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「……………ナルの、馬鹿!!!」 ばたん、と依頼人の背後で扉が閉まるのと、同時。 堰を切ったような叫びが、一瞬空虚になった空間を切り裂く。 真っ赤になって漆黒の青年を睨みつける琥珀色の瞳には、今にもこぼれ落ちそうな涙がたまっていた。 「た、谷山さ…………」 間に入ろうとした安原の手を、普段の彼女からは考えられない粗雑さで払いのけると、麻衣は震える声で、けれど迸るように、叫んだ。 「だいっきらい!」 そのままの勢いで、華奢な身体を翻す。乱暴にオフィスのドアを開けて、飛び出した。 階段を駆け下りる足音がフェードアウトするのと同時に、放置されたドアが緩慢にぱたりと閉まる。しん、と静まり返ったオフィスには、漆黒の美貌の青年と、立ち上がって、上げた手の行き場に困ったままの安原だけが残った。 数瞬の沈黙をおいて。 響きのいいテノールが、抑制されて、珍しく硬直していた安原の耳に、届いた。 「すみません、安原さん」 思いもかけない謝罪に息をのんで、安原はゆっくりと手を下ろして苦笑した。座ったままの年下の上司を見下ろして、溜息のように呟く。 「いえ。……というか、僕が、所長に謝っていただかなきゃいけないいわれはないと思うんですけど」 「麻衣に叩かれたのは、僕のせいでしょう」 手を払いのけられた。遠慮会釈ないあれは、確かにかなり痛かったが。 「……………」 虚をつかれて言葉を失った安原は、ゆっくりと微笑して、言葉を口に乗せる。 「ということは、悪かったと思ってはいるわけですか」 「別に、麻衣に対しても、あの───川内さんでしたか。彼女に対しても、僕が悪いことをしたとは思っていません。ただ、安原さんが被害に遭ったのは、間違いなく僕のせいですから」 白皙の青年は、言葉を切って、ため息をつく。 「川内さんに対する僕の態度に麻衣を怒らせる要因があったということは、判りますので」 「まあ確かに僕の手はとばっちりですけど。………でも、その言葉が悪かったとは思っていないわけですよね、やっぱり」 「ええ、もちろん」 その態度がもたらした結果を考えると頭を抱えたくなるほどあっさりと、彼は言った。 依頼人としてやってきた川内鞠子の話の内容は、簡単に要約すると、こうだった。 曰く。 優しかった兄が、今の家に引っ越してきてしばらくした半年ほど前から突然おかしくなった。懲罰だと称して両親を病院おくりになるまで殴り、妹の自分に斬りつけて、穢れた血を流させるのだと笑うようになった。───確かに、彼女の腕や首もとには、痛々しい包帯が覗いていた。兄を責める気持ちはあるし、止めようとは思うけれど、いざ傷つけられ、両親を襲っている兄を見ると、「これは受け入れなければならない仕打ちなのだ」というような気持ちになってしまう。これは、今の家が呪われているからではないか。 優しかった人が突然人が変わったようになる。誰かの影響か、環境によって精神のバランスを崩したのかはわからないが、どちらにせよ、そう珍しい話ではない。現に、こういう相談はよくある話、ではあるのだ。が、鞠子の切実な想いは痛いほど伝わってきた。祈りに似た彼女の言葉に、麻衣はひどく感情移入し、涙ぐむほど同情していた。 けれど、涙ながらに訴えた彼女に、ナルは仮面のような無表情を崩さないまま、こう、言葉を返した。 ───残念ながら、我々の範疇ではないようです。警察にまず相談し、一度お兄さんを精神科医に診せるか、あなたが相談するのがベストでしょう。 いつもの、ナルの声。 かけらほどの動揺も同情もない、冷徹な声音。 そう言われた瞬間の彼女の縋るような瞳も、少し家を見て頂くだけでもという懇願も、ナルを動かすことはできなかった。 そして、最後に彼は、こう、いったのだ。 我々の研究の範疇には入りません。お兄さんのことは、先に警察と精神科医に相談することです。 川内鞠子を、涙と言葉を飲み込ませてそのまま立ち上がらせたのも、麻衣を怒らせたのも、この言葉だった。 警察に言った方がいいのは分かっていたけれど、両親に重傷を負わせ、妹にまで危害を加えているとなれば、警察に言えば兄を告発するのと同じことだ。言葉にはしなくても、兄を、彼女には濃厚に記憶に残る優しかった兄を警察に突き出すような真似はどうしてもできなかったから、だから彼女は縋る思いでここにきたのだということは、ナルにでも分かっていた。まして、麻衣にとっては、───同情して泣き出す程度には、聞いているだけで身を切られる思いだったに違いない。 だというのに、安原ですらわずかに眉をしかめたほど、ナルの声にも表情にも同情も感情もなく、それはただ氷のように怜悧だった。 「安原さんも、麻衣と同じように怒りますか」 問われて、安原は一拍おいて苦笑する。 「心情的には、川内さんには同情しますが………いつものことですが、所長のおっしゃることは正しいと思いますので。谷山さんほど親身にはなれません。僕は薄情ですからね」 彼の苦笑に、ナルは漆黒の瞳を向けて───そして、優雅な動作でソファから立ち上がった。 「僕は部屋にいます」 「谷山さんが戻ってきたらどうしますか?」 「多分戻ってこないでしょうから結構です」 さらりとこたえて、漆黒の美貌の青年は扉の向こうに姿を消した。 ナルの予測は、これはひどく珍しいことに、外れた。 デスクに座り、届いたばかりの研究雑誌を開いて数分して。 扉が微かに叩かれて、音も立てずにすっと開いて華奢な身体が滑り込んできた。 「ナル」 少し掠れた、トーンの高い声が、響く。 ナルは闇色の瞳を紙面から少女の白い貌にうつした。 「…………戻ってくるとは思わなかったが?」 皮肉すら含まない冷徹な声に、麻衣は唇をかむ。視線だけは逸らされずに、色合いの違う瞳が絡む。 「…………」 「安原さんには謝ったのか」 「謝りました。………それから、飛び出したりしてすみませんでした、所長」 もう子供じゃない。 肩書きはバイトだが、単なるバイトというよりも研究員としての比重が高くなっている自分が、一時的な感情で振り回されて職場を飛び出すなど、本当は許されるようなことじゃない。 麻衣は、また滲みそうになった涙を飲み込んで、唇を噛んだ。 たちつくしたままの少女の姿をみやって、ナルは息をつく。 「…………安原さんは」 「気にしないでくださいって。………それから、ちょっと出てきますって出かけた」 震えそうになる、表情を殺した固い声。 限界まで押さえ込んで、うつむいたままの顔。 きつく、ぎゅっとにぎりしめた、手───。 ナルはもう一度溜息をつくと、立ち上がった。これでは、このまま彼女を退室させたとしても集中できないのは自分で分かっている。それがどれほど信じ難いことでも、事実である以上仕方がないと、最近割り切った。 ゆっくりと歩いて、ソファに座る。 床を見つめてたちつくしたまま、ナルの動きにも気付かなかった麻衣を、呼んだ。 抑えた柔らかなテノールが、夕暮れの陽光が差し込む部屋に響く。 「麻衣」 「………………?」 俯いて、頬にかかっていた淡い色の髪が、わずかに揺れた。 さらさらと頬をすべりおちて、ほそい首に、肩に触れる。 ようやく顔を上げた彼女は、ソファでじっと自分を見つめる闇色の瞳に出逢って息を止めた。 「麻衣」 滅多にない、柔らかな、トーン。 他には空調の音しかない部屋で、ひどく穏やかにその声は響く。 「……………」 声だけに引き寄せられるように、麻衣はゆっくりと歩いてナルの前に立って、手を引かれるまま彼の隣に座り込む。やわらかなソファは華奢な身体を優しく受け止めて、撓んだ。 「麻衣」 「……………あたし、顔、ぐちゃぐちゃだよ」 麻衣が唐突にそう言った。 泣き腫らした瞼に、涙の跡の残る頬。さらに、今にもまた泣き出しそうな、表情。 「やだ、もう」 「…………僕は嫌いか」 その声はひどく穏やかで、八つ当たりさえできない。 「…………ごめんなさい。やつあたり」 「落ち着いたわけか」 「……………」 「彼女はどうした?追いかけたんだろう?」 「うん。…………ここの階段の下ですこし話した、けど」 「それで?」 「……………ナルは大人だよね。あたしと一つしか違わないのに、あたしが子供なわけ?わかんないよ」 「何が言いたいのか分からないが」 「川内さん、落ち着いてて。…………所長さんの言うことはよく分かったから、病院に行ってみます、警察にはまだいきたくはないからって、まだ涙目だったけど、すっきりしましたって笑ってた。………苦笑、だったけど、でも、わらってた」 「…………」 「あたしだけ。子供みたいに泣いて。ナルが言うことに納得できないんだもん。安原さんは当たり前みたいな顔してるし」 麻衣の頬を、涙がこぼれ落ちる。 「あたしだけわかんない。ナルが言ったこと、許せないって思ったのに。言われた本人は、あんなふうに納得してるなんて」 「それでもお前は納得できない、か」 「できるわけないでしょ!」 麻衣の声が、細くなる。 「もう、わけわかんないよ………」 圧し殺した、声。 ナルは手を伸ばして指先で涙を払うと、口を開いた。 「それなら。お前は、川内さんの話を聞いた時点で、僕が引き受けると思ったか?」 「……………」 ひどく穏やかな声に、麻衣はちいさく首を振る。 それだけは、確かにナルの言う通りだった。ナルが引き受ける種類の依頼ではないことは、最初からはっきりしていて、それについては納得している。 「そう。僕が引き受ける依頼じゃない。そして、川内さんの話をそのまま受け取れば、お兄さんはかなり危険な状態にある」 「…………うん」 「僕が、なぐさめのような言い方をして、彼女が病院なり警察なりへの通報を遅らせたら、どうなる」 「…………………エスカレート、する?」 「僕はそう思った。彼女の話以上にエスカレートすれば、今度は彼女か、両親かが殺される。問題の兄は殺人者になっておかしくない。………さほど、珍しくもない話だ」 突き放すような台詞とはそぐわない、ひどく穏やかな、落ち着いた声。 ひどく波立っていた心が、落ち着いていく。 「だから、敢えて、きつい言い方にしたの?」 「そういうわけじゃないが。………時間がたてば経つほど危険になるのは事実だからな」 「……………川内さんもそう言ってた。言われた時は泣きそうになったけど、確かに早く相談した方がいいって」 麻衣は息をついて、言葉を続ける。 「もしあんな言われかたをしなかったら、まだ大丈夫まだ大丈夫、って引き延ばしていただろうって」 「そう」 「だから、所長さんにお礼を言ってくださいって。あたしには、一緒に泣いてくれてありがとうって………」 あなたが泣いてくれたから、だからかえって素直に彼の言葉を受け入れることができたのだ、と、鞠子は苦笑していた。もし全員から突き放されていたら、絶望してしまっただけだっただろう、と付け加えて。 「……………時間をおかずに、鞠子さんが病院に行って、お兄さんのことを相談して、そうしたら、よくなる?」 「さあ」 「ナル」 「彼女の話だけでは判断できない。が、放置するよりはマシなはずだ」 「……………うん………」 麻衣は、握ったこぶしで涙を乱暴に拭った。 「そうだよね。きっとよくなるよね、鞠子さんあんなに一生懸命なんだから」 呟いて、彼女は初めて漆黒の瞳をまっすぐに見上げた。 濡れた睫毛が、琥珀色の瞳を、赤みをさした夕陽に照らされて金色に、縁取る。 「ごめんね、ナル」 「何が」 「ナルはいろいろ考えていたのに、何も考えずにあんなこと言ったから」 「大嫌い、か」 「…………うん。ごめんなさい。八つ当たりだった。子供みたいに」 「お前が子供みたいなのは今に始まったことじゃないと思うが」 ナルは美貌に、綺麗な笑みを浮かべた。 「…………う。気をつける………」 「そう願いたいものだな」 そう言って立ち上がりかけたナルの袖を引いて、麻衣は彼の頬にかすめるように唇を触れた。 ぱっと立ち上がると華奢な身体を翻して、扉までぱたぱたと走る。 「それじゃ、仕事の続きしてるからっ!」 くるりと振り向いて扉を閉める。 一瞬見えた麻衣の顔は真っ赤で、呆気にとられていたナルは軽く苦笑した。 大嫌い、と投げつけた言葉を頬へのキスで取り消して。 麻衣はきっとまだデスクに突っ伏しているだろう。 ナルは頬に残る温もりに冷たい指先で触れて、ゆっくりとソファから立ち上がった。 |
count25000hit、ゆーのさまに捧げますv リクエストは「ナルが何か失敗して麻衣を怒らせる話」でした。 多分、ご飯とか食べなくて怒られるとかを想定されてるんだろうなあと思いつつ、私的観点からいくとそれは失敗とは違うしうちの麻衣は多分そのくらいでは怒らないんですよねー。諦めてるから(爆)というわけで、かわいそうな依頼人を言葉を選ばず追い返したナルに激怒した麻衣の話………だったはずがなんでこんなに可愛らしく終わったんでしょう?(滅)←聞くな。いやーどうしようもなく初々しいですねー(遠い目) もはやリクエストいただいてからの期間を考えるのも恐ろしいですが、こんなのでごめんなさい……返品可です(泣)あああああ。 2004.12.21 HP初掲載
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