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手を、のばして。




 桜の花も散り敷いて、街路樹の花水木が、まだわずかに色をはいただけのみどりの花弁を風のなかにのばしていく。
 都会に見える季節の移り変わりは薄くて、それでも確実に春の深まりをつたえる。

「こんにちはーv」
 ドアベルの音と一緒に姿を現した女性の姿に、振り返った麻衣の笑顔が一瞬驚愕に凍り付いた。
「ま、まどか、さん?」
「そうよー。忘れたなんてかなしいこと、言わないわよね」
「言いませんけど……って当たり前じゃないですか」
 はあ、と息を整えて、麻衣は思考停止した頭をかるく振った。
「いったいどうしたんですか?また何か問題でも………って、あ、ナル呼びますね、すぐ」
「いいのいいの急がなくて。今日はあなたに用があって来たんだから」
「は?あたしに?」
 麻衣は、言われた言葉を反芻して、琥珀色の瞳を瞬いた。
「そうよ、あなたによ、麻衣ちゃん。………まあいいわ、ナル呼んでちょうだい、どうせ話しなきゃいけないし。あ、これお土産ね」
 話についていけていない麻衣の、反射的に差し出した両の手のひらにケーキの箱を載せて、まどかは鮮やかに、笑った。


   +


 オフィスのドアプレートを「closed」に掛け替えて、麻衣はティーセットを乗せたトレイを手に、所長室のドアを一応ノックして中に入った。ソファセットにおさまった秀麗な美貌に不機嫌な色をのせた上司と、鉄壁の笑顔の本部の主任の姿に、内心だけで溜息をつく。
 どうしたって嵐の予感は避けられない。

 ふたりの前に、紅茶とお菓子を置いて、空いていた席の前に自分のぶんのお茶をことりと置いた。
 おそるおそるそこにすわった麻衣に、まどかがティーカップを片手に笑顔を向ける。
「あいかわらず麻衣ちゃんのお茶は絶品ね」
「……ありがとうございます」
 かるく会釈して、麻衣はおずおずと口を開いた。
「あの、あたしに用って……」
「そうそう、進級おめでとう、麻衣ちゃん。高校三年生ね」
「あ、ありがとうございます」
「唐突で悪いんだけど、進路のこととか考えてる?」
「…………」
 麻衣は言い淀んで、わずかに視線を落とした。
 考えていないわけではない。けれど、選択肢はあまりに少ない。―――それは、考える余地がないほどに。
 それを見やって、有能な上司のさらに上司は切り出した。
「単刀直入に言うわね。SPRの本部で、あなたに奨学金を出す話が出てるのよ。一ヶ月500ポンド、年間で6000ポンド……日本円で140万円ほど、これは貸与じゃなくて給付」
「まどか」
「あなたはしばらく黙ってきいて、ナル」
 漆黒の青年を一言で黙らせて、まどかは続ける。
「当然、これは大学で勉強するときの学費としての奨学金よ。大学で勉強して、結果的にSPRに入ってもらうことになるわね。それに同意した上でのことになるわ。………もちろん、だから、あなたが高校を卒業してこことはまったく関係ないところに就職したいつもりなら全然なかったことになるものよ」
「……………」
「さらに言えば、在学期間中も、SPRに所属という形になるわね。もちろんその場合は担当研究者として―――十中八九、ナルがつくことになると思うわ」
 まどかは言葉を切って、まっすぐに制服姿の少女を見つめた。
「即答できることじゃないと思うけれど、どう?麻衣ちゃん」

「まどかさん」
 数瞬おいて、麻衣は視線をあげた。
 視線はまっすぐに、まどかの瞳に向かう。
「それって、SPRに所属する『能力者』として、大学での教育を受けさせるための奨学金、ってことですか」
「てっとりばやく言えばそういうことね。調査員としての能力も期待されてるわ、もちろん」
「申請すれば誰にでも出されるものなんですか?」
「違うわ。私が推薦したの。……あなたの場合は、調査員としての実績があるし、能力についてもナルの報告がいくつもいってて注目されているから、反論は出なかったわ。あとは、あなたの意志待ち」
「あたしの……」
 琥珀色の瞳が、一瞬だけ揺れた。
 ナルを見つめて、そして、離れる。
 その瞳の動きに気付いたのか気付かなかったのか―――まどかは言葉を継いだ。
「あなたの意志さえあれば、ナルは研究者として了承してくれると思うわ。……ねえ、ナル?」
 にこりと笑って部下を見やる。
 ナルは溜息をひとつついて、頷いた。
「………麻衣の意志が確かなら」
「なら問題はないわね。麻衣ちゃん、なにか質問ある?」
 皿に残った最後のケーキの欠片を口に入れて、まどかは麻衣を見つめる。
「…………今のところは、特にないです」
「就職か、進学かって選択肢だと思うし、急には決められないと思うから、今答えが欲しいとは言わないわ。よく考えてね」
 にっこり笑って、彼女はからになったカップをソーサーに戻して、さっと立ち上がった。
「さて、と。今日のところはこれで失礼するわ。……リンは資料室?」
「そう」
「ちょっとかりてくわね」
「どうぞご自由に」
「それじゃまたね、麻衣ちゃん。ゆっくり考えて」
「あ、はい」

 颯爽と所長室から出ていった彼女を見送って、麻衣は自分の前のティーカップを見つめた。
 自分の分の紅茶にもケーキにも、また口はつけていない。

 ナルは溜息をひとつ落として、部下の少女に視線を向けた。
 膝の上で手を握りしめた少女は、また視線をおとして考え込んでいる。

「麻衣」
 呼ばれて、顔を上げた少女の頬で、色素の淡い髪が揺れる。
 琥珀色の瞳が、揺れて。
 
 波紋をおこす。

「ナル?」
「どうしたい」
「あたし?」
「そう」

 闇色の瞳は凪いで、底は見えない。

「あのね、ナル」
 また麻衣の視線が手元に落ちる。
「知ってると思うけど。………大学の学費なんて出せないんだよ」
「だろうな」
「だから、就職するしかないって思ってた」
「進学の希望は全くなかった?」
「……そりゃ、ナルとか安原さんとかみてたら。勉強して、なにか役に立てればいいと思ってたけど、でも」
「学費が出せない?」
「うん。…………でも」
「でも?」
「就職したら…………」
 言い淀んだ麻衣に、ナルは無言で続きを促す。
「就職しちゃったら、ここには、来れなくなるよね」
 澄んだ声に、痛みがにじんだ。

 涙の色さえ感じられそうな、声の彩。
 膝の上で握りしめた手が、白くなるほど強く。
 感情を抑制する。

「来れなくなったら、会えなくなるよね。みんなにも、……ナルにも」
「それで?」
「進学できて、勉強できて………今まで見たいにここに来れたらいいって、思ってた」

 抑えた声は必要以上に平坦に、響く。

「それならそうすればいい」
「ナル」
「SPRに縛られることになる。それがどういうことか分かっているなら」
「分かってるよ。………もう、抜けられない。ずっと関わっていくことになる」
 心霊調査という特殊な領域に、完全に足を踏み入れることになる。今までは避けて来れた本格的な能力調査も避けられなくなるだろう。
 けれど、それは、家族のようなメンバーとのかかわりを、そしてナルとの関わりを、保つことになる。
「………分かってる」
 繰り返して、麻衣はまっすぐにナルを見つめた。
「ナルは、いい?」
「何が」
「担当研究者としてはナルがつくことになるってまどかさん言ってたから」
「最初に報告したのは僕だ。―――他に譲るつもりはない」
 興味深い対象だからな、と言外に付け加えた彼に、麻衣は笑った。
 ―――泣き笑いのように。
「それなら、ここにいても、いい?」
「麻衣が決めることだ。ここにいることも、SPRに関しても」
「………」
「麻衣の責任で、決めろ。僕のことを気にする必要はない」

 凪いだ、怜悧な声が空間に浸透する。
 暫時の沈黙をおいて。

 麻衣は、ひどく透明に、笑った。

「ありがとう、ナル」


  +


「こんにちは、麻衣ちゃん」
 ドアベルと一緒に響いた声に、振り返った麻衣は笑顔を浮かべる。
「まどかさん、こんにちは」
 回転椅子から立ち上がって、くるりと身を翻す。
「座っててくれませんか。すぐお茶淹れてきますね」
「ありがとう」
 通りかかり際所長室のドアをノックだけして、麻衣は給湯室に姿を消した。

 トレイに載せたカップは三つ。
 まどかに、そして出てきたナルの前にカップをおいて、麻衣は定位置に座る。
 三日の期間をおいて来た本部の主任は、にこりと笑って麻衣を見た。
「それで、結論は出た?」
「はい」
 麻衣は頷いて、そして栗色の頭を下げた。
「奨学金の話、お受けします。よろしくお願いします」
「いいのね?SPRからの制約は入ると思うけど。……能力のテストも含めて」
「分かってます」
 答えた麻衣の瞳を、まどかは真剣な瞳でじっとみつめて―――そして、笑顔を浮かべた。
「うん、わかったわ。それじゃ本部に戻り次第正式な書類を送るわね」
「戻るっていつ帰られるんですか?」
「今日の7時発の飛行機」
 ちなみに、現在時刻はすでに午後3時を回っている。
 一瞬沈黙したふたりに、まどかは笑顔で続ける。
「間に合ってよかったわーvそれじゃ行くわね」
「あ、気をつけて」
 立ち上がった麻衣はまどかのそばに立った。
 その栗色の頭を撫でるようにぽんぽんと叩いて、彼女は笑顔で手を振った。
「それじゃね。……受験勉強頑張って、麻衣ちゃん♪」
 大きな荷物は空港に送ってあるのだろう。ハンドバッグひとつのまどかは、鉄壁の笑顔でナルにも手を振って、オフィスを出ていった。

「じゅ、受験勉強……」
 盲点だった、となかば茫然と呟いた麻衣に視線をやって、ナルは立ち上がる。
「所長室にお茶を」
「………うん。了解……」
 どうしようどうしよう、と呟きつつ給湯室に消えた麻衣の背中を見やって、呆れたような溜息をつくとナルは所長室に入った。



 麻衣の受験勉強は所長の承認付きで、某国立大学現役の有能事務員が見ることになったが、それはまた別の話。




 count8888hit、東西紀さまに捧げますv
 リクエストは「麻衣が就職のことでナルと揉める話。」でした。………はい、揉めてません。すみません(爆)。
 うちのナルと麻衣は揉めてくれませんでした(汗)マイペースというかなんというか…?ていうかこの時点で恋愛感情二人とも認識以前だし。いや、麻衣ちゃんはちょっと意識してますけどっ(爆破)………とろいんですね、うちの二人……(遠い目)←何を今更。
2003.5.11 HP初掲載
 
 
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