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2章 約束。 交わした約束は、ほんの少しも色褪せることなどなく、鮮明に記憶に残る。 幼い声も、泣きそうな、けれど涙をこらえた青い瞳も、幾度も撫でた淡い金色の柔らかな髪も。 「約束ね」 繰り返す。 言い聞かせるように、自分に納得させるように。 繰り返す。 「約束ね」 「ほんとうに、お約束ね。絶対ね」 澄んだ声が、縋るような瞳と濡れた睫毛が、どうしようもなくいとおしくて。 ただ、いとしさのまま抱きしめる。 「お約束よ。絶対に。…………ごめんなさい」 「ううん」 腕の中で、まだ幼さを残した少女は首を振る。 「わがまま言っちゃいけませんって、ばあやに言われたの。私もそう思うの。もう、赤ちゃんじゃないんだから」 「そう」 一抹の寂しさをおぼえながら、腕を緩めて、額にキスして顔を覗き込む。 「それにね。いい子で、一生懸命お勉強して、お友達もたくさんできたら、寂しくありませんよって」 「そうね。お友達がたくさんできるといいわね」 「おかあさまは、大丈夫だと思う?」 「もちろんよ、私のかわいいあなただもの」 「お手紙、書いてくれる?」 「ええ、もちろん。たくさん書くわ。あなたが読むのがたいへんになるくらいに!」 「あんまりむずかしい言葉使わないでね?学校に行ったら今までみたいに聞いたりできなくなるんだから」 少しつんとすました様子にくすりと笑って、彼女はやさしく少女を抱きしめた。 「もちろんよ。でもね、ちゃんとお勉強もするのよ。そうして、学校を卒業したら、会いにきてちょうだい。ちょうどその頃に帰れるっておとうさまがおっしゃっていたから、一緒に珍しいものをたくさん見て、帰りましょう?」 「ここへ?」 「ええ。この、私たちの家へ、ね。だからそれまで一生懸命お勉強して、素敵な少女になって来てね。待っているから」 「頑張る。おかあさまも、がんばってね。お手紙楽しみにしているから」 「あなたも書いてね」 「まだ苦手だけど、おかあさまになら一生懸命書く」 「お約束ね」 「うん、私が行けるまで」 「立派なレディになったあなたに会えるのを、ずっと楽しみにしているわ」 もういちど、最愛の娘の金色の頭に口づける。 「私の大切な、プリムローズ」 囁いて、きつく抱きしめた。 抱きしめた温もりは記憶の中であまりにも鮮明で、いま腕の中にある冷たい躯にも温もりがあるように感じる。彼女のプリムローズのやわらかかくなつかしい香りの金の髪とは違う、けれど記憶をゆさぶる金色の巻き毛に顔をうずめて、冷たくなった指先に力を込めた。 「…………約束よ………」 かすれるような呟きが、こぼれ落ちる。 瞳から溢れて頬をつたった温かな雫が、冷たく白い頬に、落ちた。 † 『…………寒い、わね』 敷地の入り口にあった門からさらにいくらか車は走って、綺麗に整備された前庭に出た。 洋風の外観にいくらか和の要素の混じった、美しい建物の前に、バンが止まって、最初に降り立ったジュリアが呟く。 「うわぁ、すごい綺麗なお屋敷!」 一方、寒さなど全く気にしない勢いで、白いコートの麻衣が華奢な身体をひらりと翻した。玄関から数歩後ろに下がって、優美だがしっかりした外観を眺める。 「………麻衣。あなたそれでは子供並みですわよ……?」 昨日よりは落ち着いた、それでもやはりいつもよりはかなり優美な淡いブルーグレーに木蔦と花の衣装を染めた友禅染の小紋を着こなした真砂子が、美しい黒髪を揺らして麻衣の横に立つ。 「でも、確かにきれいな洋館ですわね。人が住まないのに、よくこれだけ綺麗に残っているものですわ」 「全くだわね。人が住まなければ家は荒れるものだっていうのに。………これだけでも変よ、ナル」 ちょうど降りてきたナルに、綾子の声が飛ぶ。 「先入観はプロとしてはいただけませんね?松崎さん」 「単なる感想よ」 「そうですか」 ナルは三人から視線をはずして、ジュリアとアトリーに漆黒の瞳を向ける。 『レディ。鍵を』 『………わかったわ』 さすがに緊張気味に、アッシュブロンドの髪をかきあげたジュリアは、ハンドバッグから、昨日アトリーから渡されてきた古びた真鍮の鍵を取り出した。 慎重に、鍵穴に差し込む。 がちゃり、という音とともに鍵は何の抵抗もなく開いて、全員が小さく息をのんだ。 ぐっと力を込めると、かすかな音とともに大きく作られた扉が開く。 おそるおそる、けれど素早く、全員が中に入る。 家の見取り図を開いた安原と、小型のカメラを構えたリン以外は、誰も何も機材を持っていない。 滝川は小さい独鈷杵を懐に忍ばせているし、リンも万一の場合の札を持ってはいるが、特に誰も備えらしい備えもしていなかった。ナルが何も言わなかったからだが、今になって心にしのびよってくる不安は隠せない。 ひとり、表面上は完璧に何の表情も見せないナルが、玲瓏とした声でアトリーに命じた。 『ミスター・アトリー。そのドアは閉めないでください。半開きのままで』 『………はい、ドクター』 風もほとんどないから、ドアが煽られるようなことはない。 クリストファーは言われた通り、閉まらないようにそっとドアを離して、集団に追いついた。それを待って、安原が口を開く。 「ここが玄関ホールですね。図面通りです。…………それにしても、なんかすごくきれいですね。アトリーさん、掃除もなさったんですか?」 「いえ、わたしたちはなにもしていません。わたしたちの仕事は、ここを調べること、だけでしたから。でも、わたしたちがきたときも、不思議におもいました」 安原の問いかけに、イントネーションが少しおかしいクリストファーの日本語が答える。 ほこり一つないとは言わないまでも、五十年以上も放置されているようには、とても見えない。 玄関ホールに敷かれたビクトリア時代のものと思われる大きな敷物も、階段の緋色の毛氈も、わずかな色褪せすらないように見える。美しい曲線を描く階段の手すりは、磨き抜かれたばかりのようだし、天井から下がっている綺麗なランプのガラスも曇ってもいない。鎧戸のない明かり取りのガラス窓も、美しいまま残っている。 わずかに眉を寄せたナルは、低い声で名前を呼んだ。 「麻衣」 「なに?」 「何か感じるか?」 問われて、麻衣は眉を寄せた。困ったように首を傾げて、ちらりと真砂子を窺ってから、言いにくそうに口を開く。 「外から見てる時は何も思わなかったんだけど…………ドアをはいった時から、なんか変な感じ、がするような、気がするけど」 自信なさげな麻衣の返答に、ナルはため息もつかずに和装の美少女に視線を向けた。 「相変わらずとはいえ、曖昧すぎるな。…………原さん、あなたは何か感じますか」 「………不本意ですが、あたくしも麻衣と同じですわ」 「それは、何となく変な感じがする、ということですか」 「………ええ。漠然とですけれど。ここはそれほどでもないのですけれど、あちら、二階のほうが……なにか、在るような気配がします。でも、悪い感じはしません」 真砂子は袂を押さえて階段の向こうを指し、つややかな黒髪を揺らして首を振った。 リンの通訳を聞いていたジュリアが、口を挟む。 『………マイも、分かるの?』 『半人前ですが』 麻衣より早くナルが答えて、ナルは華奢な少女の腕を掴んだ。 「言っておくが、ひきずられるな、麻衣」 「言われなくても分かってます」 「それなら結構」 二人のやり取りに、安原が見取り図を見ながら割って入る。 「すみません所長、どうしますか、一応一階を見て回っておきますか?それともすぐ二階に行きますか」 「一階を先に見ましょう。そのあと、二階に回ります」 「わかりました」 玄関ホールから、東側に、サンルームのようにガラス窓が大きくとられた朝食室、食堂、使用人エリアだっただろう厨房とそれに続く小部屋、ホールを挟んで反対の西側に、小さな応接間、そして大きな広間。 完全に図面通りに、部屋が展開している。 鎧戸を閉めたままだから、携帯したライトと、鎧戸の隙間や明かり取りの窓から差し込む陽光だけがたよりだったが、調度をはじめとして、ついさっきまで使われていたかのように、美しいまま残っているのは十分に分かった。人の気配だけは全くないだけに、その美しさは不気味でさえある。 部屋に応じた壁紙も、ランプやシャンデリアも、ふんだんに使われたガラス窓も、年代を感じさせない美しさを保っている。オークやチーク材と思われる椅子に貼られたゴブラン織りも、まったく色褪せていない。 中でも、食堂におかれた重厚なカップボードには、白磁に金彩とバラ模様のティーセットと、銀器がずらりと飾られていて、女性陣は息をのんだ。 「うわ。すごい。きれい」 「……………これもまったく、確かに綺麗だけどね、これはどう考えても、徹底的に変ね」 「全くですわ」 柳眉をひそめた真砂子に、麻衣は軽く首を傾げてメモを持ち、上司を見やる。 「何がです?」 ナルの問いに、綾子は直接は答えずに、リンに通訳を頼んでからジュリアに向かった。 「ジュリアさん。銀器は、毎日のように磨かなければすぐに曇ってしまうと聞きましたけれど、違いますか?」 『その通りです、アヤコ。今はコーティング加工が一般的だからでそうでもないけれど、五十年も前のものだと、確実にそうです。黒く錆びるところまではいかなかったとしても、曇ってきていて当たり前だと思います。───確かに、こんなに綺麗なのは、おかしいわ』 リンの通訳を聞き終えてから、やっぱりね、と呟いて頷くと、綾子はナルに向き直る。 「そういうことよ。シャンデリアやランプ、それに椅子やタンスなんかの調度にもほこりが積もってないんだから、このカップが綺麗なのはまだ納得できるとしても。銀器がこんなにぴかぴかなのは、どう考えたって科学的に変だってこと」 「そうだよなあ。確か、銀器を見ればその家の召使いの質が分かるとかいう話が、ヨーロッパにあるとか聞いたことがある。ほんとかどうかはしらねーが」 滝川が同意して、ナルは眉を寄せる。 やはりほこり一つないクリスタルのシャンデリアを見上げて、ため息をついた。 「分かりました。………麻衣」 「メモならとってます、ボス」 振り返ったナルに間髪入れず答えた麻衣は、ちょっと悪戯げな表情で首を傾げた頬の横で、ペンをくるりとまわしてみせた。 部屋を見て回っていたときよりゆっくりと、玄関ホールに戻ってくる。緋色の階段を、息をのむような思いで見上げるが、そこにあるのは明かり取りのほそい美しいガラス窓だけで、そのむこうにはわずかに歪んで手入れの行き届いた庭園が見える。 ナルがまず最初に足を踏み出して、それに麻衣が続いた。真砂子、安原、ジュリア、と続いて、最後をリンと滝川が占める。精神をぴんとはりつめて、一段ずつ、ゆっくりと階段を上る。 緋色の毛氈の敷かれた段差の低い階段は、途中で百八十度転回して、二階の廊下に出た。二階の廊下は落ち着いた色調の毛足の短い絨毯が敷き詰められていて、歩いても足音一つしない。 明かり取りのためか、大きくとられた長方形の窓が階段側に、横長の細い窓が玄関側の壁の上部に作られている。ガラスにはひびも入っていなくて、階段側の窓からは庭園が見渡せた。天井から太いチェーンでつり下げられた、玄関ホールと同じデザインの大きなガラスのランプは、やはりきれいで、長年放置されたものには到底見えない。 あたりを見回しながら、張りつめた沈黙を保った集団の中で、安原が口を開いた。 「階段が中央ですから、一階と同じく、右手が東側、左手が西側ですね。ここは玄関ホールのちょうど上になります」 玄関側を後ろにして図面を持ち替えた彼は、そう言って上司に視線を向けた。 「問題の部屋は、右側の突き当たりの部屋です、ドクター」 クリストファーの遠慮がちな補足には一応会釈を返して、ナルは先に左手に足を向けた。 ぞろぞろと、一つずつ扉を開けていく。 一つ目は、シングルサイズのベッドと精緻な細工のチェストが置かれた、小さめの客間らしき部屋、二つ目は本棚と大きなマホガニーのデスクが置かれ、古い本が積み上げられた書斎、さらに廊下を挟んで反対側には書庫、最後の突き当たりの部屋は、広いことは広かったが、どことなくがらんとしていた。 「………この家って、だいたい左右対称みたいだから、ここが一番いい部屋なのに、なんか………質素?」 調度だけ見れば、この部屋の半分サイズだったさっきの客間の方がよほど上質だ。 軽く首を傾げて、ぐるりと部屋を歩き回った麻衣は、窓際のチェストに触れた。 「さっきの部屋のはきれいなモザイクの模様だったのに、これ、装飾なしだし。………まあ、きれいなのは、確かに、きれいなんだけど」 木の種類まではわからないが、上質の木が使われ、きちんと作られていることは分かるし、金具も美しい彫金で、例によって磨き抜かれたようだったが、実用重視という印象は否めない。。 「あまり使っていなかったのかもしれません。書斎がすぐそこにありますから、主の寝室ってことになるでしょうけど、ここを買ったロバート卿は、外交官だったんですから、こちらより東京にいるほうが多かったでしょうし」 「……………基本的に、この屋敷がどんなふうに使われていたかは調べる必要はあるかもしれないな」 安原の思いつきのようなコメントに、独り言のようにナルが答えて、そして口を開いた。 「左翼はこの部屋で終わりですね?安原さん」 「見取り図ではそうなっています。………あとで測量してみますか?所長」 「……………そうですね。場合によっては」 ナルは、めずらしく慎重に答えた。 ポルターガイストが起こっているわけでもなく、水漏れその他のよくある「怪奇現象」があるわけでもないから、地盤沈下や地盤のずれの可能性は限りなく低い。屋敷自体は、見る限りにおいてはしっかりしているから壊れかかっているということはなさそうだし、見取り図との齟齬もない。小さい屋敷でもあるから、隠し部屋なども作りようがないだろう。 どちらにせよ、決めてかかるのは危険だが、いったい何が起こっているのか見極めるまでは、どう動くかなど決めようがない。 「左翼はこれで一応終了します。次は、右翼へ」 玲瓏とした声が、静まり返った広い部屋に響いた。 部屋を出て、結局何事も起こらないまま階段ホールまで戻ると、ナルは麻衣と真砂子にもう一度確認した。 「今までで、何か変わったことは」 「ちょっと変な感じは、ずっとしてる。一階よりは強い感じだけど、今までの部屋ではそんなに強くなかった、と思う」 「あたくしの感想も同じですわ。………でも、なにかこう、漠然としていて………イメージが掴みきれませんの。何かに隔てられているような、そんな感じでしょうか」 「わかりました」 ナルは頷いて、そのまま歩き出した。 後続を振り返ることなく、また無造作に扉を開けていく。 一つ目の部屋は、左翼と同じような作りの、それほど大きくはないゲストルームらしき部屋だった。調度もリネンも、ほとんど変わりはない。左翼では書斎があった場所は壁で閉じられていて、廊下を挟んだ向かいの部屋は、もう少し大きな、目的のよく分からない部屋だった。やはり美しいビクトリア朝様式のテーブルセットと、安楽椅子が、ほこりもかぶらないまま時を留めて置かれている。部屋の隅に作られた暖炉は、装飾目的だったのか実用目的だったのかは定かではないが、格子の中はきれいに掃除されてやはり余分なほこりがたまった様子はない。 そして最後、つきあたりの、問題の三つ目の部屋の扉を、何のためらいもない動作で、ナルは開いた。 そこは、左翼の同じ位置の部屋と同じく寝室、しかも、調度から見て女性のものらしかった。 鎧戸の隙間からの光でしかわからなかったが、そこは今までのどの部屋よりも美しかった。繊細な模様の壁紙が貼られ、床には美しい緑の絨毯が敷かれている。調度は優美なもので、象眼の施されたチェストと衣装箪笥に、繊細な白いレースのカーテンがかかったベッドが置かれ、彫刻とモザイクで装飾されたサイドボードには、天使がしがみついた意匠のランプが置かれていた。天井から下がった、一階の広間よりは簡素だが美しいシャンデリアは、陽光を入れればきらきらと煌めくだろう。 まず最初に、ナルが慎重に足を踏み入れ、アトリーがそれに続く。リン、滝川の順に続いて入り、わずかな間を置いて、ジュリアが思い切りよく足を踏み入れて───何も起こらず、綾子が、そして麻衣と同時に、安原と真砂子が足を踏み入れる。 その、瞬間。 パン、という破裂音が全員の鼓膜に響いた。 我に帰った瞬間に、しっかり握っていたはずの白い手がなくなっていることに気づいた安原が部屋を飛び出す。ほとんど同時に、部屋に残った麻衣が眉をしかめ、両耳を押さえて床に踞った。 「なに、これ………っ!」 「大丈夫か麻衣!おい、ナル!」 最初に滝川が麻衣のそばに駆け寄ってひざをつき、リンが軽く目配せして安原の後を追う。それを見送って、ナルはまずジュリアに尋ねた。美しいテノールは怜悧そのもので、平静にしか聞こえない。 『レディ。動かないでください。気分は』 『平気よ。私のことより、マイとマサコはどうしたの?一体何が起こっているの?』 顔色をなくした彼女が、クリストファーが差し出した腕に縋ってとりあえず立っている。彼女と同様に青ざめた綾子は、聞かれる前に言った。 「私も平気よ。………ここが何かおかしいということは私でも分かるけど。そんなことより、麻衣を見なさいよ」 白皙の美貌に、はじめてわずかな険が見えた。麻衣が踞ったそのすぐそばに膝をついて、名前を呼ぶ。 「…………麻衣」 限界まで抑制された声が、ひびく。 華奢な身体を抱え込むように踞っていた彼女の手が伸びて、絨毯の上を探るように動くと、触れた彼の冷たい指先を握った。 「ナル?」 「そう。どうした」 「………ナル……?みんな、なんともないの?」 「少なくとも、レディ・ハミルトンと松崎さんは大丈夫だそうだ。僕も何も感じない。お前はどうした?」 「………頭が圧迫される………すごい、何、これ………っ」 「気分が悪いのか」 「悪くない。そういうんじゃないの。変なんだけど………何か、聞こえる気がする………何、言ってるの………?」 「麻衣!」 ナルの声が鋭くなった。踞っていた麻衣を引き起こし、軽く彼女の頬を叩いて、強い口調で言う。 「聞かなくていい。引きずられるなと言わなかったか?」 「………うん。………気になるけど…………」 「ここにいるのが苦痛なようなら、部屋を出ているか?残りのメンバーだけで見ればいい」 「ううん、平気。大丈夫。嫌な感じじゃなくて、すごく、強い気配だけだから………」 それだけ言って顔を上げた麻衣は、顔色を変えた。 いつもなら人の視線にひどく敏感だというのに、気遣わしげなジュリアと綾子の視線にも全く気づかず、親友の姿がないことにはじめて気づいて、焦ってナルの腕に縋る。 「え。真砂子は?どうしたの?どこに行ったの?」 「弾かれた、らしい。原さんのことは安原さんとリンが追っているから気にしなくていい。…………それにしても…………彼女だけ、か」 後半は、視線を麻衣から外して呟いたナルに、精神の許容量をオーバーしたらしいジュリアがくってかかった。 『ちょっとオリヴァー!マイは大丈夫なの?マサコは?」 レディとしては人前で取り乱すなど考えられないが、それどころではなかった。麻衣の様子も心配だったが、それよりも唐突に姿を消した真砂子の方が心配だった。当然、こんな現象に出くわすのはまったく初めてで、どうしたらいいのか見当もつかない。 取り乱した彼女に、冷たいほど平静なテノールが返る。 『心配ありません、レディ・ハミルトン。ここにはかなり濃い気配があるようで、麻衣はそれに反応したようです。原さんも、夜月里さんの先例から考えれば、おそらく大丈夫でしょう。………それより、ミスター・アトリー。夜月里さんの時もこんな感じでしたか』 『そうです、ドクター。あのときも、あんなふうに音がして、夜月里さんの姿が消えました。驚きました』 『………音?音って何?』 口を挟んだ麻衣に、彼女のそばに膝をついたままのナルは、今度ははっきりと表情を変えた。 『聞いていないのか?何も?』 『聞こえなかったの?マイ。あんなにすごい音だったのに』 『なに??えっと、ジュリアさんも聞いたんですか?』 目を瞬いている麻衣を無視して、彼は綾子に視線を向ける。 「松崎さん。レディ・ハミルトンは聞いたようですが、音は聞こえましたか?」 「聞こえたわよ。ものすっごい破裂音。………つまり。真砂子が飛ばされて、麻衣があの音を聞いてないってわけね。………確かにこの部屋はおかしいわ。特に、この純白レース」 つかつかとベッドに歩み寄る。垂れ下がる繊細なレースを手に取って、綾子は息をついた。 「どんなに新しくても、五十年以上は前のものなんでしょ?それなのに、こんな繊細なレースが、破れ綻びはおろか黄ばみ一切ない純白ってどういうことかしらね?きれいにたたまれて保管されていたならともかく、こうやって吊ってあるから空気にはいつも触れているわけだし、ほんの少しでも日差しの入る部屋なのに」 「このタンスも、やっぱりっていうか、全然まったくほこり一つかぶってねーな。他の部屋のもそうだったから変でもないのかも知れないが、ね」 滝川が溜息混じりに呟いたところへ、リンが見取り図を持って戻ってきた。 「原さんは大丈夫です。階段の下にいました。今は一階の応接間で、安原さんがついています。心配はいりません」 リンがまず真砂子の無事を保証して、麻衣がほーっと息をついた。ナルの腕にぎゅっとしがみついていた手が緩んで、その手を外させてナルが立ち上がる。麻衣は今度はジャケットの裾を掴んだが、彼はそれには反応しなかった。 「ただ、ちょっと気になることを言っておられましたので、あとで聞いてください。とりあえずこの部屋だけでも図面と照合しましょう」 「改装が入ったって割には、今までまったく図面と変わらなかったからな、この部屋の確率が高いか。その図面は、例のロバート卿が購入した当時のものなんだよな?」 「アンドリューはそう言っているが………リン。図面を」 麻衣の手は無理に解かないまま、ナルはリンから図面を受け取った。一拍おいて、軽く眉を寄せる。 「………この部屋か。………形が違うな」 「え?形?どういうことナル」 疑問を呈したのは麻衣で、ナルは全員に向けて見取り図を広げてみせた。 「この部屋は、入り口がこうで、図面通りなら、ここの奥がラウンドになった八角窓の部屋になるはずだ。ちょうどこの真下の、一階右翼の食堂と同じ形だな」 「あ、そっか。うん」 「が、図面にはない壁がそこにある。本当なら南に面して一番光の入りやすい場所だというのに、窓の一つもない」 ナルの白い指先が、ベッドの向こうの、美しい植物模様の壁を、指した。 不自然な壁以外、部屋から続いていた浴室にも特に問題はなく、早々にヨーク家の別荘からベースにしている片野家まで引き上げてきた。蒼白になっていた麻衣の顔には、血の気が徐々に戻ってくる。真砂子はむしろ麻衣よりも元気で、特に気に当てられた様子もない。 「さて。話を聞こう。まず、原さん。何が起こったのか分かりますか?」 「ええ。………あの部屋、外からでも、それまでで一番、それが何かはよくはわかりませんけれど、気配が濃密なことは分かりました。皆さんが入っていかれて、麻衣と安原さんと一緒に足を踏み入れたところまでは覚えています。そうして、気がついたら部屋の中ではなく階段の下にいたんですわ。ちょっと呆然としてしまいましたの。しばらく階段を眺めていましたら安原さんがかけおりてこられて。そのあと来られたリンさんがカメラをお持ちでしたから、映っていると思いますけれど」 「何か気づいたことは?」 「気づいたこと、ですか…………」 怜悧な声に問われて、美しい少女が顔を俯ける。考え込んで、ためらいがちに、口を開いた。 「印象に過ぎませんが、何か、違うと言われた気がしましたわ。気のせいなのか、そんな声を聞いたのかはよく分かりません。………麻衣はどうですの?」 「あの部屋に入った瞬間に、すごい気配を感じた。圧力に近いくらい、強くて、耳に………ってあれ?なんで耳だったんだろう」 「………………」 「何かすごく、大きな声でっていうか、強い声で聞いた気がするんだけど………。ちゃんと聞こうとしたらナルが止めるから」 「当然だろう」 間髪入れず怜悧な声が返って、麻衣が首をすくめる。 綾子が、綺麗に整えられた指先で。ガラスのテーブルをトン、と叩いた。 「問題は、なんで真砂子だけ弾かれたのかってことよね。麻衣がああなったのはこの子の能力のせいと考えてもいいでしょ、ナル」 「断言はできませんが」 「それで、ジュリアさんは何もなかったって言ってるわけ。私は何か変だって感じて、麻衣はああなった。私たち三人の差は、霊視能力の差しかないわね」 「根拠はないな」 「若いくせに相変わらず頭固いわね。いいから最後まで聞きなさいよ。とりあえず問題は、なんで真砂子だけが弾かれたのかってことじゃないの?」 綾子の、わずかに憤然とした問いかけに、ナルは答えなかった。無言で続きを促す。 「あの部屋から日本人が弾かれる、っていう条件なら、麻衣と私が弾かれなかったのはおかしいわよね。で、二十歳くらいより若い女の子が弾かれるっていう条件なら、麻衣が残ったのはおかしいでしょ。麻衣と真砂子は同じ年なんだから」 「………それは言えてるな。てことは、問題になるのは、麻衣と真砂子の違う点で、真砂子と、夜月里ちゃんだったっけか?その子との共通点か」 「あのさ。真砂子は、「違う」って言われたような感じがしたんだったよね?」 「ええ。あなたじゃない、あたくしではない、と。でも、それもあくまで、そういう感じがした、という域にすぎませんわ。断言はできません」 「うん。でも、あの部屋が、真砂子とか夜月里ちゃんみたいな子は入れたくないってこと?」 うーん、と考え込んだ麻衣を見下ろしてから、綾子はにこりと笑ってナルを見た。 「ねえナル。私に、ひとつ仮説があるんだけど」 「なんでしょう?」 「かなりプライバシーに突っ込むかもしれないけどかまわないかしら?」 「よく分かりませんが、ひとつの意見として聞きましょう」 「それじゃ意見として言うわ。私が知っているわけじゃないし。………その前に男性陣に聞くわ。あの部屋で何か感じた人は?」 「僕に霊視能力はない」 「夜月里ちゃんとかいう子ににあるとは思えないけれど?」 あっさり切り返されて、ナルは言葉を変えた。 「特には何も感じなかったが。五十年放置されているとは思えないという違和感以外は」 「それは抜きで、よ」 「私も特には。………確かに、気配の濃密な部屋だとは思いましたが、谷山さんのように当てられるほどではありませんでした」 「俺もそうだな。気配にはリンほど敏感じゃないが、同意見」 「僕も、当然というべきですけど、なにも感じませんでした。確かに、異様に状態がきれいに保存されているものだなとは思いましたけど、それは抜きなんですよねぇ。………まあ、原さんが消えたので、気配を感じるどころじゃありませんでしたけど」 部屋に入るか入らないかのうちに血相を変えて飛び出した安原は、苦笑する。 「わたしも、とくには、変には思いませんでした」 最後にアトリーが締めくくって、綾子は笑みを強くした。 「ということは、女性だけに、特に強く作用しているってことよね。ここまではOKかしら?」 「問題はないですね」 「ところで、女には四段階、いえ五段階かしら。とにかくはっきり段階があるの、知ってるかしら?」 唐突に話題が変わったように思えて、ナルは、かすかに眉を顰めた。 「………どういうことですか?」 「子供、少女、女、母親。あと老女ってのもあるけど」 「…………」 綾子の意図を察して、読み取れるか読み取れないかわからないほど微かに、深い漆黒の瞳が揺れた。その揺らぎを、一番近くにいた麻衣だけが察して、わずかに首を傾げる。 察せられない彼以外を代表して、滝川が反問する。 「綾子さんや。言いたいことがよくわからんが」 「想像力のない破戒僧ね。いい、夜月里って子を含めて、私たちはみんな「女性」でしょ」 「それはそうですね」 「そう。だけど、違いはあるわけ。私はこういう場合、巫女ってことで例外としても、例えば、全然影響なかったジュリアさんは、「女」だってこと。それで、前に弾かれた夜月里って子は、多分「少女」よね。ということは、麻衣と真砂子をそういうふうに分けられないかって言ってるの。それができれば、あの部屋が弾いているのがどういう「女性」なのか分かるでしょ?………あれこれ、これ以上突っ込むのはなしよ?プライベートなんだから」 綾子の説明に、数瞬の沈黙が落ち。 そして、意味を察した順に、いわく言い難い視線をナルに向けて、それから口をつぐむ。コメントのしようがない。 部屋に落ちた微妙に居心地の悪い沈黙を破ったのは、やはり怜悧に透徹した声だった。 「……………とりあえず、夜月里さんに話を聞くのが先だな。それから、あの壁」 「そうですね。壁が気になります。不自然としか言いようがありませんよね。西野さんの話にあった改装というのは、あの壁のことかもしれません。他に、図面と違うところはありませんし、これは明らかに違いますから」 綾子の言葉に絶句していた麻衣が、ふるふると首を振ってから、頭を切り替えたらしく口を挟む。 「それじゃ、あたしは夜月里さんに話を聞きにいこうか。まだ一時間くらいあると思うけど、下校時間を聞いてから」 「それなら僕はもう一度役場にいってきます。西野さんの話ですこし絞れましたし、資料があるかもしれないので」 部下二人の意見に軽いため息をついてから、漆黒の青年は口を開いた。 「麻衣は西野さんに電話。コピーができているようなら受け取って、それから夜月里さんの話を聞いてこい」 「はあい。あ、そうだ。あのお屋敷、外からどうなってるか見た方が良いんじゃない?」 「……………行く気か?」 「だって、どう考えたって時間あるもん。外から見て、あの部屋が一階と同じ八角窓だったら、あの壁があとから作られたものだってわかるでしょ?」 「…………ちゃんとした計測はするつもりだが?」 「だから下見。どうせあたしがやるんでしょうが」 頑として引かない麻衣に、ナルはため息をつく。ここぞというときに倒れていて何もできなかったのが、麻衣にとっては悔しいのだ。こうと決めたらてこでも動かない彼女の性格を知り尽くしている彼は、これ以上止める無駄を避けた。 「…………それなら見てこい。ただし、建物には近づくな」 「了解。カメラもってくね」 「好きにしろ。………安原さんは、役場と、それから地元のお年寄りを捜して話を拾ってきてください」 「わかりました、所長」 「ぼーさんと松崎さんは、狩野工務店へ行って話を聞いてきてくれ。あれば、当時の記録をコピーしてもらって欲しい」 「了解」 「コピーね。借りれればそれでもいいわね?」 「当然だ」 コピーより原本の方がいいに決まっている。滝川が頷き返すのを受けてから、ナルは英国人二人のほうへ視線を転じた。 『ミスター・アトリー。時間はまだありますね?』 夕方に東京へ戻り、明日朝一番の飛行機に乗る予定のクリストファーにナルが確認する。 『はい、ドクター。少しなら』 『駅までリンに送らせますので、お話を確認させてください』 『分かりました』 『それから、レディ・ハミルトン』 『なにかしら、オリヴァー?』 『あなたが知っている限りの、ロバート卿の頃のヨーク家の話をすべて話してください。リンが聞きます。………アンドリューに聞ければ早いですが、今あちらは夜中だ』 『わかったわ。………夕方になったら、アンドリューにも聞けばいいわよね』 午後五時を回れば、イギリスは朝だ。そうすれば連絡がとれる。捕まるかどうかは微妙だが、執事は捕まえられるだろう。彼なら、おそらくアンドリューよりも事情に明るい。 『よろしくお願いします』 察しのいい彼女に会釈して、ナルは全員の顔を見渡す。 「何か質問は?」 「特にない…………あ。帰りに買い出し行ってきていい?」 「買い出し?」 「うん。ご飯の買い出し」 「…………好きにしろ。他には」 「ICレコーダー借りていっていいですか?」 「どうぞ、安原さん」 「俺はない。ナル坊はここにいるんだろ」 「その予定だが」 「なら、問題ができたら連絡する」 「………あの、ナル。あたくしは………」 唯一話をふられなかった真砂子が、遠慮がちに声を出した。 「体調はいかがですか?」 「全く平気ですわ」 「でしたら、麻衣に同行してください。あなたの体験と、夜月里さんの体験とを比較できる」 ナルは言葉を切って、綾子に視線を向けた。 「予定変更です。松崎さんは工務店のほうではなく、麻衣と原さんについてください。途中で気分が悪くなるようなら連絡をしてください。………ぼーさんは一人でもいいな?」 「分かったわ」 「問題ない。応援がいるようだったらまた連絡すればいいだろ」 綾子も滝川もすんなり了承した。 真砂子は「飛ばされた」ばかりだし、麻衣のあの部屋での苦しみ方は直に見ている。二人だけで出すのは心配だった。 そして、漆黒の視線がもう一度全員を一巡して、落ち着いたテノールが、響く。 「予定は以上。各自解散」 西野夜月里は、予想に反してと言うべきかむしろ予想通りというべきか、ごくごく普通の少女だった。 白いラインが二本入った紺のセーラーの制服に、ミディアムショートの黒髪を黒いピンでとめている。滅多に入らない事務所に入るように母親に言われて入ってきたら、見慣れない───彼女から見れば華やかな───三人の女性が立っていたのに驚いて、立ち尽くす。近くで見たこともないような振袖に黒髪を垂らした美しい娘に、対照的ながらかわいらしい印象の、オフホワイトのセーターとキャメルのパンツスタイルの娘。そして、黒のワンピースにツイードのジャケットを羽織った、都会的な美女。 どちらも、見たことがない───そう思った夜月里は、次の瞬間思い出して、思わず声を上げた。 「あの!もしかして、原真砂子さんですかっ!?」 思わぬ台詞と大きな声に驚いて目を瞬いて、次に軽く吹き出しかけた麻衣は、真砂子に軽く背中を叩かれた。夜月里からは見えない位置だろうが、少々痛い。 「…………あたくしのことですの?」 「そ、そうです!」 「これ待ちなさい夜月里!失礼でしょう!」 母親が咎めるのも耳に入らない様子で、彼女はかーっと頬を染めている。 「…………ええと。夜月里、さん?もしかして、この子のファン、なの?」 こちらも吹き出しそうな綾子が、それでも年の功で表情筋を制御しつつ問いかけると、夜月里は、一瞬迷ってからこくんと頷いて、一気にしゃべりだした。 「一年くらい前に、多分お正月だったと思うんですけど、テレビに今みたいな綺麗な着物で出ていて!他の芸能人の女の人たちもみんな振袖だったんですけど、一人だけなんか空気が違ったんです。それにものすごくきれいで!私とそんなに歳違いませんよね?なのにすごく、話し方とかも全然他の人と違ってて………!でもあんまりテレビに出ていないし、雑誌にも滅多に載っていないし、直接会えるなんて夢みたいです!」 「いいかげんに落ち着きなさい夜月里!…………ごめんなさい、原さん。失礼しました」 止まりそうにない興奮した娘の言葉を強い口調で叱りつけて、望美は真砂子に向かって深々と頭を下げた。 「いいえ、お気になさらないでください。あたくしを嫌いだと言うならとにかく、好いてくださっているんですから」 抑えた、落ち着いた口調で真砂子は答えて、それでも自分は前に出ずに、親友の背中を押した。 この調子では、真砂子が出て行けば夜月里がパニックに陥るのは目に見えている。慣れるまではクッションが必要だし、それには麻衣は適任だ。 麻衣はまっすぐ、棒立ち状態の夜月里の前まで行って、にっこりと笑顔を浮かべた。こういうとき、彼女の纏うやわらかくて優しい気配は、非常に役に立つ。 「はじめまして、夜月里さん。びっくりさせてしまって、ごめんなさい」 「えっと、いえ。こちらこそ。あの、ごめんなさい」 目の前で微笑んだ彼女の、真砂子とは別種の表情に、夜月里は吸い付けられるように視線を奪われる。 「私は谷山麻衣っていいます。真砂子は知っているみたいだからおいといて、もう一人は松崎綾子って言います。私たちは、ヨーク家の別荘の調査に来ました」 「………ヨーク家の別荘?」 「そう。………先にお約束してほしいんだけれど。これからお話することは、お友達には話さないでもらえるかな?お母さんやお父さんは知っていらっしゃるから、話してもいいけれど」 「………わかりました」 麻衣の笑顔につり込まれるように、夜月里は頷いた。 ここまでは、いつもと同じだ。部外秘はあとで徹底するとして、麻衣はもう一度口を開く。 「夜月里さん、この間、あの古いお屋敷に、外国人の人と一緒に入って、変な目に遭ったのは覚えている?」 「あ、はい。覚えてます」 「そのお屋敷が、ヨーク家の別荘。そのことで、私たちは夜月里さんのお話をちょっと聞きたいんだけれど、かまわない?」 「えっと……はい、いいですけど………」 答えた夜月里が落ち着きを取り戻したのを見て取って、麻衣は自分たちが案内されたソファセットに、望美に軽く会釈してから夜月里を連れて行った。 とりあえずソファに腰を落ち着けると、麻衣はファイルを取り出して、ペンを持つ。 「固くならなくていいから、気軽に答えてね。………その日のこと、覚えているだけでいいから、話してもらえる?」 柔らかい、高いトーンの声が空間に浸透して。 制服の少女は、少し考えてから口を開いた。 「………先週の、日曜だったんですけど、ちょっと外に出たら、父が外国人の男の人二人と出かけるのが見えて、どこに行くの?ってきいたんです。そうしたら、バラの別荘───ええと、その、ヨーク家の別荘のことを父はそう呼んでたんですけど、そこに行くんだって言ったんです。私、小さい頃からあそこは好きだから、一緒に行ってもいい、って聞きました。最初父は駄目だって言ったんですが、一人のひとが、かまいませんよって日本語で行ってくれて、私も一緒に連れて行ってくれました」 「お父さんも最初は一緒だった、のね?」 父親が最初はいなかった、という最初に受け取った情報とは違う。麻衣がわずかに眉を寄せてメモを走らせるのを横目に見ながら綾子が口を挟んで、それにまっすぐに視線を返して夜月里ははっきりと頷いた。 「はい。いつもみたいにお庭に行くのかと思ったら、父は二人を送っただけだってすぐに帰っちゃったんですけど、最初は一緒でした。お屋敷についてから、父が帰るとき、一緒に帰れって言われたんですけど、二人が、お屋敷の中に入るって聞いて、私も一緒に連れて行ってもらえないかって頼んでみたんです。すごくきれいな建物で、前から中に入ってみたいと思ってたから………」 「そっか。調べるときにはお父さんはいなかったのね?」 麻衣は納得して、確認する。 「はい、そうです」 「確かにきれいな洋館ですわよね」 真砂子が小さく呟いて、夜月里は頬を真っ赤に染めた。 「はい。小さい頃から憧れだったんです。………駄目って言われると思ったら、最初に連れて行ってくれるって言ってくれた人が、かまわないですよって言ってくれて。父も、よろしくお願いしますって言って、帰りました。………扉の、大きい鍵穴に、あの、おっきな鍵が差し込まれた時はすごくドキドキしました」 「その扉が開いたとき、何か、どんなことでもいいんだけど、感じたり、思ったりしたことはなかった?」 「……………?」 「何も、感じなかった?」 「すごくきれいで、びっくりしましたけど、それだけです。………何かあるんですか?」 きょとんとした表情で問い返されて、麻衣は落ち着いた表情で首を振った。首を振った。こちらの言葉で先入観を持たせるわけにはいかない。 ───が、夜月里が言うことが真実なら、夜月里は、真砂子や麻衣が感じた違和感を、全く感じなかったということだ。そして、夜月里のような年齢のごく普通の少女に、経年による色褪せやほこりなどは想像しろという方が酷だろう。 「そうじゃないんだけれど、夜月里さんが感じたことがあれば教えてほしいなと思って。………二階に上がって、東側の突き当たりの部屋に入ろうとしたら、入れなかったって聞いたけれど」 「そうなんです。とってもきれいな部屋で、どきどきしながら入ったのに、入ろうとしたら、いきなり階段の下で………びっくりしました」 「それは驚いたよね。怪我がなくて良かったけれど。………そのとき、なにか聞いたりしなかった?」 相づちを返して、それのついでのように注意深く問いかけた麻衣に、夜月里は首を傾げる。数秒考え込んで、首を振った。 「なにも。本当に、気づいたら階段の下で。何が起こったのか自分でもよくわからなくてぼーっとしてたら、二人の外人の人が慌てて階段おりてきたんです」 「気分が悪くなったりとかはしなかった?」 「全然」 きっぱりと否定されて、麻衣はわずかに苦笑した。小さく両手を広げるジェスチャーをして、綾子と真砂子に視線を向ける。 夜月里は、多分本当に何も聞いてはいないのだろう。これ以上問いつめて不安にさせても、益になる事は何もない。 「あたくしからも、ひとつだけ、質問させていただいてよろしいかしら、夜月里さん?」 真砂子に問われて、夜月里は緊張した面持ちで頷いた。 「あの部屋、きれいだと思いました?」 「思いました。入れなかったのがすごく残念で」 真砂子はうなずいて、自然な動作でこぼれ落ちた黒髪を耳にかけながら、ゆっくりと、問いを重ねる。 「でも入れなかったでしょう?………また二階に上がって、見てみたいと思われましたか?」 抑えられた、声。 夜月里は、一瞬きょとんとして、それから不思議そうに首を振った。 「いいえ。思いませんでした。………あれ?なんでだろう………ほとんど見れなかったのに………」 独り言のような呟きに、真砂子は極上の笑みを浮かべて、夜月里の思考を遮った。 「ありがとうございます、夜月里さん」 「……え。えっと。………あの、とんでもないですっ!」 とたんに頭から屋敷のことが消え去ったらしい夜月里に、さりげなく綾子が言葉を挟む。 「夜月里さん、本当にこの子のファンなのねえ」 くすくすと笑う声に、夜月里は真っ赤になる。 「だって、テレビよりも、実物……あ。じかにお会いした方がずっと素敵でっ!」 「夜月里さんの学校は女子校?それとも共学なの?」 「共学です」 「ボーイフレンドとかはいないの?」 軽い口調に、夜月里は笑って手を振った。 「いませんよー。なんかあんまり興味ないし」 「それより真砂子の方がいい?」 「………それとこれとは違うとおもいますけど……っ!」 あたふたしている夜月里に、麻衣は悪戯っぽく笑って、資料写真用のカメラをバッグから取り出した。 「じゃーん。これは何でしょう?」 「………あ。」 夜月里の視線と、真砂子の険を含んだ視線を受け流して、麻衣はにこりと笑う。なんと言っても氷点下な上司にさんざん慣らされているのだ。痛くも痒くもない。 「お話を聞かせてもらったお礼に、特別サービスで写真撮ってあげましょう。さあ、並んで。ツーショット♪」 「え。あの。いいんですか?う、嬉しいですけどっ」 「いいよ?さ、真砂子」 「…………」 質問の内容から夜月里の気を逸らそうという意図が分かったから、真砂子は何も言わずに立ち上がって夜月里の隣に座った。 「さ、夜月里さん。笑って」 「いくよー。準備おっけー?」 「待ってくださいっ!」 夜月里はあわててカラーとタイを直して、ようやくぎこちない笑みを浮かべる。 「夜月里さん、顔が引きつってるわ。自然体!」 綾子にいわれて、カメラを構えた麻衣の琥珀色の瞳を見る。その穏やかな光に、どこか力が抜ける。夜月里はかわいく見せようという努力を放棄して、自然に肩の力を抜いた。 「はい良い表情だよー!いきまーす」 声が終わるか終わらないかのうちにカシャというシャッター音が響いて、麻衣はカメラをバッグにしまった。 「おわり。できたら、ここに持ってくるか、現像が間に合わなかったら送りますね」 「すごい嬉しいです、ありがとうございます!」 頭を下げた夜月里に笑顔を返して、真砂子は立ち上がった。それに合わせて、麻衣と綾子も立ち上がる。 「それじゃ、今日はこれでおいとまします。お時間頂いてありがとうございました」 見ていた望美に丁寧にお辞儀して、麻衣は渡されたコピーの束を持ち直した。 「いえ。こちらこそ、娘が騒いで申し訳ありませんでした。原さんには本当にご迷惑をおかけして………」 「とんでもありません。貴重なお話を聞かせて頂きました。ありがとうございました」 真砂子の前に麻衣が答えて、もう一度一礼する。 「それでは失礼します」 「夜月里さん、どうもありがとう」 綾子の言葉を最後に、三人は造園事務所を出て行った。 † 望美にあらかじめ聞いておいた買い物スポットを巡り、三人が片野家の別荘にたどり着いたときには既にあたりは暗くなりかけていた。途中で偶然拾えたタクシーを見送ってから、麻衣は大荷物を抱えて中に入る。 「遅かったなあ。心配してたぞ」 「ごめんー。夜月里さん帰ってきたの四時くらいだったし、それから話聞いて買い物に行ってたらこんな時間になっちゃった」 「何もなかったんだな?」 彼にしてはやや鋭い口調は綾子に向けられて、彼女は髪をかきあげてため息をついた。 「ないわよ。平穏すぎるくらい平穏だったわ。………報告会は食後でしょ。すぐ支度しなきゃ遅くなりすぎるわ」 「ならいいが。…………青少年二人の機嫌が悪くてねぇ、めちゃくちゃ居心地が悪いんだわ。もー、クリストファーを送りにいったリンが羨ましくなるくらいにな。ジュリア嬢がなだめてるが、ナル坊は口きかんし、少年はもっとタチ悪いな。………そんなわけで、元気な顔を見せてきてくれんかねお嬢さん方」 冗談めかして言った滝川に、麻衣と真砂子が揃って絶句する。 「心配なら心配って言えばいいのに二人とも素直じゃないから厄介よね。いってらっしゃい二人とも。気圧が低いと居心地が良くないわ。私はこれ持って台所に行ってるから」 綾子はさらりと流して、ビニールの袋に一杯の食材を滝川に持たせて、さっさと廊下の向こうに消えた。 残された二人は顔を見合わせて、麻衣が苦笑して口を開く。 「…………いこっか」 「……………虎口に入らずば虎児を得ずと言いますけど。それより怖いような気がしますわよ麻衣」 「でもここに突っ立ってても仕方ないし。覚悟決めよ」 「………分かりましたわ」 二人は意を決して、廊下をそっと歩いて、リビングのドアを開いた。 「………ただいま帰りました!」 いっそ、元気よく、と言った方がいいくらいの勢いで、麻衣がてらいない笑顔でぺこりと頭を下げた。役者ですわね、という真砂子の囁きには気づかなかった振りをする。 「遅くなってごめんなさい。夜月里さんが帰ってきたのが予定より遅くて、話をきいてたらさらに遅くなっちゃって。買い物は早めに切り上げたんだけど。タクシーを拾えたから助かった〜〜」 「なにもなかったんですか?」 「ええ、なにも。安原さん」 親友の役者ぶりを見習うことにしたのか、真砂子はにっこりと微笑んで、軽く首を傾げる。 「ちょっとお話が長引いてしまって。それでこんなに暗くなるまでかかってしまいましたの。もしかして、ご心配おかけしてしまいました?」 「心配しましたよ。ご無事だったなら良かったですが」 上司よりは率直な安原は、真砂子の姿をもう一度見直して、それから息をついた。 その上司の方は、資料をめくっていた手を止めて、華奢な少女を見上げる。漆黒の瞳はひどく薙いでいて、まったく表情が読めない。怖いほどの無表情にもめげずに、麻衣はナルの隣にすとんと座った。コピーの束をばさりとテーブルの上において、妍麗な白皙を見上げる。 「ナル?」 「………………遅くなりそうなら連絡くらい入れろ」 「心配した?」 「つい先刻、あの家で倒れたのはどなたでしたか?」 「あたしだけど。大丈夫って言ったじゃん。それに、大丈夫じゃなかったら綾子が問答無用でつれて帰ってくるよ。そのために綾子つけてくれたんでしょ?」 「…………」 「あたしも真砂子も大丈夫。綾子も問題なし。台所にいるけど」 琥珀色の瞳が笑みを湛えて、まっすぐに漆黒の瞳を見つめる。唐突に、彼の纏う冷たい気配が変わって、息をついた。 「…………………それならいい」 「うん♪」 麻衣は頷いて、ふわりと笑みを浮かべる。 「報告はご飯のあとね。………それじゃ、あたし綾子の手伝ってくるから」 「無理はするな」 「了解。ありがと」 麻衣はぱっと立ち上がってくるりと身を翻すと、ぱたぱたとリビングを出て行った。 窓際の壁にもたれて一部始終を見守っていたジュリアが、ちいさくくすくすと笑って、一言、言葉にした。 『見事な操縦ね!私も見習わなきゃ』 食事はごく簡単に───ただ、ジュリアという「賓客」がいるため一応の基本は踏んで───片付けられ、ベースに全員が集まった。安原と麻衣は資料を広げ、安原の方はさらにパソコンも起動させる。 『これから何が始まるの?』 ジュリアの問いに、リンが答える。 『打ち合わせです。こういったミーティングを重ねて、方針を決めていきます』 『レディ・ハミルトン。リビングかお部屋で休憩していていただいてかまいませんが?』 怜悧な声がかかって、ジュリアはにこりと笑った。 『あら。あなたさえかまわなければここにいさせてくれる?邪魔はしないから』 『ではどうぞ。………リン。適宜通訳を』 『わかりました』 リンが頷くと、ナルは全員を見渡して口を開いた。 「さて。………まず、麻衣。報告を」 「はい、所長」 麻衣はうなずいて、ファイルを広げた。 「最初に、ヨーク家の庭に行ったんですが。さすがに西野さんが定期的に管理されているだけあって、とてもきれいに整備されていました。特に変な印象は、真砂子もあたしも受けなかったです。それから、右翼………庭から見ると左側の二階は、一階と同じで、八角窓でした。全部木の鎧戸が閉められていましたけど」 「分かった」 麻衣の報告は予想の範囲内だったのだろう、ナルはそのまま先を促す。 「それから、西野夜月里さん。話を聞いてきました。………ちょうど真砂子のファンだったので話が簡単で助かりました♪」 「麻衣。それは関係ありませんでしょ」 小さく笑みを漏らした麻衣の台詞を、真砂子が遮る。ちょっと首をすくめて、麻衣は続けた。 「それで、スムーズに話は聞けました。彼女の写真も撮ってあります。話の内容ですけど、真砂子やあたしが感じた違和感みたいなものは、夜月里さんは全く感じなかったそうです。綺麗な洋館で、憧れていたから入れて嬉しかった、ってことでした。で、階段下に飛ばされたっていうのはクリストファーさんの言ってたのと同じなんですが、やっぱりその、パンっていう音?それは聞いてないみたいです。気づいたら階段の下で、びっくりしてぼーっと階段を見ていたら、二人が血相変えて降りてきた、と」 「それで、ナル。そのときに、あたくしが感じたような、拒絶されるような感じがしたとはおっしゃらなかったんですけれど。───今までで一番きれいな部屋で、見てみたいと思ったのにも関わらず、もう一度行きたいとは思わなかった、そうですわ」 「…………なるほど……」 漆黒の瞳の色が、深くなる。 ゆっくりと、きれいにのびた長い指先がテーブルを叩いて、鋭い視線が部下の少女を捉えた。 「うん。それってポイントだよね。………もう一度行きたいと思わなかった、というか、そう思えなかったのは、潜在意識で、拒絶されているのを感じたからじゃないかとも思えます。もちろん断言はできないけど」 「それから、もう一つ」 綾子が横から付け加える。 「夜月里さん、ボーイフレンドはいないそうよ。あまり興味もないって言ってたわ」 「………………そうですか」 ナルは特にコメントせず聞き流して、言葉をつなぐ。 「………原さんと麻衣の言うところの、ポイント、は、確かに無視できない感想だな。思い込みがないだけに、信頼性が高い」 「そうですね」 リンが同意して、滝川も頷く。 「本当に中が見たかったのに、いっちばんきれいな部屋を見たいと思わなくなるというのは変な話だよな。怖い思いをしたわけではなし、それなら真砂子ちゃんみたいにはっきり感じられなくても潜在意識になにかあったとは考えられるよな」 「先入観を持つのはやめたほうがいい」 ナルが釘を刺して、麻衣に視線を向ける。 「他に報告は?」 「あ。ええと。これ資料。コピー貰ってきました。あの別荘に関する記録全部だそうです。ただ、あたしはまだ見てないから」 帰ってからゆっくり見ている時間など全くなかった。 いいわけめいて、わずかに上目遣いになった彼女に、ナルはため息をつく。 「わかった。これは保留だな。あとで検討しろ」 「了解しました、ボス」 「それから、原さんと松崎さんは何か?」 「特にないわ」 「あたくしも、特にはございません」 ふたりがほぼ同時に答えて、ナルは視線を滝川に転じた。 「それなら、ぼーさんの報告を聞かせてもらおうか」 いつもよりはきちんとしているが相変わらずラフなスタイルの滝川は、座り直して口を開いた。 「俺が行ったのは狩野工務店なんだが、西野さんが言っていた、十五歳ほど上の今の主人のほかに、その父親もいてな。まさに、あの屋敷の壁工事をやったそうだ。元気は元気なんだが、普段気難しい人らしいから、西野さんも言わなかったんだろうな」 「気難しい人?それなのに話を聞けたわけ?あんたみたいな破戒僧が?」 茶髪長髪、見るからに軽そうな彼に、西野が紹介すらしなかったほど厄介な老人が好感情を抱くとは到底思えない。 綾子の揶揄に、滝川はにやりと笑って、答える。 「その、破戒僧だったからこそ、だ。そのご老人、狩野喜一郎さんっていうんだが、西野夜月里さんのことは知っていて、かわいがっているらしい。狩野家には娘はいないらしくてな。………で、あの子がそんな目にあったっていう話をちょっと、今の主人の政則さんと話していたら出てきて、お前は誰で、何でそんなことを調べてるんだ、とやられたわけ。で、元々高野のお山で修行して、俗界におりて修行を積んでいるんです、と説明したわけだ。そういう連中も確かにいるからな」 「あっきれた。大ボラじゃない」 「完全に嘘じゃねーんだからいいんだよ」 「……………限りなく嘘に近いと思う」 「麻衣まで言うかー?パパは悲しいぞ」 「………ぼーさん。戯言はいいから続けてくれ」 よよよと泣き崩れる真似をした滝川に、氷より冷たい声が降ってきて、彼は首をすくめて座り直した。 「経緯はともかく、話は聞けたんだからいいじゃないか。でな、修理の話だが、確かに狩野工務店が受けたらしい。戦後すぐ、昭和二十三年に、イギリス人の婦人があの別荘に来て、二階のあの部屋の八角窓の部分をふさいでほしいと頼んだそうだ。部屋の他の部分はいじってくれるなということだったから、相当苦労したらしい。喜一郎さんの話によれば、四枚の板をぴったりの大きさに切って嵌め込んで、倉庫にしまってあったビクトリア朝様式っぽいきれいな植物模様の壁紙をその婦人が選んで、壁に貼ったそうだ。なにしろ戦後の物不足の時代だったから、板を見つけるだけでも一苦労だったが、連合軍が持っていた食料や雑貨を代金とは別にわけてもらって、ずいぶん助かったと言っていた」 「日本の、大戦後の状況はよく知らないが、昭和二十三年というといつごろですか?安原さん」 「一九四八年です、所長。講和条約前ですね」 「まだ占領下ということか。それなら話はわかる。ヨーク家サイドで連合軍に手を回したんだろう」 「喜一郎さんはあまり良く覚えていなかったが、政則さんのほうは彼女のことを覚えていてな。青い目に、白髪混じりの金髪の、初老の女性だったそうだ。………西洋人はちょっと年上に見えるから、もっと若かったのかもしれないが。で、彼女は息子らしい、若い男と一緒で、それから通訳もいたと言っていたかな」 「三人か」 「ああ。それから、あまり公にしたくないとのことで、人足も入れず、喜一郎さんと、まだ存命だった喜一郎さんの父親の勝蔵さんと、まだ十代後半で修行中だった政則さんの三人だけで作業したらしい。そのあたりの事情は、さっき渡した覚え書きに書いてある。少年にもみてもらったが、問題はなさそうだった」 「話は漏れていないということだな。西野家は親しかった上に、庭整備の依頼を同時に受けていたから知っていた、わけか」 「そういうこと」 「とにかく、八角窓部分を開こうと思えば、その板を一枚外せばいいわけだな?」 ナルの確認に、滝川は首を振る。 「そう簡単にはいかないらしい。釘や金具を使わなかった分、しっかりきっちりはめ込んだらしくてな、その辺は日本のお家芸なんだが。ちょっとやそっとのことでは外れないだろうと言っていた。家具調度を動かさずに、板だけを外すのはどうしても無理だろう、と政則さんが言っていた。もし外すなら、相当の大仕事になるだろうってさ。………それからこれも重要情報なんだが」 「何だ?」 「あまり見るなといわれたから、作業に集中していたらしいが。まあ政則さんは見習いだったそうだしな。閉じた八角窓の中、細かい調度がかなりの量あったらしい。鎧戸が閉められていて暗かったし、何があったかまで詳しくは見ていないそうだが、そっちをまったく動かさずに板だけ綺麗に剥がすのは無理だろう、ってことだ。ちなみに、喜一郎さんは覚えていないそうだ」 「…………ということは、板を切断するしかないか」 「開けるとなったらそうしかないだろうな」 「…………分かった。他には?」 「特にない。が、西野さんと同じく、あの屋敷に、その婦人が入ってから誰かが出入りしたというのは知らないそうだ」 「…………そうか」 ナルは、わずかに目を伏せる。 長い睫毛が頬に深い影を落として───そして、安原に闇色の瞳を向ける。 「安原さん。あなたの成果は?」 「すみません、やっぱりあんまりないんです。別荘地ってこういうとき不便ですね。新興住宅地よりはマシですけど。………それでもまあ、土着の人っていうのはわずかですけどいるんで、資料館と役場をあたって、回ってきました」 安原は、手元に持っていたファイルを開く。ついでにノートパソコンをくるりと回して、ディスプレイに表示された周辺地図をナルに示した。 「一目瞭然なんですが、ヨーク家の別荘って、ものすごく奥まった場所にあるんですよ。その上、使われていた期間が短いんで、西野さんと狩野さんの他にあそこを知っていたのは、なんと二人だけでした。役場の資料には残ってたんですけどね」 安原は言葉を切って、ファイルをめくる。 「これはヨーク家の方でも確認可能だと思いますが、最初にあの別荘、というか、土地全体を買ってあの建物を建てたのは、当時のドイツの銀行家で、アルベルト・ヴェクスラーという人です。だいたい明治二十年前後、西暦でいえば一八八〇年代後半と思ってください。………建設にあたったのは、設計はどうも外国人らしくて、しかも建築は東京から業者を呼んだようでここまでの記録はありません。追跡も、多分日本では不可能ですね。ヨーク家とヴェクスラー家が親交があれば別ですけど」 「記録にはありませんね。アンドリューが送ってきた限りでは、会計記録に、購入の記録があるだけです。が、誰が建てたかはいまのところ関係ありませんので、保留しておいてください」 即座にナルが答えて、安原は息をついた。ナルの返答は、思っていた通りだ。 「そうですか。………続けますけど、ヴェクスラー氏は別荘として建てたので、当時このあたりに別荘を建てた外国人はほとんどそうなんですけど、避暑や接待に使っていたようです。そのあと、一九〇四年にロバート卿が買い取っているわけですよね?」 「記録では」 「その辺のことについては、地元では関心が薄かったのか、かやの外だったのか、おそらく後者でしょうけど、とにかく記録がありません。次にある記録は、あの別荘に住んでいた女性が亡くなり、当時の外国人としては異例なんですが、地元の火葬場で荼毘に付されています。そのあと、当時あった教会で葬儀が営まれたところまで記録にあります。多分、日本の墓地に埋葬するよりは、祖国に埋葬するために火葬したんだと思いますが。明治四二年、一九〇九年ですが、名前は、エディス、三十一歳の英国人女、とあります」 「…………ヨーク家の没年記録とも一致しますね。問題はない。………ところで、ヨーク家を知っていた二人というのは?」 「地元の、今はペンションをやっている家のおばあさんの、今村まささん、今年八十歳になる方と、パン屋経営のおばあさん、福田さやさんです。こちらは七十六歳。さすがにどちらも直接はご存じなかったんですが、どちらもエディスさんが亡くなった当時のことを、それぞれお母さんから聞かれたそうで、覚えていらっしゃいました。特に今村さんのお母様は、ヨーク家でときどきお女中仕事をしていたそうで、よく話を聞いたそうです。とてもきれいな金髪に青い瞳のひとで、『毛唐ってのは怖いもんだとおもったけども、奥様をみていたら、とんでもなかったよ』と口癖のように聞かされていたそうで」 「…………」 「あ。ヤスハラの日本史まめ知識いきますと、日本は明治になるまで鎖国していましたので、地方の人が外国人を見る機会は全然なかったんですよ」 「その程度は知っていますが」 「失礼しました」 安原は笑って頭を下げる。今の台詞は、どちらかといえばジュリアへの説明だったから、ナルの反応は予想済みだ。 「で、エディスさんは日常的に軽井沢にいたそうです。これはパン屋の福田さんの情報で、福田さんのパンはその当時いたパン職人から教わった直伝パンだそうで、ヨーク家へも届けていたそうです。それから、こっちは今村さんの情報ですが、ご主人のロバート卿はたまに来られる程度だったそうで、身体が弱かったのではないかと言っていました。エディスさんは日本語が話せなかったので、主に向こうからつれてきていたメイドと話をする程度だったようです。直接話をしたという話は出てきませんでした」 「………エディス夫人の死因は?」 「それはわかりません。病死だったんじゃないでしょうか?どんどんやつれていっておかわいそうだったと、今村さんのお母さんがおっしゃっていたそうです」 「そうですか…………」 「僕からは以上です。これ以上は多分無理ですね。あとは、あの家の調度の鑑定や、周囲の測定で詰めていくくらいしか、僕にはおもいつきませんけど」 「妥当でしょう」 ナルは一言で答えて、わずかに俯けていた顔を上げた。漆黒の髪が白皙の頬にさらりとかかって、灼きつくようなコントラストを描く。 「質問は?」 問いに、答えは返らない。 全員の視線を受けて、ナルは口を開いた。 「今日はこれまでにする。明日の朝、朝食後にもう一度簡単にミーティングして予定を決めるが、リンと安原さんは測量の準備をしておいてください」 「わかりました」 「寒そうですもんね。分かりました」 「あたしは?ナル」 「お前は状況を見て決める。また倒れるようでは使い物にならないからな」 「うわ、ひど。………了解しました、ボス」 麻衣は首をすくめて、小さく敬礼のしぐさをしてみせた。 |