back to novel_index |
back to index |
「馬鹿じゃないのか?」 皮肉を混ぜた溜息とともに落ちた、硬質の声。 あまりといえばあまりな台詞に、麻衣は自分を見下ろす無表情の美貌を恨めしげに見上げた。 潤んだ瞳は熱を孕み、反論したくても喉の痛みはそれを許さない。 無理を重ねて風邪を悪化させ、それでも平気な顔をしてバイトにも学校にもきちんと行っていたというのは、確かに賢明だったとは言えない。 挙げ句の果てに講義中に倒れたのでは、確かに馬鹿といわれても当然かもしれない。 講義中だったから、どれほど多くの人を巻き込んで迷惑をかけたか考えれば本当に申し訳ないと思うし、オフィスを緊急連絡先に登録してあったから、リンや安原にも迷惑をかけた。 それはもちろん、所長であるナルにも。 今は調査の事後処理で忙しいのだ。麻衣一人抜けるだけでも他のメンバーにかかる負担はその分だけ大きくなる。それなのに、その上に、倒れた騒ぎでオフィスの業務を半日にわたってストップさせてしまった。 そしてさらに、一番重要な、そして一番多忙な彼の時間を奪っている。 決して微熱とは言えない熱で朦朧とした頭では、思考は纏まらない。 全身を苛む痛みと熱、そして自責。 馬鹿と言われる理由はないと思った。 それでも、謝らなければならないと、謝りたいと、思った。 痛む、喉。 声を出そうとするだけで涙がにじむほど辛い。 それでも麻衣は唇を開く。 「ご、め‥‥‥さ‥‥‥‥‥」 迷惑をかけて、ごめんなさい。仕事の邪魔をして、ごめんなさい。 そして。 心配させて、ごめんね。 掠れて、殆ど聞き取れない声。 それでもナルは、震えた唇の動きで言葉を読みとった。 ────読みとる努力をしなくても、こんな局面で麻衣がいいそうなことは想像がつく。 音にならなかった言葉ごと、彼女の意図まで汲み取れる。 もう一度、秀麗な唇から溜息が漏れた。 今度は皮肉の混じらないそれに滲んだ感情の色は、熱に冒された麻衣の意識には届かない。 「‥‥‥‥‥‥謝らなくていい。声も出すな。とにかく病人はおとなしく寝ていろ」 抑えた声は低かった。 意図して皮肉に紛らわせるか、極力抑制するかしなければ、声が震えるのではないかと危惧するほどに自分が動揺していることに、ナルは内心だけで苦笑する。 連絡を受けた安原が硬い表情で所長室の扉を開けて。 「所長。‥‥‥谷山さんが、倒れたそうです」 そう伝えた強ばった声は、しばらくは忘れられそうになかった。 そして、その瞬間に全身を支配した、限りなく恐怖に似た感情を、容易には忘れられないだろう。 この部屋に連れてくるために、動けないどころか意識もはっきりしない麻衣の華奢な身体を抱き上げて、やわらかい温もりに触れた瞬間に心に触れた安堵は─────自嘲する気にもなれないほど、自分でも驚いたほどに、深かった。 それが、温もりというには熱すぎることにすぐに気づきはしたが。 ただ、生きている。 それだけのことに、泣きたいほどに感謝した。 そんな感情を目の前の彼女に伝える気も、表に出す気も絶対になかったが、一度全身を支配した「喪失」への恐怖は容易には薄れてくれそうもなくて、ナルは微かに溜息を付いた。 呆れたことに、条件反射のように持ってきたPCとファイルに意識を向ける気にもならない。 目を離した瞬間に彼女が消えてしまいそうな、そんな理不尽な恐れを、消し去ることが出来ない。 しばらくは目を離せないな、と敢えて客観的に自己分析して、ナルはベッドに座った。 近くなった漆黒の瞳が深いことに気付く。 やわらかな頬を濡らす涙を、しなやかな指先が拭う。 頬を滑る冷えた感触に、麻衣はひどく安心して────涙が溢れた。 仕事を邪魔している。心配させている。 申し訳ないと思う。それは真剣に。 けれど、心配されていることがこれほどに、嬉しい。 罪悪感と、安堵感。 入り交じる二つの相反した感情で、涙は止まらない。 何度拭っても、新たな涙が琥珀色の瞳を濡らし、溢れて、頬を伝い、零れる。 色違いの視線は絡み合ったまま、互いに囚われたようにどちらからも外せない。 相変わらず表情のなかった白皙の美貌に、僅かな、けれど強い色が不意に掠めた。 それは、苛立ちか、それとも焦燥か。 ナルの、わずかな表情の揺らぎに麻衣が気付くのとほぼ同時に、頬から冷たい感触が消えて、その代わりに体温が近くなる。 唇が、触れる。 頬を濡らした涙を拭うように、そして驚きに瞠かれた琥珀色の瞳の端に。 彼の名を呼ぼうとして開かれた震える唇に一瞬だけ冷えた指先が触れて、残った感覚を埋めるように温かい吐息が掠める。 ごく軽く、熱のせいで不安定な呼吸を妨げない程度、触れるだけの優しいキスは、すぐに解かれた。 「‥‥‥うつるよ」 相変わらず声にならない囁きは、限りなくゼロに等しい距離では何の問題もなく伝わる。 ナルがくすりと笑った。 至近距離の麻衣の瞳をまっすぐに見つめて、凄絶なまでの美貌が完璧な微笑を形作る。 「いまさら?」 とっさに何を言われたのか分からなくて瞬いた麻衣の熱に潤んだ瞼に軽いキスを一つ落として、ナルはことさらに声を落とした。 抑えられた低い─────それは甘い囁きのように、響く。 「‥‥‥こんなことでうつるなら、とっくに感染している。発症するかどうかは免疫の問題だろう?」 だから、今発症していないのだから免疫はついている。 きわめて論理的に聞こえる台詞だったが、麻衣は眉を顰めた。 「でも」 思考の纏まらない頭では、漠然とした発想を言葉に出来なくて、麻衣の琥珀の瞳に僅かな苛立ちの色が浮かんだ。 ナルは、僅かに苦笑する。 「‥‥‥‥それでもかまわない」 変わらず部屋を支配した静寂を揺らす、声の色はひどく深い。 「うつってもかまわない」 疑問の色を滲ませた少女の瞳に答えるように、繰り返して、瞳の焦点があうぎりぎりのところまで離されていた距離をもう一度、縮めた。 触れる、唇。 対照的な体温が、触れたところで混じり合い、影響する。 ただ触れるだけの軽いキスだというのに、精神を揺らす振幅は大きすぎて、心を絡めとられるのを止めることが出来ない。 彼女の負担にならない程度でキスを解くことに強い意志が必要で、ナルは内心だけで溜息を付いた。 「ナル」 声にならない囁きで呼んで、麻衣は潤んだ瞳で闇色の瞳を見上げる。 「馬鹿だって、いったくせに」 「風邪をひいたことが馬鹿だと言った覚えはない」 切り返した、普段と変わらない怜悧な声。 「なにが‥‥‥っ」 何が馬鹿なの、と返そうとして、喉に走った痛みに涙をにじませた麻衣の目元に、ナルは溜息混じりのキスを一つ降らせる。 「無理に声を出すな。‥‥‥‥‥オフィスに迷惑をかけないように、お前は仕事を休まなかった。そうだろう?」 闇色の瞳を見返し、麻衣は今度は声に出さずにうなずいた。 「プロ意識は評価する。‥‥‥‥‥‥‥‥だが、大切なものを間違えるな。調査中ならともかく、倒れるまで仕事を優先する必要はない。‥‥‥‥完治するまで外出禁止だな」 溜息混じりに付け加えて、ナルは立ち上がる。 未練を訴える意識を無視して、ソファに座ってPCを起動した。 カタカタとキーを叩く音と、時折ファイルをめくる音を聞きながら、麻衣はかすかに微笑んだ。 声も出せず、起きあがることも困難な自分のために、書斎に戻らず、そばで仕事を続けてくれることが、嬉しい。 それは確かに自分に向けられる、彼の許容。 キーを叩く乾いた音と、ファイルをめくる音、そしてそれが沈んでいく静寂。 苛む熱と痛みは未だ激しくても、心は音が証す彼の存在に、安堵する。 心配させてしまってごめんね、と、ナルの音にむかって心の中だけで呟いて、麻衣は平癒の眠りに身を任せた。 明日には笑って、とっておきのお茶を差し出す夢を見る。 |
count1hit、桜冬姫さまに捧げますv(ただし返品可‥‥‥) 頂いたリクエスト「しっとり優しくて甘い話」を無視しているように見えますが(滝汗)これでも努力はしたんです(涙)。何だか意味不明‥‥‥‥っていうか、これ、誰‥‥‥?(お前が聞くな!) あちらこちらで書かれている風邪ひきネタですが、何故に私がやるとこうなるのかは、謎です(泣)。甘甘が書きたかったんですけど‥‥‥‥精進します(遠い目)。 2001.2.8 HP初掲載
|
back to novel_index |
back to index |