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「いやですの」 沈黙が支配していた部屋の空気を、抑えた声が揺らして、波紋を広げる。 ソファにきちんと膝を揃えて座った、珍しく洋装を纏った黒髪の少女は、ひどくきつい瞳で宙を見据えていた。 「真砂子?」 珍しく、一人で遊びに来た少女を迎え入れ、何も聞かなかった綾子は、ゆっくりと、名前を呼ぶ。 促すように。 「真砂子?」 「‥‥‥‥‥自分を、嫌いたくは、ありませんの」 ゆっくりと紡がれた言葉。 揺れる、まっすぐに切りそろえられた美しい黒髪と、見たこともないほど強い瞳。 強い─────けれど、今にも瓦解しそうな。 それは、脆い、堅さ。 「‥‥‥‥ええ。そうね」 綾子はゆっくりと、答える。 相槌というほど弱くもなく、けれど促すほどには強くない言葉は、少女の作った見えない壁に跳ね返されることも、それを壊すこともなかった。 ただ密やかに、空気に浸透して、心に届く。 「ですから。‥‥‥‥‥‥麻衣を、嫌いたくはありませんわ」 張りつめた声が、僅かに震えた。 ガラスに細かいひびが入るようなその響きは、崩壊の前兆のように、増幅する。 「誇りを失うことは出来ませんもの」 特殊な能力を持ち、さらにもってうまれてしまったその美しさ故に幼い頃から衆目に晒された。 そしてそのことは、繊細でやわらかい、幼い心を、無防備に晒すことを意味してもいた。 彼女の誇りは、穢れから、攻撃から、彼女自身を守ってきた、彼女の支え。 「真砂子?」 綾子はもう一度、名前を呼ぶ。 硬い表情ときつい瞳に二重写しに重なるように、透けて見える今にも壊れそうな脆い顔。 「でも」 言葉を落とした、紅い唇が僅かに震えた。 黒い瞳から零れた滴が一筋、頬を伝い落ちる。 「どうしたの?真砂子。‥‥‥‥一体何」 表情を変え、眉をひそめた綾子に、真砂子は初めてまっすぐに目を向け、そしてかすかに微笑んだ。 黒玉のような瞳は潤んで、磁器のような白い頬を、幾筋も透明な滴が伝い、零れ落ちて、膝の上に握りしめた白い手を濡らす。 「答えられませんわ」 「真砂子!」 溢れる涙はそのままに、透明な微笑みを保った真砂子の表情は、まっすぐに綾子を見つめたまま崩れない。 ふいに、真砂子は視線を自分の膝の上に落とした。 「‥‥‥‥‥‥でも、一人では‥‥‥‥‥」 一人で泣くのだけは耐え難かった。 けれど、家族の前で泣くことも出来なかった。 言葉にならない言葉を綾子は推測して、溜息を付く。 「事情が分からないんじゃ、慰めようがないわよ」 「よろしいんですわ。別に松崎さんに慰めていただきたかったわけではございませんもの」 誇り高い少女は、抑えられない涙だけはどうしようもなくても、艶やかに、笑う。 けれど、それが限界だった。 震える唇を押さえるように白い手が顔を覆い、肩が、震える。 俯いた白い貌のまわりに、まっすぐに伸びた黒髪がこぼれ落ちて─────僅かに揺れた。 声も出ず、ただ溢れる涙と、胸を引き裂く、痛み。 この美しい少女が弱さを露わにするのは珍しく、綾子はそっと華奢な肩を抱き寄せた。 「よく、わかんないけど。泣いちゃいなさい。気が済むまで。‥‥‥‥一人で泣くんじゃないなら、たまにはいいわよ、それも」 綾子の優しい声と、宥めるように背中を撫でるやわらかな感触に身を任せて、真砂子は涙の衝動に抗う努力をやめた。 ただ、胸が、痛かった。 望みのない想いだと、知っていた。 けれど、見ていることだけなら出来ると思っていた。 誰のものにもならないなら、それでもいいと思っていた。 けれど。 ‥‥‥見つめていたから、気付いてしまった。 瞳の行方に。 漆黒の瞳の、見たこともないほど深い色に。 誰一人気付かない、それどころか本人も意識していないだろう感情の色彩に──────。 「恋」という感情がなければ、絶対に気付かなかった。 気付いた瞬間に、心を切り裂いた痛みの鋭さは、容易には忘れられない傷跡。 感情はすでに深くて、全身を苛む痛みは激しくて。 それでも。 思い切ろうと決めた。 決断は痛みを伴い、決して楽ではなかった。 けれども。 とりあえず今は辛い痛みを涙で流して、泣くだけ泣いたら、ゆっくりと心を見直していくことを、決める。 時間はたっぷりあるだろう。彼が自分の心に気付くまでは、そして彼女が、もう一人の彼の存在を整理するまでは。二人ともそういう意味で器用とは言えないのだから。 麻衣を妬み恨んで、自分を嫌って、誇りを失って。 今までの、大切だった想いを後悔したくはないから。 決して短くはなかった時間を、無駄にしたくはないから。 自分の意志で、この想いと訣別することを決める。 今までの時間を、後悔の色で染めないために。 大切な親友のために、そして恋した彼のために。 そして、なによりも、自分自身の心を大切にするために。 泣くのは今日だけだ、と今は綾子に甘えてしまうことを決めて、真砂子は呟いた。 「強くなりたい、と思いますわ」 「‥‥‥‥‥そうね」 嗚咽混じりの声に、落ち着いた声が返って、真砂子は笑う。 「でも無理すんじゃないわよ。麻衣もそうだけど、あんたもぎりぎりまで我慢するでしょ。たまには吐き出しちゃいなさい」 「無理は、してませんわ。いまは」 「それならいいわよ」 もう一度小さくわらって、真砂子は、姉のような女性の存在に内心だけで感謝した。 やわらかい温もりの中で、幼子のように微睡む。 微睡みから醒めれば、涙は乾いているだろう。 |
これも毛色違い。真砂子の話です。 反則じゃないかと思わないことはなかったのですが、ナルと麻衣の二人だけ書いて彼女は無視する、というのはいやだったので。 真砂子も好きなので彼女にも幸せになって欲しくて、でも、そのためにはナルへの想いというのはきっちり整理を付けなければならないから。 恋愛に限らないかもしれませんが、一人を選択すれば、切り捨てられる人がいるということを忘れたくありませんでした。 2001.2.6 HP初掲載
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