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忌避したのは、面倒なだけの学会やSPRのつきあいか。 それとも、長いわけではない別離か。 学年度末にかこつけて、論文の打ち合わせという名目で担当教授からかかった呼び出しに、気は進まなかった。 特に打ち合わせの必要などないはずで、そして、その絶好かつ希有な機会にSPR本部のお歴々が便乗しないはずはない。 けれど、どれほど気が進まなくても、正当な理由もなくはねつけることのできる呼び出しではなかった。 進行途中の調査でもあれば理由にはなったのだろうが、それもなかった。 故意なのか、他に事情があるのか、教授の意図は別の問題として、提示された日程は既に一週間後に迫っていて、時間的余地もなければ断る口実を作る余裕もなかったのだ。 やむなく帰国を決めたナルの本国滞在中の予定は、その翌日にはほぼ分刻みで埋められた。 あまりにも自分の意向を無視して予定を提示されたことに難色を示し、帰国そのものまで取りやめようとした彼を宥めるように、日程が組み直されたのはさらに半日後。 そして、せっかく良い季節なのだからと彼の養母が息子の長期滞在を望み、それに応じて彼の上司が調整を図り、裏から手を回して外堀を埋めたのは、さらにその6時間後。 日程の第一案が出てから一日経たない、日本が深夜のうちに裏工作は完了し。 極東で夜が明けた頃には、彼と、何故か彼の部下である少女の分まで航空券が手配されて。 ナル自身には何も知らされないままオフィスにそれが届いたのは、さらにその翌日の午後だった。 長身の部下から手渡された封筒の封を切って、中から取りだした短い手紙と航空券にざっと目を通して。 漆黒の青年は秀麗な眉を顰めた。 硬い氷のような漆黒の瞳が、手渡した部下を見据える。 「これは一体どういうことだ、リン」 「あなたの帰国のための航空券です。………思ったより早かったですね。まあ、遅くとも明日には着かなければ間に合いませんが」 見れば聞くまでもなく分かり切ったことを全く動じず口に乗せた部下の態度に、漆黒の瞳が険を含んだ。 冷徹な瞳が苛立ちを孕んで、全く変化を見せない表層の下の感情が、透ける。 「リン」 「何ですか?ナル」 「これは、一体どういうことだ」 僅かに怒りの色が滲む低い声が、同じ問いを繰り返した。 BAの便名表示の入った航空券。 しなやかな白い指先が券面を弾いて、乾いた音を空気に響かせた。 予定通りの日付、予定通りの時刻が印字された、その往復分の航空券に不審な点はない。 二部あることについても、英国籍の部下が居ることを考えればそれほど問題ではないはずだった。 問題なのは、二部あるそれの券面に印字された名前と。 それから、やわらかな美しい筆跡で書かれた手紙の内容。 「………手紙は、まどかからですか?」 「ルエラからだ。………知っていたんだな?」 「ええ。聞いていました」 リンは答えて、上司の瞳の斬りつけるような鋭さに苦笑して、付け加えた。 「すみません、ナル。まどかに口止めされていましたので」 釈明には応えないまま、ナルは溜息をつく。 リンを責めても何の意味もなく、そして彼には何の責任もない。今更どうしようもないことに意味もない怒りを発散させて時間を潰すほど暇なわけでも、馬鹿になるつもりもない。 「………麻衣は」 「谷山さんならまだ来ていません。今日は………予定では、あと一時間もしたら来るはずですが?」 「安原さんは」 「来ています。呼びますか」 「……リンは帰らないのか?」 家に、ではなく本国に。 問いかけの真意を正確に読みとって、リンは苦笑して首を振った。 「その予定はありませんが」 「分かった。とりあえず安原さんを」 「分かりました」 + + + 軽いノックの音に続いて、扉が開く。 僅かなその音と、部屋に滑り込んだ慣れた気配に気付いて、ナルはファイルから顔を上げた。 「ナル?呼んでるって聞いたけど、何?」 澄んだ、抑えた声と、まっすぐに向けられる瞳。 視線が絡んで、解ける。 隔てる空間の距離感が一瞬揺らいだような気がして、麻衣は描く眉を寄せた。 「ナル?………人のこと呼んでおいて、黙ってるつもりなわけ?」 私だって暇な訳じゃないんだからね! 声には出さずに付け加えた言葉は正確に伝わってしまったらしく、ナルは美貌に笑みを形作った。 「そんなにご多忙でしたか?谷山さん」 「いらっしゃらない間することがないだろうとか仰って、大量のファイルの分類を指示なさったのは所長じゃありませんでした?」 慇懃無礼な問いかけに負けず劣らず馬鹿丁寧に、にっこり笑って返した麻衣の瞳は笑っていない。 帰国が決まってから、不在中にやっておけと大量の事務仕事を割り振ったのはナル自身だ。 バイトとして働いて、標準を大幅に上回る報酬を支払われている以上、仕事を命じられることは当然だと思う。その仕事が多少厄介でも、それができるという評価の裏返しだと思えば嬉しかったりもする。 それでも、仕事を命じた当の本人に、その仕事がないかのように言われるのは癪に障る。 麻衣は小さく溜息をついて、苛立つ頭を切り換えた。 ナルを相手に嫌味の応酬をしても馬鹿を見るのは自分の方だ。 「フライト、明々後日なんでしょ?午前中だっけ?………日程とか期間とか、もう決まったの?」 「決まった」 「そうなんだ。またぎっちりなんだろうね。………どのくらい?」 「二十日ほど、だな。月末にこっちに戻る」 「…………そう、なんだ」 ナルの答えは、過去の実績にてらせば十分に予想の範囲内で、驚くには当たらない。 呟くように応えた琥珀色の瞳が、一瞬だけ壊れそうに脆い彩を見せて、そして微笑った貌とは裏腹に表情を消した。 意図的な笑みだと自分で判っている。ナルにも判られないはずはないと、そんなことは知っている。 けれど、心の内は絶対に見せない。 自分で目を逸らした感情の色を明確に認識してしまえば耐えることなどできないことを、無意識に識っている。 「で、何だったの?用があるんでしょ?」 「ああ。………麻衣、大学の試験の予定は」 「は?テスト?」 「そう」 切り替えた話題に返った答えは予測範囲を大きく外れていて、麻衣は思わず目を瞠って聞き返した。 それをさらりと肯定した低く抑えた声も、凪いだ水面のような闇色の瞳も、変わらないまま少女をとらえる。 「………一応来週からだけど?」 「受ける予定の数は?」 「8つかな。……でもそのうち5つはレポートだと思うから、テストは3つ」 「その3つのうち必須科目は」 「ないよ?単位も大体揃ってるからそれほど必死にならなくて良いし」 「それならいい」 軽く息をついて、ナルは手元に置いたままのルエラの手紙と航空券を、机の上に滑らせた。 航空券であることは一目瞭然で、麻衣は瞳を瞠る。 「………ナル?」 「ルエラとまどかから、誕生日プレゼントだそうだ」 「え?………って。これ、飛行機のチケット?」 「それ以外の何に見える?」 「…………ナルに同行、てこと?」 「行くか行かないか、好きにしろ。時間もないからな」 玲瓏と韻く、けれど抑制の色合いの強い、声。 麻衣は軽く目を伏せた。 誕生日に、というルエラとまどかの好意は嬉しい。タイミングから考えて、誕生日に間に合うようにチケットを手配してくれたのだろう。 けれど。 今度行けば、これまで避けてきたナルの関わる組織に、確実に関わらなくてはならない。 「ナルは、良いの?」 「何が」 「あたしが行っても嫌じゃない?」 「………嫌なら最初からそれを渡さない。………ただ、麻衣が行くかどうかについては僕が決めることじゃない」 「行きたかったら行きたいって言っていいの?」 「最初に、好きにしろと言わなかったか?」 「言った」 「それで?」 「………行きたい」 小さく、けれどはっきりと返った高い声にナルは軽く息をついて、頷いた。 「わかった。………支度にどのくらいかかる?」 「う………かなり急がないと駄目かも………」 とりあえず荷物をそろえて、足りないものを確認して買い物して、長期間留守にしても大丈夫なように家の中を片づける。 特に散らかっているわけでもないし、何が必要かも大体判っているが、それにしてもあと二日ではぎりぎりだろう。 眉根を寄せた麻衣に溜息をついて、ナルは彼女の思考を遮った。 「お前はパスポートだけ持ってればいい。あとは最低限の着替えだな」 「………それなら、明後日には何とかなると思う」 「判った。…………用はそれだけだ。とりあえずお茶を、麻衣」 「はあい」 話を打ち切って、決まり文句で締めくくってからファイルに視線を戻した所長に肩をすくめて、麻衣はくるりと華奢な身体を翻す。 「ありがとう」 届くことを懼れたように微かに零れた呟きが、扉に煽られて撓んだ空気に紛れて消えた。 何より嬉しかったのは、航空券などではなく。 それを使うことを許されたこと。 そして初めて、許容できないほどに別離を懼れていたことに気付く。 離れることをより強く忌避したのは、私か。 それとも、あなたか。 |
麻衣ちゃんお誕生日おめでとう!アップです(笑)……の割には麻衣の出番がないのは……ええ、気のせいです……(泣)一応お誕生日ネタだってのに、どーしてこうなったんでしょうね………(滅) (限定おまけがありましたが、削除いたしましたv) 2001.7.3 HP初掲載
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