山は苦笑いを浮かべてネクタイを緩めた。そしてシャツのボタンを二つ開けると、お互い顔を見合わせて、一つ笑った。
映画館までは歩いて数分だった。いつも通りに鷲尾は煙草を咥えたが、片山の眉間の皺を見てすぐに引っ込めた。言葉はなくとも伝わった非難に、鷲尾はいたたまれなくなった。
なんとなくぎこちなくなり、映画館に到着した。正直鷲尾は居心地が悪くて帰りたくなっていたのだが、片山の表情はあまり変わってなかった。「どうします?」と声が掛かる。
「え、ええと」
鷲尾はなるべく明るい映画を選んだ。今話題になっている三流アメリカンコメディだ。こんな時に暗い映画を見てはますます落ち込むと思ったからだった。
「ではそれで」と片山は自分の意見は言わずにさっさとカウンターに向った。そんな後ろ姿を見ながら、また子供っぽかったか、と鷲尾はひとり落ち込んだのだ。
映画は面白かった、鷲尾的には。少々下品な内容だったが、それがまた愉快で。しかし今同席している男の心情は不明だった。先程のように眉間に皺を寄せていたらどうしよう、と怖くて隣を見ることするままならない。やっぱり何か理由でもつけて帰ればよかった、と後悔しながら、鷲尾が左手を手すりに乗せた時、別の手がのっていることに気づいた。驚いて手を引っ込め、片山の方を見ると、目が合った。
映画では、童貞の男が片思い相手の女とHをしようとしている場面で、会場内には艶かしい喘ぎ声が響いている。わざとらしいその声は会場の笑いを誘っている。
ふと、手すりに乗っていた片山の手がくるりと逆を向いた。丁度手のひらが上に向く形になる。鷲尾は首を傾げ、片山を見ると、彼はもう正面に顔を戻していた。
鷲尾はその謎掛けが分からなかったが、手が上に向いたって事は、何か置けばいいんじゃないかと思った。何となく、己の左手を重ねてみると、その温かい手のひらが閉まり、指が交差した。
あ、正解だったか。とぼんやり鷲尾が納得したものの、そういえば男と手を繋いだのは小学生以来だと思い出した。そしてこの状況のおかしさを訴えるように片山の方を見ると、その横顔の口角が上がって瞳が笑っていた。
映画は相変らずベッドシーンで、結局童貞男は女性を満足させるどころか、入れる前にイってしまっていた。画面上では男の一物にモザイクが掛けられ、とびちる液が面白い軌道を描いている。
鷲尾が苦笑いすると、視界の端で何かが動いた。横目で片山を見ると、目を細めて舌で唇をぬらしていた。
思わず繋いだ手が緊張した。どっと汗をかく。
たまらなくなって手に力を入れると、思ったよりすんなり指が外れる。
鷲尾は動揺してしまって映画どころではなくなってしまった。激しく打つ動悸に翻弄されて二時間を過ごした。映画が終わりライトが点いても動くことができなかった。
「鷲尾さん」と片山が呪縛を解く様に声を掛けてきた。恐る恐る見ると、彼は普段通りの顔つきで「いきましょう」と言った。
「あの、片山さん」
鷲尾が動揺しながら腰をあげると、片山は先手を打って「申し訳ない」と一言謝った。それで話が終わってしまった。これ以上の追求は逆に野暮だと鷲尾は思った。
予定通り洋食屋に着いて、片山はナポリタン、鷲尾はハンバーグ定食を頼んだ。昔懐かしい味に二人は満足しながら、お互いに瞳の奥を探りあっていた。食事中の会話は何度も切れ、居心地のいい緊張感があった。片山は鷲尾の煙草を吸う所作を強い視線で眺め、鷲尾はそれを浴びながら灰を落とした。
バーは郊外にある小さな店で、一見の客が入りにくい雰囲気を出していた。鷲尾は店に入るとマスターに「久しぶりです」と挨拶をして席についた。片山は、てっきりカウンターに座ると思っていたのだが、意外にも鷲尾は奥にある小さなボックス席を選んだ。マスターも意外だったようで、少し首を傾げた姿を片山は視界の端に捉えた。
片山はウィスキーのロック、鷲尾はカクテル。
二人の飲み物が来た所で、鷲尾は煙草に火をつけた。平静を装ってはいたが、微かに煙草を持つ手が震えているのを片山は見逃さなかった。
「いい所ですね」
片山はウィスキーに口をつけて言う。
店内は薄暗く、ジャズが掛かっている。マスターは白髪の男で客の距離感が巧そうだ。片山たちの他に数人カウンターに客がいたが、皆年配の男ばかりで、仕事の愚痴や女の愚痴をうるさくない程度に肴にしていた。客層も悪くない。
「片山さん」とふいに鷲尾は口を開いた。紫煙の向こうの男は、ここに着いてから片山と視線を合わせようとしない。
「いつから気づいてました?」
片山のウィスキーの氷が解けて、琥珀色の液体がゆらりと揺れた。
今、その話題を持ち出すのかと片山は苦笑した。「牽制ですか?」
一線引こうというのならそうしようと思い片山が言うと、鷲尾は首を振った。なんだか様子がおかしい。片山は少し困った。
「そうだな、最初からかな」
「最初から?」
鷲尾と視線がようやく合った。
「類は友を呼ぶ、じゃないですが、何となく分かるものですよ。同じ性癖の人間っていうのは。あなたもそうなんでしょう?」
「俺は」と鷲尾は震えた声を出す。「そんなんじゃ」
片山は眉間に皺を寄せた。焦らしているような雰囲気でもないから、自分との距離感を判断しかねているか、そういう関係を持つ予定はなかったというところだろう。
「それを牽制というのですよ」
苦笑しながら片山が鷲尾に言うと、彼は複雑な表情のまま煙草を消した。
片山はウィスキーを舌で転がしながら鷲尾を観察する。凛々しく整った顔。チョーカーの向こうの首筋。指輪をしている骨ばった間接。ゆっくり手を伸ばして、先程からカクテルのグラスを玩んでいる指先に触れる。
びく、と振るえが伝わる。片山が鷲尾を見ると、怯えた視線とぶつかった。
「鷲尾さん、私はね、これでも理性のある人間でしてね。嫌がる方と関係を持つ気はないんです。あなたが私をただの取引先の男とするか、友人とするか、またそれ以上を望むかは分かりません。そんな決定は後にしてください。今はただこの酒と私との会話を楽しむことに専念してくれませんか?できないなら席を立ちなさい」
片山はこの後鷲尾がどう出るのか興味があった。まだ始まってもいない関係だ。どう転んでもおかしくない状態ではあった。片山は鷲尾の返事を待ったのだが、彼は何かを考え込むように黙り込み、一杯目のカクテルを飲み干すと、二本目の煙草に火をつけた。
「鷲尾さん」と片山が苦笑しながら呼ぶと、「え、はい、すみません」と我に返ったような反応をする。
「そんなに考え込まないで。そうだ、鷲尾さんはアウディがお好きだとおっしゃっていたが、今は何に乗られているんですか?」
「ああ、私は中古のスカイラインに乗ってるんですよ。最近パワーウィンドウの調子がおかしくて困っているのですが」
急に話が変わったのに、鷲尾はすぐに話を合わせて来た。この辺は営業の脊髄反射のなせる業か、片山の助け舟にわざと乗ったか。どちらにしても、息苦しい酒は片山の趣味ではなかった。相手との関係はどうあれ楽しい酒が一番だ。
「そうですか。実は私は今度車を買い換える予定でしてね。宜しければ私の車、お譲りしたいなと思いまして」
「えっ」と鷲尾は絶句した。「そんな」
「ああ、これはあなたと出会う前から予定していたことですからお気遣いなく。どうせ下取りに出そうか迷っていたところなので、お好きな方に貰っていただいた方が車も本望でしょう。車検前なのでその分ご負担頂きたいのと、まあタダっていうほど金持ちでもないので、いくらかで買い取って頂く話ですが」
「え、ええ、そりゃあもちろんそうです」
鷲尾は少し興奮した口調で頷き、長くなった煙草の灰が落ちるのも忘れるほどだった。
「今度はTTクーペからR8に乗り換えようと思っているんです。ディーラーがやたらと勧めてくるものでね」
ごくりと鷲尾の喉が鳴る。よっぽど車が好きなんだな、と片山は思う。「どうですか」
「ああそれは願ったり叶ったりなんですが」と鷲尾は興奮していた感情を一旦落ち着かせると、今度は目を泳がせた。
「今考えてみると、金欠で、車を買う余裕なんてないことを思い出しましたよ。はは。チャンスだったんだけどなァ。スカイラインに乗り換えたのって最近で、まだ一年経ってないんですよ。もう少し早くあなたとお逢いしてたらよかったのに」
片山はその台詞に苦笑しながらウィスキーを飲み干した。マスターに次はストレートを頼み、目の前の鷲尾のカクテルを見る。結構前に二杯目を頼んだのに、あまり減っていない。
「ぬるいと不味くなるんじゃないですか?」
片山のその台詞に鷲尾は今気づいたように「そうですね」と呟いて口をつけた。眉間に皺が寄ったところを見ると、既に遅かったらしい。
彼が灰皿に煙草を押し付けて、我慢するようにカクテルを飲み干した所で、片山のウィスキーが来た。水とウィスキーのグラスを受け取ると、鷲尾があれ?という顔をする。