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まどろみ




   めざめの前の。


「リンさん」
 ノックと同時に扉が開かれて、少女が顔を出す。
 データに没頭していたリンは、ふ、と顔を上げた。
「………谷山さん。もう大丈夫ですか?」
「うん。あたしは平気。心配かけてごめんなさい」
 麻衣がだいぶ回復し、ナルが撤収命令を出し。
 オフィスに戻ってきたのはついさっき。時刻はもう、夜だ。
 安原は、帰るついでに、とここまでついてきた真砂子を送っていった。綾子は事後収拾のために実家に残っているから、いまオフィスにいるのは三人だけだ。
 琥珀色の瞳に、困ったような、心配げな、微妙な色を見つけて、リンは僅かに目を眇める。
「どうかしましたか?」
「うん。………ナルがね」
「ナルが?」
「いちお、起きてるんだけど。やばい感じ?」
「は?」
「あたしが倒れてから不眠不休って聞いたんだけど」
「そうですね。仮眠もとっていなかったと思います」
 もう一晩くらい長引いたら、引きずってでも寝かそうと思っていたが、その前に麻衣が起きてしまったため、ナルは結果的に休む機会を失ったわけだ。
 リンの肯定に、少女は細い眉根を寄せる。
「でね。月末に、本部からファイルが届いたでしょ?」
「そうでしたね、確か」
「うん。………あれに、ずーっと没頭してて、その前もあんまり寝てなかったみたいなんだよね、ナル」
「…………」
 興味深い、とかなんとか言っていたのを、自分もたしかに聞いたのを思い出して、リンは頭を抱えた。これは、ほぼ確実に、あの研究馬鹿はあれからほとんど休んでいない。
「で。ついに電池切れかかってるみたいで。………なんか変なんだよね、ナル」
 困り果てた顔で、麻衣は首を傾げる。
「そろそろ寝かさないとまずいみたいなんだけど。………どうしようリンさん」
 まさかオフィスで寝かすわけにはいかない。
 リンはかたりと立ち上がり、大きなスライドで麻衣に歩み寄って華奢な肩に手を置いた。
「所長室ですか?」
「ううん。そこ」
 麻衣の視線の先に漆黒の頭が見えて、リンは溜息をついた。

「ナル」
 漆黒の青年は、名前を呼ばれて顔を上げる。両手に広げた資料は、リンが計測していたデータの数値だ。
「そろそろ家に帰ってください。限界でしょう」
 ナルが座っているのは、ソファですらなく、麻衣の椅子だ。作業中の安原に用があって座ることはあるものの、何もなくそんなところに腰掛けていることはまずない。
「別に、それほど疲れてはいない」
 三日や四日の徹夜など珍しくもない。
 言外にそう告げた青年の冷えた声は、それでも珍しいほど力がなくて、リンは眉を寄せる。
「ナル」
「それより麻衣は」
 漆黒の瞳が部屋を滑って、リンの背後にいた少女を捉える。
「あたしも寝た方がいいと思うよ、ナル」
 ゆっくりと歩み寄った彼女に手を伸ばし、彼は指先をからめるようにして細い指先をとらえる。
「そういうお前こそさっさと帰って寝ろ」
「あのねナル…………」
 溜息をついた麻衣は、からめとられた指先を困ったように見下ろした。
 さっきからこれなのだ。
 帰れ、といいつつ、自分のもとに引き止めるような真似をする。多分、全く意識することなく。
「ナル。あなたは疲れています。谷山さんと一緒に帰って寝てください。そんな状態でここにいても意味はありません」
「リン」
 底冷えのする声に、保護者を自認するリンが怯むはずもなく、彼はほとんど冷然と告げた。
「仕方ありません、マンションまで私が送ります。オフィスの片付けはそれからやっておきますから、今日は寝てください」
「リン」
「…………まどかに報告してほしいですか?」
 きびすを返しかけた長身の青年が、隻眼だけで美貌の上司を見る。
 その視線に、ナルは溜息をついて、立ち上がった。
「それは遠慮する」
「でしたら今日は素直に帰ってください。谷山さんも休んだ方がいいでしょう」
「…………わかった」
 漆黒の青年が、ソファに置いたままだった麻衣のバッグと上着をとって彼女に押しつけると、キーを持ったリンのあとに続いた。


 道路は比較的すいていて、リンの運転する車は十五分と待たずにマンションの前についた。
 ナルが降りるのを待って、リンが早口に麻衣に告げる。
「あなたも本調子でないのにすみませんが、ナルを頼みます。素直には寝ないでしょうから」
「分かってます。任せて。それに、あたしは寝たから大丈夫、心配しないで、リンさん」
 麻衣はにこりと笑って車を降り、ばたんとドアを閉めてから、心配げな運転席に手を振る。彼女の笑顔にわずかな微笑を返して、車はすっと滑り出した。それを見送って、麻衣は傍らを見上げる。
「さ、ナル。行こ」
 ほとんど強引に腕をとり、麻衣はエントランスホールに入った。

 勝手知ったる他人の家。
 麻衣はナルの先に立って入り込み、振り返る。
「ナル、おなかすいた?」
「いや」
「お茶は?」
「いい」
「それじゃシャワーでも浴びて着替えてきて。シーツ直してるから」
「お前もさっさと帰って寝ろ」
「そうはいかないよ。ここで帰ったら、ナルの行き先は書斎じゃん」
 信用の欠片もない。きっぱりと言い切った麻衣は、ナルをシャワールームに放り込み、自分は寝室に向かった。
 呆れるほど使用した形跡のないベッドに溜息をつき、麻衣はきびすをかえしてキッチンに向かう。寒い、というほど寒くはないが、無理を重ねている彼は、さっさと寝かすのがベストだ。
「うーん。………ホットワインかな」
 呟いて、麻衣はルエラに教えてもらったレシピを頭の中から探し出して、ミルクパンにワインを注いで火にかけた。
 
 ちょうどワインが煮立ち、二つのグラスに注ぎ分けたとき、シャワールームから出てくる気配がして、麻衣はあわててトレイにグラスを乗せてぱたぱたとベッドルームに向かう。サイドテーブルにトレイを置き、生乾きというよりほとんど濡れたままの漆黒の髪に紺のタオルのバスローブを羽織っただけのナルに、黒に紺のパイピングのパジャマを突き出した。
「着替えて。あたし向こうに行ってるから」
「信用がないな」
「あるわけないでしょ。ベッドに入るまでは見届けてくよ。キッチン片付けてくるから」
 麻衣は答えを待たずに部屋を出て、キッチンに戻った。使ったままのワインとスパイスを片付け、鍋を洗ってこれも片付ける。シャワールームと書斎の電気が消えているのを確かめてからベッドルーム前に戻り、ドアをノックした。
「ナル?着替えた?もういい?」
「いい」
 短い答えが返って、 麻衣は扉を開ける。パジャマに着替えているのに安心して、麻衣はナルにベッドに入るように促した。
「ベッド入って。風邪引くから。それとこれ、ホットワイン」
 抵抗せずベッドに入った彼に、ホットワインのグラスを押しつける。
 溜息をついたものの抵抗せずそれに口をつけたナルは、軽く目をみはった。
「あ、驚いた?」
 麻衣がくすりと笑う。
「ルエラに教わったんだ。今まで作るチャンスなかったけど。馴染みあったほうがいいでしょ」
「………そうだな。…………麻衣は飲まないのか」
 黒い瞳はもう一つのグラスをとらえていて、麻衣は首を竦めて手を伸ばす。ベッドの端に腰を下ろして、あたたかいワインに口をつけた。アルコールはだいぶ飛んでいるから、さほどお酒に強くない麻衣でも飲める。
「あ、おいし」
「…………味見もしてなかったのか」
「だってあたしお酒弱いし。ルエラのレシピなら確かだから、大丈夫と思ったんだよ」
 わずかに憮然とした彼女に、ナルは軽く笑った。
「この上酔っぱらったら大変だからな」
「そう。それにルエラ料理上手だし」
「それはそうだな」
 ナルの返答に、今度は麻衣が笑った。
「ナルって、ルエラについてはすごい素直だよね。マーティンにもだけど」
「…………何か悪いことでも?」
「ううん」
 首を振って、彼女は笑う。
「いいと思う♪」
 空になったグラスが、トレイに戻される。
「じゃあナル、おとなしく今夜は寝てよね」
 立ち上がりかかった麻衣は、腕を掴まれて驚いて彼を見上げた。
「ナル?」
「帰るのか?」
「帰って寝ろって言ったの、ナルでしょ?」

「…………ひとりで?」

 ごく低いひとことが、ひどく重く二人の間に落ちて、麻衣は口を噤んだ。
 琥珀色の瞳に複雑な彩が交錯して、それから、溜息のように苦笑が漏れる。
「見抜くのはいいけど。………やなこと言わないでよね」
 悲しみの渦巻くあの場所にいたときの、どうしようもない恐怖と、引きずられた感情は、刻み付けられたかのように身体に残っている。今、ひとりになりたくないのは真実で、それだけにどうしようもない。
「………怖かったよ。ホントのこと言えば、今はあんまり一人になりたくない。………でも、仕方ないでしょ?」
 無理にでも寝てしまえば、いい。そう思って、催眠薬は貰ってきた。幸福な微睡みは望めなくても、それでいい。
「あたしのことより、ナルは寝て。ろくに寝てないんだから、今度こそ倒れるよ」
 ナルは眠れるんだから。
 そういって苦笑した麻衣は、自分をとらえる腕を解こうとして失敗した。
 闇色の瞳は深く、ふかく自分をとらえていて、逃げられなくなる。
「…………ナル?」
「ここにいればいい」
 ごく低く。
 ひどく抑制された声が、耳に韻く。
 意味を取り損ねて、麻衣は瞳を瞬いた。
「ナル?」
「ここにいればいい。夜、一人になりたくないなら」
 冷たい、美貌。
 表情のどこにも艶めいたものはなくて、ただその漆黒の瞳の色だけが、感情をつよく搦めとる。
 答えられない麻衣を、ナルの腕が動いて、引き寄せた。頭が空白のまま、抵抗もなにも動けない彼女の身体を、ベッドの上に引き上げる。
 近くなった距離をさらに埋めるように、まだ冷たい黒い髪が、麻衣の頬に触れて、そこから首筋を滑り落ちる。
「ここにいれば、悪夢には捕まらない。………捕まらせない」
 近い、温もり。
 穏やかな鼓動が確実に伝わってきて、麻衣は目の前の肩に顔を埋めた。
「…………おかしいよ、ナル」
「何が」
「言ってることが。らしくなさすぎ。…………なんでそんなふうに優しくするの」
「優しいか?」
「優しいよ。………あたしがあんなところに捕まったのは。自業自得だと思ってるし、ナルだってそう言ったじゃん」
「違うのか?」
「違わないよ。だからおかしいって言ってるんじゃん。………あたしが、自分のせいで、こうなってるのに。あたしのせいで、ナルだって休めなかったのに」
「麻衣が巻き込まれたことと、僕の状態とは関係ない。巻き込まれた原因は反省すればいいが、その影響までは麻衣には関係ないだろう」
「背負い込む、つもりはない、けど………」
 麻衣は闇色の瞳を正視できずに目を伏せる。
 腕をとらえた手は全く緩まなくて、身じろぐこともできない。
「でも、あたしのせいだから………。あたしのせいで、綾子にもほかのみんなにも、ナルも迷惑かけて………ジーンまで呼び出させて。…………ナル、ジーン呼び出すの、本当はしたくないでしょ?」
 使えるものは使うといいながら、死によって分たれた片割れを呼び出すことを、ナルが決して歓迎していないのを知っている。できればそのまま光の中へ向かってほしいとその心の深層で願っているのを、多分麻衣がほかの誰よりも誰よりも知っている。
「使えるものを使っただけだ」
 言葉にはしなかった想いも読み取ったに違いないナルは、ただひとことで返して、腕を掴んでいた手を離して、その手で俯いた麻衣の顔を上げさせる。

「麻衣の、望みは?」
 白い手の甲を、淡い色彩の髪がこぼれて落ちていく。
 ごく抑制された声は、なきたくなるほど穏やかに心に浸透して、麻衣は目を伏せた。
「ナル、やっぱり寝不足でおかしいよ」
「たいした睡眠不足じゃない」
「でも疲れてるでしょ。………甘やかすと図に乗っちゃうよ?」
 周囲の年長組がどれほど甘やかそうとしても、甘えるのが誰より下手な少女は、滲んだ涙を隠すようにして目を閉じる。漆黒の瞳も、整いすぎた白皙も、遮断する。
「別に甘やかしているつもりはないが」
「じゃあ、これ、なんなの」
「僕がしたいようにしている。それだけだ」
 ひどく凪いだ声がかえって、麻衣は瞳を見開いた。

 したいように。
 望むことをしている。
 その意味は、説明されなくても、解る。

 麻衣の手が、ひどくゆっくりと、何かを怖れるようにナルの背を辿っていく。肩に埋めた顔をずらして、腕の中に華奢な身体を預ける。
 その温もりをうけとめて、漆黒の青年はゆっくりと少女の身体を抱き締めた。
「眠ればいい」
「ナルは?眠れるの?」
「眠れる」
「あたしがいても?」
「………一人よりは」
 返ってきた思いがけない答えに目を瞠って、麻衣は小さく笑った。
 引き寄せられるまま、ベッドに身体を横たえて、温かな腕の中で目を閉じる。
 ナルは毛布をかけ直してからサイドテーブルのリモコンであかりを消し、そして目を閉じた。

 つつみこむ、あたたかな、やさしいぬくもり。
 伝わる、鼓動。
 誰よりもそばにいることに、そこにいることに安堵する。

 訪れないと思っていた、優しい微睡みのなかで。
 あまくやさしい夢を見る。





 当初はオフ本「雛戯」通販ペーパーにつけるSSSのつもりでかきはじめたら何故かおとまり事始めなSSになってしまいました(爆)………頭にあると駄目ですねー。あう。←ノーコンとも言うな。
 そんなわけで「お泊まり(ただの)」事始めです。博士疲れてて理性の糸が綻びてます。……綻びて添い寝って男としてどうなのかという突っ込みはおいといて。(そして草葉の陰で「なにやってんのさー!」と突っ込んでるであろう兄もおいといて。(………)翌朝が楽しみ(何が)な展開でございました(合掌)
 ちなみに、「雛戯」本編との関係はほぼありませんので、読まれていなくても全く平気と思います。序章にちょこっと伏線はってあるけど大したことはありません。
2005.5.15 HP初掲載
 
 
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