意識を占領した緑のイメージ。
驚愕。
そして───────。
精神が墜落するような、絶望。
おもわずベッドから身を起こしたナルは冷たい汗が流れるのを感じて唇を噛みしめた。
無意識に手を握りしめる。
傍らから温かな手のひらが伸びて、震える手に触れた。
「ナル‥‥‥‥‥?」
優しい声に、強ばっていた身体から力が抜ける。
薄い闇に浮かび上がる自分を見上げる琥珀色の瞳と、やわらかな温もりを感じてひどく安堵した。
彼女の額に軽いキスを落として身を横たえると、彼は上掛けを掛け直し、華奢なやわらかい、温かな身体を抱き寄せる。
大切な存在の、ぬくもり。
触れたところから伝わる、鼓動。
胸に触れる、やわらかな吐息。
何もかもが泣きたいほど愛しくて、囁く。
「麻衣‥‥‥‥‥‥‥」
「どうしたの?」
優しい問いかけに、無意識に彼女を抱き締める腕を強める。
「嫌な夢でも見たの‥‥‥?」
「ああ‥‥‥」
溜息のような答えに何を感じ取ったのか、麻衣はナルの胸に顔を埋めて囁く。
「大丈夫だよ。ここに、いるから‥‥‥‥‥そばに、ずっと、いるから」
彼女の言葉に答えは返らない。ただ、抱き締める腕が僅かに強まる。
麻衣は彼の背に腕を回してもう一度囁いた。
「眠って‥‥‥‥‥‥?もう、大丈夫」
根拠はない。
けれど、彼はひどく安堵して、しずかに瞼を落とした。
「まどか」
白い闇。
その中で、よく知った声をかけられて彼女は驚愕した。
振り返った先で微笑む、漆黒の髪、漆黒の瞳の美しい少年。
見慣れた同僚の、数年前の、姿。けれどその柔らかい表情は彼のものでは、ない。
「‥‥‥‥‥ジーン?ユージーン、なの?」
「そうだよ。久し振りだね」
やわらかな、優しい微笑み。まどかは混乱する頭を抑えて、深呼吸した。
「ほんとに、久し振りね‥‥‥‥でも、どうして」
ジーンは、疑問には答えず、困ったように笑った。
「ごめんね、まどか」
「別に悪くはないわ。ちょっとびっくりしたけど」
まどかは笑う。
懐かしい、ユージーン。
逢いたい、と、思っていた。
「何か、理由があるんでしょ?」
「うん。ナルのことで」
困ったような、微笑み。まどかは笑顔で促す。
「何?私にできることかしら」
「うん。‥‥‥‥‥最近、ナルが僕のことをサイコメトリしたときのことを、頻繁に夢に見てる」
ジーンのことをサイコメトリしたとき。ナルが見たのは、緑のイメージだった。
緑のイメージ─────────それは半身の喪失という、事実。
すぐに探すと言ったナルは、それを解剖目的だと自分で納得していたが、彼らの保護者をそれぞれ自
任していた大人たちには分かっていた。
間違えたことのないサイコメトリの結果を、彼は信じたくなかったのだ。
どうしても。
「ジーン‥‥‥‥‥」
翳ったまどかの瞳に、ジーンは笑った。
「気にしないで?もう何年も前のことだし。僕がこんなとこにまだいるのは、あの研究馬鹿な片割れが心配だから、だよ。まったく、ナルと来たら、信じられないよ。いくらなんでもあそこまで馬鹿だとは思わなかった」
冗談めかしたような言い方は、ジーンのいつものやり方だ。
あの天才博士をここまで遠慮なく馬鹿と呼べるのは、この片割れくらいのものだろう。
まどかはくすくす笑う。
「相変わらずね、ジーン。‥‥‥‥でも、ナルが今頃そんな夢を見るのは、自分の感情に着せてたごまかしが、とれてきたからじゃないの?」
双子の片割れを、半身を失った絶望を、ようやく受け入れることができるようになったからでしょう、と言うまどかに、ジーンはくすりと笑った。
「うん。‥‥‥ナルが、そういう夢をみるのは、決まって麻衣が傍にいるときなんだよ」
まどかの思考が凍り付いた。
麻衣が傍にいて、眠っているとき?
しかも、そういう夢を「頻繁に」見ていると言わなかったか?
ジーンはまどかにかまわず続ける。
「麻衣がナルの心を癒してくれているから、そうやって僕のことを見れるようになってきたのにね。だけど、そんなことにすら気付かずに、麻衣を失う予兆じゃないかとか馬鹿なことを思ってるようじゃ、麻衣もかわいそうだ。いい加減にして欲しいよ、全く。こんなんじゃいつまでたってもあっちに行けない」
「ちょっと待ってちょうだい、ジーン。ナル、麻衣ちゃんと一緒に寝てるの?頻繁に?」
「うん」
こともなげに肯定が帰ってきて、まどかは宙に突っ伏した。
「いつの間にそんな関係に‥‥‥‥‥‥‥」
呟いたまどかに、ジーンは苦笑する。
「それがねえ。それも大問題なんだよ」
「え?」
「単に、一緒に眠ってるだけ。‥‥‥‥‥問題だと思わない?子供じゃないんだから」
溜息をはさんで、言葉が続けられる。
「ナルは麻衣を愛してる。それも、真剣にね。でも、彼女には触れられないんだよ。あれじゃ、麻衣だって複雑だと思うんだけどね‥‥‥‥‥。とにかく、さっさと僕のことは綺麗に乗り越えて欲しいんだよ。でも、さすがに麻衣には言えないし」
理由は分かっている。
片割れの死を乗り越えない限り、ナルの心はバランスがとれないままだ。
苦笑したジーンに、ようやく立ち直ったまどかが確認する。
「つまり。ナルにあなたのことをきちんと整理させる機会を作ってやれってことね?」
「そう。まどかが一番適任かと思って」
「いいの?ジーン」
ジーンはやわらかく笑んだ。
「うん。麻衣がいるから。ちゃんと幸せになってくれるって確信できたから」
たった一人の、肉親。
大切な、かけがえのない半身。
誰よりも愛していた。
「本当に、僕たちにとって麻衣は奇蹟なんだよ、まどか。ナルも、僕も、お互いしか持ってなかった。精神的には不健康なくらいに、お互いだけに依存していた。逆に言えば、他には何も要らなかった」
まどかは目を見開く。ナルには確かにそんな傾向はあったが。
「ジーン、あなたはでも」
「違う。みんなそう見てた。だけどね、僕もナルとあまり変わらなかったんだよ。ナルは、PKとかサイコメトリとかいう、まあ、現実的な力があったから、他人と接触するのを嫌がった。実際、特にサイコメトリの問題は大きかったしね。‥‥‥けれど、僕の場合は、そういう能力はなかったから。霊視能力は、現実に存在する人とはあまり関係ないからね。だから、現れた性格はかなり違ってたと思うけど。でも、僕にとって必要なのはナルだけだった」
「ジーン‥‥‥‥‥‥」
ジーンは困ったように笑う。
「ナルは、自分のサイコメトリを半分疑うことで、探しに行くっていう目的をとりあえず作ることで、自分を守った。‥‥‥‥‥残ったのがもしも僕だったら、多分確認した時点で壊れてた。ナルが壊れなかったのは、ただ、僕を見つける前に“麻衣”に出会ったからだよ。だからこそ、壊れないですんだんだ」
麻衣は、夢に現れるジーンというきっかけがあったにせよ、肩書きも能力もかかわりなく、氷の刃のような毒舌と永久凍土のような壁をつきぬけて、ナル自身を見てくれた。
「嬉しかったよ。不思議とね、ナルをとられる、とかは思わなかった。‥‥‥‥‥まあ、不幸な誤解はあったから、それについては申し訳なかったけどね」
ジーンはくすりと笑う。
そして、その、弟に比べれば幾分やわらかな漆黒の瞳でまどかを見つめて、続けた。
「僕は何よりもナルが大切なんだよ。そして、麻衣も大切だ。‥‥‥‥ようやく僕に囚われて凍ってたナルの心が、麻衣に向こうとして融け始めてる。でも、ナルは多分、僕に囚われていた分の心まで、麻衣に向こうとしていることに無意識に負い目を感じてるんだ」
「不健康なっていうのは、そういう意味ね?」
「そう。お互いに、独占欲が強すぎた。‥‥‥‥‥まあ、それが麻衣に向くと、ね。ただでさえ、ナルの麻衣に対する独占欲って強めだと思うんだけど」
苦笑したジーンに、まどかは否応なく頭痛がするのを感じた。
「ちょっと、まって。あれより強くなるの?」
「たぶん、ねえ。‥‥‥‥‥‥‥麻衣は、女の子だから」
心も、身体も、すべて何もかも取り込もうとするだろう。
彼女に奪われた心は、それほど強く深い。
それにブレーキをかけているのは、ただ一つ、失われた半身の存在だけだ。
「はた迷惑だと思うんだけど」
「まったくだわ‥‥‥‥‥‥」
思わず呟いた言葉に、ジーンは笑い出す。
やわらかな笑顔は、彼の生前よく見たものだ。
「でも。僕に囚われているよりは健康的、でしょ?まどか」
「まあ‥‥‥‥‥確かね」
「麻衣は、僕たちに波動が近い。だからこそ僕たちの間に入り込めた、大切な子なんだ。‥‥‥‥もしも、彼女を失ったら、ナルは今度こそ壊れる。ショックは僕の時より大きくなる」
強大なPKが“壊れた”ら、どうなるか。
先例がないから推測することしかできないが、できれば避けたい事態だろう。
それでなくとも、ナルはナルとして大切なのだ。
「大丈夫よ、ジーン。麻衣ちゃんのことは、みんなが守るわ」
「うん。‥‥‥‥‥でも、問題なのは、僕の時と違って、麻衣の心が他の人を向いても、同じだってことなんだよ。麻衣の心を束縛したくはないけど、でも、そんなことにならないうちに、僕からナルを解放してあげたい」
ただ、願うのは一つだけ。
たった一人にしてしまった半身の、幸福。
「だから、まどか」
彼は続ける。
「僕が希うのは、ただ、僕の半身が、ナル────オリヴァーが、誰よりも幸せになってくれること。そのために、ナルが持っている僕に対するこだわりを、解いてあげてほしい。そうすれば、彼は自分で自分の大切なものを、見つけるから。そうすれば、必ず、心をすべて彼女に向けることができるから。─────そうしたら、僕は向こうに行ける」
ジーンは微笑んだ。
真摯な表情はそのままに、透明な美しい瞳は聖性さえ宿して。
「ナルを一人残してしまった自分を、赦せるから」
呟くような声は、それでも痛いほどほど真剣だった。
まどかは締め付けられるような胸の痛みを感じて唇を噛む。
にじむ涙は抑えることが出来ない。
それでも彼女は微笑んで、ジーンを見つめた。
「分かったわ、ジーン。できるだけのことはする。だから、どうか安らかに」
眠って。
祈るように、囁くように付け加えた言葉。
ジーンはふわりと微笑む。
「ありがとう。ごめんね、まどか」
「私こそ、ありがとう、ジーン。私を信じてくれて」
「‥‥‥‥‥まどかも、僕の大切なひとだよ。‥‥おやすみ」
美しい少年は微笑んで、まどかの頬に掠めるように親愛のキスを残すと、白い闇に溶けるように────。
消えた。
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