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風標




 

 ナルは、この上なく不機嫌だった。

 マンションを出た瞬間───いや、出る2日前になって、航空券が唐突に宅配便で送られてきてから、ずっと。
 飛行機に乗り、十数時間が経って彼の本国に着いてもその低気圧は去らなくて、麻衣は内心だけで溜息をつく。

 彼が怒るのは理解できるのだ。前もって連絡してきたものなら、いくらまわりに対する配慮が希薄な彼とはいえ自分の立場は承知しているから、多少不機嫌にはなっても表に出して引きずることはない。せいぜい皮肉な言葉がときおり出るだけだ。それは学会であっても、あまり変わらない。
 しかし、今回、彼の上司が───まどかではなく、さらにその上の「老人たち」が彼を呼び出したエアメールは。
 「春の研究会への出席を求める。また、デイヴィス博士が推薦する谷山麻衣嬢にとくに同行を求める」という、どう斜めに読んでもさかさにふっても、麻衣の顔を見たいから、というだけの代物だった。
 事実、予め届いている日程表には、申し訳程度に麻衣の再検査が一日入っているだけで、あとはSPRの懇親会と、この時期は毎年行われている研究報告会とレセプションパーティーだけだ。研究会に彼が出席したことはないから、完全な言いがかりとしか言いようがない。直接の上司であるまどかに文句を言っても、その「上」から直接きた召還だけに、無駄なことはやらなくても分かり切っていた。

 だから、ナルが不機嫌なのは理解できる。問答無用で無体な予定を強いられれば不機嫌になるのはナルでなくても当然だ。
 けれど、隣にずっと低気圧が停滞しているのは、あまり嬉しくなかった。

「ナルー?」
 ロンドンへ向かう列車のなかで、隣に座った漆黒の青年に、麻衣は苦笑混じりに声をかけた。
「いいかげん機嫌なおさない?あたしでも無茶だと思ったんだから気持ちは分かるけどさ」
「無茶というより無駄だな。予算の無駄遣いだ」
 このためだけに、SPRは二人分の、ロンドン・東京間直行便往復のファーストクラスのチケットをとり、五日分のホテル代を支払うのだ。正確にいくらかかったかは知らないが、結構な金額になったことは確かだろう。
「電磁波測定器でも買った方がいい」
「……まあ、ナル的にはそうだよね」
 麻衣の口調が微妙に変化したことに気付いて、ナルはほんのわずかに視線を動かした。
 闇色の瞳が、自分を見つめる琥珀色の瞳と出合う。その彩を、確かめるように見つめ直す。
「麻衣が歓迎しているとは思わなかったが?」
 今回のイギリス行きはナルが嫌がる以上に、麻衣にとっても負担が大きいはずだ。去年の夏の検査のハードさは記憶に新しいだろうし、なにより麻衣はいま進学や引っ越しで目が回るほど忙しい。
「それはまあ、忙しいし……熱烈歓迎ってほどでもないけど。ねえ?」
 皮肉と言うより驚きを含んだ声音に、麻衣は軽く首を傾げてみせた。
 やわらかな髪が、夕日にすけて金色に輝いて見える。蜜色の瞳が、漆黒の瞳と視線を絡めた。こづくりの貌に、あるかないか、ほのかな微笑が漂う。
「嬉しくないこともない、ってとこかなあ?」
「麻衣?」
 怪訝な声に、麻衣はくすりと笑って。
 手を、のばして、彼の腕のあたり、黒いシャツを引っ張った。
「ナルと二人きりだからね」
 さらり、と口にして、上目遣いに彼を窺う。
 反応を楽しんでいるような彼女に、ナルは溜息をついて─────息を、吐きだした。
「だから、まあ、突拍子もない旅行だけど、楽しんじゃえとは思ってるんだけど?」
「開き直ったわけか」
「そう。建設的でしょ?怒ってたって、事態が変わるわけじゃないし、今更帰れるわけでもないし」
 麻衣の指摘は正鵠を射ていて、漆黒の美貌の青年は、もう一度溜息をつく。
「確かだな」
「そ。………だから、まあ、あたしとしては。もーちょっと機嫌を直してくれると嬉しい、と思ってる」
「もうちょっと?」
「普段程度、希望。駄目?」
「考慮する。…………着くぞ」
 麻衣の悪戯っぽい瞳に素っ気ないほどさらりと答えたナルの言葉を追うように、列車はロンドンの駅に吸い込まれていった。


 ロンドンに到着して、ホテルに着いたのがすでに夕刻近かったから、迎えにきたまどかと食事をとっただけでその日は過ぎた。
 その次の日は簡単な麻衣の検査があったが、去年の夏の測定結果の比較対象とするためのデータが多少取られただけで片がついた。夏の時のハードさに比べれば、休んでいたようなものだ。
 その次の日のからの研究会にナルは不承不承出席し、そのかわりのように麻衣はまどかにロンドン市内を連れ回されて。
 最終日、ナルは昼間の懇親会をすっぽかして研究室に籠もったが、夜のレセプションにはまどかに引きずり出された。

「さあ、ナル。年貢のおさめどきよ」
 逃がすまいというのだろう。ホテルの部屋まで迎えに来たまどかは、限りなく黒に近いダークスーツを着たナルを連れ出して廊下に立っていた。人の悪い笑みを浮かべた上司を一瞥し、ナルは怜悧な美貌に剣呑な微笑を刻む。
「まったくの見せ物だな」
「仕方ないじゃない。あなた、滅多にこういう席に出ないんですもの」
「必要ない」
「あら、あるわよ」
 さらりと答えて、鉄壁の笑顔を誇る彼女は、最後通牒をつきつけた。
「あなたがこれまでパーティーを蹴って来れたのは、子どもだったからよ。年齢的にもそろそろ逃げられないわね。観念なさい。2時間の我慢くらいできるでしょ」
 いくら嫌でも、それなりの社交をこなさなければ、この「女王と紳士の国」ではやっていけない。
 まどかの言葉は正論だ。苦虫を百匹ほどまとめてかみつぶしたような───それでもどこまでも秀麗な表情のナルは、息をついた。
「…………麻衣は」
「あら、ちゃんと覚えてたのね、感心よ」
 まどかはにっこり笑顔でうなずいて、続けた。
「もちろん、あの子も支度中。女の子の支度は時間がかかるの」
「支度?」
「そうよ。あなた、私が何のためにこの2日彼女を連れ回したと思ってるの?」
「観光だと聞いたが?」
 確かに麻衣は、何をしていたのかというナルの問いに対して、観光だと言ったから、ナルはそう思っていた。他に用があるわけはないから、当然でもある。
「それもあるけどね。主にショッピング。あの子の服を探してたのよ」
「………たかが研究会のレセプションだろう」
 盛装の必要性はない。
 眉を顰めた美貌の青年に、まどかは指を振った。
「パーティーじゃないからカクテルドレスなんかは要らないけど、ある程度ちゃんとした格好は必要でしょ。かわいいワンピースと適当なアクセサリーを揃えたのよ。………あなた、自分の立場は自覚しておきなさいね。当然あの子にも波及するのよ」
 言葉の後半は、窘めるような口調になった。漆黒の瞳に険しい光が過ぎる。
 ───今夜の「見せ物」は、ナルだけではない。
「分かっている」
「それならいいわ」
 部下の青年の低い声に、まどかは一言で応えて、ちょうど開いた扉に手を振った。
「麻ー衣ちゃん!できた?」
「あ、まどかさん。できました、けど………」
 彼女らしくもなくおずおずと部屋から出てきた麻衣は、淡いオレンジの可愛らしい膝丈のワンピースに同じような色合いの靴をはいて、リボンのついたベージュのバッグを持っている。すべて、まどかが揃えたものだ。
「まー可愛いvよく似合ってるわ、ねえ、ナル?」
「女性の服には詳しくありませんので」
 さらりと流して、ナルは麻衣に視線を向けた。
 深い漆黒の瞳を受け止めて、麻衣は苦笑する。───自分が、こんな格好をしてこんなところにいるなんて、まるで、なにかたちの悪い冗談のようだ。
「可愛いんだけど、慣れないよね、こーいうの」
 自分の姿を見下ろして首を振った麻衣は、パールとシトリンのペンダントを持ち上げて、それと見比べるように漆黒の瞳を見上げて苦笑して、溜息をつく。
「そんなこと言わないの。ほんとに似合ってるんだから。───さてと、支度もできたことだし、行きましょう。タクシーは呼んであるわ」
「どこであるんですか?その、レセプションって」
「SPR本部の小ホールよ。大丈夫、たいしたことないから」
 まどかはにこりと笑って、先に立って歩き出す。
 その背中を見送って、ナルは小さく溜息をつくと麻衣を促した。
「麻衣」
「……はーい………」
「とりあえず僕の側にいればいい。どうせ英語はできないんだろう」
「………感謝。………ところでさ、ナル?」
 歩き出して、エレベーターホールに入る一歩手前。
 麻衣は一瞬だけ白皙に視線を向けた。
「あたしのかっこ。おかしくない?」
「詳しくないと言ったはずだが?」
「一般論はいいから、ナルの主観」
「……別に、変には見えない」
 ナルは言って、先にエレベーターの前のまどかに並んだ。


 SPR本部、小ホールという名の部屋。
 もともと貴族のロンドン邸だった建物を使っているだけあって、不要な装飾は取り去ってあるとはいえそれなりにきらびやかだ。

 そこに、まどかが足を踏み入れ───そして、彼女に続いて、華奢な少女の手を取った漆黒の美貌の青年が足を踏み入れた瞬間。
 あまり広くはないホールが、いきなり水を打ったように静まりかえった。
 なにしろ、ナル───デイヴィス博士が、こういったレセプションに参加したのはこれがはじめてなのだ。ただでさえ背筋が寒くなるような美貌が、目にした瞬間凍りつくような絶対零度の微笑を浮かべている。
 ベージュのスーツのまどかは、背後の部下の空気には頓着せず、にこやかにまっすぐホールをつっきった。
「失礼します、サー・ドリー」
 椅子に座っていたSPRの重鎮は、頭をさげたまどかに応えて席を立った。紳士たるもの、立てないわけでもないのに座ったまま女性と話をすることなど考えられない、らしい。
「ようこそ、森女史」
「遅れまして申し訳ありませんでした。ドクター・デイヴィスと、彼の被験者、ミス・マイ・タニヤマです」
 ホールが、ざわり、とざわめいた。視線が、遠慮がちにではあったが、明らかに集中する。
 遅れてまどかの横に歩いてきたナルが、まわりには頓着せず会釈した。
「お久しぶりです、サー・ドリー」
「去年以来かな、オリヴァー。元気そうで何よりだ。………そちらのお嬢さんが、ミス・タニヤマかね?」
 ナルにかくれるようにしていた麻衣は、おずおずと老紳士の前に立って、頭を下げた。ふわり、と、やわらかな髪と淡いオレンジのスカートが揺れる。
「彼女がマイ・タニヤマです」
「はじめまして、サー・ドリー。マイ・タニヤマです。………えっと……」
 一瞬日本語に戻りかけた麻衣は救いを求めてナルを見上げて───表情のない漆黒の凪いだ瞳に見下ろされて、諦めてことばを継いだ。
 片言なのは仕方がない。これから努力すればいいことだ。
「ミス・モリのご紹介で……ええと……援助をいただいて、ありがとうございました。日本では、四月から大学が始まるので、一生懸命勉強します」
 分かりにくい、片言の英語。
 けれど、ひとことひとこと区切って、一生懸命に伝えようとした麻衣の琥珀色の瞳はことばよりも多くのものを伝えたらしい。
 ドリー卿は穏やかに微笑んで、麻衣の手を取った。
「はじめまして、お嬢さん。オリヴァーのところでの勉強は、辛くないかな?厳しいだろう、彼は」
 ゆっくりと、麻衣にも分かるように発音する。
「いいえ。彼……ええと、ドクター・デイヴィスには、お世話になっています。私にとって、とてもいい勉強になります」
「そうか。それはよかった。ミス・タニヤマ、辛いこともあるだろうが、頑張りなさい」
「はい。ありがとうございます」
 わずかに上気した頬。琥珀色の瞳がきらきらと輝く。
 麻衣は丁寧に頭を下げて、それからナルを見上げてふわりと微笑った。
 緊張が解けたのだろう、細い指先でダークスーツの袖を掴んで、安心したように表情が綻ぶ。
 ふたりを見やって、わずかに驚いたような表情を浮かべたSPRの重鎮は、すぐに穏やかな笑みを浮かべて椅子に座った。
「失礼するよ。ちょっと最近足が良くなくてね」
「それは………あの、お大事になさってください」
 片言の麻衣が慌てて老紳士に駆け寄る。心配げな少女を優しい瞳で見上げて、それから彼は漆黒の青年に視線を移した。
「オリヴァー。彼女を連れて、ホールへ行きなさい。皆君に会いたがっていた」
「サー」
「彼女のことも紹介して欲しいだろう。……立食になっているから、適当に食べればいい。……ミス・タニヤマ。ありがとう。彼と行きなさい」
「…………はい。ありがとうございます」
 一瞬の逡巡をおいて。
 麻衣はナルの側に戻った。彼女をエスコートする形で、ナルはホールのほうに歩いていく。
 遠巻きにしていた人の輪が、少しずつ崩れはじめた。

 何人かには、夏以来の再会の挨拶をし、何人かには紹介されたが、麻衣はそれ以上煩わされることはなかった。麻衣の英語はかなり怪しいものだったためナルが通訳にあたっていたが、「デイヴィス博士」に通訳をやらせる強心臓の持ち主はそう多くはなかったからだ。
 視線だけは、どうしても感じずにはいられなかったし、自分をさしてひそひそと話をするのが目に入らなかったわけではなかったが、努めて気にしないようにし、野菜メニューを選んでナルに示すことに心を傾ければ周囲の喧噪を無視することは難しくなかった。
 ナル自身の機嫌もはてしなく悪かったため、彼のまわりに人はあまり近づかず、結果的に煩わされなかったとも言える。


 楽しくないレセプションを予定よりはやく、1時間半ほどで切り上げてホテルに戻り、ナルはそのまま部屋に閉じこもったから麻衣も部屋に籠もらざるを得なかった。深夜というほど遅くはないが、一人歩きは厳禁されている。
 可愛らしいワンピースを脱ぎ、いったんハンガーに掛けて楽な服装に着替え、ワンピースに汚れがないことを確かめる。華奢な靴をかるく磨き、バッグから化粧ポーチと貴重品を取り出して自分のカバンに詰め替えたとき、ドアが叩かれた気がした。
 一瞬身を強ばらせて、ドアを窺う。
 もう一度ノックの音が、今度はリズムをとって五回、そして聞き慣れた声がかすかに聞こえた。
「まーいちゃん?寝ちゃった?」
「………まどかさん?」
 麻衣は立ち上がって、念のためスコープで確認してからドアを開ける。
「まどかさん。どうしたんですかこんな時間に」
「うふふー。二人で話したかっただけよー?あ、ルームサービスで紅茶頼んだからそのうち来るわよ」
「…………」
 あっけにとられた麻衣はまどかの顔を見上げ────そして慌てて身を翻した。ばたばたとバッグやスーツケースを片づける。
「あら。お片づけ中だったの?」
「はい。………ありがとうございました、ワンピースとか。靴は磨いたんですけど」
「何言ってるの?あれはみんなあなたのよ?ちゃんと持ってかえってね?」
「え!?」
 麻衣は真面目に目を見開いた。───まどかに誂えてもらった今日の服は、かなりの額になるはずだ。
「日本で着る機会がないっていうなら私が預かってもいいけど、持っていて損はないはずよ?」
「そうじゃなくて。………もらえないです、こんな高価な……」
「気にしないの。ナルを引きずりだしたご褒美だと思ってね。ちゃんと経費でも落とすから」
 にこりと笑ったまどかは、きっぱりと言い切った。
 一体どういう名目の「経費」なのか聞きたくなったが、麻衣は溜息をついてまどかを見上げる。
「まどかさん………」
「あのねえ、本当に好評だったのよ?あなた」
「は?」
 目を瞬いた麻衣に、まどかはにこりと笑って淡い色合いのやわらかな髪を撫でた。
「みんな、あのナルが専任でついた被験者って言うんで、すごく注目してたのよ。それが、実は。やたらと可愛い女の子だったんですもの。あまりにも思いがけなくて、それはもう、大騒ぎだったわよ」
「……………」
 くすくす笑われて、麻衣は絶句した。
「ナルもおとなしく貴女をエスコートしてたし。あなたたち帰ったあと、質問攻めにあったんだから」
「…………まどかさん…………」
「だーいじょうぶよ、余計なことは言ってないから♪」
 魅力的なはずの笑顔が悪魔的に見えるのは、気のせいではないかもしれない。
 麻衣が疲れたようにベッドに突っ伏したとき、ルームサービスのボーイがドアをノックした。


 小一時間楽しくおしゃべりして、まどかは明日の出発を見送れないことを詫びたあと、まどかは立ち上がった。
「ごめんなさい、そろそろ帰るわね」
「あ、はい。遅くなりましたけど大丈夫ですか」
「大丈夫よ、心配しないで」
 鮮やかに笑って、ドアのほうに足を踏み出そうとして。
 まどかは振り返ってポケットから麻衣の手に、新しいカードキーをわたした。
「あなたのものよ。使ってね。詳しいことはナルに話してあるから」
 にこりと笑って。
 台風のようなまどかは去り、麻衣は半ば呆然とカードキーを見つめて。
 隣に電話をかけようかどうか、本気で悩んでしまった。

 結局電話はかけなかったから、キーの正体が明かされたのは、その翌日の午後、ヒースローを飛び立った飛行機の中になった。
 驚きのあまり思わず大声を上げそうになって苦虫をかみつぶしたような顔のナルに口を塞がれたことは、多分ふたりだけの秘密である。





 count22222hit、裕美さまに捧げますv
 リクエストは「ナル×麻衣でSPRのお披露目パーティーの話」でした。
 披露宴じゃないから純粋なお披露目パーティーはないだろうということで、研究会のレセプション(身にパーティーのようなもの)に初顔出し、というシチュエーションになりました。ええと、キリ8888で出てる奨学金のエピソードと、「風の戯れ」のSPR社宅(?)エピソードに微妙にリンクしてます。
 多分もっと劇的なデビューを期待されていたんだろうなーと思いつつ、こんなで申し訳ありません(汗)許して頂けると嬉しいです……。そして、力一杯お待たせして申し訳ありませんでした……。
2004.6.2 HP初掲載
 
 
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