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綺麗に整えた指先に、優雅に取ったカクテルグラスに、明度を抑えた照明が弾かれて僅かに眩しい。 カウンタ席でひとりで飲んでいる女性は彼女だけだったけれど、こんなバーでは絡んでくる男もいない。艶やかな都会的美女ではあっても隙がない上に纏う空気がどこか違って、遠巻きに見る以上の行動は起こさせ難いのだと、彼女は経験的に知っていた。どちらにしても、絡んでこられて何とかする術も持たずに一人でうろつくほど「コドモ」ではないのだが。 残り少なくなってきた綺麗に深い菫色の液体が揺れる透明なグラスを目の高さに持ち上げて照明に透かすと、指先に蒼い色が透けて落ちた。 その色彩の影を、思わず無心に見つめてしまう。 綺麗な色や香りにどきどきしながらそれでも精一杯背伸びして。初めてカクテルグラスを傾けた夜のように、どこか新鮮な気がした。 八割以上が客で埋まっていても、さほど広くはない店内は騒がしくはならない。上質のざわめきは磨りガラスでも通したように明瞭にはならなくて心地いい。 突然にふ、と空気が変わって、異質ではあっても場を壊さない新たな気配が加わった。考えるまでもなくそれは新しい客だ。客の増える時間帯ではあるから奇妙なことではない。 カウンター席の高いスツールの上で身体ごと振り返った彼女は、綺麗に整えられた眉を寄せた。 新来の数人の集団は見知らぬ男女だったが、一人だけ。 嫌になるほど見慣れた男が居た。 「綾子?」 気付いたのはほぼ同時なのは当然だろう。バーはさほど広くはないし、それでなくても、よく知った気配に気付かないほど二人とも鈍くはない。 「何?法生、知り合い?」 「へえ。いい女じゃん」 声を抑えた仲間たちの冷やかしに彼は笑って見せて、不機嫌な綾子の顔に一瞬だけ向けてた視線をすい、と仲間に戻した。 「悪い。俺あっち行くわ」 「女かよ?」 「ノーコメント」 「えー!?何それ!」 「ほらほら騒ぐなよ。他の客の邪魔。じゃあな」 ひらひらと手を振って、滝川はそれ以上視線も残さずに綾子の隣のスツールに腰掛けた。 カウンターに頬杖をついて、彼はにやりと笑って彼女の顔を斜めに見上げる。 「よお。奇遇だな」 「何でこんなとこにいんのよ」 「スタジオが渋谷にあるから。そういうお前こそオフィスにでも行ってたのか?」 「行ってないわよ。………喋ってないでオーダーしたら?」 飲みもせずに座ってる気?と皮肉たっぷりに付け加えた綾子に肩を竦めてみせて、滝川は視線をカウンターの中に向ける。 「バーボン」 「ロックで?」 「ああ」 「かしこまりました」 頷いたバーテンはそのまま視線を綾子に向けた。空のカクテルグラスがカウンタに置かれていて、蒼い色の残滓がグラスを染めている。 「お客様はよろしいですか?」 「ホワイトレディを」 「………かしこまりました」 一瞬の間をおいたが余計なことは一切表情にも言葉にもせずバーテンは引き下がった。 「随分きっついの飲むな」 滝川の感想はもっともというべきだった。綾子がオーダーしたカクテルは確かにアルコール度がかなり高い。 「今さらじゃないの?」 「確かにな。………ただ、さっきのブルームーンじゃなかったか?見ただけだけど」 「そうよ。正解」 「ジンベースばっかりだな」 「そういう気分なだけ」 「ふうん?」 「悪い?」 「いや別に」 「ならほっといて」 とりつく島もなく、という形容がぴったりくるほど冷たくはねつけて、綾子は滝川に視線も向けない。 会話は途切れて、空気が停滞する。 停滞した空気はバーテンが二人にグラスを運んできても、追加注文したオードブルがカウンターに静かに置かれても解けなかった。 如何ともし難い居心地の悪さは沈黙を重ねれば増大していく。 綾子がこれほど険のある、場の空気を壊すような言動をすることはひどく珍しい───と言うよりは殆どない。何か間違ったらしいな、と溜息をついて、滝川はタイミングを図った。 気配を窺っていることが分かれば、本当にはねつける気がなければ隙は見せるものだから。意図的に見せる綻びを逃すようでは、最初から話にならない。 滝川が持ち上げたグラスの中で、ロックアイスが綺麗に澄んだ音を立てる。 沈黙は結局いやなものにはならない。 軽い溜息と一緒に女の鎧った気配に綻びを見つけて、滝川は口を開いた。 「……機嫌悪いな」 責めるようには絶対にならないように、軽い揶揄を含ませる。 「さっきまでは良かったわ」 「なに?俺のせい?」 「それ以外に何があるっての?」 こんなところで会うなんて業腹だわ。 付け加えた綾子の言葉に、滝川は肩を竦めた。 「渋谷だろ?ここ、誰に聞いたか考えてみろよ」 情報源はオフィスの立地上か渋谷に詳しい長身無表情の仕事仲間だから、綾子が知っているなら滝川が知っているのはむしろ当然なのだ。 「あんたもリンから聞いたわけ?」 「ああ。でも、ここに来たのは俺が言い出したわけじゃないからな」 詳しい奴があの集団の中にいたんだよ、と言って滝川が指し示した先は、二人とも見もしない。 「あっそ」 受け流して、綾子はカクテルグラスに口を付けた。 白色がかった柑橘系のリキュールは、滝川が指摘したとおりかなりきついものだ。喉を灼く刺激とジンの苦みに、彼女は軽く柳眉を潜めた。 こん、と硬い音を立ててグラスをカウンタに置く。そのまま指先を伸ばして、さっきまで絶対に手をつけようとしなかったナチュラルチーズをのせたクラッカーを口に運んだ。 洗練された仕草は、絶対に子供っぽくはならない。 「………無理するなよ」 「無理して飲むほど、コドモじゃないわよ。自分の酒量くらい判ってるわ」 「綾子サンはオトナの女だもんな」 「そう。麻衣とは違うわよ」 「………どうしてそこで麻衣を出すかな」 「好対照でしょ」 「こんなとこで一緒に飲んだことないから知らん」 「誘えば?」 ここ渋谷だし、あんたが誘えば喜んでついてくるんじゃないの? 響きほど皮肉な意図は含まない言葉に、滝川は肩を竦めた。 「それでナルに睨まれるわけか?」 「睨むかしら?そんなに素直じゃないと思うけど」 「やめてくれ。さりげなく迫害されるのは遠慮したい」 「もしかしたら全然気にしないかもしれないわよ。どの辺までが許容範囲なのかよく分からないし」 「………面白がるのはいいが、俺を実験台にするな」 「他に適任いないんだから仕方ないじゃない?」 嫣然と笑んだ綾子の表情に、先刻までの鎧はもうない。 それを見て取って、滝川は話題を転換させた。ちょうど追加した新しいグラスを鈍い照明に軽く掲げて、視線を傍らに滑らせる。 「ところで」 「なに?」 「何をあんなに機嫌悪かったわけ?」 俺がきっかけなんだろ? さらりとした「単なる」問いかけは阿るような韻きを持たない。 完全に不意を突かれて綾子は一瞬目を瞠って───視線を明後日の方向に逸らした。 「別に」 「ひとりで居たところ邪魔されたのが気に入らなかったのか?」 「わざわざこっちに来たのもね」 「あっちよりこっちで飲みたかったんだよ」 「視線が煩かったわよ」 「最初だけだろ?」 店内はかなり暗いから、実際には離れた相手の表情など見えはしない。紛れてしまえば同時に入店した客が何処に座ったのかも下手をすれば分からなくなる。 軽く傾けたカクテルグラスが空になったことに気付いて、滝川はお、と口調を変えた。 「まだ飲むか?」 「………そうね。それ、まだあるみたいだしね」 整った爪先が琥珀色の揺れるグラスを示す。 「もうちょっと軽いのでつき合うわ」 「………つき合わせるのか?俺が」 「違うの?」 「………まあいいけどな」 わざとらしい遠い目で溜息をついて、滝川はバーテンを呼び寄せた。何でしょう、と尋ねた彼を指先でちょいちょいと屈ませて、カクテルの名前を告げる。 重奏低音のようなざわめきに紛れて、言葉は綾子の耳には届かない。 「それ、彼女にな」 「…………大丈夫ですか?」 「平気平気」 思わず問い返したバーテンに請け合った滝川に、綾子が胡乱な瞳を向けた。 「何?」 「一杯奢る。今日はジンを飲みたい気分で、さっきよりちょっと軽いの、だろ?」 「………どういうつもり?」 「さあ」 にやりと笑って受け流して、滝川はほれ、とカウンタを指し示す。 ポーカーフェイスを取り繕ったバーテンが新しいカクテルグラスを置いたところだった。 「ありがとう」 言って手に取った綾子は眉を顰める。 丸みを帯びた華奢なグラスの中で揺れる澄んだ深紅。 色合いだけなら候補は複数だが。 「何、考えてんの?」 「それでフィニッシュだろ?」 「………だから?」 「甘すぎるか?」 にやりと笑った滝川には答えずに、綾子はカクテルに軽く唇を寄せて婉然と微笑んだ。 「けっこう好きだけど」 Kiss in the dark。 彼女が「大人の女」なら彼も「大人の男」。 一筋縄でいかないのはお互いさまで、その駆け引きもまた「都会的大人の時間」の妙。 |
count3500hit、東西紀さまに捧げますv 頂いたリクエストは「ぼーさんと綾子の日常生活」でした。 縁側もいいんですが、どうも二人が日常的に一緒にいるイメージってあまりなくて、こんなことに(汗)相変わらずリクエストとずれててごめんなさい……(泣) 最後に出てきたkiss in the darkは出されたカクテルの名前です。意味は「闇の中のキス(直訳。先が見えないって意味もありますがここではねv)」念のため。最後の方が訳の分からない二重意味がけになってますが、分からない方は深く考えず読み流してくださいませv 2001.9.29 HP初掲載
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