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以下の小説にはBL・やおい・耽美と呼ばれる表現が含まれています。

そば屋のカレーライス

3/3

「水なんて頼んでましたっけ?」
「ああ、これはチェイサーですよ。ウィスキーと水を交互に飲んで楽しむものなんです」
「へえ」と鷲尾は目を丸くした。確かに最近はウィスキーを飲む人間が少ないので、知らなくても当然かもしれない。
 ストレートの液体を片山は口に含んで転がすと、重厚な香りが鼻を抜ける。喉元を過ぎる熱さに満足しながら、少し水を飲む。うっとりするほどの芳醇な香りと清涼感が口に広がった。
 酒はいい。手軽に気分が高揚する。しかもここのウィスキーは上質だ。自分が普段飲んでいる安物とは違う。
「おいしそうですね」
 鷲尾が興味を持ってきたので、片山はグラスを傾けた。彼が飲んでいるカクテルの種類からいってウィスキーは合わないと思うのだが、好奇心を遮断することもあるまい。
「どうぞ」というと、結構な量を鷲尾は口に入れた。片山が予想していた通り、彼は急に口を押さえると、ごほごほとむせ返る。
「大丈夫ですか?」と片山が声を掛けると、涙を浮かべながら水へと手を伸ばした。
 ウィスキーのストレートは、物によってはアルコール度数が40パーセント以上ある。普通の飲み物のように飲んでは刺激が強すぎる。
 呼吸を荒らしながらようやく鷲尾は一息ついたようだった。慌てて飲んだ為か、唇を伝った水が顎まで垂れていた。
 そっと片山はその雫に触れる。顎に触れ、流れに逆らうように指を這わせ、濡れている唇に触れた。鷲尾はそんな片山の行為をうけて、あまり焦点が合っていない視線を片山に向けた。そして唇を少し開き、舌で片山の指を撫でる。
「酔っているんですか?」
「酔ってますよ」と鷲尾は言う。カクテルニ杯程度だか、そういえばチャンポン気味の選択だったことを片山は思い出した。悪酔いしてもおかしくないかもしれないが、酒が弱いとは聞いていない。
「本当に?」
「本当です」と言う鷲尾の瞳は揺らいでいたが、
片山は信用しなかった。薄く笑うと、指を組む。
「じゃあキスしてください」
「えっ」
 鷲尾の瞳が大きく見開かれた。「こんなところじゃできませんよ」
 その反応に片山は困ったように笑った。
「その言い方だと、ここじゃなければいい様に聞こえますが」
 鷲尾は今言った台詞すら覚えていないような顔で、片山を見返している。その焦点はきっちり合っていて、片山は鷲尾が酔っているとは思えなかった。しかし、彼が酔ったふりをするのなら、それにのってやろうとも思う。逃げるチャンスはいくらでもあったし、こちらもそろそろ酒だけでは物足りなくなってきている。
「煽るようなことを言われては困りますね」
 片山は腰を上げると、鷲尾の顎を上に向けた。
中腰になって軽く唇を合わせる。
 鷲尾は、ぱくぱくと口を動かし、顔を真っ赤にしていた。逃げる風でもない、嫌がる風でもない、そんな曖昧な態度に片山は舌なめずりした。そして、テーブルの上にあるウィスキーのストレートを一気に喉に流し込む。熱い濁流が喉を越え、胃で暴れる。駆け上がるのは欲情。
「私もどうやら酔っ払っているようです。どうです。酔っ払ったもの同士、もう一件行きませんか。人目を気にせずにいられる場所に、あなたも行きたいでしょう?」
 その一言に、鷲尾はついに片山の手に落ちた。

 ホテルの一室で鷲尾は緊張していた。片山は相変らず悠然とした態度で冷蔵庫からビールを取り出している。部屋はダブルだ。やる気のないフロントマンは男二人だというのに、顔色一つ変えず、片山も堂々としたものだった。
「何か飲みます?」
「えっ、いや、もうお酒は」
 慌てて首を振る。その姿を見て片山は苦笑すると、ベッドに腰掛けてビールを煽った。
「ねえ鷲尾さん、突っ立ったままじゃ疲れるでしょう。ここ座ったら?」
 鷲尾は恐々とした足取りで片山の隣に座った。震えた指で煙草を取ると、火をつける。紫煙を吸い込むと、ようやく少し落ち着いてきた。
 一体これからどうなるのか、という期待と不安が頭を占領していた。今まで女性と体を交わしてもさして満足したことはなかった。確かに勃起し、射精はするが、それだけのような違和感があった。片山にアプローチされて、初めて気づいたのだ。対象が女性じゃなかったことに。
 そんなことを片山にぼつぼつと話すと、彼は静かに頷き、首筋に指を這わせてきた。口に咥えた煙草を落としそうになる。
 ゆっくりと隣の片山の身体が傾いて、顔が耳元に近づいて暖かい息が掛かる。外耳で彼の舌がうごめく。舐める湿った音がいやらしく聞こえて仕方がない。背中から這い上がる痺れに、咥えた煙草が小刻みに震える。長くなった灰が今にも落ちそうだったが、鷲尾は快感を追いかけるのに必死だった。
「危ないですよ」
 気づけば、咥えていた煙草を片山が取り上げていた。彼は笑みを浮かべて灰皿に押し付ける。「灰が落ちてました」
「あ、すみません」と謝ると、笑った顔が近づいた。ゆっくりと唇が重ねられて舌を入れられる。柔らかな意志のあるものが口内を蹂躙する。
「舌を出して」
 キスの合間に片山が指示する。言われた通り、口内で舌を絡ませる。片山の右手が肩を掴み、頬に添えられた左手が優しい。
 片山の体重が段々と掛かってきて、鷲尾はベッドに倒れる。キスが終わって見下ろす片山は、少し髪を乱しているが視線が強く、相変らず落ち着いている。彼は微笑みながら鷲尾のチョーカーを外すと、ベッド脇のテーブルに置く。時計を鷲尾が外してそれに倣う。最後の指輪に手を掛けた時、片山は指先にキスをした。
「彼女とのペアリング?」
 鷲尾は少し困った。その通りだったからだ。しかしそれをこの場で言いたくはなかった。正直、気分が萎える。 
 そんな態度が片山に伝わったのだろう。彼は「意地悪だったかな」と呟いて、指輪を置いた。 なんだか罪悪感に苛まれて饒舌になる。
「でももう何ヶ月も逢ってないし、電話もあまりないから、もう、」
「もう、なに?」と片山の細めた視線に鷲尾はぞくっと背中が痺れた。少し残虐な意思が瞳に映っていた。それが嫉妬の色に似て。
「いやらしい顔をして」
 片山はそう言うと、鷲尾のTシャツの下から手を入れる。素肌を触られて「あッ」と思わず声が出た。片山はその反応に舌なめずりすると、二つの突起を指で刺激した。撫でるように触れられるそれに鷲尾は翻弄されたが、すぐに刺激が足りなくなる。
「ッン・・・もっと強くッ」
 吐息と一緒に吐き出した本音に片山は答える。今度は痛いほど摘まれ、そして優しく揉まれる。
「ァアッ、いい、感じる」
 叫んだところにキスされる。乳首を刺激されながら唇をしゃぶられて体が熱くなる。
「片山、さ・・・もっと触って」
「大胆ですね、鷲尾さん。本当に男が初めてなんですか?」
 片山は呼吸を荒げてネクタイを取ると、ワイシャツを脱ぐ。鷲尾も自分からTシャツを脱いだ。片山に触られた乳首はピンクに色づき、膨れている。
「ああ、分かりましたよ。今まで女相手で触ってもらえなかったから飢えてるんですね。大丈夫、欲しいもの、全てあげましょう」
 素肌を合わせると、鷲尾の中で充実した気持ちが溢れる。片山の薄い唇が乳首を吸う。髭が回りを擦って痛く、そして気持ちがいい。自分を責める男の髪を撫でると、額に髪が垂れて今まで見たことがない片山の顔になる。
 愛しくなってキスがしたくなる。頬に手を伸ばすと、片山は察したように顔を寄せてきた。先程より深く、熱い口付けだった。むさぼるようなそれは片山の欲情を現しているようで、鷲尾は満足した。
 追い詰められていく興奮に、ジーンズ越しの鷲尾のそれは固い布に阻まれて窮屈だった。身をよじると、片山はすぐ察して、ゆっくりとジッパーを下ろした。鷲尾が脱がされる行為に尻を上げて助けると、ひんやりした外気を感じ、抑圧された己のものが解放される感触を味わった。視線を向けると、大きく天を向いている。自分の興奮を見て、また興奮する。
「舐めて欲しい?」
 誘うように片山が言って、鷲尾は何度も頭を縦に振った。
 初めての口淫は鷲尾の想像通り気持ちがよかった。舐めるだけじゃなく、根元を掴まれて左手で刷り上げられ、頭が真っ白になっていくほどの快感だった。片山を見ると、目を閉じてむさぼっている。咥えて、舐め上げて、先の方を吸われる。
「ァァ・・・いい、ッ、ン、」
 鷲尾は嬌声を隠さなかった。隠す必要がない、欲情を素直に追いかければいい今の状況に酔いしれた。
 ふいに後ろの蕾を触られて痺れが走る。ゆっくりと進入してきたそれが痛くて気持ちがいい。
みしみしと押し入ってくる指。今まで経験したことがない感触。
「痛くないですか?」
 片山は鷲尾のものをおいしそうにしゃぶりながら気遣ったが、鷲尾は自分でも驚くほどに興奮していた。
「痛くてもいいから早く、もっと酷くして」
 第二間接まで入ったそれが愛しくて、わざと締めたり緩めたりした。勃起したものを咥えながら片山は笑ったらしかった。
「本当に痛いのが好きですね。とてもいい。気が合いそうだ」
 ぐいっと指が奥まで差し込まれ、中を弄られる。内臓を触られている感触が全身を通じて流れる。指が乱暴に増やされ、強引に蕾の口を開かれる。
 鷲尾の喉から溢れる声にならない悲鳴。痛みで仰け反ると、中の指が曲げられて丁度陰部の裏を刺激される。
「ァァあッ」
 痛みで涙を流し、快感で嬌声を上げる。せり上がってくる快感は急速で、勃起したものから
高ぶりが溢れるのを感じた。嫌だ、まだ感じていたいと頭の芯で抵抗したが、それはうねりのごとく訪れ、全身が痙攣したのだった。
 そんなイった姿を片山は眺めていた。天を向いていたそれから白い液が溢れるのを見届け、そして口をつけて少し舐めた。苦くて独特の匂いのそれは、新鮮だった。
 溢れる精液を指ですくって後ろの蕾を刺激する。弛緩した鷲尾の体はほぐれ、指で大きく広げると、中に見えるそれは赤い肉壁そのもの。興奮した。
 ジッパーを下げて己のものを取り出す。ゴムをつけて少し摺り上げながら鷲尾に言う。
「ねえ鷲尾さん。これから起こることは酒のせいなんです。あなたが悪いわけじゃない。私があなたを追い詰めているだけなんです。さあ、私が欲しいでしょう?足を開いて受け入れて」
 鷲尾は焦点の合わない目で片山の動きを追っていた。そして指示された通り、膝を立てて大きく足を開いた。
 片山は唇を舐めると、ぐいと鷲尾の蕾に己を埋めた。鷲尾の顔は痛みで引きつった。嬌声ではなく、明らかな悲鳴がほとばしる。
「ああ、いいですよ。もっと痛がって、叫んでください。その方が興奮する。あなたを犯している気分になる」
 足を肩に担いで片山は鷲尾に己を打ちつける。鷲尾は痛がりシーツを掴んで暴れる。その度に蕾が締まって快感を片山に与えた。
「ああ、いい。気持ちいいですよ鷲尾さん。もっと暴れなさい。そうすればイイところを突いて気持ちよくさせてあげます。ホラ、もっと欲しがって」
 酔ったように片山が言ったが、鷲尾の耳には届かなかった。何も考えられない頭で痛みを逃がそうと暴れるのみだ。しかしその時、ドン、と突いた内膜の場所から快感がじわっと溢れた。
「ぁッ」
 先程のせり上がってくるような興奮ではなく、ぼんやりともどかしい快感。その正体を突き止めたくて鷲尾は片山を見た。彼は獰猛な雄の顔をしたまま、にやりと笑った。
 また片山のものが突いて気持ちがよくなる。じわ、じわと快感が伝わり、鷲尾は耐えられなくなって自分の一物に手を触れる。
「そう、自分で擦ってごらんなさい。私が見ててあげますよ」
 自慰をするように己の一物を刷り上げて、片山の中からの刺激を味わった。段々リズムが合い、自分のものが自分を犯している錯覚に陥って来る。先程まで萎えていたものがまた大きく膨らみだす。片山の腰を打つリズムが早くなり、鷲尾の手淫も早くなる。
 片山と鷲尾の目が合って、むさぼるように口付けをした時に、打ち付けていた片山のものが違う角度で内臓を刺激した。それは眩暈が出るほどの快感で。まさに、鷲尾が待ち望んでいた一撃だった。
「そこッ、アァッ、イ、いくッ」
 もっとそこを突いて欲しいと思いながらも、鷲尾は背中を仰け反らした。二度目の射精は出る量は少なかったが、快感は一度目の比ではなかった。何度も痙攣するように震える背中を片山の両腕が抱きこみ、彼も震えた。
 鷲尾はその余裕のない片山の顔を見ながら、深くて温かい波に身を任せた。段々と己が沈みこむ感触がして、いつの間にか意識が途絶えた。
         *
 もうすぐ昼になろうとしている時に、片山は溜め込んだ洗濯をようやく終え、新聞を開いた。 最近は休日にトラブル続きでろくに家にいることがなかった。久しぶりにのんびりした時間を過ごそうと、ソファーで足を組んで社会面に目を通す。相変らずウンザリした事件ばかりだと眉間に皺を寄せたところで携帯が鳴る。
 まさかまたトラブルではあるまいな。
 気分を壊す音を鳴らし続ける携帯を手に取ると、予想に反してそれは会社からではなく、鷲尾からだった。
 彼と体を交わしてから丁度ニ週間が経過していた。一瞬逡巡したが、結局気の利いた台詞を持たなかったので片山は通常通りに電話に出た。
「お待たせいたしました。片山でございます」
「あ、お世話になっております。鷲尾です」
と幾分緊張した懐かしい声が耳に届く。片山は、鷲尾が用件を切り出すのを待ったが、一向に口を開く様子がない。あの夜は寝ている彼を起こさず辞した覚えがあった。そのことを持ち出すにしては日付が少々経ち過ぎているように思う。
「お久しぶりですね」と片山は勤めていつも通りの口調で言った。「派遣の件でしたら特に問題なく勤めていらっしゃいますよ。それとも他に何かありましたか」
 片山の対応に対して、鷲尾は一つ呼吸をおいて「大変失礼しました」と詫びから入った。
「最近連絡が久しかったものですから電話してしまいました。仕事の件、というよりプライベートでお話したかったというのが本音でして」
「なるほど」
「今時間宜しいですか?」
 片山は開いていた新聞を綴じて頷く。「ええ、どうぞ」
「まずお礼を」
「お礼?」
「具体的な話はちょっと口にし難いので申し上げませんけど、ありがとうございます」
 鷲尾の口調は本当にそう思っているようで、片山は困惑した。一体何を指しての話なのか分からなかったが、苦笑混じりに「それはよかったです」と曖昧に答えておく。
「こんな話をしたら戸惑われるかと思うのですが」と鷲尾は片山の反応に構わず続けた。「俺、彼女と別れました」
 片山は絶句した。思わず電話を取り落としそうになる。なぜどうしてと責める言葉をぐっと堪える。そんな態度に気づいたのか、鷲尾は「いいんですよ」と心なしか吹っ切れたような口調で呟いた。「もともと終わっていたようなものだったので」
「それならいいが・・・私のせいなら申し訳なかった」
「謝るんですか?」
 凛とした響きのある声だった。片山は一瞬呼吸が止まる。誤魔化しや曖昧さを否定するような強さがあったが、それでも片山の本音を出すには至らず。
「どう言って欲しいんですか?」と苦笑しながらやんわり言った。鷲尾も苦笑する。少しの沈黙を挟んで鷲尾は再び口を開いた。
「片山さんにお願いがあるんですが」
「なんでしょうか」
「また逢っていただけませんか?」
 緊張が混じった口調だったので、片山は意識して軽い口調で返事をした。
「ええ、構いませんよ」
「プライベートで」
「ええ」
 鷲尾はそこで笑いを堪えたような声で続けた。
「何でもイエスと言っていただけそうな雰囲気ですね」
「要望によりますよ」
「そうですか。では今からそちらに伺っても宜しいですか?」
 片山は一瞬言葉を詰まらせた。そう来るとは思わなかった。「それは構いませんが、あなたの職場から推測するに、こちらに来るには時間が掛かりそうですが」
「迷惑ですか?」
 残念そうな声色で鷲尾は食い下がり、そんな彼の言葉に戸惑う。時計を見れば、丁度昼時で、腹が減ってきたところだ。今から車を走らせて二時間半。例のそば屋はすいているだろう。
「では妥協案で、私がそちらに伺いましょう。そしてそばでも一緒にどうですか?今合流すれば丁度遅い昼飯に間に合います」
「確かに腹は空いてますが、それは駄目です」
「なぜ?」
「片山さんがこちらに来てしまっては、また主導権を握られそうだ」そして意味ありげに笑う。
「今回は、俺の方からキスしたいんです」
 片山は絶句した。もう一度時計を見る。酔っ払うには早い時間だし、寝ぼけるには遅い時間だ。では何だ。簡単だ。鷲尾の本音だ。
「ねえ鷲尾さん」と片山は一呼吸おいた。
「私はあなたと身体を重ねてとても幸せだった。これは本当です。でも私の理性の蓋というのは実に蝶番が緩んでいまして、いつ吹っ飛んでもおかしくないんです。あまりそういうことばかり言って私を煽り続けると、あなたは後悔しますよ。私はあなたのことが嫌いではない。だからこそゆっくり歩ませて頂けませんか」
「牽制ですか?」
「そうですね。私は長く付き合いたい相手には本音を言います。あなたと逢う口実をセックスだけにしたくないんです。逢いたいから逢いに行く関係にしたいんです。あなたと歩いたり、食事したり、お互いの仕事の話をしたり。そんな時間も私は好きなんです」
 電話の向こうの鷲尾は静かだった。それは何か考えているようで、そうではないようで。
「そんな告白・・・いきなりずるいですよ」
 ようやく聞こえてきたのは絞り出すような照れた声。
「あなたが言わせた」
片山は鷲尾の反応が嬉しくて微笑んだ。電話越しでもとても愛おしい。二週間前に自分に翻弄されて頬を朱に染めた姿を思い出す。
「鷲尾さん」
「はい?」
「まだこちらに来たいですか?」
 急に声質を変えた片山に、鷲尾は一瞬声を詰まらせて逡巡したようだったが、それでも小さな声で「はい、出来れば」と呟いた。こちらの意図は分った上で、こちらに向いたいのだろう。こうなると己が引いて相手の様子を見たほうが面白い。
「分りました。ではお待ちしてますよ。但し、昼食はあまり期待しないで下さい。私の家の近くには飲食店がなくてね。少し離れてあるのはそば屋ぐらいです。ただしそこは、そばよりカレーの方が美味い店でね」
「構いませんよ」
 含み笑いが返って来て、片山は一つの住所を告げた。その住所を職務中のように生真面目に鷲尾は復唱する。
「ここは、そのそば屋の住所ですか?」
「いいえ、私の住所ですよ」と片山は鷲尾の勘違いを笑った。
「キスをしにくるんでしょう?」
 しばしの沈黙が流れたが、片山が感じるにそれは不快な種類ではなかった。微かに乱れた吐息に紛れて呟きが聞こえた。「キスだけ?」
「ほら、煽ってはいけない。そんなことを言ったら昼を食べ損ねる」
「俺はそれでも構わないんですが」と鷲尾は軽く食い下がる。しかし片山が返事をしないと察すると、さっさと引き下がった。「冗談です」
 そして鷲尾は片山に大体の到着時間を告げると電話を切った。彼が到着するまで片山は新聞を読み、買って積み上げたままの本に手を掛けた。しばらくそれに目を通していたが、ふと顔に触れた時に髭を剃っていない事を思い出す。さすがにまずいと席を立ち、洗面台で髭を剃る。寝癖のついた髪に軽くワックスをつけて整える。
 鏡に映った格好は、いつも通りのジーンズに黒のシャツ。記憶の中にあるワードローブを思い出し、どうしようかと思案しながら我に返って苦笑した。
 なに浮かれてんだ。
 ソファーに座りなおして時計を見る。あれから一時間たっていた。そば屋の位置から考えると、恐らく彼が到着するのはあと一時間か、交通状態によってはそれ以上だ。
 足を組んで読書を再開したが、全然集中できなかった。何度も落ち着きなく時計を見る己に我ながら呆れる。ようやく玄関のチャイムが鳴ったのは、当初の予想通り一時間がたった頃だった。
 ドアを開けると、久しぶりに見る鷲尾が立っていた。美術館で会った時と同じように、髪型と服装はラフで、相変らずのチョーカーと時計をしていたが、薬指に指輪はなかった。
「遅くなりまして」と彼は言い、片山は「お久しぶりです」と言葉を返した。
 たった二週間だけだったが、ずいぶん逢っていなかったような感覚があった。片山は瞳の奥の鷲尾の意志を探った。互いに視線を絡ませて鷲尾から返って来た答えは、心地よい間と欲情を煽る間。
 片山は思わず鷲尾の腕を引っ張る。玄関に引き込んでキスをしようと唇を寄せた。
「待ってください」
 急に掛けられた言葉に片山は冷や水を浴びせられたように硬直した。何事かと目を見張ると、
目の前の男は微笑を浮かべた。
「今日は俺からさせてください」
 鷲尾は目を閉じると、ゆっくりと片山と唇を合わせた。優しく軽いタッチのキスで、片山が微笑ましく思っていると、力強く腰を引き寄せられた。驚いて目を開けると、凛とした顔つきとぶつかる。初めて出会った時のように、目を奪われた。
「俺は今日は酔ってないし自分の意志でここにいます」
 片山は驚いたまま頷く。目の前の男に見惚れていたと言ってもよかった。
「俺、あなたが好きです。今日はそれを伝えたくてここに来たんです。あなたが、俺との関係を続けたいと言ってくださってとても嬉しかった。切っ掛けは身体でも、そこから始まることがあると、信じてもいいんですよね?」
 少し長い前髪越しに見詰める瞳は優しく、一見すると余裕のある顔つきだったが、所々こちらの意志をうかがう自信のなさが見え隠れしている。
「ずるい人だ」
 片山は言うが早く、鷲尾の唇にしゃぶり付いた。早々に歯列をこじ開け、怯えて逃げ回る舌を捉える。彼の腰を抱き、直接背中の肌を触る。
「ン」とキスの合間に鷲尾の鼻に甘い声が抜けた。彼の体温は上がり、うっすらと汗が滲んでいる。下半身の一点は膨らんで固くなっていた。
 キスと抱擁を片山が解くと、鷲尾は名残惜しそうな顔を露骨にした。そしてそっと視線をそらす。それは照れているような恥じているような態度で、片山の芯を揺さぶった。
「やっぱり昼食は後にしましょうか。お時間まだおありですか?」
 片山のそんな問いかけに、鷲尾は微笑んで「ええもちろん」と頷いた。
「俺はあなたと違って逃げませんから」
 その台詞が二週間前挨拶もなく辞した片山に対する批判だと気づくと、片山は苦笑した。
「手厳しいことをおっしゃる」
「これくらい言わせてください。目を覚まして一人だったときの淋しさと孤独感を表わすにはまだ足りないくらいだ」
 鷲尾の声は少し震えていて、瞳には揺らぎがあった。片山が鷲尾の頬に手を触れると、彼の瞳が閉じられて一筋の涙が伝ったのだった。

読了ありがとうございます!

自分の性癖に気づいてない男と自覚がある男。会話での探り合いがテーマで、掛け合いがエロくなるようにしたつもりです。
ラストが物凄く苦労しましたが、ある日降臨したアイディアを採用。中途半端なような気がするが、それがかえっていい感じ?

もし気に入って頂けましたら、下のWEB拍手にてご感想お待ちしております。

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