渋谷駅。
改札を出て、いつものように早足で雑踏の中に紛れようとして。
あちこちで傘の花が咲いているのに、麻衣は驚いた。
「雨………」
特に本格的に降っているわけではない。
その証拠に、傘をさしている人は二人に一人程度に過ぎない。
ほんの三十分前に電車に乗ったときは雨の気配さえなかったのだから傘を持っていないひとの方が多いのだろうが、わざわざ傘を買い求めるよりも、しばらく雨宿りをすれば凌げるだろうと、そう思う程度の雨。
麻衣は溜息をついて、時計と、灰色の空とを見比べた。
遅刻しそうというわけではなかったが、雨宿りをしていられるほど時間があるわけではない。そして、それほど強く降っているわけでもないのに、傘を買うというのも無駄遣いだ。
少しなら濡れても乾くよね、とちいさく呟いて、麻衣は霧雨の中に足を踏み出した。
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たまたま資料室ではなくオフィスにいたリンは、突然開いたブルーグレーの扉にやわらかな表情を向けた。扉の動きと一緒に空気を揺らした澄んだ挨拶と感覚に触れた気配は、既に慣れた少女のもので。
「こんにちは、谷山さん」
低い声での、ごく普通の挨拶が嬉しくて、麻衣は笑う。
「こんにちは、リンさん」
リンは、軽く会釈した麻衣の栗色の髪が濡れていることに気付いて眉を寄せた。
びしょぬれ、というわけではないのだが、よく見れば、髪だけではなく、顔にもオフホワイトのプルオーバーにも、手に持ったバッグにも、ごく細かい水滴が無数についている。
「谷山さん?濡れたんですか?」
「あ。……ちょっとだけです。いきなり雨降ってて」
「濡れたままでは風邪を引きますよ。どうして雨宿りしてこなかったんです」
「時間がなかったんですよ。あと少しでしょ?時間まで」
「電話一本すればすむことでしょう」
強い口調が真剣で、麻衣は思わず目を瞠り────苦笑した。
「ごめんなさい。心配してくれてありがとう」
「どちらにしてもそのままでは風邪を引きますね。とにかく髪と服を乾かさなければ」
「え?でもそのままほっとけば乾きますよ、そんなに濡れてる訳じゃないから」
「熱を出しますよ」
「………でも着替えなんて置いてないし、ほんとに大丈夫です」
「しかし」
リンの言葉を遮ったのは、少女の澄んだ声ではなかった。
「何の騒ぎだ」
怜悧な、声。
反射的に振り返ると、所長室の扉が開いて、漆黒を纏った美貌の上司が眉を寄せていて、リンは思わず安堵した。
自分では麻衣をどうにもできなくても、彼なら何とでもできるだろうと思った。
「ナル。谷山さんが雨に遭ったそうで」
「だから大したことないんですってば」
「でも濡れているのは確かでしょう。早く乾かさないと風邪を引きます」
「だから、乾かしようがないでしょ?このままほっとけば、乾きますって」
「放っておけば乾く?」
リンと麻衣の不毛なやりとりに、無表情の声が割り込んだ。
ゆっくりと歩み寄ったナルは、闇色の瞳で麻衣を捕らえた。
「え?」
「浸みてきてるぞ」
「え?嘘」
指摘されて、麻衣は慌てて自分の上半身を見直した。
確かに、肩の辺りを中心に水が浸透しはじめている。霧雨は、すぐに拭えば大した被害はないのだが、放置していれば確実にしみ込んでしまう。
視覚での認識と同時に、今まで殆ど感じていなかった冷たさを感じて、麻衣は思わず体を震わせた。
気付いてしまえば、無視していられた寒さは、急速に精神を苛みはじめる。髪の、細かい滴を集めた雫は、髪から落ちてそのまま肩におち、あるいは額から頬を伝って体温を奪っていく。指先が、冷えていく。
麻衣の表情から、淡い色彩の瞳から、急速に表情が消えていくのを見やり、ナルは軽く溜息をついて長身の部下に視線を向けた。
「リン」
「はい」
「傘は持ってるな」
「オフィスに置いてありますので」
「その辺で麻衣の着替えを一揃え買ってきてくれ。タオルも」
「分かりました」
「え!?ちょっと待って!」
麻衣は慌てて止めようとしたが、リンは彼女の声は敢えて無視して自分の鞄と傘を取り、オフィスから出た。
「ナル!」
「他に最善策があるのか?」
「………」
抗議は、漆黒の瞳の色に抑え込まれる。
返す言葉を見つけられずに唇を噛んだ麻衣に、ナルは溜息をついて、華奢な腕を掴んだ。
「そんなことはどうでもいい。………来い」
「え?ちょっと!」
いきなり腕を取られて抗議する高い声は綺麗に無視して、ナルは所長室に入る。
部屋に入るのと同時に、しなやかな指が腕から離れて、麻衣は目を瞬いた。
ナルはそのまま殆ど使われていない作りつけのクロゼットを開けて、中から白いシャツを出した。臨時用に置いてあるそれを、麻衣の手の上に落として、そのまま扉に向かう。
「え?ナル?」
「とりあえずそれでも着てろ」
「え?」
展開に思考がついていかずに目を瞬いた麻衣に、呆れたような溜息をついて、ナルはそれでも口を開いた。
「リンが戻ってくるのに、どんなに早くても15分はかかると、僕は思うんだが?」
リンが、適当だと判断する店にたどり着くまでおよそ5分、自分で選ぶにしても店員に選ばせるにしても、商品を選択して会計をすませるのに5分、戻るのに5分。最低でもそれくらいの時間は必要だろう。
最低で15分、普通に考えれば20分程度は必要だ。
麻衣は頷いた。
「確かにそうだけど」
「その間、ずっとその格好でいるつもりか?」
スカートはともかく、このまま放っておけば下着まで湿ってしまうのは必定、だろう。
麻衣はようやく「二次的被害」の可能性に思い至って、あ、と呟いた。
「分かったか?」
「………分かった」
「それなら着てろ」
「………ごめん」
上目遣いの琥珀の瞳にかすかに苦笑して、ナルは麻衣を所長室に残して、扉を閉めた。
+ + + + +
リンはオフィスの扉を開けて、目に入った光景に苦笑した。
所長室ではなく、オフィスのソファでファイルを広げて───実はかけらも集中していなかったのだろう、既に自分に瞳を向けた漆黒を纏う美貌の上司と、その傍らに華奢な身体を沈めた、大きすぎる男物のシャツを着た少女と。
二人の間の空気の、あまりの「自然さ」に、微笑ましいものさえ感じた。
「遅くなりました」
「あ!リンさん、すみません!ありがとうございました!」
麻衣は振り返り、慌てて立ち上がってリンの元に駆け寄った。
立ち上がると、シャツの大きさが際だって見える。
ナルは小柄ではないが、それほど大柄というわけでもない。それなのに、「シャツに着られている」ように見えるほど麻衣が華奢なことに、リンははっとした。
これほどに、「少女」だったのだと、胸を突かれた。
「リン。タオルを」
リンの思考を遮るように、いつの間にかすぐそばに立っていたナルの抑えた声が韻いて、リンは手に持っていたシンプルな店名ロゴ入りの紙袋からタオルを取り出して、ナルに手渡す。
ナルは受け取ったタオルをばさりと麻衣の頭にかぶせた。
「ナル!?」
「黙ってろ」
少女の抗議を一言で返して、ナルは殆ど乾いた、けれどまだ確かに湿り気を含んだ少女の髪を拭いていく。
その、意外なほど優しい、丁寧な手つきに、リンは軽く目を瞠った。
ナルにとっては、麻衣は当たり前に一人の「少女」なのだと、苦笑して。
リンは紙袋をソファの上に置いて、踵を返した。
「リンさん!?」
「ちょっと出てきます」
「何か用でもあるのか?」
「ええ。………それに、どうもお邪魔なようですから」
くすりと笑って、リンは軽く会釈すると反応を待たずに無機質なドアから出ていった。
ナルは溜息をついて、呆然とリンを見送った麻衣に目をやった。
「邪魔って………リンさん、だよね、あれ」
「少なくとも安原さんやぼーさんではあり得ないな」
さらりと返して、ナルはくすりと笑ってタオルごと顔を上げさせた。
色違いの視線が絡まって、麻衣はナルの手の中で、僅かに首を傾げる。
「ナル?」
「出ていってもらった方が良かったのは確かだが」
「………………邪魔ってこと?」
「邪魔というより、これ以上見せたくない」
「見せたくない?……何を?」
琥珀色の瞳の純粋な疑問の色彩に、ナルは白皙に妍麗な笑みを浮かべた。
「麻衣を」
濡れた、やわらかな髪を。
男物のシャツを着た、華奢な肢体を。
その、無防備な表情を。
琥珀色の目を瞬いた麻衣が何を言われたのか理解する前に、しなやかな腕が華奢な身体を引き寄せる。
「……ナル?」
「あまり馬鹿な真似をするな」
「雨に、濡れたこと?」
「他にも何かやったのか?」
「やってないよ」
麻衣はくすりと笑って、自分を抱き寄せた暖かな胸に頬を寄せた。
「ごめんね、心配させて」
「そう思うなら次からは連絡しろ」
「うん。余計に迷惑かけるってことが分かったから、次からはそうする」
「そう願いたいな」
溜息混じりに呟いて、ナルは大きすぎるシャツを素肌に纏った華奢な肩を、抱き寄せた。
+ + +
ちなみに余談。
二時間後に帰ってきたリンが真っ先にしたことは、真新しい携帯電話をナルと麻衣に手渡すことだった。
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