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ひとが無意識に求めてしまう、存在への贖宥。 辛いとか苦しいとか。 そんな言葉を免罪符にして、自分を貶めたくはない。 そんな想いが、単なる思い込みだということはわかっているけれど、そのラインを壊してしまえば、自分を支えたプライドさえこなごなになりそうな気がしていた。 同情は嫌いじゃない。それは確かに優しい感情で、触れるのは嫌じゃない。 哀れみも、好奇を向けられるよりずっといい。 けれど。 同情も、哀れみも。 どちらも、絶対に欲しくなかった。 ただ、欲しかったのは。 自分が居ることのできる、場所。 そして、自分が在ることの、意味。 錨を降ろせず漂流する船は、かならず沈むから。 + さらさらと赤いボールペンを走らせて、安原はにこりと笑ってノートを机の上に置いた。 緊急の用事や調査がない限りは、という条件と時間制限はついているものの、オフィスでの彼女の受験勉強と安原の家庭教師役については───もちろんその間の時給は出ているし、安原に至っては家庭教師分を増額されていたりする───その経緯は省くとしていろいろあったのだが、今のところは上手くいっている。その時間の間はナルさえ邪魔をしたりはしない。 「ほとんど正解です、谷山さん。ミスはこれとこれ、………多分計算ですね。式、あってますから」 数学の問題集を解いたノート。 極力途中の過程を書くように、という安原の指示で、ノートはぎっちり数式で埋まっている。 ところどころに丁寧な赤字でつけられた、問題集に付属の解答よりずっと親切な解説は、彼女にとって重要な「参考書」だ。 「よかった〜〜〜」 ほっとしたようににっこり笑った麻衣は、赤字で直された解答と、自分のたてた式をペンで辿って、間違いの元を見つける。それは安原の指摘通り、単なる計算のミスで、彼女は小さく肩を竦めた。 「気をつけないと駄目ですよね、こういうの」 「大丈夫ですよ、慣れてきたら減ってきますから。まだ七月入ったばかりだし、気にするほどのことじゃありません」 安原は笑って問題集を閉じた。 「さてと。今日はここまでにしましょう」 「え、でもまだ時間……」 「ありますけど、今日はお誕生日でしょう、谷山さん」 普段とは違う、穏やかな笑顔で彼は同僚の少女の顔を見やる。 「もうじき滝川さんや松崎さんたちが来ますから。………おめでとうを言うのはその時にしますね。フライングは怒られそうですから」 「え、ぼーさんたち来るんだ。………ナル、また低気圧になるだろうね」 視線を所長室の扉に流して苦笑した麻衣に、安原は自信たっぷりに指を立てた。 「大丈夫です。この安原、そのへんの根回しに抜かりはありません。今回は了解済みですから」 責任持って所長も参加です!と言い切った青年に、麻衣は目を瞠った。 未だ梅雨、窓の向こうに切り取られた白い空に視線を泳がせて、なかば無意識に呟く。 「………雪、降りませんよね」 「降りません、大丈夫です。……で、そこまでしたのに、滝川さんたちが来たときに谷山さんに勉強させてたら、僕が怒られるんです。だから、しまってくださいね、ノート」 ノートを安原の手で閉じられて、麻衣ははあい、と笑って学校からそのまま持ってきた鞄にノートをしまった。 誕生日のことを忘れていたわけではないけれど、こうやってひとに言われるとどこかくすぐったくなる。 滝川や綾子はともかく、ナルにまで根回ししたということは、きっとオフィスに関わるメンバー全員がなにか計画を立ててくれているのだろう。それだけで、思いがけない嬉しさにどきどきする。 今は特に仕事がないから、わくわくしながら彼らを待つ時間も、飛び切りのプレゼントになる。 「というわけで、これから滝川さんたちを待つ間、時間待ちです」 「いつ頃来るんですか?」 「五時って言ってましたから、もう30分ないですよ」 「………着替え持ってこればよかった」 制服を見下ろして、麻衣は軽く笑った。 何か「特別な」演出が自分でもできたのに、そんなことは思いつきもしなかったから。 「大丈夫ですよvそのままいつもの格好で充分可愛いですから」 にこにこにっこりと鉄壁の笑顔で言い切って。 それから、安原は所長室に視線を流して、声を潜めた。 「ときに谷山さん」 「はい、なんでしょう」 「ひとつ、質問してもいいですか?」 「………なんですか?」 きょとんと首を傾げた少女の頬に、淡い色彩の髪がさらさらとこぼれ落ちる。 見上げてくる琥珀色の澄んだ瞳。 「谷山さんって、所長のどこが好きなんです?」 あっさりさっくり。 単刀直入といえばこれ以上ないほどの率直な疑問に、麻衣は一瞬凍結して、それから苦笑した。 「いきなりなんですかそれ」 「あ、別に恋愛感情云々言ってるわけじゃないです。………女性のプライベート、しかも恋愛問題に立ち入るほど命知らずじゃないですから僕」 その辺の折衝は、原さんにお任せします、といまひとつ意味不明の注釈を付け加えて、彼は眼鏡の奥の知的な瞳に悪戯げな光を踊らせる。 「そうじゃなくて、それをきっぱり無視しても、谷山さんってもともと所長のこと好きでしょう?好きって言葉に語弊があるんでしたら、好意を持っていたって言ってもいいですけど」 恋愛感情は、絶対に無視はできない。 今のところは「つき合う」という関係には至っていないようだが、それは端から見ていても確実に今は存在するし、それはこれからどう進むにせよ軽い感情ではないだろう。 けれどそれを差し引いても、彼女は明らかに、冷徹で仕事中毒な上司を、根本的なところで信頼し、そして明らかに好意を持っていた。 それは彼がはじめて会った当初から変わることはなく。 口ではいくらでも悪口を言いながら、彼女が彼に対してはっきり負に染まった感情を、マイナスの態度を向けているのを見たことはなかった。 結局、彼女の心が揺らぐことはなかったのだ。 それは、彼女が信じてきたものが崩れ落ちた、あの夏の直後でさえも。 苦笑混じりの、けれど真剣な同僚の表情に、ぱちりと目を瞬いて────華奢な少女はかるく首を竦める。 ふわりと撓んだ髪が一瞬だけ、琥珀色の視線と一緒に空間を彷徨った。 「うーん……。好きっていうか。………うん、確かにずっと、嫌いではないですよね。ナルはナルで………言葉にするのは難しいですけど」 「すみません、かなり不躾な質問だっていう自覚はあるんですけどね。ずっと不思議だったんで、実は。……すみません」 小さく頭を下げた安原に、麻衣は軽くかぶりをふって笑った。 確かに立ち入った質問であることは確かだけれど、答えたくなければ答えなくていい、その程度の聞き方だから、彼が謝る必要はない。 少し考えるように口を噤んで、それから彼女は目を伏せた。 「…………感謝、してるんだと思います。基本的なところで。すごく変ですけど」 「感謝、ですか」 「はい。…………ナルはね、命の恩人だから」 そう、ぽつりと呟いた麻衣の瞳はあまりにも常の彼女と違って見えて、安原は敢えて冗談めかして笑った。 少女の綺麗な瞳の先が何を捉えているのかさえ、分からない。 すっと冷えた心が受けた思いを、今は見ないふりをする。 「所長がですか?そんなに危ない調査でもあったんですか?」 「もちろん調査じゃないですよ。危険な調査はやらないでしょう?基本的には」 もちろん結果的にそうなってしまうことがあっても、ナルは、自分はともかく調査員や協力者に危険が及ぶ確率が高いような調査は最初からやらない。そして、もしそうなればきっぱりと撤退を決める。………間に合わないこともあるが。 麻衣は小さく笑って続けた。 「そうじゃなくて。うん、命って言い方は大袈裟ですよね。ごめんなさい。………あたしに、仕事をくれたってことです」 「仕事、ですか?」 「あ、お金のことじゃないですよ?………もちろん、ここのお給料はすごく助かってますけど。そういう意味じゃなくて、仕事、というか、やらなきゃいけないこと、というか。………あたしが居て、あたしが必要な場所をくれたのが、ナルだから」 非常識に高価なカメラの破損と、貴重な調査員の負傷というご立派すぎる言い分をもとに、麻衣に重労働を突きつけた「渋谷一也」所長は、容赦なく麻衣をこきつかったが、それは麻衣に、「自分がいなくてはならない場所」を与えた。 誰かの代わりでも、期間限定でも、少なくともその間だけは、自分がいなくては困る人と、場所。 生活を助ける収入の道と、そして何よりも、麻衣だけの場所。 自分が居なければ回らない業務、自分が居なければ困る人。 それは、何よりも簡単に、自分という存在の意味を証す。 自分はここにいて良いのだと、ここに居なければならないのだと。 それは、存在への贖宥と、そこに在ることの、意味。 冷たい美貌の少年が彼女に与えたのは、失ってしまったばかりだった心の拠り辺。 「高校に入って、すぐだったんです、ナルにあったの。……最初は、期間限定だったし、ほんとにはじめて会ったときは何だこいつとか思いましたけど」 乱暴な言葉を使って、麻衣はちいさくくすりと笑った。 まっすぐに同僚の端正な顔を見上げる可憐な白い貌に、翳りのない綺麗な笑みが浮かぶ。 「あれがなかったら、───ナルに逢ってなかったら、ここに居なかったら。あたしは結局自分をなくしちゃったかもしれない。そう思ったら、ナルはあたしにとってはすごく…………大事な存在なんです。……きっと、ずっと」 言葉を選んだ麻衣の声に、躊躇いはのこらなかった。 琥珀色の瞳は綺麗に澄んで、一点の翳りも見えない。 安原は小さく息をついた。 彼女が母親を失ったのは、中学を卒業する少し前だったと聞いていた。高校に入ってすぐの彼女の心が、どんな状態にあったのか───それを救ったナルの存在が、意識されたとしても無意識だとしても、彼女の裡でどんな意味を持ったのか。はっきりと理解することはできなくても、想像すること位はできる。 愚問だったな、という呟きと、浅くはない後悔は彼女の瞳から綺麗に隠して、安原はいつものように笑った。 「大事な存在、ですか」 「はい、そうなんです」 「即答ですね。……妬けますねえ」 あはは、と笑った麻衣に冗談交じりに返して、それから何かに気付いたように安原は振り返った。 オフィスの扉の向こうに、複数の人の気配が近付いてくる。 馴染んだ気配に、少女の表情が綻ぶ。 「来たみたいですね」 「そうですね。……うわあ。なんかどきどきする」 いつものことなのに、と言ってセーラー服の胸元を押さえた麻衣は、扉に向かって一歩踏み出そうとした。 「あ、ちょっと待って下さい。そっちは僕が迎えますから」 「え、でも」 「谷山さんは所長呼んできて下さいね」 「………………。はい♪」 もうすぐ、オフィスの扉が開かれるだろう。 数瞬、同僚の顔を確認するように見上げてから、麻衣はくるりと華奢な身体を翻す。 ブルーグレーのドアが賑やかな声と一緒に開くのと同時に、彼女は所長室に滑り込んだ。 静寂が支配していた所長室に、抑制された高い声がわたる。 「ナル、みんな来たよ」 いつものように、分厚い本のページを繰っていた美貌の青年が、部下の少女に静かな視線を向ける。 「………」 「ナルも来てくれるんでしょ?」 「………約束させられたからな」 溜息混じりに応えて、ブックマークを挟んで本が閉じる。 「ありがとう。すごく嬉しい♪」 彼女の笑顔を特に見ないまま、かたり、と音を立てて立ち上がったナルに、麻衣は手を伸ばした。 確認するように、ごく軽く彼に触れて、離れる。 「麻衣?」 「ごめん、なんでもない」 心の錨を確かめる。 ふわりと笑って、彼女は踵を返した。 オフィスに通じる扉を開く。 それと同時に、ぱんぱんぱん、とクラッカーが弾けた。 「ハッピーバースデー!!」 笑顔が溢れて、クラッカーの音に負けないほど賑やかに、声が響く。 同情でも哀れみでもない、自分の居場所。 背後の漆黒の青年を見上げて、漆黒の瞳と一瞬だけ、確かめるように視線を絡めて。 そして麻衣は彼女の拠り辺に踏み出して、最高の笑顔で祝福に応えた。 |
麻衣ちゃんのお誕生日記念。←お祝いになってない(爆) うちのお誕生日SSがお祝いになってないのはいつものこととはいえ(………)これは許されるのでしょうか(涙笑)………ごめんなさい嫌わないでください(泣)一応私的にはこれでもお祝いなんです。麻衣ちゃん好きなんです!!あああ。かなり不安なので掲示板でもメールでもご意見ご感想など頂けると泣いて喜びます。……ええ、それがお叱りであっても甘んじて(涙。ああ、でもその場合はどうかお手柔らかに……) いちおう補足説明してみたり。この麻衣ちゃんは高三です。うちのナルと麻衣は、麻衣が高校生のうちはくっつきません(笑)ええ、かなり往生際が悪いので二人とも。 2002.7.3 HP初掲載
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