雨。
あめ。
途絶えることなく雨が降る。
空気を、大気を潤すやさしい恵み?
それとも、暗鬱な冷たい滴?
灰色の空。
冷たい、雨。
暗く沈んだ世界。
そして。
やわらかく潤んだ大気。
目に鮮やかな、緑。
プラスとマイナス。
その対比の天秤を。
ただ、ひとの心の彩だけが、かたむける。
+
+
+
「あ、雨だ」
お茶を淹れて、ポットをセンターテーブルに置いて。
麻衣は、視界の隅をよぎった窓の外が霞んでいるのに気付いて目を瞠った。
壁を一面切り取った窓を、ただ灰色の色彩だけが占める。
「何だか空が暗いなと思ってたら、雨だったんだ………」
窓際に歩み寄って、麻衣は小さく呟いた。
眼下に広がる、そして遠く近くに立ち並ぶビルの群れが、淡いヴェールでも掛けたように霞んで───水に沈んでいるように、見えた。
透明な分厚いガラスで外界と遮断された部屋の中は空調が利いていて、あまり気温変化など感じられないし、防音は完全で雨音など聞こえるはずもない。だから、雨など気づきさえしなければ大した影響はないのだけれど、それでも、気づいてしまえば、空の昏く沈んだ色に心まで沈められるような気がした。
別に何か外出の予定があるわけでも、雨が降ったから他に不都合が起きるわけでもない。
今日は一日、放っておけばそれこそ限界まで不摂生の限りを尽くす上司の、家政婦の真似事をするだけで。
けれど。
実質的な不都合などないのは分かっていても、どこか陰鬱な空気に、気づいてしまえば。
感情は引きずられて。
知らず、溜息が漏れた。
落胆か、それとも諦めか。
その溜息は意図した以上に深く、麻衣が自分で驚いたほど大きく、空気を揺らす。
「麻衣」
「あ。ごめん」
漆黒の、冷然と凪いだ瞳を向けられて、麻衣は小さく息をのんで、謝罪した。
邪魔をするしない以前に、沈んだ溜息など聞かされるのは気持ちのいいものではないだろう。意図したものではなかったとはいえ、そんな事情は聞かされる側には全く関係がない。
ナルは表情を変えずにテーブルの上に置かれた白磁のティーカップに手を伸ばした。優雅な動作でそれを口に運び、漆黒の瞳もまた手元のファイルに戻る。
向けられた視線も、意識も逸らされる。
まるで無視されたように感じて、麻衣は唇を噛んだ。
ナルに、特別な意図はない。
視線をはずしたことに何か特別な意思を込めているなどとは考えられない。
この程度の「無視」は日常茶飯事だし、いちいち相手をしてくれるようなことはあり得ないと、おそらくは誰よりも自分が一番よく知っている。
それでも、分かっていても───意図とは遠く離れて、ほとんど反射的に胸に走った痛みは、容易には消えてくれない。
──────いつもだったら気にならないのに。
内心だけで呟いて、麻衣は意識を切り替えるために涙の滲みそうな琥珀色の瞳を二度、三度と瞬いた。
軽く頭を振れば、栗色のやわらかな髪が宙に舞って、ふわりとこぼれ落ちる。頬に乱れてかかった髪を指先でかき上げて、軽く溜息をついて。
麻衣は、自分に向けられた視線に気付いた。
闇色の瞳に、僅かに苦笑混じりの表情を見て取って、軽く首を傾げる。
「………ナル?」
「どうした?」
「………………ごめん………」
「謝れと言った覚えはないが」
そばにいれば、気配の色くらいは読みとれる。それは、ナルでも麻衣でも同じことだ。
うん、と頷いて、麻衣は躊躇いがちに口を開いた。
「怒ってない?」
「怒る必要があるようなことなのか?」
「………仕事中なのに気を散らしてるし」
「それはおまえの責任じゃない」
「でも」
「日本語も理解できなくなったのか?」
「え?」
「僕は、何と言った?」
問われて、麻衣は一瞬だけ言葉に詰まり、それから軽く息を吐いた。
冷然とした平坦な声が紡いだのは、邪魔をするな、でも、出ていけ、でもなく。
「どうした、て」
「それは、最近の日本語では怒りを表す表現なのか?」
「違うけど」
揶揄を含んだ、声質だけは良い低い声に、高い声が返る。普段なら憤然と返るはずの澄んだ響きはどこか空虚で、ナルは秀麗な眉を寄せた。
「麻衣」
極力抑えた低い、呼びかけ。
未だに窓際に立ちつくしたままの彼女を呼ぶ。
ソファからは動かず、漆黒の瞳はただまっすぐに彼女を捉える
「ナル?何」
「どうした?」
全く同じ語調で繰り返された問いかけに、麻衣の表情がわずかに揺らいだ。
唇が震えて、琥珀色の澄んだ瞳が、揺れて。
「何も」
「何もない?僕は見え透いた誤魔化しを訊くつもりはないんだが?」
「誤魔化してるつもりはないよ?…………ただ…………」
「ただ?」
「自分でも、よく、分からない」
「分かる範囲で話せ」
「時間の無駄になるよ?」
「話せといっているのは、僕なんだが?」
「そりゃそうだけど」
「話すのか、話さないのか。麻衣の好きにしろ」
変わらない、漆黒の瞳。
白皙は、髪一筋の揺らぎも見せず、整いすぎた美貌に感情の色は見えない。
「聞いてくれるの?」
「だからそう言っている」
「………………そばに行っても良い?」
ためらいがちな問いかけは、かすかに震えて、拡散した。
常なら問いかけることもわざわざ断ることもなく、側に座る麻衣の問いかけに、ナルは内心だけで溜息を落とした。
麻衣の、いつにない不安定さ。
彼女らしくない、明らかな脆い感情の色彩。
それだけで、心の比重はあっけなく傾いていく。
ナルは無表情のまま、広げたファイルをぱたんと閉じて、漆黒の視線を華奢な少女に滑らせた。
「どうぞ」
「ありがとう」
ほっとしたように小さく微笑った麻衣は、ゆっくりと確かめるように歩いて、ソファにすとんと座った。
「ごめんね」
「何が」
「心配させてるでしょ?」
「…………どうした?」
肯定も否定もせずに、同じ問いを繰り返したナルを、麻衣もまた追求しない。
「自分でもよく分からない」
「分からない?」
「うん。分からないけど。なんか───────上手く、言えないんだけど」
澄んだ高い声がわずかに揺らいで、白い頬を透明なしずくが伝い落ちた。
「え!?うそ、なんで」
「…………お前は馬鹿か」
自分の涙に驚いた麻衣の声を遮るように、呆れたような声を落として、ナルはそのままやわらかな栗色の頭を片手で引き寄せた。らしくない行動だと内心自嘲しながらも、不安定な麻衣を放置したあげく自分が苛立つような馬鹿げた真似を繰り返す必要はどこにもない。
きわめて非生産的な馬鹿げたまねは一度やれば十分だと、半ば自分に言い聞かせるように声に出さずに呟いて、行動を、おそらく思考とともに凍結させた華奢な少女の柔らかな身体を抱き寄せる。
ふれる、柔らかな体温と、伝わってくる鼓動は、常の麻衣のもので、そのことにどこか安堵する。
「ナル…………?」
「上手く言わなくて良い。最初から期待してない」
あまりにも変わらない冷たい口調に、暖かな胸の中で麻衣は目を見開いた。
同時にすとんと落ち着いて、そのことが何かおかしくて、くすくすと笑う。
「なに、それ。期待してないって」
「麻衣に理路整然とした説明を求めるほど無謀じゃない」
「うわ、それひどい。…………確かに今はできないけど」
「それで、どうした?」
「…………ほんとに、たいしたことじゃないよ。…………………雨、降ってるでしょ?」
「ああ。それがどうした?」
「うん。別に、変なことでもおかしいことでもないんだけど。さっきまで全然気づかなかったんだけど、外を見て…………暗いな、雨降ってる、ておもったとたんに、何か………ものすごく切なくなって。…………落ち込んじゃったの。なんでかって言われても、あたしにも分からないんだけど」
「雨でナイーブになったのか」
「………みたい。馬鹿馬鹿しいよね、ごめん」
陰鬱だという印象に、心を引きずられた。
脆くなった心は些細なことに傷ついて。脆い脆いガラス細工のように砕け散る。
「別にいい。…………雨を、陰鬱だと思うからいけないんだろう」
雨を見て、寂しいと、切ないと、そう連想してしまえば、心はそれに引きずられてしまう。
けれど、雨を見て陰鬱だと思わなければ?
「え?」
「違うか?」
「どういうこと?」
「西洋には、文学作品や芸術作品に現れる事象に、特殊な意味づけをする考え方がある。日本語では象徴哲学とか表象哲学とかいうらしいが、日本ではあまり一般的じゃないな」
「…………………難しい話?」
「いや。麻衣相手に哲学の話をするつもりはない。………そういう理論で、「雨」が象徴している意味は何か分かるか?」
「分かるわけないでしょうが」
「僕は専門じゃないから詳しい訳じゃないが。豊饒、浄化、天の感化。そんな意味合いだったな」
「………随分いい意味なんだ………」
「そう」
「あっちって雨が少ないんだっけ」
「日本が多すぎる」
「だから、雨は恵み?」
「そういうことだろうな」
ナルはそこで言葉を切って、笑った。
「勿論、ノアの洪水のように、神の浄化が粛正になることもあるが」
雨は、恵みでもあり、災害にもなりうる。
「何か違う気がするけど。つまり、取りようだってこと?」
「そう」
「…………………思いっきり遠回しすぎてわかんないけど、慰めてくれてるの?」
「そう考えた方が幸せだろうな」
笑みを含んだ声に、麻衣は顔を上げて─────見慣れた美貌の婉然とした笑みに、溜息をつく。
「ナル…………意味不明だよそれ………」
「分かりやすくするつもりはないもので」
「まあ、いいけどね。……………ありがと、ちょっと気が晴れた」
琥珀色の瞳がようやく明るく晴れる。ふわりと笑った麻衣は、けれどそのまま立ち上がらずにまたナルの腕の中に戻った。
漆黒の青年は眉を寄せ、溜息をつく。
「………麻衣」
「もーちょっと、ここ居させて」
「…………仕事中なんですが?」
「分かってるけど。……………駄目?」
抑えた澄んだ声が紡ぐ言葉の遠慮がちな響きは、くすくす笑いで完全に相殺される。
拒むことなどできないと見越されていて、その予想通りに動くことは本意ではないが。
結局抵抗できないことに悪あがきすることの方がプライドに関わる。
ナルは溜息をついて、腕の中の華奢な、けれど確実なぬくもりを受け容れた。
プラスとマイナスに傾く天秤。
左右するのは人の心。
ほんのわずかな力だけで、マイナスに傾いた天秤がプラスに傾くことも、あるのだ。
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