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「…………っっっ!!!!!!」 悲鳴もなかった。 空気が感電したような衝撃が走る。 リンを相手にモニタを挟んで議論していたナルが、唐突に言葉を途切れさせた。一瞬秀麗な眉を顰めて、立ち上がる。 動作が荒くなることはない。けれど常より明らかに優雅さを欠いた彼の行動に、リンは上司に無言で問いを向けた。 けれどナルは部下を一顧もせずに、玄関ホールに続くドアを開ける。 「麻衣?」 螺旋階段の下に、華奢な少女が倒れていた。 うずくまるように足を抱え、細い眉を寄せて必死に声を殺している。 「谷山さん!?」 いつの間にかナルの背後に歩み寄っていたリンが、倒れた少女を見るなり顔色を変えて駆け寄ろうとした。 それを、手の動きだけで抑えて、漆黒の青年はゆっくりとした足どりで、少女に歩み寄る。そうして、彼女のそばのフローリングに膝をついた。 「麻衣、どうした」 「だい、じょぶ……おちた」 「落ちた?階段から?」 「そ……」 肯定を聞いて、凪いだ美貌にほんのわずか、波紋が拡がる。 「足か?」 「痛……きもちわるい」 「見せてみろ」 無意識なのか、庇うように右足を抱え込んだ麻衣の手を、冷えた指先が剥がそうとした。 「嫌痛い!」 「見るだけだ。大丈夫だ」 「でも痛い気持ち悪いやだ!」 「麻衣!」 強い口調で、けれどどちらかといえば幼い子どもに言い聞かせるようなトーンさえ滲ませて、ナルは麻衣の名前を呼んだ。 びくり、と細い肩を震わせて、そして、はじめて彼の存在に気付いたように、琥珀色の淡い瞳がナルを見上げる。 「ナ、ル………?」 「そう。わかるな?」 こくりと頷いた少女を、宥めるように指先を伸ばす。 冷たい、けれど優しい指先が、ひどい痛みのために額に滲んだ汗を拭って、やわらかな髪を梳く。 「様子を見るから、足を、見せろ」 「………いや。痛い」 「痛いから見るんだろう。触らない。見るだけだ」 ナルは言葉を切って、軽く振り返った。 ベースにしているリビングの戸口で自分たちを見ている部下に、指示を出す。 「リン、車の用意を。病院に連れて行く」 「………わかりました」 長身の青年は一言も言わずにキーをとって玄関に向かう。 それを視線で追って、ナルはもう一度倒れたままの少女に向き直った。 ショック症状は一時的に沈静化したらしく、澄んだ瞳に混乱の翳はみえない。 「麻衣」 「……うん」 そろそろと、手を離す。 華奢な指先に、指を絡めて離させて、ナルははっきりと眉を寄せた。 片手で握れる細い足首が、はっきりと腫れてきている。 「腫れてるな」 「………ごめんなさい。気、つけてたんだけど」 ガラス張りの螺旋階段は怖い、と、麻衣は必要以上に気をつけて階段を上り下りしていた。それが裏目に出てしまったのだ。バランスを崩した瞬間、もともとわずかに強張って警戒した姿勢だったために対応できなかった。 「別にいい」 ひとことで応えて、ナルはゆっくりと麻衣の身体を抱き上げた。いつもやわらかに身を預ける細い身体は、今は痛みに強張って、華奢な手はきつくナルの肩を掴む。 いったん納まったショック症状が戻ってきたらしい。 淡い瞳から意識の影が薄まって、混乱してきているのが見て取れた。 「麻衣」 囁くように名前を呼んで、ナルは抱き上げているだけだった少女の身体を軽く自分に引き寄せる。かすかな震えと、冷たくなった体温が直に伝わる。 「大丈夫だ」 「きもち、わるい」 「ああ。……大丈夫だ、麻衣」 繰り返して、ナルは慎重に足を踏み出した。車の音が、すぐ外で聞こえて、玄関の扉を長身の青年が開く。 「ナル」 「今行く」 一言で答えて、ナルはすでに開いてあった後部座席に、麻衣を抱いたまま慎重に乗り込んだ。 † 「それであたしがよばれたってわけ?」 夕方になって唐突に呼び出され、事情を聞いた黒髪の美女にすごまれて、長身の青年はかるく肩をすくめた。 「はい。谷山さんがあの状態では」 「………あんたの上司、あたしのこと麻衣の世話係かなにかと勘違いしてない?」 「そんなことはないと思いますが。………食事はどうにでもなりますが、谷山さんの着替えや入浴にはどうしても女性の手が必要ですし」 「ナルがやればいいじゃないのよ」 「…………………………………さすがに、それはどうかと」 30秒ほどの沈黙をおいて、リンは答えた。綾子はさらりと髪を払ってリンの視線を受け流す。 「わかってるわよ」 二人が、その距離を一歩縮めたことは、特に言われたわけではなくてもメンバー全員が察している。しかし、それとこれとはまったく話が別だ。 「……あの子の様子、そんなにひどいの?」 「私が怪我の様子を見たわけではありませんが、ナルからの連絡に拠れば、全治ひと月とか」 「………靭帯切ったの?」 「詳しいことは聞いていません。ただ、腫れが引くまでは簡易固定、引いたらギブスで二週間固定だそうです」 「そう。切ったかどうかはともかく、損傷くらいはしてるわね、それじゃ。ギブス取れてもしばらくは補助具だろうし」 「でしょうね」 「調査にならないじゃない」 しごく真っ当な―――世間一般的にみれば常識的な指摘をした彼女に、青年は冷徹な表情を崩さないままいちどだけ首を振った。 「………それはナルの判断ですが。………たぶん続けると思いますが」 「………………………………」 「谷山さんを動かさなければ良いわけですから。彼女にもデータの簡単な検証くらいはできますし、移動を誰かが手助けすれば、現場を見ることもできます。要は、怪我をした足を使わせなければいいわけですから」 「…………仕事馬鹿?あんたの上司」 「………否定はしません」 「まあ、今更ね」 「ええ。今にはじまったことではありません」 「上等じゃないの」 皮肉に笑って、綾子はかるく顔を上げた。 「あら。帰ってきたみたいね」 「ええ」 近付いてくる車のエンジン音を、ふたりとも耳に捉えて、ほぼ同時に立ち上がった。 リンが、ひろい玄関ホールから降りて、ドアを開ける。 ほぼ同時に美貌の青年がタクシーの後部座席から出てきて、反対側にまわって華奢な肢体を抱き上げた。支払いは済んでいるのだろう、ふたりが車から離れると、タクシーはばたんと扉を閉じて走り去る。 「ナル」 「ああ。………松崎さん、申し訳ない」 「かけらも思ってないくせに謝罪なんて要らないわ」 きっぱり返して、綾子はホールに入ってきたナルの腕の中の麻衣の顔を覗き込んだ。 こづくりの貌も表情も、困惑のいろを濃くのせただけでいつもとほとんど変わらない。安堵の溜息は胸の中だけに落として、綾子は綺麗に整えた指先で妹分の額を弾いた。 「ごめんねー、綾子」 「馬鹿ね。階段から落ちたんだって?」 「うん。気、つけてたんだけど」 「気をつけすぎて落ちたんでしょ、あんたのことだから」 「……………うー……」 下が透けて見える螺旋階段。 強化ガラスだから丈夫で、大丈夫だと頭では分かっていても、どうしても足元が不安で、それに気をとられすぎていてバランスを崩したのだ。 ひとことも反論できない麻衣は恨みがましい瞳で綾子を見上げる。 「麻衣、煩い。耳元で唸るな」 「……………」 落ちた瞬間の恐怖はまだ身体に刻み込まれている。抱き上げられて、ほとんど無意識にしがみついていたナルの肩から手を離す。 怖い、と悲鳴に近い恐怖が内心に起こるけれど、麻衣はそれを無視した。できるだけ身体を離す。 「ここまでありがと。おろしてくれる?」 「ベッドまで運んでからな」 「いいじゃんちょっとくらい話したって!」 「今日は休んでいろ」 「そういう問題じゃなくて!」 「二度手間だ」 ベースにソファはあるから問題はないとしても、麻衣を一度下ろして、また抱き上げて運ぶのは手間が倍。 冷たい、というより淡々とした切り返しに二の句がつげずぐっと詰まった少女を、漆黒の青年はそっと抱え直した。そのまま綾子を振り返って口を開く。 「呼びつけて申し訳ありません、松崎さん。あとで説明しますのでベースで待っていてください」 「わかったわよ」 「……あたし、ひとり?」 ほとんど反射だったのだろう。 思わず口に出した麻衣は、しまったというように自分の手で口を塞ぐ。 秀麗な眉を寄せてなにか言いかけたナルが言葉を出す前に、リンがやわらかく笑んで応えた。 「それでは気持ちの落ち着きそうなお茶を淹れていきましょう。松崎さんが来られるまでそばについていますよ。…………かまわないでしょう、ナル」 「………好きにしろ」 今度は振り返りもせず答えて、ナルは慎重に歩き出した。 「ナル」 「………」 「ごめんね?」 「なにが」 「こんなじゃ、まともに調査できないじゃん」 「できることはやってもらうから気にする必要はない」 「どうして松葉杖借りてくれなかったの?そしたら少しは」 「余計に動いて悪化させるのが関の山だ」 う、と詰まった麻衣を一瞥して、彼女に割り当てられたツインの客間のドアを開ける。ベッドはひとつあいていたが、今夜からここには綾子が寝ることになるだろう。 「でも、車椅子とか」 「必要ない」 「だって動けないじゃん」 「麻衣に任せるのはモニタの監視やデータ整理の補助だ。移動の必要はない」 「でも」 「動きたくなったら僕を呼べ」 言われて、麻衣は目を瞬いた。 見慣れた、けれど息を飲むほどの美貌を見直して、おずおずと口を開く。 「運んでくれるの?」 「今もそうしていないか?」 問い返したナルは、ベッドカバーを引き開けて、そこに彼女を抱き下ろした。枕をクッション代わりに座らせる。 「用があれば携帯を鳴らせ。後で持っていかせる」 もう一度二度、目を瞬いて。 そして麻衣はくすりと笑った。 「甘いよナル」 「…………怪我人だからな」 「そうなの?」 「そう」 凪いだ声が答える。 離れかけたナルの腕を掴んで引き留めて、麻衣は白い冷たい頬に一瞬だけキスした。 「ありがと」 「どういたしまして」 動揺のかげもなくさらりと答えて、美貌の青年は身を起こした。 踵を返そうとした彼を、綺麗に澄んだ声が追う。 「もう行くの?」 「リンがお茶持って来るんだろう」 「そうだけど」 「それに、椅子とクッション」 「は?」 「座るものと、お前の背凭れ」 「…………」 「必要だろう?」 「……………………ほんとに甘いよ、ナル………」 可憐な貌に、苦笑が浮かぶ。 待遇としては破格を通り越して怖い。 「たまにはいいだろう」 白皙の美貌は変わらない。 無表情のまま、ナルは軽く身を屈めて彼女の耳元に唇を落とす。 ―――――驚かせるな。 吐息のような囁きが、空気ではなく胸に韻く。 唇が離れて。 計ったように、ドアがノックされた。 |
count7000hit、夕架さまに捧げますv リクエストは「ほのぼのいちゃいちゃなナル×麻衣で、捻挫の話。」でした。 遅くなってごめんなさい夕架さん……。ちょうどあの頃は捻挫がなぜか身内で流行ってたのよねと遠い目をしてみたり。(そしてわたしも数ヶ月松葉杖のお世話になってたり。吐血) ほのぼのでもいちゃいちゃでもないのは重々承知してるけど許してねとか言ってみたりして。駄目ですか……。(泣) 2003.2.26 HP初掲載
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