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心の糸




 手元の本に没頭していた彼は、感覚に何かが触れた気がしてふと顔をあげた。
 沈んでいた深層から表層はとおく、ふわりと浮上したとたん精神がふるえる。

「………ってば!!!!!」
 浮かび上がった、その瞬間。
 突然聴覚に飛び込んできた絶叫に等しい高い声に、彼は秀麗な美貌を顰めた。

「………うるさい」
「………………………………」
 いつのまにか。
 ほんとうにまったく気付かないうちに横に座っていた少女が、怒るのを飛び越したのか、一瞬息を止めた。淡い間接照明に照らされた、深い琥珀色の瞳が彼を見上げ、そして脱力する。華奢な上体がずるずるとくずれおちて、やわらかな髪がソファの背に散った。───すぐそこにあった、黒いシャツの肩に額を落とさなかったのは、せめてもの彼女の精神的抵抗だろう。
「…………ナル。なんっっっっにも聞こえてなかった、ね?」
 恨めしげな彼女の瞳に、凪いだ漆黒の瞳がかえる。
 それだけで答えは明白で、いまさら言葉にするまでもない。
 経験上すでに諦めきった彼女は、軽く首を振るだけで意識を切り替える。この程度のことでいちいち落ち込んだり怒ったりしていてはこちらの身がもたないということは、数年のつきあいで既に嫌と言うほど学習済みだ。
 溜息をひとつついて、麻衣は身体を起こしてさっきから繰り返していた質問をもう一度口に乗せた。

「ねえ、ぼーさんと綾子って、どう思う?」

 唐突な問いかけに、ナルは眉を寄せた。
 麻衣が口を開く前にざっと反芻した、本を読み始める前の会話ともかけ離れている。だから、それはまったく予測の範疇に入っていなかった。唐突と言っていい質問は、あまり彼にとって「興味深い」ものではなかったし、彼女が彼に問いかけるようなものとも思えない。
「……なんのことだ?」
「そのまんまの意味だけど」
 自分の質問の変さ加減は十分承知していたけれど、さらりと答えた麻衣は軽く首を傾げる。
 何気ないようで、その瞳の奥に確かな危惧の光がある。それを読みとれるから、彼は彼女の他愛ないような質問を無視できない。
「能力者という意味なら」
「無能だと思ってたら呼ばないでしょ。よりによって、ナルが」
 台詞の後半を先取りして、麻衣は一瞬だけ躊躇った。
 本当に、この質問は、「ナル」にするようなものではない。まったくそれだけは馬鹿馬鹿しいほど明白だった、けれど。
「……他言無用ね?」
「吹聴する趣味は持ち合わせていない」
「うん、まあ、そうだよね」
 軽く苦笑して、麻衣はかすかに首を振る。さらさらと髪が音を立てて、頬を滑り落ちた。
「あのね。ぼーさんと綾子の関係。………ナルから見て、どう見える?」
「………………は?」
 ナルは、今度ははっきりと眉を顰めた。
 怜悧な瞳が僅かに険をふくむ。
 麻衣はわずかに視線を落として、説明をはじめた。
「あたしが詮索したいわけじゃなくて。気になるわけでもないし」
「それで?」
「……………タカがね」
「が?」
「…………綾子さんが相手じゃ勝ち目ないよー、って」
「……………は?」
 発言の趣旨が一瞬理解できずに、怜悧な天才博士は闇色の瞳を眇めた。
 視線をうけとめて、麻衣は補足する。いつもは気持ちがいいほど明快な彼女の言葉が、めずらしく歯切れが悪い。かなり言いにくいのだろうと推測はついたが、話を始めたのが彼女自身である以上、漆黒の視線はどこまでも怜悧で容赦ない。
「つまり。タカってさ、ぼーさんのファンでしょ?」
「………それで?」
 タカ、つまり元バイト事務員である高橋優子は”ベーシスト・滝川法生”の大ファンで、事務所ででもノリオらぶvを公言していたことは、所長である彼も知っている。大学の関係でバイトは辞めたが、麻衣との友人関係は続いていたらしい。
「つまりさ。…………真面目にね、ぼーさんのこと、好きなんだって」
「物好きだな」
「そのぼーさんはデイヴィス博士の大ファンじゃない」
 くすす、と含み笑いで切り返した麻衣の台詞を、彼は冷たい視線だけで受け流した。
「で?」
「………で。」
 麻衣はあっさりからかうことを諦める。もともと、あまり言いたくない本題からの逃避に近い。
「だから、綾子のことが気になるわけ。綾子って美人だし、能力者だし。………タカって調査のことはほとんど知らないけどナルの性格は分かるからさ。優秀なんだろうなーって」
「松崎さんが訳に立つのはかなり限定的だが?」
 綾子の能力は、超のつくほど珍しい「生きている樹」がないと訳に立たないが、役に立つときは絶大な威力を発揮する。が、ナルが綾子をほとんど毎回調査に呼ぶのは、麻衣への配慮という意味合いがかなり強い。しかしそれはナル自身の考えであって、麻衣本人も含めて他の誰も知らないことだ。………綾子は気付いているかもしれなかったが。
「訳に立つかどうかはとにかくさ。調査でやっぱり一緒に行動することが多いし、年も近いから一緒に飲みに行ったりしてるし。綾子って、ぼーさんのこと言いたい放題だけど、はたから見てても結構仲いいじゃん」
「だから?」
「気になるみたい。どういう関係なのかなって」
「それで、麻衣はどう答えたんだ?」
「あたしは、別にあのふたりがタカが気にするような仲だって思ったことなかったから、気にすることないよって言ったの。そしたら、なんか考え込んじゃって……。珍しくほんとに真剣な目してたから、どーしてもひっかかってて」
「だからといって僕にその類の話を振るのは間違っていないか?安原さんのほうが適任じゃないかと思うが」
 妍麗な美貌に僅かに笑みを滲ませて、ナルは手を伸ばして麻衣の頬にかかっていた髪をゆびさきで軽く払った。
「だって、あたしが知ってる限り、いちばん客観的に見れるのってナルだもん。それに、安原さんに下手にそんなこと言ったら、かき回されて、ぼーさんがおもちゃにされるだけじゃん」
 きっぱりと断言して、麻衣は白皙を見上げる。
「だからナルに聞いてみようと思ったの」
「麻衣の判断は客観的じゃないのか?」
「………客観的なつもりだけど、自分じゃそんなのわかんないし」
「それなら、麻衣はどう思っている?正直に」
 当事者であるタカには言えなかった部分も含めて、麻衣の考えをすべて述べよ。
 そう言ったナルに、麻衣は恨めしげな視線を向けて、それから口を開いた。
「………………しょーじきに言っちゃえば。分かんないよ、そんなの。綾子とぼーさんが仲いいのは確かだし、だけどそれが単に友達としてなのか、違うのか、あたしには分かんない。タカにもそういわれたし」
「どう言われた?」
「麻衣には、大人のつきあいってわかんないでしょー、って」
「わからないか?」
 くすりと笑って返されて、麻衣は頬を滑り落ちていった白い指先をつかまえて離すと、ナルの顔を睨んだ。白い肌が、僅かに上気して淡く染まる。
「どーせ分かりません!」
「それで?」
「だけどさ。飲みに行くのだって、だいたいリンさんも一緒だし、場合によってはジョンも一緒だし。ぼーさんと一対一のつきあいってのは、あたしは見たことないんだよね。あんまりそういう雰囲気もないし」
「単に麻衣や僕には見せていないだけかもしれないが?」
 ナルと麻衣の関係自体、それほど公然と見せているわけではない。頻繁に出入りするメンバーはともかくとして、現に、タカは二人のプライベートな関係を全く知らない。
 暗にそれを示したナルの意図を読みとって、麻衣は苦笑した。
「うーん、まあ、それは確かにそうだけど」
 言葉を切って、軽く首を傾げる。
「…………………それに、ビジュアル的にはぼーさんよりリンさんのほうが綾子とはお似合いだと思うな」
 くすくす笑った麻衣に、ナルは溜息をつく。
「それはあり得ないな」
「うん。あり得ないけど。でもあのふたり、見た目のイメージのタイプ似てるし、美男美女で並べたらお似合いじゃん」
「そういう感覚は僕には理解できない」
「だろーね。………あの三人が三角関係だったら可笑しいけどね」
「だから、ありえない仮定をしても時間の無駄だ」
 慣れてきたとはいえ、リンの日本人嫌いは筋金入りだ。日本人女性と恋愛関係になることは、まず考えられない。たとえ心が惹かれても、強固な理性が全力をあげて阻止するだろう。
「とにかく。………あたしは結局わかんないんだよね。多分違うと思うんだけど」
 ナルはどう思う?と目線で問われて、彼はさらりと答えた。
「ないだろうな」
「え?」
「将来は知らないが。今のところは、滝川さんと松崎さんが、高橋さんが危惧しているような関係だとは思わない」
「根拠は?」
「痕跡がない」
「………痕跡?」
「人とある程度以上深く関われば、その相手の気配の痕跡がつく。…………ちゃんと注意して見れば麻衣にも分かるはずだが?」
 観察努力が足りない、と揶揄を含んだ視線で目の前の少女を一瞥して、白皙の天才は淀みなく言葉を続ける。
「滝川さんにもリンにも、確かに松崎さんの気配の痕跡はある。が、同程度でしかないし、それほど濃いものじゃない」
「………言われてみれば、確かにそうかも。………それに、それだったら、もしつきあってるとしたら二人とってことになるけど、それはないし」
 松崎綾子は見た目の派手さに反して、実は結構身持ちがかたい。簡単に複数の男性とつきあうようなことは考えられない。
「そう。だから、それはないだろう」
「………うん。わかる」
「僕の意見はそういうことだ。……………まあ、それはともかく、あの二人はいいコンビネーションだとは思うが」
 滝川は実働戦力として、綾子は補助要員として、ふたりは他のメンバーと比べれば高い頻度で一緒に仕事をしている。オフィスで顔を合わせる機会も他より多い。見ていて気持ちいいほどぴたりとはまった、打てば響くような会話は聞いていて面白いものだ。いくら煩いと思ってはいても。
「うん、それはあたしも賛成」
「二人揃うとうるささが三倍になる」
「……………」
「………イヤミですか、所長」
「いや。事実だろう?」
 一緒になって騒いでいる傾向のある麻衣が、う、と詰まって、ナルは美貌に笑みを刻んだ。
「別に、否定はしない。仕事の邪魔にならないなら、だが」
「………はい」
「別に麻衣には言っていないが?」
 妍麗な美貌。漆黒の瞳はまっすぐに麻衣を捉える。
 それだけで、射すくめられたような気がして、身じろぎもできない。
「…………身に覚えがあるとね」
「あるなら善処しろ」
「わかりました、所長」
 わーん薮蛇、と呟いて、麻衣はつかまえていたナルの手を離した。
 やわらかなぬくもりが離れると、そのまま指先だけでやわらかな髪をさらりと梳いて、闇色の瞳を左手に開いたままの本に戻す。
 結論は、出たはずだった。
「ナル?」
「あの二人はいい関係にはあるだろうが、恋人ではないだろう」
「………」
「少なくとも今のところは」
「……そうだね」
「僕の意見はそれだけだ」
「うん。ありがと。………今度会ったときにもう一回言ってみる」
 ふわりと笑って、麻衣は立ち上がった。
「邪魔してごめん。つきあってくれてありがとう」
「…………。明日は予定通りか?」
 直接は答えなかったナルに、麻衣はすこし考えて、うなずく。
「そのはず。なにかあったら連絡する」
「わかった」
「それじゃね。………おやすみなさい、ナル」

 ふわり。
 かがみ込んだ少女の髪が、さらりと揺れて漆黒の髪に混じる。
 もう慣れた、やさしいぬくもりが近づいて、軽く触れてそして離れる。

 ソファにはまだ体温の名残を残して。
 少女は静かにリビングを出て行った。
 玄関を出る気配もドアが閉まる音も追うことはしないで、ナルはまた意識を本に向けようとして。

 そして、ほんのわずかに苦笑する。

 麻衣が気にした、彼らの関係。
 自分が作ったオフィスでうまれる、新しい心の糸。
 触れる、ぬくもり。

「本当は、どうなんだろうな」
 面白がるような低い声は空調の音に溶けて消えて。

 やわらかな静寂が、そこに残った。




 count13000hit、摩鳩羅キナさまに捧げますv
 リクエストは「ナルと麻衣から見たぼーさんと綾子。」でした。
 …………リクエストとかけ離れてないか?(爆)と我に返って自問自答した師走です……。あああ。想像力貧困を極めた私にはこれ以外のシチュエーションが思いつきませんでした(泣)キナさんごめんなさい……。何か機会みつけてぼーさんと綾子の話かくのでそれで許して下さい……。←いつになるのか言ってみろ。
 それにしても、おそろしいほど久しぶりの更新でございました(合掌)少しでも気に入って頂ければ嬉しいです。感想などいただけるともっと喜びます(爆)

2004.1.11 HP初掲載
 
 
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