back to novel_index |
back to index |
「あたしも馬鹿は嫌いなんだけど?」 にっこり笑った少女の瞳には明らかに険があって、美貌の青年は秀麗な眉根を寄せた。 「それで?」 「あんたは馬鹿?」 「僕を馬鹿と言えるほど谷山さんが賢明でいらっしゃるとは存じませんでしたが」 「研究馬鹿の代表のくせに何言ってるの?」 「お前に馬鹿といわれる理由はないな」 「理由はないね、確かに。でも事実を言って悪いってこともないと思うけど」 「事実?それは知らなかった」 「認識不足」 「何が」 問いを重ねた漆黒の瞳は凍り付いた湖面のように凪いだまま、何も映さない。その生気を感じられない瞳にも冷然と向けられる硬質の視線にも、麻衣は怯まない。 同じほどに冷たい───怒りの滲んだ淡い瞳は直裁に感情を表して、向けられる瞳の強さを凌駕して上司の白皙を見据える。 「………そうだよね。確かにナルは馬鹿じゃないはずだよね。何たって十代で博士号とるような天才なんだからね」 皮肉な色合いが、澄んだ声を色濃く浸蝕する。 「分からない振りをしてるの?それとも分かりたくないの?」 「何を言いたいのか全く分からないな」 「聞く気がないだけでしょ」 可憐な容貌も、いつもは綺麗に澄んだ声も、らしくはないほど棘をもって響く。 表情は変えないまま内心だけで眉を寄せて、ナルは溜息をついて見せた。 「………麻衣」 「何よ」 「僕は仕事中なんだが?」 「分かってるけど?」 ぱさり、と音を立てて、しなやかな白い手が紙の束を重厚な机の上に投げ出した。 冷えた闇色の瞳が空間を隔てて華奢な少女を捉える。 「邪魔だって言いたいの?」 「よくお分かりで」 「分からない!あたしが何を言ってるのかぜんっぜん聞く気ないね」 「それが分かっているなら時間を無駄にするのは止めたらどうだ?」 憤然と睨みつけた瞳さえ冷然と切り返されて、琥珀色の瞳に一瞬だけ翳りが差した。その、泣き出しそうな瞳の彩は顕在化する手前で綺麗に払拭される。 おそらくは麻衣自身は意識していない色合いを、ナルは故意に無視して言葉を重ねた。 「……それで。こんなところで時間を潰しているからには当然作業は終わったんだろうな?」 「………」 う、と麻衣は言葉に詰まった。 自分は確かにここに調査員という肩書きで雇われているのであって、安くはない給料分は働くのが当然のことで。 孤児だから、温情で雇われているのだと、それだけは他人に言われたくも自分で疑いたくもなかったから、与えられた仕事は可能な限り完璧にこなしたい。 それは麻衣のプライドでもあったから、彼女はそれ以上の抵抗はできない。 ナルは整いすぎた容貌に皮肉な笑みを形作った。 「麻衣?」 「………すみません、まだ終わってません!」 「僕は今日中に終わらせろと言わなかったか?」 「………すぐに片付けてきますっ!おじゃましました所長!」 可憐な白い貌に怒りと諦めを同居させて、華奢な身体をくるりと翻して麻衣はドアノブに手をかける。 セミフレアーのスカートが無機質な空間に白い軌跡を描いてふわりと落ちて。 ドアを開ける一歩手前で僅かに躊躇した。 かすかな。 一瞬の逡巡───。 背後の気配はもう資料に集中している。ぱらり、と乾いた音がへだてた空間を伝播して、耳元の空気を震わせる。 彼の意識に、既に部下のことなど一片たりとも残ってはいない。 そう確信しているのにその事実に対しては怒れないことに、麻衣はかすかな溜息を落とした。 伝わらない思いは、彼がこちらに興味を持っていないからではなく。 彼の心が彼自身を見ていないからだと気付いてしまったから。 細い指先に力を込めれば音もなく扉が開いて、隔絶していたオフィスと所長室の空間を繋げる。けれど、所長室を支配する世界は拡がることも交わることもない。 ただ漆黒を纏う青年を中心としてそこに在るだけで、他者の介在さえ許さない結界のように。 + + 後ろ手に所長室の扉を閉めて、思わず深い溜息が漏れる。 珍しくオフィスにいた長身の青年が、上司に負けず劣らず表情を窺わせない怜悧な瞳を華奢な少女に向けて、僅かに眉を寄せた。 「ああ、ナルの所にいたんですか谷山さん。………どうかしましたか」 「あ。ごめんなさい、リンさん。なんでもないんです。なにか、ありましたか?」 「いえ、急ぎのことでは。………ナルがまた何か言ったんですか?」 問われて、麻衣は軽く目を瞠って───それから、ゆっくりと苦笑する。 それほどあからさまな表情をしたつもりはなかったけれど、一瞥だけで読みとられてしまったらしい。 「あたし、ナルに何か言われたような顔してます?別に怒られたりはしてませんけど」 「ナルは怒ったりしないでしょう」 「あはは。それもそうですね。怒るよりは馬鹿にするし」 くすりと笑って、麻衣は小さく首を傾げて付け加えた。 「馬鹿にされてもいないですよ。少なくとも今のところは」 「ナルが、じゃありませんよ。谷山さんが怒ってるのはどうしてですか?」 「………怒っているように、見えます?」 「見えますね」 年上の同僚にさらりと断言されて、麻衣ははあ、と溜息をついた。 それほど分かりやすい表情をしたつもりは本当にないけれど、やはり自分はまだまだ修行が足りない。 「大したことじゃないんです。ごめんなさい」 「別に谷山さんが謝るようなことではないでしょう。………ナルが、何かしたんですか?」 「いいえ。ナルは、何も」 高い声が途切れて、ふ、とはずれた色素の薄い視線がリンを通り過ぎて中空に焦点を結ぶ。 「ただ………」 「ただ、何ですか?」 「どうして、ナルってああも馬鹿かな、って」 「馬鹿ですか」 冷たい、けれど穏やかな黒い瞳が微かに緩んで、宙を見据える少女を捉える。 向けられた、穏やかな笑みを含んだ優しい気配に振り返って、麻衣は目を伏せた。 「人のこと、絶対信じないですよね。こっちはほんとに心配してるのに、言うに事欠いて、僕のことはどうでもいいだろう、ですよ?どうでもいいわけないじゃないですか!」 高い声は言葉の勢いとは裏腹に何処か弱くて、掠める寂しげな色彩が、空間に焼き付く。 「昨日からの仕事漬け、ですか」 「そうです。だから、あまり無理はしないでって言っただけなのに。麻衣が好きなのは僕じゃないだろう、ですよ?ふざけるなっての」 「………谷山さんはナルが好きなんですか?」 「恋愛感情って意味では違いますけど、好きですよ?」 好きだとか、大切だとか。 そういう感情は、別に恋愛感情に限定されるわけではない。 ナルはナルとして大切なのだと、そんなことをどうして理解しようとしないのかは───分かるけれど。 分かることと納得できることは全くの別物なのだと、麻衣は内心溜息をつく。 「ああ……たしかにそれを彼に納得させるのは大変でしょうね……」 「無駄な努力でないことを祈るばかり、です」 「いえ。……ナルも馬鹿ではないはずですから」 理解力も判断力も並はずれて高い彼が、真実をはっきり見据えて読みとれないわけはないから、歩み寄る努力をしてくれる存在があれば、いつかは必ず理解できる筈だと思う。 和いだ黒い瞳に軽く首を傾げてみせて、麻衣はふわりと微笑んだ。 「だと、いいですね」 「ええ」 「あ。もちろんリンさんも好きですよ♪」 細い身体が翻って、麻衣が纏う空気と表情が、変わる。 まっすぐに見上げてくる同僚の少女の明るい瞳に微笑んで、リンは背後のテーブルに置いていた包みを手にとって差し出した。 「ありがとうございます、谷山さん。私も好きですよ」 「リンさん?」 「これは、私が待っていた理由です。……お茶だそうです。開けてみてください」 Harrodsのロゴの入った四角い包み。 包装紙を破らないように注意して開ければ紅茶缶と大差ないサイズの木箱が現れて、麻衣は目を瞠った。 何処からどう見てもハロッズの限定ものの紅茶箱にしか見えないけれど、これを日本国内で手に入れることはかなり難しい筈だ。 「え?これ」 「ハロッズのダージリンセカンドフラッシュ、だそうです。まどかがあなたにと」 「って、これ。限定のですよね……」 「だと思いますが」 「ありがとうございます!……さっそく淹れてみても良いですか?」 「ええ。私もいただけますか?」 「勿論です、ちょっと待ってて下さいね」 「楽しみですね。………ナルも呼びましょうか」 珍しくはっきりした笑みを浮かべたリンに、驚いたように目を見開いて、それから麻衣は花が開くように綺麗に笑った。 ぱっと咲いた笑顔は翳りも衒いもなく、彼女らしく強い。 「お願いします。……出てこないって言ったら出さないって伝えてくださいね♪」 「………了解しました」 強固な結界を隔てても、あなたは得られる情報を理解することはできるから。 いつか、結界を破って触れることはできると信じて。 結界を破るきっかけはあるし、その鍵は手の中にある。 |
count3000hit、梅子さまに捧げますv 頂いたリクエストは「両想いになる前のナルと麻衣」でした。 ナルと麻衣だけで完結できなかったのは私の筆力不足です(滅)すみません……。両想いという解釈も結構困ったんですが、意志の疎通がなくても相互通行なら両想いかなと思ったので、「好きになる前」ということにさせて頂きました。違う!という場合は容赦なく言ってください(泣)書き直します……(吐血) 2001.9.10 HP初掲載
|
back to novel_index |
back to index |