穏やかな、いきが、聞こえる。
腕の中。
深く抱き込んだ柔らかな体の、ぬくもり。
薄い布越しに、それでも確実に伝わる、穏やかな鼓動と、胸に触れる、規則的な吐息。
眠る少女の、華奢な、壊れそうに細い、やわらかで優しい身体。
その全てに、泣きたいほど安堵する。
胸に、腕に、一片の疑いもなく、何一つ憂いもなく委ねられた。
───生命。
それは、この上もなく確実な。
愛しい?
大切な?
護りたい?
どれも確実に事実なのに、何一つ絶対に真実ではない。
+
+
+
「何かあっても責任は持てないが?」
憑依された影響が残っている危険性の高い麻衣を、冷えた、凪いだ声で引き留めた。
引き留めて、戸惑いを隠せない彼女を、それでも彼女の許容を良いことに、抱き締めて。
腕の中に、強く抱き込んだ。
「何か、変だよ」
苦笑混じりに呟いて、麻衣はそれでも抗わない。華奢な身体を拘束するように抱き締める腕は、強くなる。
「何が」
声だけが、トーンも口調も変わらない。
「ナルが」
「だから、何が」
「変じゃないなら、こんなことはしないでしょ」
よりにもよって、ナルが。
苦笑混じりの、けれど拒絶の響きを持たない麻衣の囁きに感じたのは、何より明確な、安堵。
憑依されそうになるのも、実際に憑依されるのも、日常茶飯事と言うほどではなくてもさして珍しいことではない。
今回が特に危険だったわけではない。
生命に関わるような場面は極力避ける方針だとは言っても、結果的に避けられないことは往々にしてあることだ。それがどんなに所長であるナルにとって不本意なことでも、実際にレギュラーイレギュラー問わず、メンバーの誰かが重傷を負うこともある。そして、やむを得ず危険な状況に陥るようなケースの霊は得てしてきわめて悪質なのだ。
ナル自身はもちろん麻衣も、間一髪の事態は何度も経験している。
二人の関係が、「上司と部下」で割り切れなくなってからも、それは何度もあったことだ。
今回が特別なわけでは、決してない。
けれど、ナルが、ここまで強く、麻衣を「手放したがらない」のは、少なくともそれがはっきりと顕在化しているのは。
これが初めてだった。
「嫌か?」
抑制した問いかけには、一瞬の間をおいて、かすかな笑いが返る。
くすくすと笑って、華奢な少女は抱き寄せた暖かな胸に顔をうずめてきて、ナルは一瞬息を止めた。
「嫌じゃないよ。何となく、安心する。けど」
「けれど?」
「ナルが、おかしいな、と思うだけ」
「…………」
「いいよ、答えてくれなくても」
一瞬の逡巡をどう受け取ったのか、麻衣はくすりと笑って理由の秘匿を受け容れる。
上目遣いに白皙の美貌を見上げた澄んだ瞳は、一片の翳りも見せずにただまっすぐに心を射た。
薄暗い闇の中で、凄絶なまでの美貌は、はっきりと視界に映る。
一瞬だけ真摯な視線を漆黒の瞳に向けて、麻衣は琥珀色の瞳をふわりと緩めた。
淡い瞳は、闇の中でさらに深い漆黒を映して、濃く深く、染まる。
「もともと最初から期待してないしね」
「なら訊くな」
「うん。訊かない」
逃げにも似た、らしくもない自分の台詞を内心だけで自嘲して、それでも腕の中のやわらかな温もりをさらに強く引き寄せる。
麻衣は小さく笑って、抱き寄せられた暖かな腕の中で目を閉じた。
+
+
+
奪われる、と思った。
そばにいない、そばに置けない十数時間の空白で。
失われるかもしれないと危惧した。
何が彼女を奪うのか、どうして失うのか、危惧の理由など自分にも見えないままに。
恐怖に限りなく近い独善的な感情は、何より強く精神を浸蝕して。
理性の軛は、あきれるほどに簡単に、瓦解した。
あたたかないのちの気配を、大切な鼓動を。
抱き締める。
悪夢に、苛まれることのないように。
大切に、護るように。
なにものにも、奪われないように。
閉じこめる。
自分という籠に。
永遠に捕らえるように。
眠る少女を、何者からも護って。
そして。
自由という白い翼を、夢の中でさえも、奪い去ることを。
希った。
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