目が、醒めてしまった。それも完全に。
無駄に広い部屋はまだ暗い。
小さく溜息を付いて、彼女はこれまた無駄に広いベッドから慎重に滑り降りた。振り返って、起こさなかったことを確認してからほっと息をつき、ベッドの端に引っかかっていたマイクロフリースのロングジャケットをとりあえず羽織る。
スクリーンも下ろさないままだった窓にふっと目をやり、彼女は息をのんだ。
一面に広がる、深い深い群青色。輝く月が、深海の中の真珠のようだ。
「う、わ……………」
思わず呟いて、慌てて華奢な手で口元を覆う。ベッドを確認して、ほっと息をついて、できるだけ静かに窓に向かった。
可能な限り音を立てないように細心の注意を払って、ガラス戸のレバーを操作してバルコニーに出た。
ひととおりの風対策はしてあるはずでも、それでも地上に比べれば遙かに、超高層階の風は強い。その風に煽られながらも彼女は音を立てないように注意深く戸を閉めると、バルコニーの柵に掴まり空を見渡して、初めて声を上げた。
「……すご………綺麗……………」
この部屋は南西向きなのだが、東の空も見える。高層ビルの屋上が見える超高所、遮るものはほとんどないその空が白み初め、群青色の空にとけ込んでいる。藍色の雲が薄く飛んでいるのが見える。
夜明け前の空気は冷たかったが、寒さなど気にならないほどに澄んでいて、彼女は思い切り息を吸い込んだ。
微かに聞こえるはずの下界の喧噪が、今は全く聞こえない。
静謐なまでの静寂の中で、空がゆっくりと白く染められていく。
淡く白い空の中で、東の方から雲がゆっくりと鴇色に染まり、それとともに空は次第に青さを増していく。
その、青の色彩がはっきりするころに、東の空がひときわ光沢を増し輝いた。
呼応して雲から赤みが消えて白く輝き、そして遥か東に光の塊が生まれる。
明るい光は一瞬ですべてを支配下におく。
蒼穹は鮮やかな青に、雲は純白に輝き、透明のはずの空気までがきらきらと煌めくようだった。
おそらく30分ほどだろう。息をのんで、瞬く間すら惜しんで空を見つめていた彼女は色素の薄い瞳を射る眩しさに我に返った。
ほう、と溜息が漏れる。
寒いと言うよりも身体が冷えているのは確かだったけれども、陽がゆっくりと昇るに連れて輝きを増している空から目を逸らすのも何か惜しい気がした。立ち去りがたく、明るさを増す東の空を見ながら自分の身体を抱き締めた彼女を、やわらかな温もりがふわりと包み込んだ。
よほど、空に心を奪われていたのだろう。近付く気配に気づきもしなかったことに、彼女は驚いて目を見開いたが、振り返ることもせず、自分を抱き寄せた慣れた体温にほっと息をつく。
「目、醒めちゃった?」
「………どうした?」
彼女の問いを無視して、問いかけた抑えた声。
彼女はくすりと笑う。
「ん。目が覚めちゃって。で、ちょうど夜明けだったから」
「見てたのか?こんなところでその格好で?」
やや呆れたような口調。けれども背後からブランケットでくるむように自分を包んだ腕は緩まなくて、彼女はまた笑う。
「うん。だってすっごくきれいだったんだもん」
「………風邪をひきたいのか?」
これは溜息混じり。耳元で囁かれる抑えた声が心地よくて、彼女は引き寄せられた腕の中でブランケットごとくるりと振り返った。ぱっと笑って、深い漆黒の瞳を見上げる。
「それはやだ。………まあ、確かにちょっと寒いけどね」
寒い季節ではないが、夜明けという時間帯は一日のうちでもっとも気温が低い。
ナルは秀麗な唇にやや皮肉な笑みを刻んだ。
「僕も風邪を引きたくはないんだが?」
「ナルはダメかもね」
「何が」
「風邪ひかないのは馬鹿だから」
「は?」
「馬鹿は風邪ひかない。つまり、馬鹿じゃなかったら風邪ひくってことでしょ?ってことは、絶対危ないよ?博士」
いたずらっぽく笑われて、返答する気も失せたらしい彼はその美貌に皮肉な色を浮かべる。
「心配のない谷山サンはしばらくそこにいますか?」
「それは何?私が馬鹿だって言いたいわけ?」
「さあ?」
さらりと返されて、彼女は漆黒の瞳を睨んだ。
「そろそろ6時になると思うが?」
視線を受け流し、話題を切り替えた彼の言葉に、彼女は軽く首を傾げる。
「じゃ、一度うちに戻るね。7時半にはまた朝食の支度に来るけど。リンさん来るのもそのくらいのはずだから」
「わかった」
「どうせナルはこれから仕事する気でしょ?昨日も何か山のよーに郵便来てたし!」
部屋の中に入りながらの皮肉に、彼は答えなかった。
そのかわり。
「戻る前にお茶を、麻衣」
響いた声に、麻衣は一瞬動作を止め────溜息をついた。
「まったく、それしか言うことはないわけ?………ダージリンでいい?」
文句を言いながらも彼女は自分の服を抱えながら尋ねる。
「それでいい。ありがとう」
感謝の言葉と、珍しく裏も衒いもない綺麗な微笑み。
彼が意識しているかどうかはとにかく、稀にでもこんな表情を見せるのは二人きりの時だけで。
驚いて目を見開き、次の瞬間ほとんど反射的に真っ赤になった彼女は、理不尽だと呟きながらも彼のための朝のお茶を淹れるためにキッチンに向かった。
そうして今日も、新しい一日が、始まる。
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