透明な窓から差し込む陽射しは、広いリビングに明るい日溜まりを作る。
ごく薄いロールスクリーンは巻き上げられたままで、暖かな光を遮ることはない。
穏やかな静寂は、ただやわらかく空気を包み込んで、時折、規則的に空気を揺らす乾いた紙の音さえ、どこか優しいものに変えていく。
僅かに隔てた空気を介して伝わる、ぬくもりと、鼓動と。
感じとるだけで安堵する、慣れた気配。
不安も、脅かすものもなく、世界がそれだけで完結しているかのような安定は、時間の経過とともに徐々に深く部屋に入り込む陽射しによって、破られた。
明るく柔らかい日差しは、当然のことながら、目にとっては凶器になりうる。
ぱらりとめくった白い書類が不意に強く輝いて、反射的に目を眇める。
集中を妨害されて、ナルは秀麗な眉を顰めた。それから視線を滑らせて、捕らえた時計の短針の位置に軽い溜息をつく。
午後、四時半。
確かに、もうそろそろ日は傾く。
自然現象に腹を立てるほど愚かなことはない。入ってくる陽射しが邪魔ならこちらで遮ればいいだけのことで。
巻かれたままのスクリーンを下ろすために、彼は立ち上がった。
────いや、正確には、立ち上がることを意図した。
しなやかな長身は立ち上がろうとして───突然の妨害にあった。その力はそれほど強いものではなかったが、全く予期していなかったために、反射的に対処することはできない。
バランスを崩しかけて、ソファの背にとっさに手を伸ばして身体を支え、ナルは妨害者を見据えた。
「麻衣」
声は常より冷たく、響く。
周囲のやわらかな空気との温度差は大きく─────けれど彼女には何の影響ももたらさなかった。彼の動きを妨害した、シャツの裾を掴んだ華奢な手はそのままに、麻衣はにっこりと笑う。
「何?」
「何、じゃない。手を離せ」
「やだ」
綺麗な笑顔はそのままに、麻衣はきっぱりと言い切った。
見上げた琥珀色の瞳は光に透けて、映る漆黒の影と鮮やかなコントラストを描く。
全く譲歩する気がないことをその瞳に見て取って、ナルは内心だけで溜息をついた。結局は麻衣の意思が通ることが分かり切っているなら、これ以上の押し問答は完全に時間の無駄だ。
意地だけで押し問答を続けるほど馬鹿なことも、あまりない。
そして、時間の無駄を予測しながら回避しないほど暇ではない。
内心だけで溜息をついて、ナルは無表情のまま口を開いた。
「何が?」
声は変わらず冷たく韻いたが、麻衣は意に介さず小さく笑う。
「だって。ナル、スクリーン下ろすつもりでしょ?」
「それが?」
「それがいやなの。せっかく気持ちいいのに」
陽光を遮断してしまえば、光に溢れていた部屋は暗くなってしまう。
もっと西日が強くなればそれも仕方がないかもしれないが、まだ輝かしくあたたかな陽射しを遮るのは、勿体ないと思った。
「……紙が反射して見えないんですが?」
「見なきゃいいでしょ?」
皮肉混じりのナルの言葉に、麻衣はくすくす笑いながら答える。
ナルの瞳に、僅かに剣呑な色が混じった。
「麻衣。仕事の邪魔は」
「してないよ?」
「してるだろう」
「してないでしょ?あたしが邪魔してるのは、ナルが本を読むことじゃなくて、スクリーンを下ろしに行くことだもん。だから、仕事の邪魔はしてない」
「詭弁だな」
「うそは言ってないからいいの」
白い顔に浮かべた笑みは崩れず、悪戯っぽく輝く瞳が無表情の美貌をまっすぐに見上げる。
色違いの視線が絡まり────その平衡を破ったのはナルの方だった。
深く溜息をついて、ソファの背に置いていた手を離す。
麻衣は笑って彼の手から分厚い本を取り上げた。
「麻衣………」
「別に急ぎじゃないでしょ?これ」
「そういう問題じゃない」
「どうせ今夜も遅くまで読むんだから、たまには休憩しないと駄目。目の酷使は良くない」
「結局何が言いたい?」
「ちょうどいいから見えるようになるまで休憩しよ」
麻衣はにっこり笑って取り上げた本をサイドテーブルに置き、目の前の漆黒の美貌に華奢な手を伸ばした。
自分の手よりも冷たい白皙にふれて、闇色の瞳を覗き込む。
「ね?」
軽く首を傾げて、さらさらと零れてやわらかな頬にかかった栗色の髪を払ったのは、しなやかに長い冷えた指先で、少女の貌がふわりと綻ぶ。
ナルは自分の頬を軽く捕らえていた麻衣の手をはずさせて、そのまま彼女のやわらかな頬にふれた。冷えた指先が麻衣の体温で溶かされていく感覚に、何故か安堵して、内心だけで息をつく。
指先だけで頬に、耳元にふれて、なめらかな髪を梳く。
触れられる、その手が優しいことが嬉しくて、麻衣は小さく笑って目を伏せた。
伏せられた淡い色の睫が、陽光に透けて金色に染まる。
金色に縁取られたやわらかな瞼のラインをそっとなぞり、頬を滑り落ちて顎を捕らえる。
指先だけで軽く顔を上げさせて、掠めるように唇に触れた。
優しい吐息が混じって、麻衣が微笑う。細い腕を伸ばして、見た目の印象よりはしっかりした恋人の肩に触れて、そのまま抱きついた。
動きを完全に封じられて、ナルは溜息をつく。
「人を拘束するな」
ごく低く囁いて、華奢な身体を抱き上げて自分の膝に座らせる。
腕の中に閉じこめて、一瞬何が起こったか分からず目を瞬く麻衣の唇を、強引に封じる。
抵抗を許さない、けれど溶けそうなほど甘い、優しいキスを、繰り返して。
腕の中で、陽光をまといつかせて溶けてしまいそうな麻衣を、抱きしめる。
「光に溶けそうだな」
口に出すつもりもなく、思わず口に出してしまった、限界まで抑制された低い声に、麻衣は目を開いて、微笑った。
「光には溶けないよ?」
「………当然だな」
人間が光に溶けるわけがない。
自分も麻衣も、そんな意味で言ったのではないことを承知の上で、ナルはさらりと返す。
麻衣はくすくす笑って、ナルの首に抱きついた。
「麻衣?」
「………消えないから、平気」
ささやきに、答えは返らない。
けれど、慣れた気配がどこかやわらかくなったのを確実に感じて、麻衣は抱きついたナルの首筋に頬を寄せた。触れる肌は自分よりも随分冷えて感じるけれど、すぐ近くで、確かに脈打ついのちの気配に安堵する。
「光は、あたしを溶かせないから」
「……光はおまえの溶媒にはならないのか?」
冗談交じりのささやきに、思いがけず答えが返ってきて、麻衣は笑った。
ただそれだけのことが嬉しくて、幸せで、満たされる。
「うん、ならないよ」
「それなら、何が?」
溶媒になりうるのか。
問われて、麻衣は微笑う。
「あたしを、溶かせるもの?」
「そう」
麻衣はくすくす笑って体を離し、至近距離からまっすぐに闇色の瞳を覗き込んだ。
「ナルだけだよ」
答えは一言、内緒話でもするように囁いて。
麻衣はもう一度ナルの首筋に抱きついた。
やさしい日溜まりを作る、もうすぐ茜色に染まるやわらかな陽射し。
心を包む、大切な光の彩。
脅かされることのない世界は、ひかりがつくる穏やかなひだまりが護る、夢。
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