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窓外の浮き足だった喧噪までは届かなくても、 穏やかな陽射しは降り注ぐ。 春の気配というものは独特で────気分が浮き立ったかと思うと、睡魔に忍び寄られたりする。ふわふわと心地よい空気に身を任せたいという甘い誘惑との葛藤は、結構厳しい。春もたけなわとなればなおさらだ。 「あ、所長」 かちゃり、という扉の音と同時に、同僚の声が上司を呼んだ。 半分意識を遊ばせていた麻衣は現実に引き戻されて、慌ててモニタに集中する。 オフィスに出てきた美貌の青年は彼女の慌てた動作を綺麗に無視して、凪いだ漆黒の瞳を年上の部下に向けた。 「………何か?安原さん」 「ちょうどいいところに。ちょっと待って下さいねプリントアウトしますから」 「……プリントアウト?面白いメールでも来ましたか?」 皮肉の混じった冷えた声に、安原は衒いもなく笑ってみせる。 「はい♪ご名答です」 ナルは軽く息をついて、自分のデスクに張り付いたまま気付かないふりを通している麻衣に視線をすいと滑らせた。 「暇そうですね、谷山サン?」 「そんなこと!」 ぶん、と振り向いたその勢いのまま否定しかけた麻衣は、ふ、と言葉を飲み込んで切り替える。かるく傾げた頬に、淡い色彩の髪がさらさらとこぼれた。 「って、もしかしてお茶?」 「そう」 「はあい。すぐ淹れてきまーす」 立ち上がりながらキーを無造作にたたいて、保存が完了したことを確認してから麻衣はぱたぱたと給湯室に消えた。 待つほどもなくプリンタの作動音が止まって、安原はA4のプリントアウトを上司に差し出した。 「これです。どうぞ」 「…………」 「去年、調査した堀河さんからです」 「堀河さん?………桜ですか」 ほぼ一年前行った桜がらみの調査は、非常に珍しいケースだった上、平和な割に危機的状態に陥りもしたから記憶には強く残っている。 受け取ったプリントアウトにさらりと目を通したナルは、秀麗な眉根を軽く寄せた。 上司の表情変化は予測済みだったのだろう、安原は鉄壁の笑顔を崩さないまま言葉を重ねる。 「今年初めてあの品種の桜が全部いっしょに咲くからっていう、家族だけの花見の会への招待、てことですよね」 「それは読めば分かります」 「そうですよね。失礼しました」 慇懃に一礼した彼の笑みは崩れない。 ナルは白皙の美貌にやや皮肉めいた笑みを刻んだ。 「それで、何ですか?」 「これ、一応僕のアドレス宛に来てますけど、招待はどうみても谷山さんメインなんですよね〜。まあ、当然といえば当然なんですけど」 メールからは確かに、そういうニュアンスが伺えた。 安原のアドレスに来ているのは、調査当時の連絡を彼が受け持っていたからで、他意はないだろう。 「それも、読めば分かります」 「ええ。……で、多分彼女は行きたがると思うんですよね〜。僕」 一見何気ないように見える安原の笑みに、意味ありげな含みが加わる。ナルは軽く溜息をついた。 「………麻衣が行きたいというなら、僕は特に止めるつもりはありませんが?」 「彼女を一人で行かせるわけにはいかないでしょう?」 「安原さんも行かれますか?」 「それがですね。年度初めで大学の方が忙しくて、無理そうなんですよね。とても残念なんですけど。………ですから所長、行ってきて下さいね」 「………安原さん」 皮肉、というより疲労の色合いの濃い溜息に、安原は隙のない笑顔のままでさらりと応える。 「所長の言いたいことも分からなくはないですけど。でも、あなたが行かなければリンさんと谷山さんが二人で行くことになるんですよ?それも変じゃないですか」 松崎さんか原さんが、あの調査の時に参加していれば話は簡単だったんですけどねえ。 付け加えられた言葉は黙殺して、ナルは表情を動かさずに答えを返した。 「どちらにしても、招待を受けるかどうか決めてからの話です」 「お待たせしました〜。……なに?どうしたの?」 上司の言葉に応える前に高い声が重なって、安原はにこりと笑って同僚に目を向けた。 「ありがとうございます、谷山さん」 「いえいえ♪………なんで立ち話してるんですか?」 「ああ、ちょっとこのメールのことで」 彼が軽く指した紙片をちらりと見て、麻衣は軽く首を傾げる。 「……ナル、お茶どうする?話まだならここで飲む?」 「ここで。……お前も来い」 ほんの一瞬、白皙の美貌に苦笑が掠めた。 + 艶やかな、黒。 その、闇のような色に潜んだ、深い藍。 ひとり通された、一年前調査した部屋。春も盛りで、夕刻とはいえまだ充分に部屋は明るい。 促されて畳紙を開いたとたんに目に入った色彩に、麻衣は目を瞠った。 淡い琥珀の瞳を、穏やかに微笑む老婦人に向ける。 「香耶さん?これ………」 到着して一息ついた麻衣を、香耶は何もいわずにここに連れてきて、それをひらいたのだ。 皺の深い、けれど優しい笑顔のままで、彼女は丁寧な手つきで着物を取り出して広げてみせる。滑らかな絹地が、障子越しのやわらかな光を映して空気に馴染んだ。 「綺麗でしょう?」 「黒、ですか?……あ、もしかして藍色?」 「藍なのよ、麻衣ちゃん。………私は詳しくは知らないのだけれど、何度も染め重ねてこんな色を出したのでしょうねえ」 広げた着物にどこか懐かしげな眼差しをおとして、それから香耶は麻衣の華奢な手に、それを載せた。ひやりと滑らかな感覚に、少女の表情が一瞬だけ変わる。 その衣裳はほんとうに美しかった。 美しい綾地はぱっと見ただけでは黒に見えるからだろう、裏にはあかるい桜色を重ねて、肩から袖にかけて錦糸で桜の刺繍が施されている。 「去年、あれからねえ、咲耶さんのものをひとつひとつ見てみたのよ。いままでもひととおりお手入れはしていたのだけれどね、なんだかいけないことのような気がしていたものだから、あまり良くは見ていなかったの」 「この着物も、咲耶さんのなんですか?」 「そうなのよ。………でも、これは一度も袖を通していないの。仕付けもついたままだったしねえ」 「………覚えてるんですか?」 「ええ。………確か、布地を咲耶さんが気に入られたのよ。暗い色だけれど、あたたかくて綺麗に見えるとおっしゃって。でも、あのころにはもう枕も上がらないようなありさまで」 香耶の、おだやかな瞳がなつかしそうに宙をみつめて、言葉を継ぐ。 「咲耶さんは、綺麗ねって言われただけなのに、そうしたら伯母様───咲耶さんのお母様と久昭さんが、仕立てさせたの。帯や襦袢まで揃えてねえ……ほら、そっちの畳紙もあけてみてくれるかしら?それと、その桐箱もね、麻衣ちゃん」 「はい」 麻衣は素直に頷いて、香耶に振り袖を手渡して残りの畳紙の紐を解いてひらき、桐箱のふたを丁寧にあけて畳においた。 受け取った着物を衣桁に掛けてから華奢な少女の傍らに座り直した老婦人は、孫娘をみつめるように、優しく彼女の顔を見つめる。 畳紙には、ごく淡い黄色の長襦袢と、金襴の袋帯、そして桐箱には錦紗の帯揚げと紅の帯締めが納められていた。 「綺麗………」 殆ど無意識に呟いて、麻衣はうつくしい織物に手を伸ばし────ほんの僅かの隙をおいて、留めた。 躊躇いは、この衣裳の本来の持ち主に同調したという実績があるからではなかった。長い長い時を隔ててもこれほど美しいほど大切にされてきたものへの、懼れに似た感情が涌いた。なにか、触れてはいけないような、そんな気がしたのだ。 澄んだ琥珀色の瞳の翳りを捉えて、香耶はゆったりと微笑む。 「いいのよ、触ってみて。……実はね、あなたに着てみてほしいから出しておいたの」 「え!?」 「駄目かしら?本当に、咲耶さんも仕上がりをご覧になったくらいで手にも取られていないし、誰も袖を通していないのよ」 「でも。私でなくても」 「うちの孫たちは二人とも男の子だから着れないのよ。……もらって、とは言わないから、着てみせてほしいの。無理には言えないけれど」 「………咲耶さんは、嫌だと思わないでしょうか」 「まさか。きっと喜ばれるわ。………これもね、ご自分で着られないことは分かっていたのでしょうね、私に着るようにっておっしゃったくらい」 老いた、品の良い顔にやさしい笑みを浮かべて、香耶は麻衣の手を取った。 「だから、それを着て………あの桜にも、みせてくれると嬉しいわ」 「………はい」 + 夕闇に篝火が焚かれて、昇りはじめた月の朧な光に桜の花が浮かび上がる。 一斉に咲き揃った花を立ったまま見上げた漆黒の青年の白皙は鏡面のように凪いだまま、内面は映さない。 「ナル」 慣れた気配を感じるのと、聞き慣れた声が名前を呼んだのはほぼ同時だった。 表情を変えないまま振り返って、彼は軽く眉を寄せる。 「………その格好は何だ?」 「これ?」 くすりと笑って、振り袖の腕を掲げて見せる。 「綺麗でしょ?」 「………麻衣」 低い声に、ほんの僅かに不機嫌な色が混じったのを感知して、彼女はかるく肩を竦める。 「咲耶さんの、だって」 「……………」 言葉では何も返さずに、今度ははっきり眉を寄せたナルの腕に、麻衣は細い指先をかけた。 「大丈夫だよ?」 「根拠もないのに軽々しく請け合うな」 「だから。大丈夫なんだってば。………もう、容態が良くなかった頃に、咲耶さんのお母さんと久昭さんが、どうしてもって作ったんだって。でも、結局着れなかったって」 「……65年もしまってあったのか?」 「うん。そうみたい。…………でね、かわりに着てみせてって香耶さんに言われたの」 すんだ瞳に見上げられて、ナルは軽く溜息をついた。 身代わり、というほど香耶の意図は重くはない。そして、桜に集中していた咲耶の意識がこの衣裳に残っている可能性は限りなくゼロに近い。 「…………」 「………そんな溜息つかなくていいじゃん。問題なさそうだったし。一度も着てもらえないんじゃ、着物だって可哀相なんだもん」 「着物がか」 「うん。着物がっていうより、着物に込められた気持ちが、かな。咲耶さんは着てあげたかっただろうし、お母さんや久昭さんは着てほしかったと思う。………これが着れるくらい、良くなってくれることを祈ってたんだとおもう」 密やかに途切れた言葉が、ふわり、と空気を変えて続けられた。 「咲耶さんは、香耶さんに着てって言ってたそうなんだけどね。………久昭さんも、そうしてあげれば良かったのに」 そうすれば、悲しい想いに囚われずに、新しい花を待てただろうと思うのに。 花を見上げて呟いた麻衣に、ナルは一瞬躊躇って───低く答える。 ひどく珍しい逡巡に、彼女は漆黒の瞳に視線を戻した。表情は変わらないまま、視線が、絡む。 「久昭さんは、香耶さんを大事にしてたんだろう」 限界まで抑制した声が、降るようにひかるように咲く花の下で、確かに韻く。 「…………それはそうおもうけど、何でそうなるの?」 「その着物は、咲耶さんのために作ったんだろう?………彼女が快復することを祈って」 「うん。そう思う」 「……それを香耶さんに着せて、それで済ませてしまえば、香耶さんを咲耶さんの身代わりにしてしまうような気がしたんじゃないのか」 一字名前を同じくした、同じ年の従姉妹。 病弱な咲耶と健康な香耶とでは、受ける印象はまったく違っただろうけれど。 それでも、自分の許嫁を、亡くした妹の身代わりのようにしたくはなかったのだろう。 たとえ誰もそうとは思わなくても、自分が錯覚してしまうことが怖かったのだろうと、思う。 「そういうのって、身代わりとは違うと思うんだけどな」 「………人間というのは思い込みの強い生き物だからな」 死んでなお、その思いを空間に灼きつけたように遺すほど。 自嘲に近い皮肉めいた色が、闇色の瞳を染める。 その瞳を射るようにきつく見上げてから、唐突に表情を緩めて、麻衣はふわりと微笑んだ。 「うん、でもそれも悪いことじゃないと思うよ?」 「何故」 「………日本語に、いい言葉があるんだけど。知ってる?」 「は?」 「ものは言いよう考えよう♪」 「……………」 「思い込みって、確かにいいものばかりじゃないと思うけど、思いこむことで救われることだってあるでしょ?」 「楽観的だな」 「悲観的になったってメリットないでしょ」 にっこり笑って答えた麻衣が、一歩下がった。一歩分だけ距離をおいて、袖を拡げてみせる。 「綺麗でしょ?この着物」 「着物はな」 さらりと応えて、ナルは怜悧な美貌に鮮やかな笑みを刻んだ。 藍色の宵闇に艶やかな花が咲く。 朧な月と篝のひかりに照らされて、あわく開いた桜の花にあかりがともった。 |
季節的にはあんまり外してないはずなのに、最近の異常気象のせいで、馬鹿みたいに季節はずれな気がします(涙)ええと、ほぼ一年前にやってた連載「花待」のつづきっていう感じの内容です。藍さんが描いてくださったイラストイメージからの小説なんですが………おや?(滅)えっと。藍さんのイラストの方をご堪能くださいませ(平伏) 2002.4.27 HP初掲載
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