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「ルエラ」 居間の隅でじっと立っていた麻衣が、おさえた声で呼びかける。ソファで雑誌のページをめくっていたルエラは、顔を上げてやさしい瞳を向けた。 「なに?マイ」 「これ、ピアノ?」 細い手が上がって、壁際を指す。 天面にアイリッシュレースのカバーが掛かった黒いピアノが、静かにそこに在った。 「ええそうよ。アップライトだけどね」 やわらかく微笑って、彼女はソファから立ち上がった。華奢な少女にゆっくりと歩み寄って、そして鍵のかかっていない蓋を開ける。 白と黒と。 美しい鍵盤がレースのカーテン越しの陽光に、一瞬、眩しく映えた。 麻衣がかすかに息を飲んだのには気付かず、ルエラは楽しげに鍵盤を撫でた。音は、出さない。 「マイは弾けるの?」 「………いいえ。習えなかったですから」 「ああ、そうだったわね。ごめんなさい」 少女の境遇は聞いている。自分の無配慮を責めるようにルエラは淡い紫の目を伏せた。それを抑えるように、麻衣が手を伸ばしてルエラの手に触れる。 琥珀色の瞳が、まっすぐに紫の瞳を見上げる。 「いいえ。気にしないで下さい。ルエラは弾けるんですか?」 「昔はよく弾いたわ。………最近はあまり触っていないから、どうかしら」 こたえに頷いて、麻衣はピアノを振り返った。 細い指先を伸ばして、そっと鍵盤に触れる。 ひやりとした感触に、驚いたように一瞬指先を離して、そしてもういちど触れる。 ゆっくりと下ろした鍵盤は、ひどく静かな音を韻かせた。 「…………綺麗な音」 「調律だけはきちんとしているのよ。………あの子たちも弾いていたし」 くすりと笑ったルエラに、麻衣は驚いたように振り返る。勢いよく淡い色の髪が散って、白い頬に乱れてこぼれおちた。 「ナルも弾けるんですか!?」 少女の驚きようにくすくすとわらって、彼がいるはずの二階―――天井にちらりと目をやって、穏やかに続ける。 「スクールに行ってた時は弾いていたわよ。音楽の課題で、ソナタだったかしら。………それ以来触っているのを見たことはないから、いまはどうかわからないけれど」 「課題」 「そう。ジーンと二人で、ね。………懐かしいわ」 紫の瞳が、あたたかく和む。 麻衣は沈黙したピアノを見つめて、そうして天井を―――二階を、見上げた。 + 午後の光がさしこむ居間で、ピアノの前にふたりの兄弟が立っていた。 ほとんど見分けがつかないほど似たふたりのうち一人が、蓋を開けて、椅子をひいて、もうひとりの肩を押すようにして座らせる。 「ほらナル、仏頂面したって課題が変わる訳じゃないし単位落として困るのは君だよ」 「………」 「練習するよね、もちろん。楽譜はこれ、テストは二週間後!あんまり余裕があるとは思えないけど?」 ピアノの前に座った弟に、鏡に映したようにそっくりな兄は対照的な笑顔で、指先で楽譜を弾いた。 「………わかってる」 溜息をついて兄に答えて、無表情は変えないままに漆黒の視線が楽譜を追う。一通り目を通して、端正な美貌の少年はゆっくりと白い手を鍵盤のうえに広げた。 10歳を少し越えただけの少年の手はオクターブが精一杯で、それほど大きくは広がらない。 ピアノの蓋の磨き抜かれた黒に、綺麗な指先がしろく映る。 「メトロノーム、要る?ナル」 「いまは要らない」 器械を抱えた片割れに、視線も向けずに否定して。 最初の音を確かめるように響かせて、そして少年の手は鍵盤の上をうごきはじめた。 テンポはとにかくほとんど正確に音符を音にうつしとって、少年は軽く息をついた。同じように息を詰めていた片割れを見上げる。 「ジーン?」 問うように名を呼ばれて、立っていた少年は一拍おいて頷いた。 「うん、だいたい正確。………テンポは遅いと思うけどね」 「だから練習が必要なんだろう」 「それはそうだけど」 ジーンはにこりと笑う。 「それにしてもやっぱりナルはなんっでもこなすよね。音楽の講義なんて半分くらい耳素通りさせてたくせに」 「講義中の練習はちゃんとやってる」 「まあ、それは確かにね」 「それに、お前に言われる覚えはない」 確実に同程度には要領のいい兄に切り返して、ナルは立ち上がった。 「交代」 「え?なんで?」 「練習が必要なのはお前もじゃないのか?」 「そりゃそうだけど。君はもういいの?ナル」 「だから、交代」 「順番にやればいいってこと?」 端正な顔に嬉しそうな笑顔で問われて、対照的な無表情のままナルはジーンにピアノ前の椅子をあけわたした。 「そう」 「確かにその方が効率がいいよね。……聞いててよ」 ジーンは弟の返事を待たない。 そのまま、同じ楽譜を弾きはじめた。 + トントン、とかすかにノックの音がして、居間の扉が開いた。 「あ、ナル」 くるりと振り返った少女の瞳が、漆黒の長身をとらえる。 「なに?お茶?」 「そう。――――ピアノか?」 「うん。見せて貰ってたの」 足音も立てずに歩み寄ってきた漆黒の青年は、記憶と違わずそこにあるピアノを見下ろした。 記憶の底で、片割れが弾くソナタが響く。 「私が淹れてくるわね。あなたたちはピアノを見ていて」 穏やかな微笑でルエラが言って、ゆっくりときびすを返した。 「すみません、ルエラ」 「いいのよ」 笑顔を残して、穏やかな女性が扉から姿を消す。 麻衣はそれを見送って、傍らの白皙を見上げた。 「弾いてたんだってね」 「僕が?」 「うん」 「スクールの課題だったからな」 「好きだった?」 「ピアノが?」 「うん」 頷いて見上げてくる琥珀色の瞳。 ――――脳裡に、硬質の音が韻く。 ほとんど無意識に手が伸びて、長い白い指先が白鍵に触れた。 その指が黒光りする蓋に映りこんで、綺麗に対称をえがく。 「さあ」 低い声が、答える。 「嫌いじゃなかったんだよね」 麻衣がくすりと笑う。 「絶対に嫌いだったら課題でもなんでも家で練習なんてやらないと思うもん。でしょ?」 問いながら返答は待たずに、麻衣は続けた。 「今は、弾ける?」 「無理だろうな。何年も触ってない」 「そっか」 「何だ?」 「ちょっと残念なだけ」 「………なにが」 「ナルのピアノ、聞きたかったなーって思って。あたしは習えなかったし全然弾けないもん」 なんか憧れがあるんだよね、と苦笑した少女の貌を見下ろして。 そしてナルは触れていた鍵盤を叩いた。 硬質の、深い音が空気に韻く。 驚いて瞠った琥珀色の瞳がナルの指先と瞳を交互に見比べた。 「な、なに?」 「弾いた」 さらりと答えて、漆黒の青年は身を翻した。手近な一人がけのソファに腰を下ろす。 「なにそれ」 麻衣は慎重にピアノの蓋を閉めながら振り返って抗議する。責めるような声にはどちらかといえば笑みが色濃くて、効果は薄い。 「聞きたいといったから弾いた。不満でも?」 「弾いたうちに入るの?」 「さあ」 さらりと答えた声には表情はない。 闇色の凪いだ瞳をじっとみつめて、そして麻衣のこづくりの顔に花が咲くように笑みが開いた。 「まあいいや。ありがと」 半開きになっていた居間のドアが、大きく開く。 「なあに?今の音」 「何でも」 ティーセットをのせたトレイを持って戻ってきたルエラに、ナルは一言で答える。 麻衣はちいさく笑って、ルエラを手伝うために華奢な身体を翻した。 |
count8000hit、たまさまに捧げますv リクエストは「ピアノかバイオリンを弾くナル。」でした。………弾いてないじゃん、というつっこみはなしで。←駄目じゃん。 本当は調査の舞台にピアノがあってそれをナルが弾くとかいうシーンを考えていたんですが、何をどう間違ったのかこうなりました(爆)かんがえていたのはまたいつかどこかで機会があれば……(吐血) キリリクとしてはあれですが、こういう日常は好きです。………精進精進。(泣) 2003.4.23 HP初掲載
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