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please don't say that




「ねえ、まだ怒ってんの?」
 かちゃん、とかすかに音をたてて、少女の手がデスクの上にティーカップを置く。
  問われた彼は、白皙になんの表情ものぼらせないまま、終わったばかりの調査の報告書をぱらりとめくった。少年とは言いがたく、青年と言い切るにはまだ少年らしさがわずかに残った、あざやかなばかりの美貌は、傍らに立つ少女の存在を無視しているように、見える。

 無視されたことを気にするでもなく、彼女は言葉を重ねた。
 聞こえていることは、分かっている。
「ナル」
 名前を呼ぶ声は、変わらない、澄んだ声。
 硬質の高い声は、その中に、どんな感情を持っているのか窺わせない。
 長くはないが短くもない、離れていた時間を置いて、麻衣の態度は変わらなかった。記憶に残っていたそのままに、彼女は在る。
彼女がなにも考えていないわけがない。その心に負った傷は、深くないはずはない。
 あの月の夜の、自分だけが、たったひとり自分だけが知っている彼女の慟哭は記憶にまだあたらしく、そして調査中に見せた彼女の激しい動揺は、その証左でもあるだろう。

 ナルは返事のかわりに白い指先をのばしてカップを取った。
 
 ふたりきりの所長室に、磁器の擦れ合うかすかな、金属に似た音が韻く。

「そりゃ、確かに疲れてるのに休憩もなにもなしで、いきなり依頼人の話聞かせたのは悪かったと思うよ。でも」
「別に怒ってはいない」
「あの時は怒った」
「今、の話をしてるんじゃないのか」
「そうだけど」

 ナルはかるく溜息をついて、カップをソーサーに戻した。

 オフィスにつくなり、モスクワ経由の長旅の疲れを癒す間もなく問答無用で依頼人の話を聞かされた。
 その上、依頼人はともかくとして、非常に不愉快な「おまけ」がついていた。
 そして、貴重なケースだったとはいえ、かなり危険な調査であったことは間違いないし、蓄積された疲労は確かに存在する。
 不愉快な「おまけ」については言いたいことは山ほどあったが、土壇場で猫の手になったことは事実であり、彼がいなければ知り得なかった情報を得たこともまたまぎれもなく事実だった。敏腕事務員は「これから役に立ちますよ」と笑顔で断言したし、利用できる地盤のない日本で、今後活用できる貴重な伝手ができたのは確実だろう。
 そして、それとはまったく別次元で。
 思わぬ収穫を得た。
 鏡をとおして兄と話が通じることも、その兄がまだ「使える」ことも、この事件がなければ多分気付かなかっただろう。

「それより」
「なに?」
 問い返そうとして、まっすぐな琥珀色の瞳に見返される。
「あれから……」
 あの馬鹿と会ったのか。
 問おうとして、ナルは言葉を飲み込んだ。
 反射的に、彼女の涙が脳裏にうつる。
「あれから、なに?」
 まっすぐな視線は、ゆるがない。
 問いかけても、おそらくあの時のような涙は見せないだろう。
 たとえそれが表面だけのものであっても、おそらく表情も変えずに答えをかえすだろう。───自分のように。
「いや、いい」
 聞いても仕方がない。
 そう内心だけで呟いて、漆黒の瞳を手もとの資料に戻す。
 普段馬鹿だ馬鹿だといっていても、麻衣は十分に聡い。彼女がどれほどのことを感じ取ったのかは分からなかったが、それも追求するつもりはなかった。

 数瞬の沈黙が、空間を占める。

「あのね、ナル」
 澄んだ声がわずかに抑制されて、深くなったことに気付いて、ナルは傍らの少女を見上げた。
「広田さんにあったよ」
「またか」
「うん。渋谷で、また偶然ばったり」
「それで?」
「……それだけ」
 今度は麻衣の方が言葉を隠した。
「また、何かで会うかもしれないでしょ。安原さん、使えますねってなんか嬉しそうだったし」
「何か話したのか」
「ちょっとだけね。たいしたことじゃないよ。……それじゃ、あっちに戻るね。作業、残ってるから」
 ふわりと、淡い色の髪が揺れる。
 
 それ以上の問いかけを拒むように、麻衣は華奢な身体を翻して。
 そして、所長室から静かに出ていった。


    †


 所長室のドアを閉めて、ため息をつく。
 記憶が、遡る。


 「あ」
 渋谷の雑踏。
 信号待ちの人混みの中で見知った背中を見つけて、麻衣はちいさく声をたてた。
 声をかけようか気付かなかったことにしようか一瞬だけ迷って、大きな背中に手を伸ばす。
「こんにちは」
 ぽん、と軽くたたくのと同時に、軽い口調で挨拶の言葉を口に乗せる。振り返った相手の瞳をまっすぐみあげて、にこりと笑って名前を呼んだ。
「広田さん」
「あ、ああ……谷山さんか」
「はい」
「今日も学校帰りのバイトなのか」
 制服姿では、放課後直行していることは一目瞭然だった。
 わずかに渋い顔を見せた広田に、麻衣は笑顔で答える。
「はい。勤労学生は大変なんですよー」
「あの上司のした、というのは大変だろうな」
 いつか聞いたような台詞にしみじみと実感がこもっているような気がして、かるい笑い声を立てた。澄んだ声はざわめきのなかでも、透明に耳に響く。
「あはは。いーかげん慣れてるので」
「慣れるのもどうかと思うぞ。あのバイトの、その、内容にもな」
 後半はどこかいいにくそうに、視線が微妙に逸れている。
 またか、と思いながら、それでも笑顔は絶やさない。わずかな期間だったが、本部の女性上司に直接薫陶を受けることができたのは、いろいろな意味で本当に貴重な経験だったとしみじみ思う。
「広田さん、前にもおんなじこと言ったような気が」
「それは、そうだが、本心だからだ。その年で、生活費を稼がなきゃならんのは、大変だと思うが」
「いーんです。あたしが、自分で決めたことだから」

 信号が変わる。
 雑踏が、まるでひとつの生き物のように動き始めて、ふたりは横断歩道の脇よりに移動した。
 背広の青年と制服の少女を無視したように群衆は動いて、また止まる。

「それに、あたし自身、もうどっぷり知っちゃいましたし。それに、「第六感の女」だって言いましたよね?」
 もう、かかわらないでいることはできない。
 言外に強調した彼女に、広田は語調を強める。
「しかし、あいつは問題だぞ!どれだけ優秀だか知らんが、あの兄のことにしたって」
 結局どうだかわからない。
 言いかけた言葉は、最後まで声にならずに飲み込まれた。まっすぐ向き合っていた少女の琥珀色の瞳の強さに、気を飲まれる。
「広田さん」
「………なんだ?」
「広田さんが、うちの所長───ナルを、疑うのは、もう仕方がないです。結局信じられないものはどうしようもないし、ナルの能力を信じなかったらナルが怪しいんだろうし」
「…………」
「でも、ナルに直接、お前がやったんだろうとか、それだけは絶対言わないで」
 口調は、強い。
 怒りさえにじんだように思える澄んだ声は、糾弾するようにつよく、けれど決意めいて静かに言葉を紡ぐ。
「疑おうが、捜査しようが、それは広田さんの勝手です。信じないのもべつにいいです。でも、ナルに直接疑いをぶつけるのだけは。絶対に、駄目です。あたしも、ききたくないです」
 広田は、麻衣とジーンに「直接」の関わりがあったことを知らない。それが霊的なことであれば広田にとっては何の意味もなさないだろうし、そうでなくても今、そのことを問題にするつもりもなかった。
 まっすぐに、麻衣は長身の男の瞳を見据える。
「広田さん。聞いてますか?」
「あ、ああ。……しかし谷山さん、何故君がそこまで言う?」
「あたしは、ナルが彼のお兄さんを殺していないことを知っているから」
「それは彼がそう言ったからだろう」
「あたしは彼の能力を知っています。それから、彼はそんなことで嘘をつく人じゃないことも知っています。あたしには、それで十分」
「だからといって彼の嫌疑が晴れるわけじゃない」
「だから、疑うのも捜査するのも自由だって言ってるんです」

 麻衣の瞳からふっと力が抜けた。
 にこりと笑って、口を開く。
「ちょっとでいいです。想像してみて下さい。簡単だから」
「ああ」
「広田さんが、天涯孤独で、たったひとりしか肉親がいないとしてください。お互いにたった一人だけです」
「……ああ、わかった」
「そんな人が、殺されたとしたら?」
「……辛い、だろうな」
 応えてから、目の前の少女もそんな境遇なのだと広田は思い出した。
 麻衣は相づちもうたずに、言葉を続ける。
「そして。どうやってかはとにかく、自分にだけはその人が殺されたことがわかって、それならお前が殺したんだろうって。言われたらどんな気がすると思いますか。どんな思いをすると、思いますか」

 たった一人の存在を失った慟哭の中、それはお前がやったんだろうと糾弾の矢を向けられたとしたら。

 深く考え込むまでもない。
 実感することはできなくても、激しい痛みを想像することはできる。
 引きちぎられたような傷に、ナイフをさらに突き立てるようなものだろう。
 癒えない傷は、どうしようもなく血を流し続けるだろう。

 沈黙を保った広田の目をまっすぐに見据えて、麻衣は言葉を続ける。
「たとえ、本人が、なにも言わなかったとしても。どんな反応もしないとしても。痛くないはずないと思います、あたしは」
「…………」
「お願いです、広田さん。そういうことは、しないでください」
 ナルを糾弾する言葉を聞くだけで、自分が痛いのだと、そんなことをいうつもりはなかった。
 ただ本当に、無表情という彼の鎧をいいことに無造作に傷つけるような真似を、黙って見ていたくはなかった。
「疑うのも捜査するのも仕方ないと思いますけど。あの性格だし、信じられないの無理ないのかもって思うし」
 広田は大きく息をついて、それから麻衣の顔を見つめなおした。

 やわらかそうな淡い色の髪、小作りの白い貌。
 澄んだ琥珀色の瞳に、可憐な表情。
 華奢な、からだ。
 この雑踏のなかのだれひとり、彼女を見てその境遇を想像しないだろう。重くて辛い過去を背負って、自分だけの力で精いっぱい生きなければならないなどとは思わないだろう。

 そして、氷のような美貌を思い浮かべる。
 漆黒の瞳と髪、仮面のような無表情の白皙。
 ただ傲慢なまでのプライドと、他者との間においた氷の結界のような一線。
 なにひとつ内側が見えなくても、内側がないわけではない。
 氷のような微笑の裏側で、血を流していないとは誰も言えない。

 全く違うふたりの印象を重ねて、かさなることに驚かされる。

「わかった。少なくとも直接は言わないことにする」
「本当に?」
「約束する。……もちろん、捜査が彼にたどり着いたら別だが」
「ありがとうございます。……よかった」
「君がそれほど喜ぶことなのか?」
「………聞いてるだけで、痛かったので。もしもあたしが、おかーさんのことで、同じように言われたらっておもったら」
 そして、ナルとジーンのつながりの深さを、ジーンをとおして知っているから。
 ジーンについては一言も言わずに、麻衣はにこりと笑った。
「やっぱり広田さんって、いい人ですねー。それじゃ、あたしもう行きますね、遅刻しちゃうんで」
 ちょうどまた信号が変わって、人混みが動き始める。
 それに紛れて、麻衣は手を振った。
「また何かあったらよろしくおねがいしまーす!」
 可憐な顔に満面の笑顔が咲く。
 もう関わりたくない、という言葉を飲み込んで、広田は麻衣とは違う方向に歩き出した。


    †

 ジーン。
 名前を呼ぶ声。
 思う、心。
 見る、ゆめ。
 そして、いわれもないまま絡み付く、猜疑。

 どうか、それは言わないで。聞かないでいて。
 せめて、もうすこしだけでも傷が癒えるまで。
 傷が癒えることがなくても、せめて、その痛みをやわらげるなにかが。
 その、こころに、ともるまで───。




 count10000hit、相模さまに捧げますv
 リクエストは「恋人未満のナルと麻衣。時期は阿川家直後」でした。
 お、お題はクリアかな、とか。とか……。数カ月の空白をおいても変わらない日常と、メインは後半の麻衣ちゃんと広田さんの会話です。はじめて読んだ時からずーっとしつこく思ってたことです。どなたか書いていらっしゃったらごめんなさい(汗)
2003.8.7 HP初掲載
 
 
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