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1章






   1章


 予定時刻から、ちょうど一分。
 響いたノックの音に、オフィスの空気が緊張する。

 音もさせずにドアを開けて入ってきたのは、背中までのアッシュブロンドにヘイゼルの瞳の、気品漂う洗練された美女だった。都会的ゴージャス系美女は綾子で見慣れている麻衣や安原も、ほーっと思わず目を瞠る。
 ここに入ってくる依頼人に共通するある種の危機感や悲壮感とは全く無縁の表情で、彼女は、とても優雅ににこりと笑った。ちょうど正面にいたナルに数歩歩み寄る。
『お久しぶりね、オリヴァー』
『……………ご無沙汰しております。レディ・ハミルトン』
『ジュリアって呼んでって何度言えば呼んでくれるのかしら貴方。それにご無沙汰は当然よ?だってあなた本国にいないんですもの。………まあ、私が言っても仕方のないことだけれど』
 彼女はそれだけ言って、ナルの隣に立つ長身の青年に視線を向ける。
『あなたにもお久しぶりね、ミスター・リン』
『お久しぶりです、レディ。お元気そうで何よりです』
『あなた、本当に相変わらずね』
 彼女はそこでくすりと笑い、今まで見ていなかった日本人二人にいたずらっぽい視線を向けた。
 それを受けて、ちらりと隣の同僚を見た安原が先に口を開く。

『はじめまして、レディ・ハミルトン。安原修といいます。ここで、事務と調査の手伝いをしています』
『はじめまして。ミスター・ヤスハラ?私のことはジュリアでいいわ。英語が上手ね』
『ありがとうございます』
 如才なく頭を下げた安原の横で、麻衣はかちこちの英語を絞り出した。………本来ならもう少しまともに話せるはずだが、緊張して上手く舌が回らない。
『私は調査員の谷山麻衣です、レディ・ハミルトン。はじめまして、お会いできて嬉しいです』
『はじめまして、ミス・タニヤマ………ってまあ!!』
 上品な挨拶から、唐突に、美しい瞳を瞠ってぱん、と手をうったジュリアは、驚いて目を丸くした麻衣にずいと歩み寄って華奢な手を取った。
『あなたが、ミス・マイ・タニヤマ?あなたの噂は聞いているわ。ねえ、マイって呼んでもいいかしら?私のこともジュリアって呼んでくれると嬉しいわ』
 ジュリアの台詞に、麻衣は一瞬めまいを起こしそうになる。
 どういう噂かは、聞くまでもない。SPRの関係者なら、「能力者」として知られてきている「麻衣」」を見る面々もまだいるだろうが、ジュリアは絶対に違うだろう。
 彼女は視線だけ動かして漆黒の青年を睨んでから、かなり引きつった笑顔をジュリアに向けた。この人が、SPRもしくはまどかと、そんなに親しい間柄だとは聞いていない。
『あ、ありがとうございます』
『それに、まあ!とっても可愛い子じゃないの!!まどかもひどいわ、こんなに可愛い子なら写真を見せてくれれば良かったのに!!』
『…………さすがのまどかも、それを思ったから写真を見せなかったんだと思いますが』
 苦虫を百匹ほどまとめて噛み潰したような、それでも無表情で沈黙を保ったままのナルに変わって、リンが割って入る。
 苦笑混じりのリンの様子と意味不明のやりとりに困惑しながら、それでも麻衣は自分の言うべき台詞を、ようやく口にすることができた。
『あの、すみません、ジュリアさん。立ち話でお話しすることでもありませんから、座ってください。お茶をいれてきますから』
『まあ、ありがとう、マイ。よく気がつくのね』
 ジュリアがにっこり笑い、ナルが渋面のまま席を勧め、彼女が腰掛けるのを待って定位置に座る。
 安原がノートパソコンを開き、あけてある麻衣の席にファイルをおくと、彼女がトレイにカップを並べて戻ってきた。まずジュリアの前にカップを置き、ナルに手渡し、リンと安原にも渡して、トレイを持ったまま開いていたナルの左隣───彼女の定位置に座ると、トレイをおいてファイルを開く。

 全員が定位置について、すべての瞳が漆黒の青年に集まり、ようやく、いつもの緊張に満ちた空気がオフィスの空間を支配する。

 そして、ナルが最初に口を開いた。
『まず最初に、ご依頼の内容を伺いましょう、レディ・ハミルトン』
 まっすぐに漆黒の瞳を向けられて、美しい貴婦人は───にっこりと、笑った。
『ごめんなさい、オリヴァー。全然知らないのよ私』
 誤解のしようのない分かりやすすぎる英語は全員にそのまま伝わって、そして全員そのまま呆気にとられた。滅多なことでは依頼人の前で表情を動かさないナルですら、秀麗なラインを描く眉を寄せて、軽くため息をつく。
『レディ。何ですかそれは…………』
 溜息をつかれたジュリアの方も、微苦笑をうかべてかるく首を傾げた。象牙のような肌の横で、アッシュブロンドの緩やかな巻き毛が揺れている。
『私も、あんまりだと思うわよ。………正確に言えば、ね、私が知ってるのは、アンドリューのひいおじいさまの、日本にある古い別荘で変なことが起こっているってことだけ、なの。それで、その話を彼がSPRに持っていったってところまでなのよ。詳しい話は全然聞いていないし、資料も全然渡されていないから飛行機の中で確認もできなくて、困ってたの。でも、あなたのところに送ったから必要ないって言ってたわ、彼』
『………僕は、依頼人代理としてあなたが来られると、まどかから聞いたんですが?』
『もちろんそうよ。アンドリューの代理がいなければ、その別荘どうにもしようがないでしょう?彼は今動けないし。私は全権貰ってきてるから、その点は大丈夫。でも、本当に悪いとは思うんだけど、致命的なことに、アンドリューから詳しい話を聞いている時間がなかったのよ。彼に話を聞いてから、四時間後にヒースローから飛んだんですからね私。あの短時間で、まどかに連絡をとれたのは本当に幸運だったわ。………まったく、人使いが荒いったら』
 婚約者へのクレームを口にした彼女に、ナルは溜息混じりに肯定する。
『………彼の人使いについては否定しませんが』
『でしょう?』
 同意を引き出して、ヘイゼルの瞳が、にこりと笑う。
『アンドリューからも、まどかからも、詳しいことはあなたに聞くように言われてるの。だから、説明お願いできるかしら、オリヴァー?』
 まったく悪びれることなく、代理とはいえ依頼人のくせに依頼内容の説明を求めるというとんでもなく本末転倒なことを、いっそ快活といいたくなるような口調で言った彼女は、にっこり笑って首を傾げる。
 既に何を言う気もなくしたナルは、ため息をついて、口を開いた。
 これ以上は、言うだけ時間の無駄にしかならない上に、苦情を持っていくにも、相手がまどかやアンドリューではやるだけ無駄としか思えない。まったく神経がもたないなと思いながら、彼は口を開いた。

『………つまり、問題になっているのは、軽井沢という所にある、ヨーク伯爵の別荘です。三代、いえ、四代前ですね。当時の伯爵、ロバート卿が、外交官として日本に赴任した時にドイツの実業家から買ったものらしいですが。このあたりの説明はまだ伯爵側の調査をもとにしていますので、我々の裏付けはまだとれていません』
『それにしてもおかしいわね。私、アンドリューからもエリオットおじさまからも、日本に別荘があるなんて話、聞いたことなかったわよ』
 軽く眉をひそめたジュリアがそう呟くと、遠慮がちに、麻衣が挙手した。
『あの。すみません。いいですか』
『なにかしら?マイ?』
 ジュリアがとたんに笑顔になる。美しい笑顔を向けられて、麻衣はひるんだ。美貌はいい加減見飽きるほど見慣れているが、先刻からの彼女の視線はひどく痛い。
 う、と詰まりそうになりながら、横目で上司の白皙を窺って、それから言葉を継いだ。たとえどんなに直接調査に関係ないように思えても、疑問符だらけでおいておくよりは、とりあえず解決しておいた方がいい。
『基本的なことを聞いて申し訳ないんですけど。あの、アンドリューさんという方がヨーク伯爵家の方だというのは、昨日ナ………所長から、聞いたんですけど。………あの、ジュリアさんとアンドリューさんって……?それに、ジュリアさんもですけど、アンドリューさんも、もしかして、所長と関係あったり……します?』
 遠慮がちな、「ボス」の顔色を窺いながらの麻衣の言葉を最後までにこにこと聞いて、それからジュリアはナルをちらりと睨んだ。
『まあ、オリヴァー。全然説明していないなんて、いくらあなたでも、ちょっと怠慢過ぎるではなくて?』
『…………関係ないことだと判断しましたので』
『あなたがどう判断しようと、誰だって気になるものよ。あなた以外の人はね』
 ナルの反論にあっさりと返して、ジュリアは笑顔で説明を始めた。
『アンドリューはヨーク伯爵家の一人息子だったの。エリオットおじさまが伯爵位をついでいらしたんだけれど、この前………そうね、もう三ヶ月になるかしら、ご病気で亡くなったの』
 それまで、絶えず笑みをたたえていたヘイゼルの瞳が、一瞬だけ曇った。
『それで、アンドリューがこの前伯爵位を継いだのね。だから今のヨーク伯爵はアンドリューになるというわけ。………それで、私は小さい頃からのアンドリューの婚約者なのよ。アンドリューが大学に残ったり、事業が忙しかったりして、ずーっと延ばしてきたんだけど、彼が爵位を継いでしまったし、おじさまの喪があけたら式を挙げる予定になっているのよ。それからね、こちらのオリヴァーは、アンドリューのパブリックスクール時代の後輩にあたるの。五年、いいえ、六年だったかしらね?とにかく、学年はかなり離れているけれど、オリヴァーはかなりスキップして講義を受けていたからよく知っていたらしくて。………ちなみに、私が彼に最初に会ったのは。彼が十四歳のときだったかしら?アンドリューの家のパーティだったと思うわ』
 くすくすと何か思い出すように笑い出したジュリアは、剣呑な漆黒の瞳に気づいて手を振り、続ける。
『アンドリューはケンブリッジでデイヴィス教授についてもいたから、オリヴァーとはかなり親しいのよ』
『………レディ・ハミルトン。特に親しいわけではありません』
 渋面で訂正したナルに、ジュリアはこれみよがしにため息をついて、自分の発言を訂正した。
『わかったわ。……そういうわけで、アンドリューは個人的にオリヴァーをよく知っているのよ。───これでいいかしら?オリヴァー』
『結構です』
 ひとことで答えて、ナルは平板な口調で麻衣に確認する。
「それ以外に問題は?」
「………………ありません、ボス」
 麻衣はきわめて低姿勢でうなずき、氷点下の視線を逸らした。
 本部からの直接命令という錦の御旗に加えて、依頼人はスクールの先輩である上に、養父の教え子。それに、まだいろいろ事情はありそうだ。
 これだけ「逆らえない」材料がそろっていれば、昨夜からの彼の尋常でない低気圧も、納得できた。触らぬ神に祟りなしとはこのことだ。

『他に質問がないなら話を続けます。よろしいですか?』
『お願い、オリヴァー』
 明らかに機嫌の悪い彼を面白がるように、ヘイゼルの瞳からは笑みが消えない。幼い頃から知っているだけに、いくら凄味を増した美貌に空気さえ凍りそうな気配でも、彼女の瞳には可愛らしく映る、らしかった。
『…………。その軽井沢の別荘に、今回の相続に関して調査が行われたそうです。調査を担当したのは、イギリスから直接派遣された、アンドリュー卿の秘書のクリストファー・アトリー氏と、同行した監査会社に所属するアラン・カーティス氏の二人です。ふたりとも三十代の半ばだそうですね。ただ、現地に行ったときに、簡単な屋敷まわりの管理を代々依頼してきた造園家の娘が、案内役として二人を先導したそうです。そのとき、たまたま父親がいなかったのと、外国からの客を娘が珍しがったのが理由だそうですが。………これもそちらの報告で、我々の調査はまだ行っていませんので裏付けはありません。その造園家についても資料はありません』
『娘さん?』
『そうです。15歳の少女だそうです。地図を見る限り、距離はそれほどありませんし、道のりは簡単ですので、彼女にとっては簡単な役目だったでしょう』
『その子が問題というわけなの?オリヴァー』
『正確には、問題なのは彼女ではありません。………調査に入ったふたりは、彼女を同行させました。これは、彼女の方から、一度入ってみたいと思っていたと頼まれたからだそうです。確認はとっていませんが。───部屋は非常に良い状態を保っていてたいした問題はなく、伯爵家が所蔵していた見取り図どおりで、彼らはすぐに一階から二階へ移ったそうです。あとで詳しく図面で説明しますが、この建物は二階建てになっています。………ほとんどの部屋を、やはり問題なく見て回った彼らは、最後に、南東の角部屋に入りました。そして、彼らが部屋に足を踏み入れた瞬間に、パン、というかなり大きな破裂音のような音がして、同行していた少女が階段下まで投げ出された、ということです。これは、アトリー氏がアンドリューに連絡した内容を、彼がファックスで送ってきたので、それをそのまま申し上げたんですが?』
 ナルの言葉に、ジュリアがはっきりを顔をしかめる。
『まあ。女の子が投げ出された、ですって?』
『報告書によれば、そうですね』
『階段下まででしょう?その子に怪我はなかったの?』
『なかったそうです。少女によると、はっと気がついたら階段の下にいたということですね。彼女は、その、パンという破裂するような音は聞いていないということです』
『それで?』
『それだけです。二人がみたところその部屋には何の異状もなく、その少女が「瞬間移動」しなければ、問題なく調査は終わっていただろう、ということです』
 白皙に、表情は映らない。
 ただ冷ややかに、年上の美女を見据える。
 麻衣は首をすくめ、安原とリンはそっと顔を見合わせて目線だけで頷きを交わした。
 ───仕事の選り好みの激しい彼が、引き受けるような事件ではないのだ。彼の興味を惹くような情報は皆無といっていいし、起こった現象がいわゆる霊現象だとしても、音を聞いたのが二人だけ、動いたのは一人だけ、しかも双方とも一度だけとなれば、データとしても乏しい。
 彼が引き受けたのは、ただひたすら、上からの命令の上、断れない筋からの依頼だったという、本当にそれだけの理由にすぎない。

 彼の仕事に対するスタンスは、十分聞いているのだろう、ジュリアがやや複雑な表情で、確認する。
『…………つまり、アンドリューの要請は、それの調査、ということ?』
『そうです。SPR日本支部の、総力を挙げて、何が起こっているのかを突き止めるように、というのが、ヨーク伯爵家からSPR本部に出された依頼だそうですね』
 依頼と一緒に、伯爵家からはSPRに対する援助も提示されている。そのことも聞いてはいたが、ナルはそこまでジュリアに話すつもりはなかった。上流階級とSPRの流儀については、彼女もよく知っていることで、わざわざ説明することでもない。
 ジュリアは流れ落ちるアッシュブロンドをかきあげて、ため息をついた。
『私は素人だけれど。………あまり、面白くなさそうなお話ね。よく貴方が───デイヴィス博士が受けたものだと思うわ。率直に言わせてもらって』
『それは僕に対するあなたの評価ですか?』
『そうよ。「デイヴィス博士」のネームバリューには見合わないわね。日本支部を統括しているのがあなただから仕方ないのだろうと思うけれど』
『僕がここにいるから、アンドリューはこんな依頼をしたんだと思いますが?』

 SPRが日本に支部をおいていることも、その所長が「デイヴィス博士」であることも、SPRはオープンにしていないが、後援者たちが調べようと思えばその程度のことはすぐに判ることだ
 怜悧な声に切り返されて、一瞬言葉に詰まったジュリアは小さく苦笑して両手を広げた。
『あなたには、まったくかなわないわね、アンドリューの言う通りだわ。本当に。……そう、多分、その通りよ』
『そういうことです。そして、そうであれば、一切の手抜きはできませんね。彼が、まだこちらにいるアトリー氏ではなく、代理人としてあなたをこちらによこしたのもそういうことでしょう』
 単なる秘書という立場にすぎないアトリーより、実家もSPRの有力な後援者である伯爵家の令嬢で、アンドリューの婚約者という立場のジュリアの方が、「圧力」としては大きい。幼い頃からの面識も、十分に役に立つとアンドリューは判断したのだろう。
 怜悧なテノールは、変わらず無表情に、言葉を紡ぐ。
『そういうわけで、レディ・ハミルトン。あなたには申し訳ありませんが、我々の調査にすべて同行して頂きます。あなたには危険が及ばないように努力はしますが、それはあくまで最善の努力というだけで、完全の保証はできません』
『それはわかっているわ。私はあくまでアンドリューの代理で、すべてを見届ける義務があるわ。だから、同行するのは当然よ』
『結構です』
 ナルは一言で返して、完全に冷めた紅茶を一口飲んでから立ち上がった。

「軽井沢には明日移動する。………麻衣。ハミルトン嬢の宿泊場所を聞いて、決まっていないようなら手配しろ。それから、簡単に調査の手順を説明しておけ」
「了解」
「………確か、気温が低いんだったな?」
「そうです、所長。東京よりはかなり」
 安原が答えて、ナルは目線で頷くと言葉を継いだ。
「それも伝えて、買い物が必要なようならつきあってやれ。どうせ防寒具はろくに持ってきていないだろう」
「はあい。わかった。なんか時間なかったみたいだから荷物もあまりないみたいだしね」
「お前も相応の用意をするのを忘れるな」
 釘を刺されて、麻衣は首をすくめた。防寒具の用意をし忘れて途中で買い出しに行くはめになった前科は、一度や二度ではない。
「分かってます。それじゃあたしはジュリアさんと話をしているね。ナルたちは?」
「リンは機材の調整。安原さん、すみませんが旧軽井沢近辺で宿泊施設を押さえてください。できればコテージで」
「わかりました」
「それから、夕方にアトリー氏とカーティス氏を呼んでありますから、下準備を」
「了解です、ボス」
「ナルはどうするの?」
「アンドリューが送りつけてきた資料を見ている」
「分かった。用があったらそっちに行くけどいいよね」
「必要に応じて判断しろ。………他に質問は?」
 漆黒の瞳が部下たちを見回す。
 三対の瞳を受け止めて、そして、抑えたテノールが、響いた。
「それでは当面、各自で作業を進めるように」


 静かな部屋に、ノックの音がかすかに届く。
 返事を待たずドアが開いて、疲れきった表情の麻衣が所長室にふらふらと入ってきた。
「…………ジュリアさん、ホテルに行ったよ…………」

 アトリーとカーティスの話はほとんど三十分もかからず終わった。アトリーはしばらく残ってジュリアと話をしていたが、カーティスは夕方の便で本国に戻ると言って慌ただしく事務所を出て行った。彼が監査するべき本来の調査はおわっているし、その報告は出来るだけ早く必要であり、既に可能でもあるから、彼がこれ以上留まる理由はない。
 「ゴーストハント」は、彼の任務の範疇外だ。
 だが、アンドリューの秘書であるクリストファーは簡単に戻るわけにもいかず、ジュリアとしばらく話をして、麻衣や安原と協議した結果、軽井沢行きへ同行することになった。アンドリューへの報告の必要があるから二日後には戻らなければならないが、現場の状況をもう一度説明する必要があるという二人の説得と、調査をまかされた彼の義務感の折衷点らしかった。
 問題は、クリストファーが帰ったあとのジュリアだった。
 ホテルはとってあるし、荷物もそこにおいてきたと明言したにもかかわらず、麻衣の客間に泊まりたいと主張したのだ。
 「ホスト」側が客をもてなすという彼女の常識に照らせばそれは当然のことだったが───もちろん常識よりは好奇心が勝っていたのは確実だが、麻衣側にその用意がない。何しろ彼女自身すら、自宅で寝泊まりする割合が最近ではひどく低い。ゲストルームはあるものの、掃除も準備もまったくしていない。客を迎えられるような状態では、どう考えても、あり得ない。
 麻衣ともっと話したいと主張するジュリアを、準備もできていない客室に通すわけにはいかないという正当な論理と、これから同宿するのだから機会はいくらでもあるというチャンスの提示でなんとか説得しきるのに、なんと一時間以上かかったのだから、実に笑うしかない。
 面白そうに笑って見ているだけで手助けしなかった安原には、あとでどうにかして報復することを麻衣は心に誓う。───実現性は限りなく低いが、親友を巻き込めば何とかなるはずだ。

「ずいぶん時間がかかったようだな。ホテルがとれなかったのか?」
 所長室に籠ったまま出ても来なかった漆黒の青年は、資料に目を落としたまま声だけを投げる。
「ち・が・う!ジュリアさん、もうホテルはとってるし、荷物もおいてあるんだって」
「それで何か問題があるのか?」
「なんでかしらないけど、あたしの部屋に泊まりたいって、ものすごーい笑顔で主張されてね」
「………………」
 帰ってきた微妙な沈黙には気づかずに、麻衣は疲れきった表情のままでソファにすとんと座り込む。
「でも、そんな準備なんてしてないし。で、説得するのに時間かかったの。安原さんも手伝ってくれればいいのに、笑ってみてるだけなんだもん。まったく、他人事だと思って」
「それで、彼女は諦めたのか?」
「うん。なんとか。………ゲストルームはあるけどさ、準備はしていないから失礼だしね」
「自分の部屋も殆ど使ってない家だからな」
 妍麗な美貌に、皮肉を帯びた笑みが浮かぶ。麻衣の頬がさっと上気して、琥珀色の瞳に微妙な彩が走った。
「………そんなことないよ。課題とかは家でやってるし」
「昨夜、僕の部屋でやっていた、あれは何だ?」
 間髪入れず切り返されて、麻衣はぐっと詰まる。
「…………………課題のレポート、だけど………」
 確かに、ナルの部屋のリビングを占拠してレポートを書いていたことは事実だが。
「いつもじゃないからね!」
「そう」
「確かにあんまり最近家で寝てないけど」
「そうだな」
「だいたい、自分でちゃんとしないナルが悪いんでしょ!」
「それは知らなかったな」
 口調に変化はないのに、どこかからかうような響きを感じたのは麻衣の気のせいではないだろう。
 これ以上この話題を追求すると、余計に立場が危うくなる気がして、麻衣は話題を無理矢理転換した。
「それはとにかくおいといて。ジュリアさんが、なんか知らないけどあたしと話したがってて。それもあって時間かかったんだよ、説得するの」
「…………話したがってた?」
 珍しくおうむ返しに問い返したナルに、麻衣は目を瞬いて首を傾げ、頷く。
「うん。………あたしのとこに泊まれないなら、ジュリアさんが泊まってるホテルに来ないかとまで言われた。これから同宿するんだからって断ったけど。準備もあるし」
「…………………気に入られたな」
「は?」
「彼女に気に入られたと言ったんだ。アンドリューに言わせれば、かわいい女の子には目がないというのがレディ・ハミルトンの困った趣味らしいからな」
「……………はい?」
「まあ、調査中に遊ぶほど彼女も非常識ではないだろう。………今度イギリスに行ったら確実に招待されるだろうが」
「…………………かわいい?可愛い女の子?……なんであたしが………美人でもないのに………」
 ばったりと突っ伏した麻衣に、無情に平板な声が答える。
「僕に聞くな。彼女の思考回路までは知らない」
「……もういい。真砂子つれてくる。真砂子の方が美人だし!真砂子見たら私なんてきっとどうでもよくなってくれるでしょ!」
「さあ?僕は知らない」
「冷たい」
「関知しないところまではどうにもできないだろう。諦めるんだな。………まあ、原さんはどうせ呼ぶつもりだったから連絡はとってくれ。それから松崎さんにも」
「綾子にも?」
「そう。…………「弾かれた」のが、その、連れて行った少女だけで、二人の男には関係なかったというのが気になる。女性だというのが問題なのか、それとも、他に要因があるのか。まさかレディ・ハミルトンを実験台にするわけにもいかないからな」
「……………実験台ね………。一応危険ないみたいだからいいけどさ。連絡はしとく。ぼーさんとジョンは?」
「安原さんに連絡は入れてもらった。暇だから来るそうだ」
「ぼーさん?」
「そう。ジョンは、教会の方の用事が片付いたら来れる」
「そうなんだ。なら、久々に全員集合だね」
 小作りの白い貌にふわりと笑みを咲かせた麻衣に、ナルは皮肉な口調で答えた。
「SPR日本支部の総力を挙げて、という依頼だからな。遠慮なく、総力を挙げて、とれる限りすべての手段をとらせてもらう」
 費用はどうせ全額ヨーク伯爵家が出すのだから、この際徹底的にデータを取って、たとえ有効なデータがとれなくても反証例として使うだけ使う。
 わざわざ一語ずつ言葉を区切って、きっぱりとそう言ったナルに、麻衣は小さくため息をついて、先行き不安だなぁ、と呟いた。


     †


 日本で最も古い別荘地である軽井沢は、今ではかなり観光地化されているが、古い別荘区画はもともと宣教師や外交官、御用教師などが故国と似た気候を愛して別荘を建てた区画で、歴史のある洋館や古い建物も多い。そのあたりは未だ古き良き時代の名残を色濃く残し、一戸あたりの敷地も広く、観光客も入ってこないエリアになる。
 リンの運転するバンは、クリストファー・アトリーの案内で、その区画にほど近い一軒の家の前に止まった。事務所らしい部屋が母屋とは別に構えられ、ごくシンプルなステンレスのプレートにに小さく「西野造園」という文字が読める。
 バンからおりたクリストファーが最初にドアをノックし、ナルにリン、それに麻衣とジュリアが続いた。
 安原は早速資料収集にまわっていてここにはいないし、残りのメンバーはあとから合流することになっている。

「こにちは、西野さん」
 ドアを開けて、流暢とは言えないまでも十分理解可能な日本語で、クリストファーが声をかけると、中にいた女性が振り向いて笑顔になった。
「あら、こんにちは、アトリーさん。先日はどうもありがとうございました」
「おじょうさんのぐあいはどうですか」
「なんともありませんよ。あの子の気のせいもあるんでしょうから。ご心配いただいて、ありがとうございます」
 現実主義者らしい彼女は、少女が特に怪我もしていないこともあって、あまり気に留めていないようだった。
「それはよかったです。ただ、伯爵がきちんと調査をするように決めたので、また来ました。彼らが、その調査をします。それから、あの女性が、伯爵の代理で来ました。婚約者のかたです」
 クリストファーが最後に示した、いかにも上品な美女に会釈して、彼女は困ったように言った。
「そうですか。主人がおりませんのでわかりませんが………」
 困惑した言葉を遮るように、怜悧なテノールが響く。
「失礼します、私が調査の責任者の渋谷と申します」
 進み出てきた青年の美貌に、彼女はかるく目を見張った。
「………アトリー氏から事情は伺っていますが、こちらでも少しお話を伺いたいと思いますがよろしいでしょうか?」
「………え、ええ。私でわかることでしたら、それはもちろん、お話しします」
「当然、分かる範囲でかまいません。………麻衣」
 ナルは頷いて、部下の少女を呼んだ。
 既にファイルとペンを用意していた麻衣が進み出て、ぺこりと頭を下げる。
「調査員の谷山麻衣です。お話を伺います」
 トーンの高い、けれど柔らかい声が響いて、彼女の表情が少し緩んだ。
 娘ほどの年齢の少女の、真剣な表情を微笑ましく思ったのかもしれないし、これまでの他の依頼人たちと同様、麻衣特有の雰囲気で気持ちがほぐれたのかもしれない。
「はいどうぞ、谷山さん」
「まず、奥様のお名前を教えていただけますか?」
「あら。ごめんなさい。…………そうそう、皆さんそこにソファがありますからかけてください。谷山さんはここに座ってくださいね」
 ようやく落ち着いたのか、彼女はドアのそばに立ったままだったメンバーに来客用のソファセットを示し、麻衣には自分の前の事務用椅子を勧めてから、彼女はまた口を開いた。
「そう、名前ね。私は西野望美といいます。主人がここの責任者で、正秋、長男の茂樹が手伝っています。私はたまに電話番をする程度で」
「ありがとうございます。………お嬢さんは?」
「娘は遅く生まれた子で、まだ中学生なんです。名前は夜月里。夜に月に里でさより」
「きれいなお名前ですねー!」
 感心したように呟いた麻衣に、望美は笑った。
「どうもありがとう。私の趣味なんですよ。読みにくいっていつも怒られるのだけど」
「その、夜月里さんのことなんですけど、大丈夫ですか?こちらのアトリーさんのお話を聞くと、階段の下まで落ちてしまったそうですけど、おけがなんかは」
 ごく自然に質問が出されて、望美は軽く首を傾げた。話が移行したことにあまり気付かず、口を開く。
「それが変なお話なんですよ。二階の階段から落ちたって伺ったから、慌てたのだけれど、かすり傷ひとつないんですよ。あの子………夜月里の話だけなら、冗談だと思いましたけれど、アトリーさんとカーティスさんもそうおっしゃっていたから本当なんでしょうね。お二人ともものすごく慌ててらして、病院まで行ってくださったのだけど」
「病院ですか」
「ええ。それが小さなかすり傷もないから、私も恥ずかしいくらいだったんですよ」
 望美は朗らかなくらいの口調で、言葉を続ける。
「どういうことかはわからないんですけどね、無事ならよかったということで、アトリーさんたちもお帰りになったんです」
「そうですか。お嬢さんにお怪我がなくてなによりでした」
 麻衣はにこりと笑って言葉を切り、慎重に話題をずらした。
 このあたりの巧妙な話題の操作は、天才を称される上司と越後屋の異名を持つ同僚の間でここ数年の間に培われたものだ。望美はまったく違和感を感じずに、麻衣のペースに乗っていく。
「ところで、お屋敷にはいつも入られるんですか?」
「いいえ。それはありません。私どもが任されているのは、敷地の中、お庭の整備だけで、お屋敷の中までは入らないと主人は言っておりました。鍵もお預かりしていませんので、中に入るのは無理だそうですよ。でも、とてもきれいなお屋敷ですから、娘も憧れていたのでしょう、無理を言って。アトリーさんやカーティスさんにはご迷惑をおかけしました」
「鍵もない、ですか……………。他に出入りしている方がいらっしゃるかは分かりますか」
「いいえ。私が聞いている限りでは………。ただ、私も詳しく知っているわけではありませんので、主人に確認して頂いた方がいいと思います。今日は別のお屋敷のお庭に出ておりますので、帰ってくるのは夕方になりますが……。お泊まりはどちらですか?」
「この近くの、片野さんという方の別荘です。この辺りに適当なホテルがなくて、知人の伝手でお借りしました」
 このあたりでは、機材を置けるような適当な施設がなく、ちょうど徒歩圏内に綾子の親戚の別荘があるというので借りたのだ。
「あら、片野様ですか。片野様にもお世話になっておりますから、よく存じております。主人が帰って参りましたらすぐそちらに伺わせますよ」
 望美の言葉に、麻衣は背後の上司をちらりと振り返った。
 どう見ても「我関せず」としか見えない態度をみてため息をつき、言葉を継ぐ。
「それはちょっと、ご迷惑ではありませんか?」
「いえいえ。また行き違いになってしまっては、失礼ですから」
「そうですか───所長!」
 麻衣は立ち上がってくるりと振り返る。
 白皙の青年が顔を上げると、麻衣はわずかに視線に険を含ませて、トーンは変えずに言葉を継ぐ。
「聞いていたと思いますが。ご主人が帰られたら、ベースに来て詳しいお話を伺えるということなんですが、どうでしょう?」
 絶対に聞いていなかっただろう、と、言外に含ませて、澄んだ声音が静かなオフィスに響く。
「…………ご都合がよろしければ、よろしくお願いします」
 麻衣ではなく望美に視線を向けて、ナルは優雅に会釈した。
「それはもちろんです。私がお役に立てれば良かったんですが、ご足労をおかけして申し訳ないです」
 麻衣は軽くため息をついて、言葉を付け足した。
「ところで、夜月里さんは今、学校ですか?」
「ええ」
「今日でなくてもいいのですが、直接お嬢さんからお話を伺いたいのですが、よろしいでしょうか?」
「もちろんです。あの子も元気ですから。なんでしたら主人と一緒に伺わせましょうか」
「いえ。申し訳ありませんが、ご主人に伺いたいお話と夜月里さんに伺いたいお話は違う性格のものですので、またこちらから伺います」
「そうですか、分かりました」
 望美は特に反論もなく頷くと、麻衣と、その背後のナルに視線を転じる。
「他にはなにか………?」
「当面はこれで結構です。また他にもお話を伺うこともあるかと思いますが、ご都合は悪くありませんか?」
「もちろん、いつでもお越し下さい。主人がいつもいるとは限りませんが」
 言いながら、望美は机ののファイルケースからパンフレットらしきものを取り出すと、それを麻衣に差し出した。
「こちらの電話番号がありますので、あらかじめお電話いただければ、お話もしやすいと思います」
「ありがとうございます、助かります」
 麻衣はぺこりと頭をさげて、立ち上がった。
「それでは、とりあえずおいとまします。お話、どうもありがとうございました」
「いえ、何のおかまいもせず、失礼しました」
 麻衣に合わせて立ち上がった面々に、望美は深々とお辞儀する。
「またどうぞお越し下さい」
「こちらこそよろしくお願いします」
 麻衣の澄んだ声を最後に、ナルを先頭にして全員が外に出た。見送りに出ようとした望美を笑顔で止めて、麻衣が最後にバンに乗り込む。ドアを閉めるのと同時に、リンは車を滑り出させた。



 日が完全に沈み、午後六時を回った頃、片野家の別荘に一台のタクシーが滑り込んだ。
 先に車から降りた運転手がバッグを二つ下ろすのと一緒に、艶やかな黒髪を流した綾子と、優雅な振袖姿の真砂子が降り立つ。

 玄関の外まで迎えにきていた麻衣が、一瞬目を瞠った。
 真砂子の和装は珍しくも何ともないが、繊細な暈しの友禅の振袖に金襴の帯という晴れ着は珍しい。麻衣と違って力仕事はせず主に霊視しかしないとはいえ、振袖の長い袖は、仕事には邪魔にしかならない。
「うわ、真砂子、すごいきれい!それ振袖じゃん。どうしたの」
「スタジオから直行致しましたのよ。急ぎの仕事だって人を呼びつけたのはどなたですの?」
「それはあたしだけど。……ふたりとも、来てくれてありがとう。ちょうどさっき、安原さんがぼーさん拾って戻ってきたところで、これから西野さんがくるとこなんだ。ほんと、ナイスタイミングだよー♪二人一緒に来るとは思ってなかったけど」
「偶然東京駅で会ったのよ。良かったわ」
「ええ、本当に偶然でしたけど、よかったですわ。………ところで、西野さんっていうのはどなたです?」
「うん。問題の別荘の庭、管理してる造園業の人。ここのお庭も、世話してるって言ってた」
「それなら信用できる人ね。………まったく、この子も顔売れてきてるんだから、用心しないと」
 綾子がちらりと真砂子を見、真砂子はわずかに視線をそらした。
 東京駅で何かあったらしいかなと思いながら、賢明にも口には出さず、麻衣は二人分の鞄を持って、中へ促す。
「寒いし、入って。ジュリアさんとアトリーさんに紹介するよ」
 麻衣はとりあえず玄関脇の部屋に二人の鞄を置くと、二人を先導してリビングに向かった。
 ドアを開けて、二人を通す。
 ジュリアが、真砂子が入ったとたんに小さく感嘆の声を漏らすのが聞こえて、気づかれないように小さく笑う。
「えっと、あの人が、ハミルトン伯爵令嬢のジュリアさん。調査の依頼人の、ヨーク伯爵アンドリューさんの婚約者のひと。で、あちらの男の人が、アンドリューさんの秘書でクリストファー・アトリーさん」
 麻衣は先にそれだけ言うと、ジュリアに向き直った。
『ジュリアさん、このふたりは日本支部の協力者で、こちらが松崎綾子、あちらが原真砂子です。松崎さんは樹のシャーマンで、原さんは日本で有名な霊視能力者です』
『はじめまして、レディ・ジュリア』
 先に綾子が進みでて、簡単な英語で挨拶する。握手を交わすと、目線で真砂子を呼んだ。
 ゆっくりと歩いてきた───当然、着物では歩幅は狭くなる───真砂子が、優雅な仕草で一礼する。
『はじめまして』
『はじめまして、ミス・マツザキ、それにミス・ハラ。私のことはジュリアと呼んでください。………ミス・ハラの衣装はとても綺麗ね、テレビで、よく似たのを日本の皇后が着ているのを見たことがあるわ、日本のものよね?』
 後半が聞き取れなかったらしく、わずかに困惑したそぶりをした真砂子に、安原が素早く通訳する。それを聞いてにこりと笑った真砂子は、ジュリアのすぐそばに歩み寄って、長い袖を持ち上げて彼女の手に渡した。
「日本の着物、民族衣装です。これは振袖と言って、未婚の女性の正装です」
 真砂子とジュリアが、安原を中継にして話し始める。
『まあ、とても綺麗ね!!それにすてきな肌触り。これはシルクかしら、織り模様まで入っているの?素晴らしいわ、これは刺繍?それにぼかしの染めが綺麗。この模様は………プリントじゃないわね?』
「絹です。手書きの模様で、友禅と言います。刺繍もシルクで、手刺繍です。帯も絹ですけど、こちらは織り模様です」
 いきなり盛り上がった二人を呆気にとられて見ていた麻衣は、視線をナルに向けた。

「………ナル。ジュリアさんってああいうの好きなの?」
「そう」
 最短の返答に、リンの苦笑が重なる。
「若い女性の服装、特に、可愛らしい、美しいものがお好きなんですよ」
「じゃあ真砂子なんかクリーンヒットじゃん」
「いえ………。ご自分でコーディネートされるのがお好きなので………」
 リンは横目でナルを窺い、そして苦笑した。
「原さんは、あれで完成されていますから、興味は持たれるでしょうがそれ以上にはいかないでしょうね。松崎さんも、その点は同じです」
「…………リンさんまで、あたしがターゲットになるって言う?」
「ということは、ナルにも言われましたか。…………可能性は高いですが。まあ、調査中は大丈夫でしょう」
 麻衣が思わず遠くを見つめ、ナルは小さくため息をついて立ち上がった。
 怜悧な声が、和気藹々としていた空間を切り裂くように響く。
『レディ・ハミルトン。とりあえずそこまでにしていただけますか。もうすぐ西野さんが来ますので』
『あらそうだったわねオリヴァー。………あとでまた見せてくれるかしら、マサコ』
『はい、喜んで』
「ナル。状況がいまいち把握できないんだよ。詳しく説明してくれんかね?」
 それまで黙っていた滝川が挙手した。
「すみません所長。時間なくて説明できませんでした」
 安原が謝って、頭を下げる。ナルは軽く手で制して、口を開いた。
「概要だけ説明しましょう。どうせ松崎さんも原さんも、麻衣からの説明では、状況は分からなかったでしょうから」
「……………悪かったね説明下手で」
 ぼそりと呟いた麻衣の台詞を黙殺して、ナルは言葉を続ける。
「リン。レディ・ハミルトンとミスター・アトリーの通訳をしてくれ」
「わかりました」
 リンが頷き、座っていた位置を変える。
 立っていた綾子と真砂子が座るのを待って、ナルは、手短に説明を始めた。

 事件が事件だけに説明はひどく簡潔に終わり、新規参加組の三人が三人とも微妙な表情で顔を見合わせる。とても、ナルが受けるものとは思えない。
 三人の反応に、冷たい美貌に薄い笑みを浮かべたナルは、トドメのように付け加えた。
「これは本部経由の直接依頼だ。こちらの総力をあげて、という注文だったので、全員に来てもらった」
「全員、ですの?………ブラウンさんの姿が、見えないようですけれど」
「彼は明後日合流予定です、原さん」
「そ、そうですの…………」
「他に質問はありますか?」
「今、何か言うには、そのお屋敷とやらの情報量が少なすぎるわね。何にもないの?」
「これから来る西野さんにも説明して頂きますが…………時間はまだあるな」
 時計に視線を一瞬だけ向けて、ナルは漆黒の瞳を安原に戻した。
「安原さん。今日の成果があれば報告をお願いできますか」
「はい、所長。…………とは言っても、あんまりなかったんですけどね。ずっと使われていない別荘だったからか、滞在中の別荘族の方に伺っても、ヨーク家の別荘があるということ自体、知っている方がほとんどいないようなありさまでした。で、仕方ないんで、地元の方と、それからお役所で聞いてみました」
 安原はそこで言葉を切り替え、ジュリアに向かって一礼する。男の指でも余るような大ぶりの指輪を丁重な仕草でジュリアの手に渡した。
『お預かりしたこの紋章、とっても役に立ちました。とても大切なものを、ありがとうございます』
『そう、日本で役に立つとは思わなかったけれど、良かったわ』
 安原はジュリアにもう一度会釈して、座り直してからファイルを開いた。
「で、その結果なんですけど。郷土史をさらったんですが、あの別荘は、少なくとも明治三十年、西暦で一八九七年には地図に出ています。最初の持ち主はドイツの銀行家で、この人が建てた別荘らしいですね。もしかしたら前身があるかもしれませんが、辿れませんでした。そのあと、四代前のヨーク伯爵、ロバート卿がこの屋敷を購入したらしいです。年代は………」
 言いかけた安原に、ナルが口を挟む。怜悧なテノールが、ひどく抑制されて、韻く。
「購入年は、ヨーク家の会計記録に残っています。一九〇四年。ロバート卿が日本に赴任した年です。補修費としてもかなりの額が支出されているようですが」
 安原はファイルに目を落とし、頷いて、続ける。
「細かい年代までは追えませんでしたが、明治三十年代後半という記録がありましたからだいたい合致しますね。ちょうど政府が招聘した教師や外交官が増えてきた頃だと思います。で、まともに人が出入りしていたのはそれから十年に満たないほどのようです。と、いうのはですね、一九〇九年に、そのロバート卿の夫人、エディスという女性が亡くなってるんです。亡くなった当時で三十一歳、外国人が亡くなるのは珍しかったからか、記録に残っていました。それからはロバート卿も来なったでしょうし、他の方もいらっしゃらなくて、結果としてそれ以降ほとんど人は入っていないようですね。………一四年に第一次大戦が始まってますし、あとは世界中がばたばたしてましたから、納得はできますが」
 安原は自分の意見で報告を締めくくり、数瞬考え込んだナルはすっと目を上げてまっすぐにジュリアを見た。

『レディ・ハミルトン』
『何かしら?』
『エディスという名前に、お心当たりは?』
『エディス?…………聞いたことないわね。どなた?』
『アンドリューのひいおばあさまにあたる方ですが』
『…………ということは、ロバート様の奥様?』
『ロバート卿は再婚なさっていたんですか』
『再婚ってことは二回ご結婚ってこと?いいえ。そんな話は聞いていないわ。お名前は今初めて聞いたけれど、最初の奥様だけのはずよ。確か、とても愛していらっしゃって、本当は再婚のお話もかなりあったのになさらなかったって聞いたことがあるから』
『ずいぶん詳しいんですね?』
 ナルがわずかに眉根を寄せた。
 いくら自分が当主に嫁ぐ家の事情とはいえ、三代も四代も前の事情に詳しいというのは、普通ではあまり考えられない。ジュリアは非常にフランクな性格だが、非常に「育ちのいい」女性でもある。ゴシップに顔を突っ込むようなことは絶対にありえないから、余計に不可解と言うべきだった。
 ジュリアはナルの思考をほぼ正確に見抜いたのだろう、わずかに苦笑して、それから、同席しているクリストファーに視線を向ける。
『聞かなかったことにしてくれるかしら?クリストファー』
『わかりました。レディ・ジュリア』
 心得たように頷いて、彼は視線を逸らす。ジュリアは軽く会釈して、口を開いた。
『………ロバート様が日本に赴任していたというのは、この件と一緒にアンドリューから聞いたのよ。外交官をなさっていらして、大戦前にどこかにいらっしゃっていたというのは以前から知っていたのだけれど」
「そのときに夫人を同行された、ということですか?」
「詳しいことは知らないけれど、その頃まだお若くて、まだお一人、しかも女の子のプリムローズ様だけしかお子様がいらっしゃらなかったから、奥様をお連れになった、ということなんじゃないかしら。プリムローズ様はちょうど十歳くらいだったから、そのまま寄宿学校に入られたそうだわ。でもその奥様は赴任先で亡くなられて、ロバート様はそれからすぐに帰国なさった、というところまでは、アンドリューから聞いたわ」
「再婚の話は何故?それもアンドリューが言ったんですか?」
「彼は何も言っていないわ。………ロバート様が最初の奥様をなくされたときには、まだお若くて、再婚してもいいお年だったから、ずいぶん縁談もあったし、跡継ぎの男の子がいなかったから親戚からもずいぶん勧められたけれど、ロバート様は最初の奥様をそれは愛しておられたから頑として応じられなかった。それで結局、一人娘のプリムローズ様が伯爵位を継がれたのよ。………ヨーク伯爵家の親戚筋では有名な話なのよ。あのときもしロバート様がうちの誰それと結婚していたら、とか言うのは』
 最後の台詞にはあきらかな皮肉が籠った。
 ヨーク家はいわば例外的に財政的に豊かだが、多くの貴族は先祖伝来の宝飾品や美術品、それに領地などに容赦なくかけられる相続税や、城や領地その他の維持費に苦しんでいて、財政的にかなり危機的状況に陥っている。ジュリアの実家であるハミルトン家も、火の車というほどではないが、豊かというほどでもない。───一般庶民のそれとは次元が違うが、貴族であるというだけで課される経済的負担は相当なものだ。

 ジュリアが話を締めくくるのにナルは頷いて、言った。
『事情は分かりました。一度系図を確認した方がよさそうですが………わかりますか?ミスター・アトリー』
『ロバート様まででしたらわかります、ドクター。あとで書いてお渡しすればよろしいですか』
『お願いします』
 ナルが言葉を切ると、ちょうど、レトロな呼び鈴が鳴った。

 来客は、人の良さそうな日焼けした顔の中年の男だった。都会では見られない、どこか精悍な趣も持っている。
「遅くなりました。西野です」
「来てくださってありがとうございます。どうぞこちらへ」
 例によって迎えに出た麻衣が、全員揃ったリビングへ西野を案内した。外国人二人を含む面々に多少ひるんだようだが、造園技師とはいえ上層階級とのつきあいは頻繁にある彼は気後れすることなく、丁寧に一礼した。
「遅くなりまして失礼しました。西野です。……アトリーさん、先日は娘がお世話になりました」
 アトリーに向かって一礼し、西野はそのままソファに座った面々を見渡す。
 アトリーはともかく、かなりバラエティーに富んだ人間の品揃えと言うべきだった。それに、端然と座った振袖姿の純和風美少女には見覚えがあったが、確たる保証はない。
 ただ、彼が逡巡する間もなく、案内してきた小柄な少女がてきぱきした口調で紹介を始めた。
「ええと。ご紹介しますね。あの金髪の女性が、例の別荘の持ち主のヨーク伯爵の婚約者で、ジュリアさん。アトリーさんはご存知ですよね。その横にいる黒い服の、彼が、この調査の責任者の渋谷です。その隣が調査員のリン、反対側の茶色の長い髪の男性は協力者の滝川法生さん、その隣は調査員の安原、振袖の彼女は、調査の協力者の原真砂子さん、そしてその隣が、同じく協力者で、こちらの片野さんの親戚の、松崎綾子さん。ちなみに私は調査員の谷山と言います」
 綺麗な声が、順に紹介していく。声にあわせて全員が会釈して、西野は再び深く頭を下げた。
「皆様はじめまして。ヨーク伯爵様の別荘のお庭の管理を代々させていただいております、西野と申します」
「遅い時間に来て頂いて、ありがとうございます」
 ナルが答えて、麻衣がすすめた席に西野が座る。
 いつもならお茶を入れにいくところだが、今は時間が遅かったため、麻衣はそのまま、ナルとリンの間にあいていた自分の席にすとんと腰を下ろした。ファイルは安原が既に開いていたから、一応ペンと紙だけを持って姿勢を正す。
「……家内から、先日、アトリーさん方に無理を言った娘が階段から落ちた、ということで、そのことについて調査をしにいらしたと伺いました」
「その通りです。アンドリュー卿は、不可解な事故が起こったことを憂慮し、徹底的な調査を我々に依頼されました」
「娘は特に怪我もしていないのですが……」
「それはなによりでしたが」
 平板な声は、全く変わらず透徹して響く。
「我々は卿の依頼で動きますので。失礼ですが西野さんのご意見は関係がありません。ただ、あなたに対して何か不都合が起こるようなことはありません。少し、あの屋敷について伺いたいことがあるだけです」
「わかりました」
 西野が頷いたのとほとんど同時に、安原と麻衣がほぼ同時にペンを構える。
 透徹した響きが、変わらず空間を、わたる。
「それでは伺います。………代々ヨーク家の敷地を管理されているということですが、その内容は、どのようなものですか?」
「ずっと変わらず、お庭の整備と、敷地の管理です。かなり広い敷地面積ですので、放置するわけにもいきません。その内容のほとんどは芝の管理と、もともと植えられていたかなり古い種類のバラの管理です。あとはせいぜい周囲の清掃程度ですが、月に一、二度様子を見させて頂いています」
「そういうことになったのは、いつ頃からですか?」
 ナルの問いに、西野は少し考え込んで、言葉を選びつつ口を開いた。
「…………正確なことは………。祖父の代には御用を承っていたと思いますが……。ただ、お客様のほとんどが地位のある方ですので、うちにも覚え書きがあります。ヨーク様のことも書かれているはずですので、それを見ればわかると思いますが」
「その覚え書きを、ヨーク家に関わる部分だけで結構ですので、複写させていただけますか?アンドリュー卿からの全権はジュリア嬢が委託されていますので、問題はないと思いますが」
「はい、ヨーク様に関係するところだけでしたら結構です。今日明日中にコピーをとっておきます」
「お手数ですがよろしくお願いします。それから、ヨーク家の敷地に、西野さん以外に入っている業者の方はいらっしゃるかわかりますか?内装の清掃などで………」
「いいえ。それはありません」
 西野は、今度は迷うことなくはっきりと答えた。
「私の作業中にそのような業者と行き会ったことはありませんし、そもそもこのあたりの業者は限られておりますので、情報は自然と伝わります。それに、鍵を持っているのも、ご本家のみと聞いております。私も造園が仕事ですので、お庭や敷地を荒らさないようにはしておりましたが、お屋敷には全く入っておりません。………ずっと以前娘を連れて行ったことがありまして、きれいな洋館ですので、お城みたいだと憧れていまして………。アトリーさん方には子供の好奇心でたいへんなご迷惑をおかけしました」
「そうですか………」
 ごく短いナルの返答に、西野は恐縮して再び頭を下げる。
「お役に立てず申し訳ありません。………ただ、私が知っている限りでは、あのお屋敷が開かれたのは、アトリーさんがたで二回目です」
「二回目、ですか。では、一回目は?」
 ナルの口調が微妙に変わる。
 それは、新しい情報だった。データが少ない現状では、ささいなことでも大きな役割を果たすこともある。
 メモを取っていた安原の視線がやや鋭く西野をとらえ、麻衣はナルの横顔を見上げた。
「これは私がまだほとんど幼児といって差し支えない頃の話なのですが、父から何度か聞かされたもので、覚えております。戦後すぐ、昭和二十三、四年頃ですか、外国人の二人連れの方が来られたということです。そのあとすぐに内装の工事がされたそうで、どなたかまたお見えになるのかと思ったら、また締め切りになった、意外なことだと」
「…………二人連れの外国人に、内装工事、ですか」
「はい。上品な老婦人と、若い男性だったそうです。………西洋の方は、実際のお歳よりも、失礼ながら年長に見えますが、確かに若い男性だったと言っていました。女性の方は、もっとお若かったのかもしれませんが。そのときに、戦時中途絶えておりましたお庭の整備を、またうちが任されたということです」
「………ということは、その当時の覚え書きも残っている可能性があるということですか?」
「それはおそらくあると思います。祖父も父もかなり几帳面に、お客様別に記録を残しておりましたので。………父か母が直接お話しできればいいのですが、二人とも先年他界しまして、おりませんので」
「そうですか……。それはお悔やみを申し上げます」
「ありがとうございます。もう、数年前のことですが」
 西野は頭を下げ、そして言葉を継いだ。
「そうですね。この近くに、やはりこのあたりの別荘の修理などを中心に請け負っている工務店があります。狩野工務店というのですが、そこの主人が、私より十五ほど年上ですので、当時のことを覚えているかもしれません」
「工務店ということは、その内装工事に関わった可能性もあると思われますか?」
「近辺には、昔から他に工務店がありませんので、可能性は高いと思います。あちらに記録が残っているかどうかまではわかりませんが」
「そうですか。大変貴重な情報をありがとうございます」
「西野さん、すみませんが、その狩野工務店さんの場所を、教えていただけますか?」
 麻衣が口を挟んで、西野は表情を和らげて彼女を見た。
「うちのパンフレットをお持ちになったと聞きましたが、それに地図がありますので出して頂けますか」
「あ、はい」
 答えて、麻衣はパンフレットをすぐにテーブルの上に置いた。西野はそれを裏返して、小さな地図の上に、赤い丸を二つ落とす。
「この点が、こちらの片野様のお屋敷で、こちらの点が狩野工務店になります」
「ありがとうございます」
「こちらからは、伺いたいことはとりあえず以上です。今後調査のすすみ方によってはまた伺うかもしれませんが」
 怜悧な声が響いて、麻衣の細い指先を目を細めて見守っていた西野は、はっと顔を上げる。白皙の美貌にまっすぐぶつかって、身を引いた。
「それは家内からも聞いております。いつなりとどうぞ」
「どうぞよろしくお願いします。………今夜は寒い中、ありがとうございました」
「本当に、遅くまでどうもありがとうございました。とても助かりました」
「お役に立てれば光栄です。………では、おいとまいたします」
 立ち上がった西野のあとを、麻衣がぱたぱたと駆けて追い越す。リビングのドアを開け、そのまま彼について部屋を出た。




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