街の中は、あっというまに傘の花が満開になった。
「さすが、今はみんな傘持ってるね」
「そりゃ、そうでしょ。朝もちょっと降ってたし、いつ降り出すかわかんないもん」
「そうだよね〜。今だって、さっきまで少しだけど晴れてたのに」
あまりにも一気に周囲の色彩が変わったのに一瞬だけ驚いて、それから自分たちも同じことをしたのだという事実に気付く。そのことが何かおかしくて、少女たちは傘の下で笑った。久しぶりに一緒に遊びに来れたのにという落胆は、あまり強くならないうちに周囲への関心にすり替える。
梅雨の空は変わりやすい。
雲行きは確かにあやしかったけれど、空は暗かったけれど、それでもほんの五分前まで、ガラス張りのビルの壁面に陽射しが反射していたのに、今はもう雨が降っている。
しとしと、しとしと。
降り続く雨は、初夏の空気を水の帳の中に隠していく。鮮やかになってきたはずの街路の彩度まで奪うように、確実に。
はあ、と誰からともなく溜息が漏れた。
天気に文句を言っても仕方ない。この国は水の国だし、梅雨は東アジア全域を覆う雨期の一環らしいから、いくらあがいてもどうしようもない地球のリズムなのだ。
けれど、それでも。
「嫌になっちゃう。降るなら降るで、きっぱり降ればいいのに」
半ば無意識に零れた呟きに、無言のうちに他の二人が頷く。
鬱陶しいのは、はっきりしないこと。
降るなら、きっぱり降り始めから降り終わりまで降ればいい。
降って、やんで。また降って、やんで。その繰り返しのうちに人の心は倦んでいく。
「面白いことでもあればいいけどね」
「そんなタイミング良くは、ないよねえ」
「ま、仕方ないよね。梅雨だしね」
「そうそう。雨に降るなっていっても無駄だし」
「降るなっていってやんだら不気味だよね」
「不気味っていうよりこわいって」
気分を変えるように、あはは、と笑って視線を転じた先で、視界に入った見慣れた姿に気付いて。
彼女はゆっくりと目を瞬いて、声を上げた。
「あれ。麻衣だ」
「麻衣?どこ?」
「あそこ。ほら、あのビルの入り口の。脇」
傘の下から雨を受けて指さす先には、似合わない男物の黒い傘を開いた、華奢な少女が見えた。人待ち顔に、降りしきる雨を眺める彼女は、確かに見知ったクラスメートの少女だ。
ほんとだ、と呟いた彼女に、学校の違うもう一人がもどかしげに腕を引いた。
「何?二人とも。知り合い?」
「ああ、うん。大学の、同じクラスの子」
「ふうん?ちょっと居ないタイプだね。色素薄い」
「かわいいよね〜。あの子。思わない?」
「思う」
思わず何の含みも衒いもなく友人の言葉に頷く程度には、視線の先の少女は確かに心を惹いた。
傘を持つむき出しの手も肩も華奢でも、細い身体のラインはしなやかで、どこかアンバランスなちまたの少女たちのものとは全く違う。
美少女、というタイプではないけれど、どこか物憂げに雨を見上げる瞳もこづくりの貌も可憐な印象を与えるばかりではなくつよい何かを宿して、見通しの悪い雑踏の中でひどく目に付いた。
「雨の中、何やってるんだろうね。あんなところで、人待ち?」
「持ってる傘、男物でしょ。そうかもね。………そういえば、なんか毎日バイトって聞いた気がするし、さっき雨降ってきたからお迎えかな」
「バイト先の上司とかの?」
「うん。それっぽくない?あそこ、上の方オフィスビルだし」
「それ、ありえそう。大体、絶対あの傘自分のじゃないよ。絶対麻衣の趣味じゃないでしょ」
「私もそう思う!似合わないもんね、あの子にあの傘」
「でも、なんか可愛くない?却って」
「あはは。そうかも」
くすくすと笑いあう。
華奢な白い少女と、大きな黒い男物の傘。
その対比は、雨に沈む季節に沈滞した感覚に、あざやかに新鮮に映った。
+++
大きすぎる傘越しに見える、雨に沈む灰色に染まった街と空。
傘を持ち直して、麻衣はちいさく溜息をついた。
雨が降りそうだな、と思って、切れかけた茶葉の補充を口実に上司を迎えに来てみれば、案の定、だ。だいたい、この季節に傘も持たずに外出すること自体が間違っている。けれど考えるまでもなく、そんなことをあの研究馬鹿に言っても無駄だし、迎えに来たなどと口が裂けても絶対に言うつもりはない。ここに来たのはあくまで「買い物のついで」なのだから。
澄んだ瞳に決意の色を強くして、麻衣はくるりと振り返った。
自動ドアの向こうに感じとった気配に間違いがなかったことを確認して、殊更に綺麗ににっこりと微笑む。
雨の中自分を待ち受ける部下の少女の存在に気付いても、漆黒の美貌の青年は足を速めるどころか驚きさえ見せずに、いつも通りの完璧な無表情のまま自動ドアから踏み出した。
「ナル」
「何をやってる?」
「何って。雨降ってるから迎えに来たんでしょうが。お茶も切れたしついでにね」
「ついで?」
「そう」
「その割には買い物はまだのようだが?」
「時間が迫ってたから!行き違いになったら馬鹿でしょうが」
「それで、これから僕は買い物につき合わされるのか?」
「いやなら先に帰ってくれれば良いけど?」
あたしは傘届けに来ただけですから。
白皙の美貌を睨め付けて傘を突き出した麻衣に、ナルは口元に皮肉な笑みを浮かべた。
「それで?麻衣はどうやって帰るつもりだ?」
「歩いてきたんだから歩いて帰るに決まってるでしょ」
「濡れて?」
「え?」
問われて、一瞬何を言われたのか分からずにきょとんと漆黒の瞳を見返して、それから傘を差しだしたままの自分の手を見直して。
麻衣はあ、と声を上げた。
華奢な手には、開いた傘。
けれど。
「自分の傘は?」
「………忘れてた………」
「お前は馬鹿か?」
「そういう言い方はないでしょ!」
思わず口をついた麻衣の抗議に、凄絶なまでの妍麗な美貌が、完璧な笑みを作る。
皮肉な言葉を紡ぐのは相変わらず声質だけは美しい、腹が立つほど耳に快く韻く低い声。
「ついでに僕を迎えに来て、自分の傘を忘れることのどこが馬鹿ではないと?」
思わず言葉に詰まった麻衣の手から、しなやかな白い手が傘を取り上げる。白皙の美貌からは既に表情は消え去り、皮肉な笑みの残滓すらない。
「帰るぞ」
「え?いいの?」
「濡れて帰りたいのか?」
「そういう訳じゃないけど」
濡れて帰らされるわけではないと、そんなことは多分絶対にあり得ないと解っていても、自分にもさしかけられた傘がどうしてかひどく意外に感じて、麻衣は一瞬だけ琥珀色の瞳を瞠って、軽く首を傾げた。
「………ついでに、買い物にもつき合ってくれる?」
「僕がついでじゃなかったのか?」
皮肉な口調で切り返されて、麻衣は漆黒の瞳を見上げてくすりと笑う。
「根に持ってるの?」
「どこにそんな必要が?」
「……素直じゃないな」
「麻衣が?」
「ナルが。………まあ、ナルが素直だったら変だし、確かにお互い様だけどね」
「……それで、行くのか?行かないのか?」
「行く」
きっぱりと答えた澄んだ声を合図にしたように、雨の中に足を踏み出す。
傍らの気配は変わらない。
漆黒の傘の下で雨に濡れることもない。傘の位置が高いから、視界は先刻よりずっと明るい。
そのことが何か新鮮で嬉しくて、麻衣はきれいに笑ってほんの少しだけ歩調を速めた。
傘は一つだけだから。
あわせた歩調は傘を叩く雨の音と、一定のリズムを刻む。
+++
「うわ凄い」
「眼福もの」
「目の保養」
二人のクラスメートの少女が迎えた青年の、あまりといえばあまりの美貌に言葉を失っていた三人は、意図したわけでもないのに同時に我に返って吹き出した。
周囲から奇異な視線を向けられているのは気付いていたけれど、確かに鬱陶しい雨の中、女の子が三人で笑っていたら変だけれど、押さえようとは思わなかった。
ひとしきり笑って、顔を見合わせる。
「上司、かな、あれ」
「それにしちゃ若くない?あの人」
「あんまり年変わんなそうだよね〜。彼氏かな」
「うーん………それにしちゃ、すんなり歩かなかったよねえ。待ち合わせにしたら変だし」
「場所も時間もね。変だよね」
「それに彼氏なら腕くらいくめって感じ?」
「……雨降ってるのにそれは無理だって。荷物ないならとにかく」
「大体、麻衣が傘忘れたみたいじゃなかった?」
「ていうか、持ってないって、あれは。迎えに来たけど自分の傘忘れたって、わざとっぽいけどあの子はやんないでしょ」
「うん、ありがちだけど。麻衣はしないだろうね」
「でも、そういうことってわざとだと何か打算っぽくてやだけど、天然だとすごい可愛いよね。いまどき貴重で」
「思わずぐらって来たり?」
「来る来る!私が男だったら絶対よろめく!」
オーバーアクションで笑い転げれば、傘はあまり役に立たなくなり、結果として当然のことながら雨に濡れる。それだけならまだいいが、濡れた傘を降れば、雨の飛沫は容赦なく周囲に飛ぶのだ。
冷たい滴に頬を打たれて、おもわず小さく悲鳴を上げて空を振り仰いで、苦笑した。
「ね、どっかでお茶でもしようよ。このまま濡れて風邪引いたら馬鹿だよ私たち」
「………そうだね」
「あ、なら、お薦めのお店あるよ。この前ケーキが美味しいって情報が」
「それじゃそこ行こ」
「賛成賛成♪」
美味しいお茶とケーキと、楽しい話のネタさえあれば、女三人で雨の中も、結構楽しいかもしれない。
麻衣と、上司か彼氏か知らないけれどあの超絶美形の青年はネタにされるのは不本意かもしれないけど、まあ別に本人に言う訳じゃないからいいよね、と内心だけで呟いて、彼女は笑った。
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