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父も、母も、ともに天涯孤独だった。 父の顔はおぼろにも覚えていないし、母は自分が義務教育を終えるのを待ってはくれなかった。 父も母も、ともに早死にの家系なら、注意が足りないと思った。そんな二人が自分という子どもを産んだことを恨んだりはしなかったけれど、それでも迂闊すぎると思った。 だから。 心の底のどこかで、自分が子どもを産むことなどないと思っていたのかもしれない。 子どもが嫌いなのでもなく、欲しくないからでもなく。 ただ。 自分と同じ思いをさせたくはなかった。 + 小さな手、小さな顔、小さな身体、まだ少ない黒い髪。 無力な、けれど愛おしい命の存在に、息をついた。細い指先を伸ばして、ふっくらとした頬にそっと触れて、ちいさく微笑う。 今はまだ、自分では何もできないこの子は、自分たちに全てを依存して生きている。注意深く守って愛してやらなければ、多分成長することさえできない。その、全身全霊をかけた無償の信頼が、はねつけられることなど微塵も怖れない小さな手が、こんなにも嬉しい。 ただ、守りたい。 神の存在など信じているわけではないけれど、それでも心は「何か」に加護を恃む。 どうかどうか、苦しむことも悲しむこともなく、幸せでありますように。この子がたったひとりになりませんように。自分の手が届かないときに、たったひとりで泣くことなどありませんように。 単純で、切ない祈りを、かつて母も自分のために祈ったかもしれない。 ───そういう意味では、お母さんよりも無謀で、我が儘なのかもね。 何度思ったかしれないことをまた考えて、麻衣は苦笑した。 家系のことを言ってしまえば、両親と同様に自分も彼も天涯孤独、おまけに決して弱いとは言えない特殊能力を二人とも持っている。能力と遺伝子との関係がないとは言いきれない以上、この子はもっと苦労するかもしれない。たとえ力の限り守っても、どうしても手の届かない範疇があることを、自分たちは他の誰よりも知っている。 考えて、考えて。 嫌になるほど悩んで考え抜いて、その果てに子どもを望んだ。 子どものためを思うなら、最悪の相手を選んだのだという自覚はある。 生物は、自分の遺伝子を後世に伝えるために、生殖の相手が可能な限り強く健康であることを求める。生き残るために、それは殆ど例外なく、本能で規定された生物としての原則。 人間だけが、幻想で生殖を規定できる。 幻想の前に生物として遺伝子を保存するという本能を無視できる人間は、既に生物としては不適格なのかもしれないけれど。その善し悪しは別として、人間は本能だけで生きてはいないから。 子どものために、などとは口が裂けても言えるはずがない。どう贔屓目に考えても、子どもにとってはマイナス面の方が多い。 だからこの子を産んだのは独善だと、誰よりも自分が知っている。 それでも。 憂いの翳りなどなく安らかに眠っている顔を見ているだけで胸が痛くなるほど愛しいのは、自分でも予期し得なかった真実だから、守りたいと思った。たとえ何があっても、世界中を敵に回しても、どんなものからも守りたいと、泣きたいほど強く希った。 「麻衣」 扉の音どころか足音さえ立てずにすぐ背後から声をかけられて、麻衣は驚きもみせずに振り返った。音などなくても慣れた気配は感知する。ふわりと宙を舞った栗色の髪の影で、やわらかな琥珀色の瞳がまっすぐに漆黒の瞳に向かう。 眠っている子どもを起こさないように、半ば無意識に抑制された声が密やかに空間を震わせた。 「ナル?」 「大丈夫か?」 「この子のこと?大丈夫、ミルク飲ませたら眠ったから。………ごめんね、いま忙しいのに」 筋違いのことを謝られて、ナルは溜息をついた。論文が佳境にさしかかっているのは事実だが、それとこれとは問題の次元がまったく違う。 深い漆黒の瞳は変わらず華奢な妻を捉えて、低く言葉を接いだ。 「子どものことじゃない」 「え?」 凄絶なまでに研ぎ澄まされた美貌を見上げて、麻衣は目を瞬いた。戸惑ったのは数瞬で、答えはすぐに見つけられる。 「あたしのこと?」 「そう」 「大丈夫、ありがと」 「ろくに寝ていないだろう」 「ナルに言われたくないけど」 麻衣の指摘は正当だ。実際に、睡眠時間だけを比べれば麻衣よりもナルの方が少ない。 けれど綺麗に澄んだ琥珀色の瞳をさらりと受け流して、ナルは掠めるような笑みを端麗な口元に形作る。 「僕は慣れてるから問題はない。お前は慣れてないだろう」 「………慣れてるとか言う問題じゃないっていうか、慣れてたら問題だと思うけど」 「今さら」 「まあ、確かにそうだけどね。あたしは平気。しばらくは仕方ないから」 「お前が倒れたら意味ないだろう」 「もちろん倒れるつもりなんてないよ」 麻衣は、くすりと笑って小さなベッドのそばに戻った。 もう一度手を伸ばして、眠る嬰児の柔らかな髪に指先で触れる。未だ多分に可憐な貌が、やわらかく穏やかな淡い瞳が、すっと真剣になった。 「約束は、守るから」 密やかな高い声は、祈るように韻いて空気に浸透する。 一瞬だけ子どもの寝顔をじっと見つめて、麻衣は華奢な身体をくるりと翻して、まっすぐにナルを見上げた。 澄んだ琥珀色の瞳は一点の翳りも誤魔化しも許さずに、怜悧な漆黒の瞳よりも透徹して。 「だから、ナルも守ってね」 「約束だからな」 美貌の青年は苦笑して、麻衣の華奢な肩を軽く抱き寄せた。誓約の確認のように、白い額に掠めるようなキスが触れる。 「うん、約束だからね」 「倒れるつもりがないなら寝てろ」 「うん、そうするけど。………お茶でも淹れるね」 「構わなくていい。寝てろ」 「少しだけでいいから」 「麻衣」 抑制はそのままに、僅かに語調を強めて名前を呼ばれても、麻衣は怯まなかった。 「だって、最近こんな時間でもないとそばに居れないから」 「仕方ないんじゃなかったのか?」 最初に言った自分の言葉を逆手に取られたことに気付いて、麻衣は漆黒の瞳を見上げる。 「時間が取れないのは仕方ないよ。でも、ジーンは可愛いけれど、だれよりも幸せになって欲しいと思うけれど、でも、一番好きなのはナルだからそばにいたいの」 華奢な手が伸びて、シャツを掴む。 どこか縋るような視線をうけて、ナルは軽く目を瞠って、それから苦笑した。 「……母親の台詞とも思えないな」 「そう?………でも、少しだけでいいから一緒にいたいの。約束を守るためにはお互いに無理しないことも大事でしょ?」 仕事の邪魔する気はないけれど、休息も必要だしね。 何度繰り返したか考える気にもなれないほど繰り返した台詞を付け加えてくすくす笑った麻衣に、ナルは溜息をつく。 既に自分が抵抗するつもりは全くないことを内心だけで苦笑して、色素の薄い髪に触れた。やわらかな栗色の髪を指先で梳く。 心の振幅も傾きも、既に無視できないほど大きく彼女に引き寄せられる。 今さらのように、麻衣が子どもにかかりきりなことに自分がどれだけ苛立っているか認識して、ナルは自嘲を交えて苦笑した。 数日ぶりに抱き締めた華奢な身体は、温かい。 守るように抱き締められて、おもわず涙が滲むほど安堵する。 それがたとえ親の独り善がりであっても、子どもに、名前をもらった大切な存在の分までも生きて幸せになって欲しいのは真実だけれど。 それでも今は。 子どもには自分たちのような思いはさせないように。 それが約束。 けれど、子どもよりもあなたのために、あなたを再びひとりにしないために、約束は守られるだろう。 どちらも長い苦しみと葛藤を経て、一度失われた愛しいぬくもりは一つに、そして二つに増える。それが自分の喜びであるように、あなたの喜びになるように。そして、今は眠る稚い生命の力になるように。 玻璃の繭を透かしておぼろに見えていた、輪郭の曖昧だった外界へ。 鮮明になった認識の中で葛藤も逡巡も振り切ることはできなくても、羽を広げる。 |
count2222hit、理津さまに捧げますv 頂いたリクエストは「ナル×麻衣の子どもの話」でした。なんだか怒られそうな気がするなとか思ったりもしていますが、決して喧嘩を売ってる訳ではないのです(泣)あくまでこれは私的な考えというか設定なので、怒らないでください(涙) 約束の話はここでは書けませんでしたが、そのうち書けたらいいなと言う野望をもってます(が、いつになることやら………/遠い目) 2001.8.6 HP初掲載
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