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天高く抜けるような秋の空。そしてあるいは、青天の霹靂。





 人間、やはりあまり変わったことはしない方がいい。
 いつも通りが結局一番なんだよね。

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 予想もしないくらい変わったことがあると、「青天の霹靂」という。
 霹靂というのは雷のことらしいから、要するに、天変地異が起こるということ。
 どう考えても、確かに雲一つない青い空に雷が鳴るのは異常だから。
 そういう巷間に膾炙した言いなしが多少大げさであるとしても、大怪我をするくらいのことは想定した方がいい。………まあ、実害というポイントで考えれば、青天に霹靂よりもいきなり大怪我の方がはるかに被害は大きいと思うけれど。

 状況にそぐわないようでぴったり来ることをひどく冷静に考えて、麻衣は溜息をついた。

 目の前の惨状には、もはや溜息しか出ない。
 綺麗にひかるステンレスのシンクに飛び散った真紅の血と、腕を伝う生ぬるい感触。
 血まみれになった左手の痛みは、まだ現実感がない。手と同じように血まみれになった栗をぼんやりと見やって、もったいないな、と半ば他人事のように考えてから、そのまま放置するには傷が深すぎることに思い至った。
 感覚が一時的に麻痺しているせいで痛みらしい痛みはないから、精神的な切迫感はない。
 けれど。
 小型のナイフがざっくりと手のひらを切り裂いていて、今は血が溢れて見えないけれど下手をすると骨に達しているかもしれない。肘からぽたぽたと滴り落ちるなま暖かい液体が気になったが、そうも言っていられない。
「まあいっか。あとで拭けばいいし……」
 血が固まる前に掃除できるかどうか。
 微妙な所は敢えて考えないことにして、麻衣はとりあえず救援を求める電話をかけるべくリビングに向かった。


 必要以上に周囲を汚さないように気をつけながら、電話帳のメモリ、トップに登録されている番号に電話をかける。
 コール数回で求める相手の声が返ってきて、彼女はほっと安堵の息をついた。


    +


 仕事柄、いつどんな怪我をするか分からないから応急処置の基本だけはきちんと把握している。
 まず傷口を圧迫して、出血している部分をできるだけ心臓よりも高い位置に置くこと。
 麻衣はポイントを頭の中で反芻して、手近にあったハンドタオルで傷を圧迫して、心臓よりも高い位置に掲げた。
 ただ、止血はきちんとできたわけではないらしく、滴り落ちた血で生成のコットンのシャツにいくつか赤い染みができている。命に関わるようなものではないけれど、出血量が多いせいか倦怠感が酷い。
 一時的に麻痺していた感覚が戻ってきたらしく、ずきずきと疼いて精神を苛む熱性の痛みはじわじわと強くなってくる。もう無視しがたい痛みに、麻衣は眉を顰めた。
「これは、ちょっと、痛い、かも………」
 独り言と同時に、意図しないまま白い貌に苦笑が浮かんだ。
 ハンドタオルは既に元の色の判別がつかない。吸収力の限界を超えたらしく、ぽたぽた落ちて染みを作る紅い雫の間隔は短くなってきていた。
「血、赤いよね………動脈切ったかなあ………」
 呟きに意味はない。これだけ出血が激しければ、動脈血であることは考えるまでもないのだ。
 わずかに血の気のひいた唇からまた一つ溜息が漏れたとき、インタホンの呼び出しチャイムが響いた。かちゃりと扉を開ける音がして、一瞬びくっと身を竦ませた麻衣は、その気配が知っているものであることをすぐに感知する。

 ───先刻の電話の相手は、きっちり伝言役を果たしてくれたらしい。
 ふわりと、可憐な貌が緩んで、澄んだ琥珀色の瞳が静かに扉を開いて現れた来訪者を捉えた。

「谷山さん?お怪我をなさったそうですが」
 低く抑制した声には気遣うような色が宿って、常よりもやわらかく響く。
 迷わずキッチンに入ってきた長身の同僚に、麻衣は力無く血まみれの腕を振ってみせて苦笑した。
「あはは。この通りです。ごめんなさい、リンさん。呼び出したりして」
「かまいません。……血まみれですが危険は?」
「大丈夫だと思う。手を切っちゃっただけなんだけど」
「………話は後で聞きます。取りあえず処置を」
「すみません、お願いします」
 麻衣は小さく頭を下げて、同僚の大きな手に華奢な手を委ねた。

「本当に、出血が酷いですね。傷が深い。………大丈夫ですか?寒気や吐き気はしませんか?」
「大丈夫!………多少の怪我は慣れてるし」
 調査関係でやむを得ず負ってしまう怪我の所為で、幸か不幸か外傷には慣れているから、よほどのことがない限りショック症状は出ない。
 おそらく誰が見ても大怪我とは縁があるようには見えないだろう華奢な少女の言葉に苦笑して、リンは手早く傷口を押さえて応急処置をすませた。
 肘の内側、止血点は圧迫したまま、手は離さない。
「とりあえず止血はしましたから、病院に行きましょう」
「え、でも」
「傷が深いですから、縫った方がいいでしょう。軽くふさいだくらいでは簡単に開きます。また出血しますよ」
 それに化膿したら厄介ですよ、と付け加えて、彼は少女の姿を見直して眉を寄せた。

 コットンのシャツはところどころ血に染まって、スカートにも数カ所赤い染みができている。怪我をしている左手の袖口は真っ赤になっている上に、七分袖から出ている細い腕にも血の痕がはっきり残っていた。
 あまりにも痛々しいが────そんなことよりも問題は、こんな様子の彼女を連れて歩いていれば、まず間違いなく警察に通報されるだろうということだ。

「………その格好では外に出れませんね」
「格好?」
 言われて初めて自分の姿を見返した麻衣は、澄んだ瞳を一瞬瞠って、呆れたように小さく呟いた。
「うわ。……警察に飛んでこられても文句言えないかも」
「ええ。どちらにしても着替えなければ」
「でも、無理だよ。大体、クローゼットまで血まみれになっちゃう」
「仕方ありませんね」
 溜息混じりの低い声が零れたが、それでもこの状態の彼女を外に連れ出すわけにはいかないことだけは確かだ。リンはそれほど間をおかずに言葉を継いだ。
「ナルがそのうち来るはずですから、待ちましょう。止血した状態なら何とか保ちます」
「ナル、来るの?」
 疑問というだけではない言葉のニュアンスを読みとって、リンはほんの僅かに微笑む。硬質の表情がかすかに緩んで、驚くほどやわらかな瞳が同僚の少女の色素のうすい瞳を捉えた。
「来ないと思いますか?」
「…………思いっきり呆れられたような気がするし」
 怪我をしたからリンさんを呼んで欲しい、といった麻衣に、彼はどうして自分でリンに連絡しないのかと反問した。頼みを受け容れることはしたが、玲瓏と響く低い声は常と変わらず冷然と凪いで、大丈夫か、という問いかけすらなかった。
 ナルに連絡を頼んだのは、ナルに怪我したと訴えたいと心のどこかで思っていたからかもしれないと今さらのように気付いて、麻衣は内心だけで苦笑する。
「仕事中だし。怒ってなかった?」
 問いを重ねられて、リンは端正な顔に苦笑を深めた。
「本人に聞いてください。私は、あなたが怪我をしたらしいから診に行けと言われただけですから」

「僕が怒る必要があるとは思えないが」

 突然頭上から第三者の声が降ってきて、珍しいことに気配にすら気付いていなかった麻衣は、驚いて顔を上げた。見慣れた白皙の美貌に出合って、綺麗な琥珀色の瞳をせわしく瞬く。
「ナル?」
 どこか、窺うような気配を滲ませた高い声は無視して、ナルは怜悧な瞳を部下に向ける。
「様子は?」
「傷が深いです。一応止血はしましたが、病院に連れて行った方がいいでしょう」
「その格好では無理だな」
 あっさり断じて、漆黒の青年は軽く溜息をついた。
 漆黒の視線を一瞬だけ座り込んだ少女に向けてから、扉にすいと滑らせる。
「……松崎さん」
「ほーら、女手が要るっていったでしょ?」
 ふふん、とどこか勝ち誇ったような艶のある声が響いて、ナルは微妙に視線を逸らした。
 美貌の青年には一瞥しただけで、綾子は座り込んだ麻衣のそばにタイトスカートの膝をついた。
「これは酷いわね」
「え?綾子も来てくれたの?」
「そう。この面々じゃ役にも立たないわよ。救急車呼んだ方がいいんじゃない?」
「それはやだ」
 細い眉を顰めて、案の定断固拒絶の構えを見せた麻衣に溜息をつく。
 予想通りとはいえ、現状を把握しているとは思えない。
「取りあえず麻衣、あんたはなにか上に羽織らないと外に出れないわよ。リン、車の用意お願い。ナル、あんたは麻衣のシャツかなにか持ってきて。それから準備ができたら麻衣に付き添ってってくれる?私はあんたたちが病院に行ってる間に片付けとくわ。このままほっといたら、血なんて固まっちゃって手に負えなくなるわよ」
「え、でも綾子」
「あんたはつべこべ言わずに病院に行く!」 
 立て板に水の勢いで分担をそれぞれに割り振った綾子の視線には反論の余地がまったくなかった。かろうじて反論しかけた麻衣の言葉も一言できりかえした彼女に、後の二人が逆らえるわけがなく、軽い溜息が空間に落ちる。
 もともと反論するような種類のことではないし、敢えて反対する理由もない。
 リンは軽く苦笑して部屋を出ていき、ナルはそのまま麻衣の部屋に向かった。

 動けない少女だけが、リンに指示された止血点を圧迫したまま床に座り込んでいる。
「でも、せっかく栗剥いたのに………」
 トーンダウンした少女の瞳が、シンクの上のざるの、無事なままの栗の山を見やって、溜息をついた。その視線の先を追いかけて、綾子は手際よく床を片付けながら、ちらりとざるの中身を確認した。
「栗?あんた、栗むいててそれやったの?」
「うん。固かったから……ちょっと失敗した」
「…………何がしたかったわけ」
「栗ご飯。作りたかったの。…………栗、あとちょっとで全部剥けたのにな」
 麻衣の言うとおり、鬼皮のついたままの栗は、あと五、六個を残すだけになっている。後少しだ、と気を抜いたのが怪我の元になってしまったということだろう。
「まあ、よく頑張ったわよ。このままほっといたら栗使えなくなっちゃうから、つくって置いてあげようか?栗ご飯」
「……………うん。ちょっと悔しいけど」
「また、栗の剥き方から教えてあげるわよ」
 宥めるように苦笑して、綾子は麻衣の顔を覗き込んだ。
「でも、なんだってまた栗ご飯なんて作ろうと思ったの?」
「………買い物行ったら栗が安かったの」
「で?」
「おかーさんが、秋になると休みの日に、作ってくれたなって」

 旬などというものがなくなった日本という豊かな国でも、果物は辛うじて旬のかおりを保っている。
 スーパーで、艶やかな焦げ茶の「秋の味覚」が赤いネットにつまっているのを見かけて、懐かしくなって買ってきてしまったのだ。もうおぼろになりかけて、けれど記憶に焼き付いた母の作業を思い出しながら、固い栗と格闘していた。
 はじめての作業は簡単ではなかったけれど、楽しかったのだ。

「はじめてだったの?」
「うん」
 高校生の頃の下宿のキッチンは狭かったし、簡単なものしか作らなかった。いろいろ作ってみるようになったのは最近になってからだ。………別の目的もあるとはいえ。
「ちょっと無謀だったわね。………今度教えてあげるから、今日の所は私が作るので我慢しなさい」
 軽く溜息をついて、綾子は麻衣の栗色の───ステンレスのシンクにころんと転がった栗よりはいくらか淡い色彩の頭をぽんと撫でた。
「いい?」
「うん。………ごめんね。ありがと」

 こくんと頷いた彼女の肩にコットンのシャツをぱさりとかかる。
「行くぞ」
「え、ちょっと待って」
 戻ってきた漆黒の青年は立ち上がろうとして一瞬ふらついた華奢な躰を受け止めて、問答無用で抱き上げた。
「ナル!」
「この上捻挫でもしたいのか?」
「歩けるってば!!」
「麻衣、諦めなさい。この場合はナルが正しいわ」
「……………綾子〜〜〜〜」
「栗ご飯はつくっといてあげるからね。ついでにおかずも作っておくわ」
「…………」
「ナルも食べるのよ?」
「………松崎さん」
「反論は認めないわよ。どうして麻衣がこんな怪我してまで、慣れない栗ご飯なんて作ろうとしたと思うの?」
「知りませんね」
「綾子!」
 さらりと黒髪をかきあげて、問いかけた言葉には同時に答えが返ってくる。
 凪いだ白皙と、明らかに動揺した少女の貌。
 対照的な二人の表情を見比べて、綾子は嫣然と笑った。
「まあいいわよ。行ってらっしゃい。これ以上傷物にならないように気をつけなさいね」
「綾子!」
「うるさい、麻衣。……松崎さん、片づけはお願いします」

 冷えた声で腕の中の少女を黙らせて、漆黒の一瞥で綾子を捉えると、美貌の青年は部屋を出ていった。

 怪我は数針縫えば済むだろう。
 輸血の必要があるほどの出血ではないから、貧血が収まるまで寝かされるとしてもそれほど長い時間はかからない。二時間もあれば戻ってくるだろう。

 麻衣はきっと「秋の味覚」をあの美貌の青年にも感じて欲しかったのだろうけれど。
「ちょっと修業が足らなかったわね」
 呟くように苦笑して、綾子は散らばる血痕の掃除に取りかかった。




 去年の秋、栗ご飯を作ろうとして手をざっくりやりました。腕を流れる血の感触について某チャットで盛り上がり、栗ご飯ネタで書こう!と半ば冗談で盛り上がりましたが、去年の秋は少々多難で(………)この話は書きかけのままお蔵入りしていました。
 そして今年。先週になりますが、栗ご飯を作りました。………栗を剥いているときではなく、余った栗を焼き栗にして、それを食べようとしてナイフを入れて、またざっくり指を切りました……(遠い目)
 学習能力がないとあちこちで笑われましたが。自戒を込めてアップしたいと思います。内容なくてごめんなさい。………そしてみなさん、刃物の扱いには気をつけましょう…………。
 削除しましたが、15万ヒットお礼企画で再掲載。
2002.11.2 HP初掲載
2003.8.24再掲載
 
 
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