back to novel_index |
back to index |
散ることさえ許されずに、ただ、時に身を任せて色褪せる。 雨に濡れて青く輝いていた花が、強すぎる夏の陽光に晒されて、熱気に沈む。 やわらかく吹く風に散る桜花よりも儚く。 常に変わらぬ緑を纏う常緑の森よりも靱く。 風にしなる柳の枝のように従順に。 花の色は醜く潔く、時を受容していく。 盛りの頃の、あまりに鮮やかに希有な色彩の代償のように。 + 空から照りつけて、ガラスの多いビルの壁面に反射する攻撃的な陽光と、アスファルトから立ち上り停滞する熱気。 思考回路を溶解するような暑さの中では、濃厚な陽炎を隔てて喧噪さえどこか遠くなる。口を開くことさえ億劫になっては会話も続かない。 「もう、こんな季節なんですわね」 「こんな、ですか?」 翠の紗に木の葉が透かし織りされた単の着物に、白い日傘。見た目は涼しげでも、暑いことにはかわりない。 ただ、足元を見るともなく見ていた真砂子は、視線の先に深い緑の影をみつけて、口を開いた。 随分長くおりていた沈黙の帳を破って独り言のように零れた呟き。 その声音がどこかいつもと違う気がして、安原は傍らを歩く黒髪の少女の、黒曜石の瞳の先を辿る。 そのまっすぐな視線の先に、紫陽花の花があった。氾濫している西洋あじさいではなく、都心部では珍しくなってしまった小振りの和紫陽花の花が、散ることもなく色褪せて枯れていた。 晴天の陽射しの中で、夏の鮮やかな色彩の中で、空に戻った青の代償のように色を失った、花。 「あの、紫陽花ですか」 「そうですわ」 「………散らずに色が褪せるものなんですね」 「まあ、意外ですわ。ご存じありませんでしたの?」 「天才安原、意外な盲点でした。修業します」 彼らしいふざけた物言いに、真砂子は僅かに綺麗な瞳を瞠って、そしてくすくす笑いだした。 知らないことがある、というのが意外だったけれど、いくら博識な彼でも何もかも把握しているわけではないのは当たり前だ。 知識の絶対量では確実に安原の上をいくだろう彼の上司が同じことを知らなくても多分驚かないのに、人間が他人に持つイメージというのは面白い。 「正確には、あれは花ではないそうですわ。あたくしも知らなかったのですけれど」 そう、口に乗せてから。 そう言ったのが、他ならぬ安原の上司だったことを思い出して、真砂子は内心だけで苦笑した。 知らないのか?と揶揄するように冷然と響いた声のトーンまで、脳裏に鮮明に蘇る。 その言葉が向けられたのは、自分ではなかったけれど。 美しい少女の黒玉の瞳が、自嘲の色に翳る。 同じ漆黒の色合いでも上司のそれとは全く印象の違う綺麗な瞳から表情を読みとって、安原は僅かに眉を寄せた。それでも、敢えて表情を変えないまま、感心したように眼を瞠った。 「ああ、そう言えば、オフィスに紫陽花を持ってきて頂きましたね。ちょうど、紫陽花の花が綺麗な頃に」 「そうですわ。梅雨時でしたから大分前ですけれど」 「そういえば谷山さんがメモを片手に一生懸命世話をしていた覚えがあります。世話、難しいんですか?」 「ええ、そのままではすぐに枯れてしまうんです。簡単な作業ですけれど特殊な水切りが必要なのですわ」 水揚げの悪い紫陽花の花は、水切りをしてやらないとあっという間に萎れてしまう。しかも茎を切るだけでは水は上がらない。数時間で重い花首はぐったりと垂れ下がる。だから、親切な店員に渡されたメモを麻衣の手に渡していったのだ。 「盛りの頃は、水の華、そのものだと思いますのに、この季節の紫陽花は………なにか、違うもののように見えます。痛々しいようで……」 抑えた、澄んだ声が言葉を紡ぐ。 いたみを含んだような黒い瞳が、一瞬強く花の上で止まって、それから長いまつげを伏せた。 ゆっくりと、歩き出す。 日傘を差し直した白い手が、避けきれない陽光に透ける。 「……確かに、美しくはありませんけれど」 みどりをのこした土色の花のたわみを振り返って、安原はわずかに足を速めて少女に追いつく。 細い肩に触れることも、揺れる袂を引くこともない。 「潔い、と僕は思います」 「………安原さん?」 一瞬の間をおいて、青年を振り仰いだ少女の、みどりの黒髪が肩の辺りで揺れた。 美しい人形のような表情に、驚きの波がはしる。 意外な、という真砂子の表情に頷いて、眼鏡の奥の知的な瞳が穏やかな色を宿した。 「桜のように、一気に散るのも潔いと思います。椿みたいに、まだ色も鮮やかなうちに首から落ちるのも潔いでしょうね」 「そうですわね」 いさぎよさ、ということばは、桜の散り際に喩えられることが多いのは事実だ。 雪白に首ごと落ちた赤い椿も、潔さを連想することも事実。 「でも、ああいう、老いて衰えるまで毅然と在るのも潔さだと僕は思いますが」 色が残るうちに、散らすこともない。 散らない想いを、無理に散らすことはない。 「それも、そうですわね」 独り言のような少女の呟きを優しい瞳で見守って、それから安原はいつもの調子で、ところで、と言った。 空気が、切り替わる。 隔絶していた真夏の陽炎が、身近に戻ってきた。 「花じゃないって言うのは知りませんでしたけど、あじさいの学名なら知ってますよ」 「…………ちょっと偏ってません?」 あきれ果てたように、みどりの袖口で口元を覆った真砂子は、かるい溜息をついた。 ────知識の偏り加減は、彼の上司も彼も、実は五十歩百歩ではないだろうか。───自分たちとはレベルが違うとはいえ。 「たまたまです」 悪びれず断言した安原は、そんなことばかりですわ、と呟いた真砂子の声は聞こえなかったことにしたらしい。 「hydrangea………水の器、という意味のギリシア語から来ているそうです。………水が枯れても、また水を湛えれば、色を集めて咲きますよ」 「色を集める?」 「はい。日本語の、あじさい、という語源は、藍を集める、という意味からだそうですから」 にこりとわらう。 その表情に、ほんの数刻前までの、珍しいほど真摯な空気はどこにもない。 「…………紫陽花の花から、ちょっと話がずれたようですわね」 「そう思われるならそうなんでしょう」 躊躇いも衒いもなく返されて言葉に詰まった真砂子の先に、見慣れた建物が姿を現した。 「着きましたよ。……谷山さん、いるはずですから冷たいお茶、淹れて貰いましょうね」 「………見はからいましたわね?」 「気のせいでしょう」 鉄壁の笑顔を睨むように見上げて、そして真砂子は表情を緩めた。 人形に生気が宿るように。 完璧な彫塑に息が吹き込まれるように。 穏やかに、微笑んだ。 「ありがとうございます」 「………いえいえ」 一瞬息を呑んだ安原は、瞠った目を微笑みに変えて、応えた。 今が盛りの夏の陽射しは、つよい。 涸れたばかりの水の器に、ふたたび命の水が満ちるときはまだ遠いけれど。 色褪せた花は還って、そして。 陽の名を冠した水の華が、咲くだろう。 |
サイトを十日あまり一時閉鎖させていただいてました。ご心配下さった皆様、恩を仇でかえすよーな話でえらいすみません(爆破)………なんだって私の話ってこう抽象的なのが多いんでしょうかねえ?(お前が聞くな)感想でもお叱りでも、頂けると嬉しいです。………精進しますので見捨てないでください(汗)読んで頂いてありがとうございました。 2002.7.25 HP初掲載
|
back to novel_index |
back to index |