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「ネクタイってどうやって結ぶか、真砂子は知ってる?」 「何なんですの、いきなり」 唐突な疑問に、真砂子は俯き加減にしていた顔を上げた。呆れたように溜息をついたが、彼女の瞳には驚きの色は上らない。マグカップを持ったまま、僅かに首を傾げた少女の唐突さは───決して今に始まったものではない。 美貌の少女は頬にかかった幾筋かの黒髪をさらりと払って、自分の前に置かれた茶器に白い手を伸ばした。 抑えた、けれど印象的な臙脂の色合いに、白磁の茶碗と玉露の緑が鮮やかに映える。 「あはは。ちょっとね」 「あははじゃありませんわよ」 呆れたような溜息をもう一つ重ねて、真砂子は自分の隣をちらりと見やった。 このオフィスの事務員である食えない青年は、瞳に興味深げな光をたゆたわせはしているものの無言のままでティーカップを傾けている。 麻衣は同僚の動向には注意を払わずに、うん、と一つ頷いてことばを継いだ。 「何でだったかは忘れたけど、今日友達と話しててさ、そういう話になったんだよねー。ネクタイって、自分のは何とか結べても人には結べないとか」 話題が暴走した所為で、前後の文脈は忘れたけど、それでちょっと気になったんだよね。 自分の記憶を整理するように呟いて、麻衣はくすりと笑った。 「で、真砂子はできる?」 「知りませんわ。必要もありませんもの」 問われて、真砂子はさらりと即答した。 彼女は基本的に和服を着ることが殆どだから、スカーフすら滅多に触らない。 「麻衣はできますの?」 「………できるんだったらわざわざ聞かないよ」 「それもそうですわね」 真砂子は手に持っていた茶碗をセンターテーブルに戻してから、まっすぐの視線を隣に向けた。 今はしていないが、必要なときにはきっちりネクタイをしている彼は、眼鏡越しに彼女の視線をやわらかく受け止める。 「安原さんはおできになりますわよね」 「ええ。誰も結んでくれませんからね」 実際にネクタイをすることがよくあるのだから、結べるのは当然だ。────大学の同期のなかには、母親に結んでもらうとかいう馬鹿も居るが。 「あ。じゃ、安原さん、人には結べますか?」 「………やったことがないので分かりません」 同僚の少女の問いに、安原は僅かに考えて、明言を避けた。 ふうん、と曖昧な相槌をうった麻衣の纏う空気が、唐突に変わった。 何かに気付いたようにオフィスの扉を振り向き、淡い色彩の髪がふわりと宙を舞って、元の位置に落ち着いたのとほぼ同時に、オフィスらしくひどく他人行儀な顔をしたドアが開いて、良く見知った顔を3人まとめて暖かい室内に招き入れた。 麻衣はにこりと笑って立ち上がると、ぱたぱたと3人に駆け寄る。 「ナル、お帰り。ぼーさん、綾子いらっしゃい」 無表情のまま彼女を無視してまっすぐに所長室に向かおうとした美貌の所長に、麻衣は慌ててことばを重ねる。 「ちょっと待ってナル!」 「何だ」 「リンさんが、何か用があるから出かけますって。夕方には帰ってくるって言ってた。それから、言われてた資料はプリントアウトして所長室の机の上においといたから」 「分かった」 綺麗な動作で黒いコートを脱ぎながら、ナルは麻衣を振り返りもしなかったが、麻衣は全く意に介さない。 「あ。お茶は?」 問いかけに、重い扉を開きかけたナルは漆黒の視線を麻衣に滑らせた。 「あとで頼む」 低い声が響いて、所長室のドアが音もなく閉まった。 「相変わらずご機嫌斜めだな、ナルは」 「そーでもないよ。返事してるもん。……ここに来るまでにぼーさんが怒らせたんじゃなければだけどね」 「ひとっことも喋ってなかったから大丈夫よ。それより麻衣、お茶淹れてくれる?寒かったのよ外」 仕立ての良い赤いコートを脱いでハンガーにかけながらの綾子の要求にくすりと笑って、麻衣は給湯室に向きを変える。 「はいはい。紅茶で良いんだよね」 「秋摘みが良いわ。どうせあるんでしょ」 「注文が多いな。あるけどさ。………安原さんもおかわり要ります?」 「あ、頂きます」 「真砂子は?」 「あたくしも頂きますわ」 「真砂子は玉露?」 「いえ、松崎さんと同じものを。たまにはよろしいでしょ」 「はいはい。安原さんもそれで良いですか?」 「すみません、ありがとうございます」 すまなさそうに会釈した同僚に、花が咲くようにふわりと笑って、琥珀色の瞳を滝川に向ける。 「ぼーさんは?あったかいのにする?」 「いや、アイスコーヒーがいいなあ。寒いときに冷たいアイスコーヒーは最高だぜ」 「変態」 麻衣が答えるよりも前に、綾子がさっくりと切って捨てた。 白いカップを配り、少し濃いめの色をしたお茶を淹れて、それから真冬だというのにきーんと冷たいアイスコーヒーを満たしたグラスをテーブルの上にかたんと置く。そうしてから麻衣は身内の談話用と化している応接セットの定位置に腰を下ろした。ふぁさ、と音を立てて、華奢な体が適度にやわらかいクッションに沈み込む。 他愛のない会話が展開して、途切れる。 不意に落ちた沈黙を埋めるように、真砂子がくすりと笑って、先刻の麻衣と同じ質問を綾子に向けた。 「唐突ですが、松崎さん。松崎さんはネクタイ結べます?」 「は?………ネクタイ?」 「ええ、そうです」 「突拍子もないわね」 「ええ。麻衣の質問ですもの」 当然ですわ。 すまして答えた真砂子に、綾子が納得したのにわずかにむくれて見せて、麻衣は視線を綾子に向けた。 「綾子はできる?」 「ええ、できるわよ?」 「人のも?」 「は?他人の?」 シャープな曲線を描く柳眉が僅かによせられて、麻衣は軽く首を竦めた。 「うん。難しいんだよね」 「難しいって程じゃないとは思うけど?要は慣れよね」 「それで。できるの?」 「できるわよ」 自分にネクタイを結ぶことができるなら、ちょっとした慣れとコツさえ掴めばさほど難しいものではない。 「まあ、そんなに難しいもんじゃないからな」 口を挟んだ滝川に、綾子はわざとらしく肩を聳やかした。 「そう。あんたでもできるんだからね、簡単だわね」 「お前な。俺は結構器用だぞ」 元高野僧の抗議を聞き流して、綾子は麻衣に視線を向けた。 「習うよりは慣れろ、よ。やってみれば以外と難しくはないわ。ちょうちょ結びと一緒」 「何だ?麻衣、結んでみたいのか?」 「うー。結んでみたいって言うより、できないって言うのはちょっと何かなーって」 しないのと、できないのは違う。 どこか真剣な瞳をした麻衣ににやりと笑って、滝川は頷いた。 「よし。すぐできるから、教えてやろう」 「ネクタイないよ?」 「これ使えば良いわよ」 ハンドバッグから大きめのスカーフを取り出して適当に細長く畳むと、綾子は麻衣の首にそれをかけた。 自分の首に巻いたスカーフのネクタイ結びは簡単にクリアした麻衣は、勢い込んで人に結ぶ練習を始めたが、それは思うようには運ばなかった。滝川の手首を生け贄にして、何度も練習してもどこかが上手くいかない。 何度めかの失敗を確認して、麻衣は、切れた。 「もーやだ!!何でできないの!?」 「麻衣が不器用だからじゃありません?」 「真砂子!あんただってできないでしょーが!」 「短気ですわね」 「だって!安定してないし、このスカーフもこもこしてるからやりにくいんだよ!」 綾子のパシュミナのスカーフは小振りだから滝川の首に巻くわけにはいかないし、細く畳んでいる以上少なくはない厚みができてしまい、ネクタイ結びには適さない。 「谷山さん、スカーフなんですし、ムキにならなくても。僕がネクタイしてれば良かったんですけどね」 思うように行かないスカーフと、罪のない滝川の手首を睨みつける麻衣に、今日はたまたまタートルネックにジャケットという出で立ちの安原は苦笑した。 「気になるなら、明日にでもネクタイ持ってきますから練習しましょう」 「……一体何の騒ぎですか」 ね?と宥めるように麻衣の肩を叩いた瞬間に、安原は一瞬凍り付いた。 突然響いた聞き慣れた低い声は何の感情も示さず透徹して、美しい漆黒の瞳が鏡面のように凪いでいることは確認するまでもない。 一瞬冷えた空気に動じることをしなかったたった一人の存在が、あ!と声をあげて立ち上がり、ばたばたとナルに駆け寄って。 遠慮会釈なく、きっちり結ばれたネクタイをぐいと引っ張った。 構える間もなくいきなり喉を絞められたナルは、さすがに耐えきれずに咳き込む。 「麻衣!」 「あ。ごめん!」 自分が首を絞めたことに気付いて、麻衣は慌てて手を離した。ナルは絞まった喉元に白く長い指先を入れて、軽く緩める。 「お前は僕を殺す気か?」 「違うってば。ネクタイ解きたかっただけ!」 「………解いてどうするつもりだ」 「結ぶの♪」 にっこり笑った麻衣に、ナルは軽い溜息をわざとらしくついて見せ、秀麗な口元に皮肉な微笑を刻んだ。 「谷山さん。僕には仰ることが良く分からないのですが?」 「単に、人にネクタイ結んでみたいだけ!」 「………僕でやる必要はないだろう」 つきあってくれそうな人間なら雁首揃えている。 冷えた視線が応接セットでくつろぐメンバーに滑り、華奢な少女の瞳に戻った。 「今日、ネクタイしてるのナルだけなんだもん♪」 「明日にすればいい」 「今やりたいんだもん」 テコでも動きそうにない彼女の瞳に、ナルは内心だけで溜息をついた。 人間というものは好奇心を持っている。好奇心を持つ以上、一度気になりはじめたことを取りあえず横に置くことは難しい。 絶対に実現し得ないことならともかく、手を伸ばせば届く位置にあるものを諦めるのは、酷く難しくなる。 そして、この少女は好奇心が人一倍強いのだ。 「ナルがそのネクタイ解くのが嫌なら、綾子のスカーフでやらせて?ぼーさんの首じゃ無理だけど、ナルならできそうだし」 にっこり笑った麻衣の視線につられて視線を動かしたナルは、滝川の手首に目を留めて眉を寄せた。 ひらひら手を振る滝川の動きにつれて、中途半端に結ばれたワイン色のスカーフが揺れる。 「それなら僕じゃなくてもいいだろう」 「ぼーさんじゃ無理だったし、安原さんはタートルだから無理。真砂子は着物だから襟元崩れちゃうし」 「松崎さんは」 「駄目よ。巻いてるだけならとにかく化粧がついたらたまらないわ。自分でやるならまだいいけど、この子下手だから」 答えたのは麻衣ではなく、怜悧な視線は応接セットの綾子に向かう。 「その、下手な麻衣に実験台にされる僕はいいわけですか」 「あんたは不都合ないでしょ?それとも口紅でもつけてんの?」 皮肉なのか揶揄なのか曖昧な言葉に、ナルは僅かに眉を上げたが、それ以上は綺麗に無視して。 ナルはひと動作でネクタイを解いた。 しゅるり、と音を立てて解かれたタイは生き物のようになめらかな曲線を描いて、反射的に差し出した麻衣の手の上に落ちる。 「あ!取っちゃ駄目だよ首にかけなきゃ」 言いながら手渡されたネクタイを首にかけようとして、麻衣は手を伸ばした。邪魔なジャケットを取りあえずどけて、カッターシャツの固い襟にタイを挟み込み、前に戻ってむー、と考える。 教えられた手順が頭に入っていないわけではないのだが、どうにも勝手が掴めない。 「綾子、分かんないよ」 「………取りあえずやってみれば?」 呆れたような声を背中で聞きつつ、麻衣はゆっくりと手順を辿り始める。 首もとをしめないように注意しつつやっているせいか、気を抜くと白皙の頬に指先が触れそうで躊躇うせいか、どうしてもうまくいかない。 「加減がよくわからない」 「もういい、貸せ」 「ちょっと待ってよ!加減がわかればできるもん」 「お前が自発的に分かるまでつきあってられるほど僕は暇じゃない」 とりつく島もなく言い切って、ナルは麻衣がむちゃくちゃに結んだタイを一度全部解いた。 「もう一度」 「できないって言ったくせに」 「できるところまではできるだろう」 覚えるまでは諦めないだろうし、今振り切っても帰宅してから延々とマネキン代わりにされるのは火を見るよりは明らかだ。他人の介在しない場所で食い下がられるよりはここで片付けた方がいい。 「もう良いなら僕は戻る」 「よくない!」 最後通牒には思った通りの反応が返って、ナルは内心だけで溜息をついた。 毛筋ほども変わらない白皙の美貌。漆黒の視線の下で、可憐な少女が真剣な表情でネクタイを睨む。 できるところまではできるのだ。 ゆっくり慎重に、けれども迷いなく動いていた華奢な手はそれほど待たずに一瞬止まり、その手を上からナルの手が押さえた。 「ナル?」 「逆」 驚いて見上げてくる視線には答えずに、彼は華奢な手を指先だけで誘導して方向を指示する。 「あ、そっか。うん、逆」 「そう」 凪いだ漆黒の瞳も、熱心な淡い瞳も、白い華奢な手の上で交叉する。 手がまようたびに、冷えた指先が僅かに加える圧力で方向を修正して、今度は時間をかけずにネクタイはきちんと結ばれた。 手を離して、一歩離れて。麻衣は満足した表情でそれを見て、にっこり笑って冷えた漆黒の瞳を見上げた。 「あとはしめるだけ?」 「そう」 答えると、もう一度華奢な手が首元に伸びる。 きちんとした結び目を持って、締めていく。 「このくらい?」 「いや、もう少し」 「苦しくない?」 「いや─────それでいい」 制止と同時に華奢な手を止めて、麻衣はほっと力を抜いてふわりと笑った。 「締めるのはちょっと緊張するね。苦しそうで」 「満足ですか?谷山さん」 皮肉めいた言葉に、麻衣は首を竦める。 「うん。つきあってくれてありがと。邪魔してごめん」 申し訳のようにぺこりと小さく頭を下げて、それから訊く。 「お茶だよね?」 「そう。所長室へ。ついでに空のMOも持ってきてくれ」 「MOね。了解」 麻衣はにこりと笑って頷いて、華奢な体をくるりと翻した。彼女が給湯室に入るのとほぼ同時に、所長室の扉が再び閉まる。 そして。 オフィスに、まるで狭間のような沈黙が落ちて────無言のまま、申し合わせたような溜息が、重なった。 |
count4000hit、梅子さまに捧げますv リクエストは「SPR全員を巻き込んでのナル麻衣のラブラブな日常」でした。大変長らくお待たせしまして本当にすみませんでした(死) めざせばかっぷる!で何故かこんな発想になったわけですが………(泣)どうやっても甘くならない。その上ジョンを忘れてた……(汗)まあ、オフィスでべたらぶvはなしということで許してください……(吐血) どうでもいいですが、文体を変えようとして見事に失敗したようです。精進します……。毎度のことですが、リクエストに沿い切れてなくてすみません。 2002.1.23 HP初掲載
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