所長室の扉を開いて、玲瓏と韻く低い声が、オフィスにいるはずの少女の名を呼ぶ。このオフィスに少女の明るい笑顔を彼が置いてから、数年の間、彼女が居る限り一日数度は必ず繰り返されてきた、日常。
「麻衣、お茶」
殆ど条件反射のようだと言ったら、漆黒を纏う美貌の青年は、その秀麗な眉を顰めるだろうが、確実にそれに近いほどに慣れた言葉の連なりに、これもまた反射的に返されるはずの澄んだ声は、返らなかった。
「………麻衣?」
「…………あ…………」
確実に存在する、慣れた気配を狭いオフィスで辿るのは容易なことだ。
ゆっくりと歩み寄ったソファのクッションに華奢な身体を預けた少女は、名前を呼ばれて閉じていた目を開けた。
茫洋とした微かに潤んだ瞳が、上司の白皙を認めて、慌てて起きあがろうとして。
─────華奢な身体は力無く、クッションの上に崩れ落ちた。
青年は軽く眉を寄せて、静かにソファに座った。
クッション越しに問いかける低い声に、表情は見えない。
「麻衣。どうした」
「…………何か、身体熱くて…………頭、痛い」
「熱でもあるのか」
「そんなはず、ないけど」
思考スピードが落ちているのだろう。
常と変わらず澄んだ声は、いつもほど歯切れ良くは響かない。
眉を顰めて、ナルは手を伸ばした。自分に向けられたこづくりの顔にかかったやわらかな髪をかき上げて耳にかけてやり、指先だけで額に触れる。
その手のひやりとした感触に、少女の表情が僅かに和らいだ。
「あ。気持ちい」
「………熱いな」
「そう?冷たい………」
ゆっくりとのびてきた華奢な手が額に触れた手を捕まえる。
その手が、額以上に熱くて、ナルは眉を寄せた。
「体調が良くないなら帰って寝てろ」
「………」
「ふらふらするならタクシーくらい呼んでやる」
「……………嫌って言ったら、怒る?」
「麻衣」
「ここで、寝てたらいけないのは、判ってるけど」
翳りを濃厚に宿した淡い色彩の、瞳。
「家で寝てても、熱くて。………頭痛くて」
ずきずきと痛む頭。
それは確かに事実だけれど、それは言い訳に過ぎない。そして、言い訳を見透かされていることは聞いてみるまでもなく分かり切ったことで、麻衣は目を伏せた。
伏せた目尻から一筋、溢れて頬を伝った涙を、気付かない振りをして。
拭うために頬に触れた、ひやりと磁器のような指先を、捕らえた。
「そばにいて、とは言わないから。ここにいさせて」
縋るように紡いだ声に、応えは返らない。
代わりに小さく溜息をついて、ナルは冷たい手のひらで、少女の額を覆った。
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「ナル。どうしましたか」
音もなく扉を開けて、資料室から出てきた長身の部下の声を、視線だけで抑える。
上司の漆黒の視線の意味を一瞬で読みとって、彼は音を立てずに、気配さえ殺してソファに歩み寄った。
漆黒の青年の傍らで、クッションに華奢な身体を預けた少女が眠っていることは、一瞥して見て取れた。白い手が彼女の額に置かれていることが意外ではあったが特に驚くほどのことではなく、隻眼に浮かぶ表情は動かない。
「谷山さんがどうかしましたか?」
「熱があるらしい」
「熱ですか」
相づちのように返して、それを確かめるために同僚の少女の手に触れようとして。
「リン」
名前を呼ぶ、限界まで抑制された、けれど強く鋭い声。その意味は紛れもなく「制止命令」で、リンは手を止めて上司の顔を見直した。
凄絶な美貌の、中でももっとも美しい闇色の瞳は変わらずに凪いで何一つ表情を映さずに、けれど強くリンを見据える。
「ナル?」
「触れる必要はない」
「何故ですか」
「麻衣の潜在能力リストを忘れたのか?」
ナル自身が書いた、谷山麻衣の潜在能力報告書。
そこに列挙された驚くべき数の期待されうる能力の中に確かにあったのは。
リンは上司の意図を理解して、隻眼を僅かに眇めた。
「サイコメトリ、ですか」
「そう」
麻衣のサイコメトリストとしての能力が未知数である以上、少なくとも彼女に意識がないときに触れることは避けるべきだ。
それは確かに事実だが。
冷徹なリンの表情に、微かな笑みが過ぎった。
「それだけですか?」
「リン」
「他の男に触れさせたくないと言うのもあるのではありませんか?」
揶揄と言うほどではない。さらりと向けられた言葉に、ナルは漆黒の視線を向ける。
「そういうことは考えなかったな」
「そうですか?」
「僕が妬くとでも思ったのか?」
「一般的に、そういうものかと思いましたので」
変わらずさらりと応えた部下に、ナルはくすりと笑った。
「たかがその程度のことで妬くほど、簡単に手放すつもりはない」
嫉妬するのは、失うことを危惧するからだ。
ただ、触れられたというその程度のことで、奪われると思うほど、簡単に奪わせるつもりはない。
さらりと言い切った彼にリンは苦笑を深くする。
「触れられたくないとは思いませんか?」
「さあ」
何もかも奪って掌中に閉じこめて、手に、目に、何一つ触れさせたくないとは希う。
嫉妬とは全く別次元で、他の全てのものから彼女を隠して、他の全てのものを彼女の感覚から奪ってしまいたいと動く、許されるはずもない、けれど時に抑えがたく狂おしい感情を、漆黒の瞳の奥に綺麗に隠して、さらりと返した答えには欠片も窺わせない。
「………所長室に連れて行く」
「ああ、そうですね。いつまでもここに寝かせておくわけにはいきませんからね。いつ、誰が来るかも解りませんし」
「そう」
「判りました。何か必要なものはありますか。買ってきますが?」
「冷やすものと解熱剤を。このままでは仕事にならない」
軽い溜息をついて、ナルは麻衣のそばに膝をついた。
氷嚢代わりに自分の手を捕まえたままの麻衣の手を、ゆっくりと、彼女の目を覚まさせないように細心の注意を払って外させると、眉間を僅かに寄せて、少女の表情が揺れる。見失った彼の手を探して無意識に動く手を押さえて、ナルは華奢な少女の身体を引き寄せて、抱き上げた。
大切に、細心の注意を払って恋人を扱うのに、毛筋ほども表情も瞳の色も動かさない青年に苦笑して、リンは先に立って所長室の扉を開ける。
「氷嚢と解熱剤はこちらに持ってくれば?」
「頼む」
「その間、オフィスは閉めて置いても?」
「構わない」
「判りました」
必要な会話だけ交わして、リンは静かに扉を閉めた。
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扉を閉めた部下には一瞥もしない。
熱に冒された華奢な身体をソファに下ろして、自分を捜して宙を彷徨う華奢な手に手を預けて、その瞬間に安堵したように和らいだ少女の額に、軽く唇を落とした。
熱い額。
冷えた唇。
普段より際だったコントラストに一瞬だけ眉を寄せて、それだけで離れる。
「嫉妬するくらいの方が、お前は良いだろうな」
空気に溶けるほど低く、限界まで抑制した声に滲んだ苦笑と自嘲。
それでも、耐え難い焦燥が精神を灼くのは、他の男に奪われることを懼れるからではない。奪うことなど、許すつもりは微塵もない。たとえ麻衣が望んでも、今更離れることなど、離すことなど何があろうと許さない。
だから、絶対に嫉妬はしない。
嫉妬をするよりも前に、彼女の精神と感覚を、自分は独占するだろう。たとえ、どんな手を、使っても。
昏く重い感情が精神の内奥を浸蝕していくのを、漆黒の瞳は見て見ぬ振りをした。
今はまだ、表層を覆う被膜に綻びの蔭はみえない。
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