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風の戯れ





 青い青い、空。きららかな、朝の陽。
都心でも、高層階では光は比較的透明になる。
 ベッドから抜け出したパジャマのままカーテンをあけて、いまだに見慣れない眼下の光景に溜息をついて。
 麻衣は、華奢な体を翻した。


 SPRにゴールデンウィークはない。が、大学は当然のように講義が休みになったので───まだ慣れていない講義が休みになるのはあまり好ましいとは思えなかったけれど、とにかく、ゴールデンウィーク中はずっとオフィスに詰めていることになった。どうせ暇なら、平均水準を無視した給与を貰った方がいいに決まっている。奨学金をもらっているとはいえ、それは学費を出すのが限界で、生活費は自分で稼がなくてはならないことにかわりがあるわけではない。
 風薫る季節には幽霊も遠慮するらしく、あたりはずれを問わず特に調査の依頼もなく、麻衣は書類整理に没頭していた。
 三月初めに入った調査が終わってすぐから月末にかけて本国に帰国した所長は、大量に本を発注してきたのだ。それが週に一度のペースでまとめて届いていて、データは打ち込んでも打ち込んでもキリがない。
「さて、と。次の本はっと」
 小さく呟いて、未処理の本の山から次の本を取り上げたとき、オフィスのブルーグレーのドアが開いた。
 ノックもなく、カランとドアベルが鳴る。慣れた気配に振り返って、麻衣は本を置いて笑顔で立ち上がった。
「真砂子!」
「お久しぶりですわね、麻衣」
 美貌の少女は、グレーに近い色合いの、円や菱型と八重桜が染め抜かれた小紋を着て、艶やかに微笑んだ。このところ凛とした印象が強くなっているのは気のせいではないだろう。
「あら、私もいるのよー?麻衣」
「綾子も!うわ、揃ってどうしたの!?ゴールデンウィークなのに」
「どうしたの、って」
「ご挨拶ですわね。麻衣が一人でオフィスにいると伺ったから参りましたのに。───あたくしも、世間が連休だからといって休みがあるわけではないんですのよ」
「私もそうよ。それに、自分も行きたいが本業が立て込んでて行けないとどこぞのぼーずから連絡があったしね?」
 麻衣は、笑う。
 真砂子は確かに夏向けの収録が始まって忙しいだろうから連休どころではないだろうけれど、逆にここに来るほど暇でもないはずで、綾子は休みがとれないほどではないだろう。
 だから、二人の気遣いが、嬉しい。

「ありがと。ちょうどキリが良かったんだ。座って座って」
 二人が遠慮も何もなくソファに座る。
「麻衣。これお土産よ。いちごのタルト。美味しそうだったからホールで買って来ちゃったわ」
「わーありがとう♪」
 嬉々として箱を受けとった麻衣は給湯室に向かい、入る手前で振り返った。
「あ、お茶、何がいい?」
「春摘みは?」
「ごめん、まだ買ってない。多分もう出てるとは思うんだけど……」
 間髪入れず聞いてきた綾子に、麻衣は首を竦める。
「じゃあ次に期待するわ。………それじゃ、この前の収穫とかいうダージリンがいいわ、私」
「あたくしもそれでお願いします」
「分かった。ちょっと待ってね」
 一声をのこして、華奢な姿は奥に消えた。


「大学はどうですの?麻衣は落ち着きました?」
「うーん……。微妙。真砂子は?」
 問い返されて、美貌の少女は肩をすくめた。
「あまり行っている暇がありませんの。とりあえず履修登録はしましたけど」
「そっか。……あたしも、慣れてる暇がないんだよね。全然」
「三月は、あんた凄いスケジュールだったものねえ」
 綾子にくすくす笑われて、麻衣は溜息をついた。

 凄いスケジュール。
 ────全く、その通りだった。ちょうど月初めから調査が始まり、二週間にわたった調査が終わったと思ったらいきなりSPR本部から招集がかかり、問答無用で航空券が送りつけられてきてイギリスに飛び、帰ってきてから慌ただしく引っ越して、息つく間もなく大学が始まった。
 おかげで、まったく虚しいことに、入学式のことなんて覚えてもいない。綾子と滝川に、淡い黄色の可愛いスーツとパンプスをプレゼントしてもらったのに、着ただけで写真も撮らなかった。入学式に出れただけでも僥倖、という状況だったのだ。

 どこか遠い目をした麻衣に、真砂子は悪戯げに笑って、首を傾げてみせた。まっすぐの黒髪は白磁の肌にさらりとかかって首筋にこぼれる。
「ナルはどうしましたの?麻衣」
「出かけてるよ?」
「リンは?」
「一緒に行ってる。……依頼が来そうにないからって、ちょっと雑用」
「雑用?」
 眉を顰めた真砂子に、麻衣は曖昧に笑う。
「……まあ、挨拶回りってとこ。……で、ナルがなに?」
 かるく首を傾げた麻衣に、真砂子は一際艶やかに笑って───爆弾を落とした。
「おつきあい、はじめたんでしょう?良かったですわね、麻衣」
 澄んだ声がいやに静まりかえったオフィスに響き。
 麻衣はフォークに取っていたケーキをお皿の上に落っことした。
「…………なっ」
「なんでわかるの、ですの?」
「…………」
「女の勘ですわ。───言っておきますけど。あたくしに気を遣う必要はありませんわよ?麻衣」
 真砂子は艶やかに笑って、固まった麻衣の頬をつついた。
 見事に対照的な二人を交互に見やって、綾子が吹き出す。
「あらま、完璧図星って顔ねー。あんた、ほんと隠し事できないわね。でも、あの仕事馬鹿が、まともにつきあうとは思わなかったわ。お手柄よねえ、麻衣」
「……………」
「で、どこまで進展したの?………いまどき小学生じゃあるまいし、好きって言っただけとは言わないわよね?」
「あら、松崎さん。それなら今までと変わりませんわよ。ナルも麻衣も、お互いの気持ちは知った上で黙っていただけなんですから。おつき合いしたとなると、一歩進まなくては」
「それはそうねえ。それこそ、小学生じゃないんだから」
「ちょっと待ってよ、ふたりとも………」
 ようやく息を吹き返した麻衣が、疲れたように口をはさんだ。このまま黙っていては、どんな話を作られるか分かったものではない。
「何にもないって。特に」
 簡潔な言葉に、真砂子が、あからさまに眉を顰めた。
「何もない?………なんですのそれ」
「何もないものは何もないんだよ……。だいたい、好きってすら言ってないし。そもそも、好きとかって言うナルなんてあたし想像できないし」
「キスだけってやつ?」
 冷静に突っ込まれて、麻衣は今度は紅茶にむせた。
「………あやこ………」
「だってそうでしょ?好きとも言ってない、それにあの朴念仁が手をつなぐなんて考えられない、となったらそれくらいしか残らないじゃない。それとももっと進んでるの?家近所になったんだし」

 本部の上司、森まどかが新たにゲットしたスポンサー=日本の大企業は、ちょうど竣工直後だった高級分譲マンションの高層階をワンフロア、ぽんとSPRに貸与してくれたのだ。そのフロアには4世帯が入れるようになっていて、去年の秋にそれまでずっとホテル暮らしだったナルとリンがそこに移り、そして、三月に挨拶という名目でSPRに招かれた麻衣にも、キーが渡されて、四月になってから引っ越したから、家が近所というのは間違いではない。現実に、ドアはほぼはす向かいにある。
 けれど、それとこれとは全く話が別だ。
「家が近所なのはSPRからの社宅みたいなものだから!ちなみにキスだけ!しかも一回だけ!」
 半ばヤケになった麻衣が断言して紅茶を飲み干すと、綾子と真砂子は顔を見合わせて、溜息をついた。
「…………学者馬鹿も極まってるわ。せっかく隣だってのになにやってるのよ」
「甲斐性なしですわね」
「………ナルがいきなり恋愛モードになったら怖いってば。だいたい、そうなったらあたしはイヤなんですけど?」
 想像するだけで怖い、と呟いた麻衣は、大きく溜息をついた。
 つまらなそうな二人の瞳はこの際黙殺する。だいたい、あの学者馬鹿に普通一般の恋愛を期待する方が間違っているのだ。

「まあ、いいですわ。話はかわりますけど、麻衣」
「なあに?真砂子」
 ふ、と、何か思いついたように口調を変えた真砂子に、麻衣は澄んだ琥珀の瞳を向ける。
「あたくしも先月は忙しかったから、こちらに来るのは久しぶりですわよね?」
「うん。そうだね」
「イギリスでの話、聞いてないのですけど?お土産は期待しませんけど、話くらいは聞かせて頂きたいですわ」
 日本人形のような端正な顔に、笑みが浮かぶ。
 あきらかに言葉に詰まって視線を彷徨わせた麻衣に、綾子が追い打ちをかける。
「私も聞いてないわねー、そういえば。このお茶買ってきたーって聞いたくらいで」
 綺麗に整えられた女の指先が、白いカップを指す。
「また検査検査でしたの?」
「いやそれはちょっとだけで……」
 口を濁した麻衣は、溜息をついておよそ一ヶ月前に記憶を遡らせた。
 脳裡に記憶を追って、麻衣は溜息をつく。

「だから、話すほどのことはなかったんだよ。ナルのおまけだったし、SPRのレセプションに出たくらいで」
 思い出しただけで疲れた麻衣は、それだけ言って、皿の上の最後のかけらを口に入れた。………幸せな味のカスタードが、心に沁みる。
「それだけ?」
「そう。あたしは特にすることなかったから、まどかさんに連れられてレセプション用の服買ってもらったりしただけだし。……最後に鍵もらって」
「鍵?」
「………いまの家の」
「なるほどね」
 綾子は艶やかに笑って、真砂子と顔を見合わせた。
「向こうではあなた方の関係についての推測が乱れ飛んでるわけですわね」
「………まどかさんいるし、そんなこともないと思うけど?」
「それこそ甘いわね。あの人なら、事実無根なら絶対に止めるだろうけど、そうじゃなければ面白がって見てる気がするわ」
 綾子の指摘は限りなく信憑性が高くて───麻衣は、力無くソファに懐いた。
「麻衣。何死んでるの」
「いや、もう、なんだかねー……」
「元気出しなさいよ。事実は事実でしょ」
「そうですわ。それこそ、事実無根ではないんですもの」
 くすくすと笑った真砂子の顔には、所詮他人事、と書いてある。
「まあ、麻衣。もう一切れタルト食べたら?気は紛れるわよ。余ってるんでしょ」
「余ってはいるけど」
「どうせナルもリンも食べないんだし、美味しかったなら食べてよ。折角持ってきたんだし」
 笑いながら所長室をちらりと見やった綾子に、麻衣は憤然と立ち上がってみせた。
「じゃあ貰う。ふたりは?」
「あたくしは結構ですわ」
「私はさっきの半分くらい貰おうかしら。美味しかったもの」
「わかった。ちょっと待ってて。ついでにお茶も淹れてくるから」
「ありがと♪大好きよ、麻衣」
 ひらひらと手を振った綾子を振り返って睨め付けて。
「ありがと」
 ふん、と不機嫌に顔を背けるふりをして、麻衣は笑って給湯室に入った。

 三人だけのオフィスに、くすくすと笑い声が、甘い香りが交錯する。
 所長のいない、秘密の時間。

 窓から見える、ビルに切りとられた初夏の蒼穹だけが、それを見ていた。








 山なしいみなしおちなし………(倒)……ええと、本来ならキリ番22222のSSの中に入っているはずのエピソードでした。長くなりすぎたんで、2つに切りました……すみません。こっちは、英国話とは切り離して、ふたりにからかわれる麻衣、という雰囲気で読んで頂けると嬉しいです。
2004.5.31HP初掲載
 
 
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