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いつもとは違う時間に。 静けさが、却って集中を阻害する。 静寂の中で、PCの作動音が、自分の鼓動が、普段なら気に留めることもないかすかな空気の揺らぎが、精神に不快なざわめきを起こす。 気付かないふりをしても、その波紋は次第に振幅をひろげていく。 秀麗な眉を寄せて、彼は数字の羅列を映したモニタを一瞥した。鋭い漆黒の瞳は、一瞬で興味を失ったように逸らされる。 普段なら寝室に在るはずのやわらかな気配は、今はない。 ゼミ合宿だと出かけた彼女は、今晩から二泊、そばには居ない。 麻衣がオフィスへの休暇願を出したのは、ちょうど二週間前だった。記憶は鮮明に残っていて、会話の細部まで憶えている。
「なんだ、それは」
所長室に入ってきた麻衣に、ハンドアウトを提示されて眉を顰めた。 秀麗な眉が顰められて、麻衣はこっそり溜息をついた。 修学旅行もない国に、研究室合宿などというものがあるはずもない。 「だから、ゼミの合宿」 「だから、それは一体なんだと聞いている」 「あのね。卒論の構想発表とかと、親睦が目的。まあ、あたしの学年は直接関係ないから聞いてるだけだけどさ」 「………無意味だな」 「そんなことあたしに言われても」 ちいさく肩を竦めて、麻衣はかるくかぶりを振った。 思考を切り替えるように、二度三度と瞬きをして、差し出したプリントを示す。 「でも、基本的には義務なの。……ですから、この日程でお休みをいただけますか、所長」 口調を変えた麻衣の瞳を、一瞬だけまっすぐに見返して。 漆黒の青年は机上のファイルに視線を戻した。 「好きにすればいい」 「………うん、ありがと」 「調査が入れば連絡は入れる。携帯は持っていくんだろう?」 「うん、大丈夫。………一応、やることはやっていくから」 彼女はもういちどごめんね、と謝って、所長室から出ていった。 部屋に残った彼女の気配が、複雑な感情を纏っていたことを憶えている。 神経に障る静けさの原因はそこに在るし、それが分かっていることに、そしてその事実が不快ですらないことに、苦笑を禁じ得ない。 軽い溜息がこぼれて、彼は立ち上がった。 かたり、と軽い音がして───それにかぶさるように、かすかな電子音が、韻いた。 一度、二度。 音量を最小に設定した単調なアラームは、不意に途切れる。 唐突に、その存在をアピールした携帯電話に目を留めて、ナルはPC脇に置かれたアナログ時計を確認した。 午前、1時半をわずかに回っている。彼にとっては活動時間ではあるが、電話をかけてくるのに適切な時間とはいえない。 迷惑電話でないのであれば、かけてくる人間はひどく限定される。 無視しようかと考えつつ、ナルはフラップタイプの電話機を、かちりとひらいた。まだ点灯したままの画面に予想通りの名前を認めて、秀麗な美貌に半ば無意識の苦笑が浮かぶ。 コールは二回。 それは、彼女の逡巡なのだろう。 不在は、二泊の予定。今日は一泊目だ。 興味を持ったわけではないので彼女が示したハンドアウトにはざっと目を通しただけだったが、二泊目は研究発表で、そのあと宴会になだれ込むだろうと言っていた気がする。 気が進まない、という彼女の表情に気付かなかったわけではないが、コメントを一切しなかったのはそうすべき領域ではないと考えているからだ。 電話の理由は、分からない。 何か用があったのか、それともなかったのか。 無視しても良かった。もし用があるなら明日にでも事務所に連絡があるだろう。 けれど。 無意識の、溜息が零れて。 綺麗に伸びた長い指がリダイヤルの操作をする。 呼び出し音は、三回。 『…………ナル?』 極端に抑制された声が、耳元に伝わる。 漆黒の青年はわずかに息をついて、そして、応えた。 「麻衣」 + 「ねえ、いつもだったらこの時間、何してる?」 研究会もどきが長引いたから、各自部屋に引き払ったのは既に日付が変わるまで三十分を切っていた。 三年生の女子学生は6人、全員が広い和室に割り振られている。先輩も後輩もいないから、ひどく気楽な気分ではあった。 飲み会は明日の夜と決まっているから、今日はお酒は入っていない。ぱたぱた着替えて、それぞれの布団にもぐりこむ。一番早く態勢を整えた一人が、おしゃべりの口火を切った。 「もう寝てるよ」 「えーっ。はやいよそれ」 「じゃなにしてんの?勉強?」 「ゼミ発表の前日は勉強」 「……っていうか徹夜じゃん」 「そういう特殊な日じゃなくて!」 「えー。なにしてるかなあ。でもまだ寝てはいないよねー」 「うん。電話とか?」 「あ、それあるよね。電話」 「うんうん。友達とかと」 「彼氏もでしょー?」 くすくす、と笑い声がざわめくのと同時に、枕元に置かれた電話が震えだした。 「あ!」 「噂をすれば、だね」 「うんごめんっ」 慌ててフラップを開いた彼女の顔が、ふわりと綻ぶ。わずかに甘えたような、幸せそうな笑顔。 聞かなくても、誰からかかってきた電話なのか、すぐ分かる。 「……電話タイムにしちゃおっか。他にも電話かけたい人、いるでしょ」 笑い混じりの提案に、ぱたぱたと電話機を開くおとが続く。 「あれ?麻衣は?かけないの?」 「……麻衣、彼いたよね〜?確か」 「電話しないの?」 「うん。忙しいと思うから」 「そういうとこ、麻衣って真面目だよね。甘えちゃえばいいのに」 わずかに肩を竦めて、麻衣は苦笑した。 「甘えるって言うか、そういう風に邪魔したくないだけ。あたしがね。………気にしないでいいよ。いつものことだし」 + 電話タイムが終わってからひとしきり続いたおしゃべりは案外はやく終息して、健康な寝息が聞こえるようになる。 麻衣は軽く唇を噛んで、そしてそっと布団を抜け出した。ほとんど無意識に携帯電話を持って、部屋を出る。できるだけ足音をさせないように細心の注意を払って、宿泊室から一番遠い談話スペースのソファに身体を沈めた。 ひやりとしたソファが華奢な身体を受け止めて、沈む。 消灯時間はとうに過ぎているから周りは薄闇に包まれたままで、静寂は変わらない。 彼女たちだけでなく、ほとんど全てのメンバーが眠ってしまったのだろう。 ───どうしても眠れないのは、べつに「枕が変わった」からじゃない。そんなことでは、調査中身が保たない。 理由が分かっているから、堪らなくなって部屋を出てきてしまったのだ。 はあ、とちいさく溜息をついて、持ってきてしまった携帯電話のフラップを開いた。 デジタルの時刻表示は、午前、一時半。 同期の子たちが電話しているときに、仕事中に甘えたくないから、と電話しなかったのは本心からだ。本当に、あの時間帯に電話しては邪魔なだけだし、無視される確率の方が高い。 けれど。 気配に、触れたい。 せめて、声を聞きたい。 抗いがたい衝動に駆られて、メモリのトップに入っている番号にコールして………我に返る。 慌てて回線切断ボタンを押して、頭を抱えた。 二回ほどコールしてしまっただろう。 気付いていなければいい。けれど、もし気付いていたら────彼は、どう思うだろう。 大学の合宿に来ることを決めたのは自分だし、それについて彼の意見を求めもしなかったのは自分なのに、たった一泊目で、こんな時間に電話をかける理由など、どこにもない。 いつもそばにいられるわけじゃない。 不在に、耐えられないなんて、そんなことは自分が赦せない。 自分に言い聞かせるように、呪文のように繰り返したとき。 手に持ったままだった電話が、震えた。緑のランプが点滅して、コールを知らせる。 液晶画面に表示された名前に息を呑んで、慌てて通話ボタンを押して。 名前を呼ぼうとして、一瞬声が出なかった。 震えそうな声を極力抑えて、気付かれないように深呼吸して。 名前を、呼ぶ。 「ナル?」 『麻衣』 聞き慣れた低い声。 感情など感じられない怜悧な響きを耳に捉えた瞬間に、心が、震える。 喉の奥が鈍く痛んで、声を飲み込む。 「……っ。ナル………?」 『どうした』 「どうして電話……」 『かけてきたのはお前じゃなかったか?』 苦笑を交えたかすかな溜息が、回線越しに伝わる。 「それは、そうだけど………でも、」 『どうした?』 「………仕事中だよね。ごめんね」 『気にしなくていい。………何かあったのか?』 「なにもないよ。………ごめん、ほんとに。ただ……」 『ただ?』 答えを促す低い声は何処までも静かで、電話の向こうにあることが信じられないような気がした。 俯いた顔を上げれば、何処までも深い漆黒の瞳に出会いそうな、そんな錯覚。 顔を上げたくなくて、ただ、目を閉じて、耳だけに感覚を集中する。 「どうしても声だけでも聞きたくなって……ごめんなさい」 麻衣は、唇を噛む。 揺らぐ感情は抑えられても、喉の奥が、胸が、ずきずきとひどく痛い。それだけはどうすることもできなくて、涙が滲んだ。 「………このごろ、そばに居すぎたのかも」 『………そばに居すぎた?』 「うん」 苦笑して、小さく頷く。 そばにいないのは、大学に居る間くらいだろう。 彼の気配を感じない時間の方が、格段に短いことだけは確かだ。 『それで?』 「だから、ナルがいなくて不安になっちゃうのかもしれない。……子どもみたいだよね」 母親の気配をもとめて探し回る子どものように。 そんな連想が頭に浮かんで、 麻衣はくすりと笑う。 彼女の気配の変化を何処まで感じとったのか、ナルは小さく溜息をついた。 『…………いま、僕に電話をかけたのは何故だ?何か用でもあったのか?』 「ない。………どうしても眠れなくて、声がききたかっただけ」 『眠れそうか?』 「うん、大丈夫。……電話、ありがとう」 『………お互い様だからな』 「………ナル?」 『おやすみ、麻衣』 返事を待たずに通話はうち切られて、確かに感じられた電話の向こうの気配は途絶える。 一瞬つかみ損ねた意味を、ようやく捉えて。 くすりと笑った麻衣は、さっきまで通信を主張して緑色に光っていたアンテナにそっと唇で触れる。 携帯電話のフラップをぱたんと閉じて、体温で温まったソファから立ち上がった。 廊下の気配は先刻と変わらない。 麻衣は白い貌に笑みを刻んで、忍び足で部屋に戻った。 音を立てないようにして、布団に滑り込む。 お守りのように携帯電話を抱き締めて、周囲を包む眠りの淵に、ゆっくりと身を沈めた。 |
count4444hit、美由紀さまに捧げますv リクエストは「ナル×麻衣の甘い話(学校行事関連)」でした。………リクエスト頂いてから多分一年以上経ってます……(泣)大変長らくお待たせいたしました……。 それでもほんとは五月中にはアップしているはずだったんですが(汗)そういう意味でも遅くなってしまって申し訳在りませんでした。(平伏) うちのナル×麻衣は、「anchorage」でも言い訳してますが、麻衣ちゃんが高校生のうちにくっつかないんですよね〜。で、大学入ってから学校行事って何だろう、とさんざん悩んだ結果ゼミ合宿になりました(屍)学祭で麻衣が男子学生に迫られて〜〜とかいう展開を期待されてるのかも、とは思ったんですけど、学祭って麻衣は関係なさそうだし、うちのナル、何があっても絶対行かないんですよね(遠い目)というわけで、電話です。甘いのは空気だけ、なんですが、その辺で許して頂けると嬉しいです(涙) 2002.8.5 HP初掲載
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