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キーを叩く音と、空調の音。 それだけが、オフィスの静寂に、響く。 デスクの上に山積みになっているデータの整理はまだ半ばで、麻衣は作業に集中していた。 今日は安原もリンもオフィスには出てこないことになっていたし、特に来客の予定もなかったから、作業をすすめるには良い機会だった。 所長はオフィスには出てきているものの、ここひと月ほどは所長室に籠もって「本業」である彼自身の研究と論文執筆に専念しているから、日本語でのデータ整理は麻衣と安原にまわってきている。安原は主に基本データの収集を担当しているから、実際の調査データの整理はほとんどすべて麻衣に任されていた。 仕事を任されることに、不満はない。 確かに多少難題ではあったけれど、今後のことを考えればこの程度のことはこなせないと困るということはわかっているし、そうでなくても仕事を任されるのは嬉しい。それは、どんなものであるにせよ、信頼をあらわすから。 集中しはじめると周囲も時間も見えなくなるのは所長に限ったことではないのか、それともここにいる数年の間に伝染したのか。 ファイルにまとめられたここ数ヶ月のデータを打ち込んで、報告書を作る作業に、彼女は没頭していた。 壁にかけられた時計の短針がゆっくりとうごいて、かちりとちいさな音を響かせても、気付かない。 分厚い調査ファイルをぱらりとめくって、元のページを見直して。 眉をしかめてちいさく唸った麻衣は、ふっと漂った香気を感知して、驚いて顔を上げた。 慣れたやわらかなかおりと、あたたかな湯気。 彼女の驚きを意に介さず、デスクの空きスペースに彼女のマグカップを置いた綺麗な手をみつめて、そしてその先の白皙を、麻衣はほとんど思考を停止したまま見上げた。 「………………ナル?」 茫然とした琥珀色の瞳を、冷えた漆黒の瞳が見下ろす。 応えは期待できないことは無意識にも刷り込まれているから、麻衣は半ば茫然としたまま言葉を重ねた。思考が停止していることをわかっていながら、自分ではどうしようもない。 「えっと………?」 白皙の美貌と、亜麻色の液体を満たしたデスクの上のマグカップを見比べて。 それから麻衣はもう一度、二度、目を瞬いた。 明らかに状況を飲み込めないらしい彼女の様子を暫く見ていたナルは、軽く嘆息して口を開いた。 「何を馬鹿のような顔をしている?」 「……いや、だって、………ナル?」 「日本語を話せ」 「………これ」 「紅茶に見えないか?」 常と変わらず凪いだ声が、単語の連なりにしかなっていない麻衣の疑問に答える。 「………見える、けど」 麻衣がいつも使っているマグカップ。 満たされた、優しいかおりのミルクティー。 「ナルが、いれて、くれたの?」 半信半疑。 そう顔に書いて、麻衣はナルの瞳を見上げた。 琥珀色の瞳を見下ろして、ナルは呆れたように息をつく。 「今日ここにいるのはお前と僕だけじゃなかったか?」 「そう、だけど」 未だ思考の焦点が合っていないらしく、麻衣の言葉はまともにつながらない。 美貌の青年はもう一度溜息をついて、口を開いた。 「自分の紅茶を淹れるついでに、麻衣のも淹れただけだ。何か不満でも?」 言われてはじめて、ナルがもう片方の手に彼のカップを持っていることに麻衣は気付いた。 白磁のカップに満たされているのはストレートの紅茶で、麻衣はもう一度目を瞬く。 「紅茶、飲みたかったなら、言ってくれれば良かったのに」 ナルは、お茶くみは麻衣の仕事のひとつだと言ってはばからないどころか、オフィスで彼女にかける言葉の大半がお茶の要求なのだ。 麻衣の言葉は至極当然で、今度はナルが一瞬だけ答えに間をおいた。 明らかに応えを選んで、彼は口を開く。 わずかに低く抑えた声が、韻いた。 「……集中しているようだったから」 「……………は?」 「僕がドアを開けたのにも気がつかなかっただろう」 普段なら、所長室の扉を開けるのとほぼ同時に麻衣は「ナル、お茶?」と訊ねる。それが今日は声をかけるどころか気付きもしなかったのだ。 「………それは、そうだけど」 「だから敢えて邪魔しようとは思わなかっただけだ」 自分で淹れれば済むことだからな。 そう言って言葉を切った彼に、麻衣は一瞬沈黙した。 自分の手元のカップをみて、それから美貌の上司を見上げる。 「…………それで、あたしのまで淹れてくれたの?」 「……………………ついでだったからな」 僅かに長い沈黙を置いて、低く凪いだ声が答えた。 「わざわざミルクティーにして?」 「…………」 今度は答えないナルに、麻衣は小さく笑った。 「ミルク、よくわかったね」 「冷蔵庫を開ければあるだろう」 「うん。そうだけど。……………ありがとう」 「………ついでだったからな」 先刻と同じ言葉を繰り返して、ナルはしなやかな長身を翻した。 これ以上話をする気はないという意思表示に、麻衣はくすりと笑う。 「ナル、このファイル終わったら一応報告に行くから」 「時間は?」 「一時間ちょっとだと思う」 「わかった。…………その時にはお茶を」 付け加えられた台詞に、麻衣は笑う。 「うん、分かった。ナルのお茶ってあたしに淹れてくれたのと一緒?これ、アッサムだよね」 「そう」 「じゃあ違うの淹れるね。何かリクエストある?」 「何でも」 「それじゃ、こないだ買ってきたオータムナルあるから、それでいい?」 「ああ」 「了解。………紅茶、ほんとにありがとうね、ナル」 「別に」 結局振り向かないまま、ナルは所長室の扉の向こうに消える。 麻衣はふわりと笑って、あたたかなマグカップに口を付けた。 ふわりと香気が広がって、ほのかな甘みが心を満たす。 蜂蜜までいれてくれてたんだ、と呟いて、麻衣はくすくすと笑いだした。 ミルクティーにするためにアッサムの葉を選び。 冷蔵庫にミルクを探して棚の蜂蜜の瓶を選んで。 そうしたナルの心の動きはまったく謎で、おかしいとしかいいようがなかったけれど。 「おいしいよね、ナルの紅茶って」 くすりと笑って呟いて。 麻衣はマグカップの温もりを手のひらにつつみこんだ。 |
count6666hit、東西紀さまに捧げますv リクエストは「ナル×麻衣で、ナルの様子がおかしい話。」でした。 ……………ナルの様子は確かに変だけど絶対違う違う違う……と自分で自分に突っ込みを入れつつ(吐血)いや、多分期待されてるのは何かお悩みの博士が常とは違うという状況だとは思ったんですが………ごめんなさい……思いつかなかったんです(爆破) こ、これでも一応お付き合い前なのでそこはかとなく奥ゆかしい(違)感じが………あんまりしませんね(自爆)すみません修業します……。 2003.2.8 HP初掲載
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