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missing piece




「Excuse me, Dr. Davis.」
 
 軽いノックの音とともに、柔らかな女性の声が空気を揺らした。
 声をかけた対象を驚かさないように、気を散らさないように細心の注意を払われた、丁寧な呼びかけ。

 その声に、彼はほんの僅かに眉を寄せた。
 幾つか年上の女性事務員にお茶を頼んだのは、確かに彼自身であり、何もおかしなことはない。
 だというのに感じた、かすかな、けれど無視しがたいほどの、違和感。

 硬化した、漆黒の表情のない瞳を向けられて、彼女の顔が強ばった。
 研究所の中でもVIPの一人であるこの青年は、将来を嘱望される若手のカリスマであると同時に、その特殊能力と天才ゆえに畏怖の対象でもある。
 そのうえ、凄絶なまでの美貌と美しい闇色の瞳は凍り付きそうなほど冷たい。
 彼女はあわててカップをトレイごと机の端に置き、軽く会釈して逃げるように部屋を出ていった。

 ナルは微かにため息をついた。
 怜悧な視線は事務員の背を一瞥もせず、カップに一瞬だけ向けられたが、しなやかな指先がカップに伸ばされることはなかった。
 興味を失ったかのように、ふい、とはずされた視線は、再びモニタに戻る。


 消えようとしない違和感は、ここ数日、感じていたものだった。
 それはずっと内面に潜在していて意識することもないというのに、ごく些細なきっかけで無視できないほど強く、精神を呪縛する。

 感情に支配されるのは好きではない。
 まして、正体不明の感情など、もちたくもない。

 けれども、原因が分からなければ対処のしようもなく、ただ、苛立ちだけが募る。
 それはまるで、ピースの足りないジグソーパズルを組むような、もどかしさを含んだ、苛立ち。

 見失った、かけら。
 最後までのこる空白。

 ─────それがなければ絶対に完成しない、パズル。

 何がないのか分からないまま、本当にないのかさえも分からないまま、ただ、正体不明の焦燥だけが、どうしようもなく募る。

 SPRの本部、「デイヴィス博士」のために用意された研究室は、研究のためにはベストのコンディションにある。
 必要な資料がすべて手に入り、環境も完璧に整えられた空間は、彼にとっては「楽園」に似たもののはずで。
 それなのに、目の前のモニタに集中できない。
 蓄積された研究ファイルをただ消化してデータを処理するだけで、生産的な作業ができない。
 これほどに恵まれた環境で、邪魔が入ることもないというのに、新しい論文を書くどころか構想すら浮かばない。
 他に気を取られるようなことはないというのに、意識の大半を正体不明の呪縛に捕らわれて、研究に集中することができない。

「我ながらどうかしてるな」
 声に出すつもりもなくつぶやいた言葉は、自嘲を含んで苦く、空気にこぼれ落ちた。


 最後までのこる空白。
 正体不明の、もどかしさ─────。

 足りないピースは、本当に分からないのか、それとも分からないふりをしているのか。
 足りないピースの所在を知って、それを求める心を抑えることができるだろうか。

 空白を埋める方法を知って、埋めないで置くことができるだろうか。

 何に気を取られているのかすらよく分からない─────?
 気づいているのに気づかない振りをしているだけか。
 
 それは、ただ。
 胸に灼きつくような焦燥を、焦がれるような渇望を、無視するために。
 焦燥と渇望のベクトルの先を見ることを、懼れて。








「ナル、お茶淹れたけど」
 ノックの音はない。
 音もなく扉が開き、抑えられた澄んだ声が、静寂を揺らす。
 漆黒の視線が、綺麗にファイルされた留守中の記録からまっすぐに麻衣を捉えた。
「あ、ごめん。邪魔した?」
「いや」
 ごく短い返答に、麻衣は何かを探るように無表情の闇色の瞳を見つめ、それからふわりと笑った。
「ならいいけど」
 いいながらソファの前、ファイルと郵便物が積まれたセンターテーブルの空きスペースに、ことりとカップを置いた。
 あまり間をおかず、シンプルなミルクウェアのウエッジウッドに、白く長い指が伸びる。

 白皙の美貌に白い湯気が掠め、それに隠れるように僅かな笑みが過ぎった。

「麻衣?何を突っ立ってる?」
「‥‥‥‥‥‥ここに、いてもいい?」
 躊躇いがちな問いかけに、ナルは苦笑した。
「別に確認を取らなくてもいい」
 低い、硬質な、けれど無表情ではない声。
 琥珀の瞳が瞬いて────そして可憐な容貌に、僅かに照れたような苦笑が浮かんだ。
「そっか」
 小さくつぶやいて、華奢な体がすとんとソファに沈む。
「どうした?」
「ちょっと、緊張してるみたい」
 苦笑混じりに返された台詞に、秀麗な眉が寄せられる。
「は?」
「うん。話すの久しぶりだからかな」
 ナルの英国滞在は2週間。
 2週間ぶりに触れるぬくもりと、声。
「どうして電話しなかった?」
 番号を、渡していただろう?
 問われなかった言葉を、向けられた漆黒の瞳から読みとって、麻衣はちいさく笑って首を傾げた。
「うん。何度もかけようとはしたんだけどね‥‥‥‥‥声聞いちゃったら我慢できなくなりそうだったから」
「我慢?」

 無表情の問いかけ。
 そして、琥珀色の瞳から、笑みが消えた。

「会いたかったの」
 抑えた、高い声。
 痛いほど真剣な瞳は、まっすぐにナルを見上げる。

 絡み合った視線。
 痛いような均衡は、一瞬で崩れた。
 闇色の瞳が一瞬だけ色を深めて─────ため息が、おちる。

「‥‥‥‥そういう、ことか」
 麻衣に向けられているようで、全く向けられていない呟き。
 どこか苦笑めいた、けれど切ない笑みが白皙の美貌を彩る。
「ナル?」

 正体不明のまま無視できないほど募っていた焦燥の正体が、見える。
 気づいてしまえば認めざるを得ない、胸を灼いた渇望の対象。

 ナルはカップをテーブルの上に戻し、そして漆黒の視線を麻衣に向けた。
 白い頬にかかった栗色の髪をしなやかな指がそっと払い、頬をたどって滑り降りる。
「ナル?」
 名前を呼ぶ、声。
 それを封じるように一瞬だけ唇に触れて、ナルは柔らかなぬくもりを捕らえた。

 
 見失っていたピースを見つける。
 
 最後まで残っていた空白が、埋まった。





 count200hit、理津さまに捧げますv(ただし返品可‥‥‥)
 いただいたリクエストは「"calling"その後」、でしたが、これじゃ「ナル側の話」‥‥‥‥(滝汗)。その後麻衣がどうしたか話してるので‥‥‥って、駄目ですか(泣)
2001.2.18 HP初掲載
 
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