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3章







   3章


 深い淵。
 沈み込んだその奥底で、何かが、動く。


 ごとごとと、体が揺れる。
 闇の中。
 どこかで話し声がするけれど、聞き取れない。
 なんとかして聞きたくて耳を澄ましてみれば、もうすぐだ、という言葉が聞こえた。

 もうすぐ、なのね。

 もうすぐ、着く。
 新しい、私の居場所へ。


「さあ、新しい子たちだよ、エディス」
「まあ。どんな子かしら」
 今まで聞こえなかった、華やいだ高い声が聞こえて、私は耳を澄ました。
 ───この、ひと?このひとが、新しい私の…………?
 思う間もなく、ずっとずっと長い間閉じ込められていた暗い箱が、開いた。急に入ってきた光は、それほどまぶしくない。きれいな、やわらかい、けれど記憶にないしっとりした空気が体を包み込む。
「まあ、なんてかわいらしいの!」
 抱き上げてくれたのは、まだ若い女の人だった。
 その隣にいるのは、多分私をここまで連れてきた人。声が同じだからすぐ分かる。
「今までに来た子たちとは、全然違うわ。かわいいわ」
「すばらしいだろう?エディス。なんとなく、ローズに似ていないかい?」
 男の人の嬉しそうな声に、女の人は少し言葉に詰まっているみたい。
「ええ………ええ。そうね、あなた。………そうだわ。優しい目も顔も、そうね。金の髪も青い瞳もよく似ているわ」
「ドレスは、ローズに贈ったのと同じのを仕立てさせたよ?この子は特別ローズに似ているから」

 ローズ?
 私に似ている?
 ………違う、そうじゃないわ。私が、この人たちの「ローズ」に似ているのね。

 私は納得して、二人の話を聞いている。
 きっと大切な子なんだろうと、口調でわかるから、何となく嬉しかった。
「まあ!すばらしいわ、ありがとう。ピンクのシルク?レースも素敵だわ」
「二十年くらい前らしいけれどね、フランスの、珍しい工房なんだ。前に同じ工房の人形を見かけて、ずっと探していたんだよ。もう少し大きい子がよかったんだが、これが限界らしい」
「三十インチくらいかしら?………ほら、前にあなたがつれてきてくれたジュモー工房の子と姉妹みたいね。こっちの子は四十インチくらいあるから」
「そうだね。だからちょうどローズの小さい頃の服がぴったりだった。この子も、もう少し小さい頃のなら入るかもしれないね。送らせようか」
「本当?楽しみだわ」
 うきうきと、声が弾む。
 優しい声で、私を連れてきた男の人が笑う。
 横につれてこられた子は、確かに私より少し大きくて、お姉さまみたいだなと思ったけれど、お話ができるわけはないから、仕方がない。この、エディスという優しそうな人が気に入るように、笑顔を浮かべているしかないから。
「気に入ってくれてよかった。もう少し小さい子なら手に入るそうだから、今度は小さい子を連れてくるよ。………それから、今回はまだ三人いるんだよ。一人は、ジュモー工房の新作……と言っても五年ほど前だけれどね。本国の店に来て、服を注文して、ここまでくるのに時間がかかりすぎるのがまったく残念だよ」
「あら、この子もかわいいわね。可愛らしいこっちの子と同じくらいの身長だけれど、お顔はもっとお姉さまみたいだわ」
「そうだね。それから、君が欲しがってたブリュ・ジュンも手に入ったよ。ブリュは数が少ないから、大きい子を大変だったんだよ?エディス。苦労した君のロバートにご褒美をくれないかい?」
 エディスは目を丸くして、それから笑った。くすくすと、きれいな笑い声。
 エディスにほっぺたにキスされて、男の人───ロバートっていう名前の人は、上機嫌だわ。
「ありがとう、ロバート。愛してるわ」
 エディスはくすくすと笑っている。
「私のかわいいプリムローズに似てるこの子は、そうね、プリマヴェーラがいいかしら」
「春、かい?」
「ええ。そんな感じでしょう?プリムローズも春だもの」
「そうだね。じゃあ、このジュモーとブリュはどうする?」
「そうね、こっちの大きいジュモーの子はヴァイオレットだから、パンジーでいいかしら。ブリュの子は、とっても美人だからヘレンよ」
「トロイのヘレンかい?絶世の美女だね」
「そう。素敵でしょう?」
「もちろん。………そうだ、エディス。名前はもう少したくさん考えておいておくれ?」
「あら、どうして?」
「ドイツの工房もいい人形を作っていると聞いてね、ドイツ公使館の知人に頼んだんだよ。三日後くらいに来るよ。可愛らしい子を頼んでおいたから、楽しみにしていなさい」
「まあ!フランスの子ばかりだったけれど、ドイツの子も増えるのね。お友達がたくさんね、ヴァイオレットにプリマヴェーラ、それにパンジーとヘレン。他の子たちも」

 私はエディスの言葉を聞いて、抱き上げられたままの彼女の肩越しに、部屋の中を見てみた。
 とても綺麗な部屋には、私と同じ子たちがたくさん、びっくりするほどいて、みんなきれいな服をきている。
 ───ヴァイオレットみたいに、彼女たちの大事な「ローズ」の服をきている子もいるのかしら?

「でもロバート、名前はその子を見てからじゃないと決められないわ。その子にぴったりした名前が、必ずあるんですもの」
「そうかい?」
「ええそうよ。………そうね、たとえば、私がスザンナって名前を用意していたとして、このかわいいプリマヴェーラにつけたらどうかしら?おかしいでしょう?」
「…………きっと最初にきけばおかしくなかったんだろうが、プリマヴェーラという名前のあとではちょっと奇妙に聞こえるね」
「そうよ。だから、あなたの新しい贈り物には、お顔を見てから名前をつけることにするわ」
 にっこり笑ったエディスは、私を下に下ろした。
 優しい手が、とても丁寧に、椅子に座らせてくれる。
 多分、私のために空けてあった椅子。まわりの子たちが、見渡せる。
 ヴァイオレットやパンジー、ヘレンもそれぞれの場所に座らされて、私は頭のてっぺんに温かいキスをされた。
「プリマヴェーラ。私たちはお茶してくるわ。みんな仲良くね」
 ひらり、とスカートの裾が翻る。
 明るい部屋の中、私たちだけが残されて、私はみんなの瞳の色をずっと見ていくことにした。



 明るい部屋が、ずっと明るかった部屋が、暗くなる。
 すすり泣きが聞こえて、ロバートの様子が変なのが分かる。他の子たちもざわめいているみたい。
 何かが、壊れた。
 そんな気がして、不安になる。

 鎧戸が閉められて、誰もいなくなる。
 エディスの声も、もう聞こえない。
 また、闇の中に取り残されて。


 暗い、暗い、時が過ぎて。

 それでも、ずっとずっと、私たちはエディスを待っていたの。私たちに時間は関係ないから、また明るい光が照らしてくれるのを、エディスの優しい声を、ずっと待っていたの。


 もう、明るくはならないかもしれない、なんて思っていた頃になって、ようやく、光が射した。
 ずっと、ずーっと聞いていなかった、ひとの話し声が聞こえてきて、そのひとはちょうど私の前で止まる。グレーのスカートが揺れている。きっと、エディスじゃない。エディスはこんな色の服は着なかったから、違うって分かる。
 抱き上げてくれなければ見えないのに、声だけが、抑えた女の人の声だけが降ってくる。───どうして、抱き上げてくれないんだろう。やっぱりエディスじゃないの?
 声は違うけれど、ここにいるのはエディスのはずなのに。

 ───思考に一貫性がないことに、『私』は気づいたけれど、違和感は感じない。感じられないのかもしれない。

「………この子が、多分、プリマヴェーラね。この服に、見覚えがあるわ」
「……………」
「ほんとうに、こんなにたくさん…………………。とても、寂しかったのね、お母さまは………」
「病弱だったと、おじいさまから聞いたことがあります」
 こんどは、若い男の人の声。
 それは、いままで聞いたことのない声。
「私はお母さまのことをあまり覚えていないのよ…………」
 呟きのような言葉が聞こえて、すこし皺のある手が、古い紙の束を私の膝に置いた。その上に、なにかがうつっている写真が載せられる。
「これは、私が寄宿学校を卒業したときに撮った写真よ、エリオット」
 呟く声は、私や男の人に話しかけるというよりは独り言みたいに聞こえる。ちょうど、エディスが「ローズ」のことを話しているのとよく似ていたから、私たちにはすぐ分かった。
「本当は、このあとすぐにこちらへ来る予定だったの。そういう約束だったの」
「………………」
「そうしたら、電報で。お母さまが亡くなったって連絡がきたのよ。…………信じられなかったわ」
「お母さん………」
「それくらいなら、私のそばにいてほしかった。こんな、知らないところで、ひとりで弱って死んでしまうなんてひどすぎるわ。そんなに体の弱かったわけじゃないのに。だってそうでしょう?もし体が弱かったら、こんなところまで来たりしないわ。あの頃は、今よりずっとたくさんの時間がかかったのだから」
 はたり、と、あたたかいしずくが落ちてきた。

 これは、覚えているわ。
 エディスも、同じように私の頬を濡らしたことがあるから。プリムローズって呼びながら、私を抱きしめて、温かい雫が頬に落ちてきたのを覚えてる。
 温かくて、やさしくて、でも寂しい、私たちの知らない雫。

「ここを使うことはもうないでしょう?エリオット。だから、もうここは閉じてしまいましょう。お母さまの思い出と一緒に」
「お母さん……!」
「いけないかしら、エリオット?………爵位はもうあなたに譲ったのだから、私が決められることではないわね」
「…………いいえ。それでお母さんの気が済まれるなら。業者を手配しましょう」
「ただ、お母さまのお道具を、絶対に傷つけないでね」
「分かっています」
 エディスよりも固い手が、私の髪を撫でるのが分かった。
「眠っていてね。幸せに」
 彼女が、囁く。
 そのまま彼女は遠ざかってしまったから、私は結局彼女の顔を見れなかった。

 そして。
 私たちは、また、大きな音がして。
 闇の中に閉じこめられた。

 また声が聞こえるかもしれない。
 エディスが、呼ぶかもしれない。
 
 
 でも、もう。
 エディスがどんな顔をしていたのか、どんな風に話したのか、どんな色の瞳だったか。
 思い出せないわ。


 他の子たちもいるはずだけど、もうわからない。見えないもの、仕方がないの。
 

 いつか、光があたるかしら。
 誰か、温かい手で抱きしめてくれるかしら。


 待っていれば、優しい声をかけてくれるかしら。


 ───深い深い記憶の底。

 暗いくらい櫃のなかで、とらわれたまま。
 いつまでも終わらない夢を見続ける。


 鳥籠に、もう、小鳥はいないのに。
 その美しいさえずりの夢を見る。


   †


 麻衣は、ゆっくりを目を開いて、暗い天井を見上げる。冷気が頬に触れて、自分が目をさましていることを確かめた。
 斜めに傾斜した天井の中央に開けられた天窓から見える空は、まだ暗い。
 何だか泣き出しそうな気分になって、麻衣は半分起き上がって体を抱きしめた。精神に残る、別の感情が、自分の感情と混ざって胸が締め付けられる。
「あーもう、イヤかも………」
 涙がにじんで、麻衣は思い切って起き上がった。
 このまま寝れそうにないし、あまり寝たくない。今の「夢」の続きや別バージョンなど、見たくもなかった。
 独りの部屋であることを感謝しながら、カーディガンを羽織り、そっと部屋の外に出る。階下の誰かを起こさないように極力注意して、階段をゆっくりと降りて、リビングに入った。
 電気のスイッチをつけると、間接照明で照らし出されるヨーロピアンテイストで統一されたリビングはどちらかと言えば暖色系で、疲れた神経に優しい。
 夜気に冷え込んだソファに座り込んで、麻衣は膝を抱えた。
「……………うー………」
 やり場のない思いが、言葉にならない声になる。やっぱり涙がにじみそうだった。
 泣きたくなくて、唇をかむ。俯いたまま、ただぎゅっと膝を抱える。感情がうまくコントロールできない。
 本当に泣きそうになったとき、音もなく扉が開いて、低く抑えた声が響いた。

「どうした?」

「え?」
 全く予期せず聞こえた声に、麻衣は驚いて顔を上げる。近づいてくる気配すら察知できなかったことに、何より驚いた。ナルの気配は馴染んでいて、多分一番良く分かるのに、全く気づかなかったのはどうしてなのか、不安になる。
「………ナル……?」
 廊下の闇から姿を現した白皙の青年は、暖房のスイッチを入れてからドアを閉めた。
 ソファで膝を抱えた麻衣の正面まできて、もう一度、同じ言葉を重ねた。
「どうした?」
「…………なんで起きてるの?」
「誰かが起きたから」
「………起こしちゃった?」 
麻衣に割り当てられているのは三階、というより屋根裏に近い、ロフトつきの三角屋根の部屋だ。ナルとリン、真砂子と綾子は二階のツインのゲストルームを、ジュリアはダブルの主寝室を使っていて、残りは一階、リビングの向かいにある十畳ほどの和室に寝ている。
 ナルが起きたなら、残りのメンバーも気付いてしまった可能性がある。
 心配そうに見上げた彼女に、ナルは表情を変えずに答えた。
「いや。僕が気づいただけだ。リンは寝ている」
「……………それなら。あたし、ほんとに、そーっと、おりてきたのに、ほんとに、なんで気づくのかなあ………」
 泣き笑いのような表情で呟いた麻衣に、ナルはいっそ冷たいほどの口調で言葉を返した。
「何もないのか?」
 それなら戻るぞ、という声が聞こえた気がして、麻衣はあわてて彼の袖を引いて隣に座らせる。ひとりでいるつもりだったけれど、一度彼の温もりが隣に在るのに触れてしまえば、また独りになるのは耐えられないと、そう思った。
「話す。から、聞いて」
「だから僕は最初から、何があったのかと聞いているだろう。話すことがあるなら、同じことを何度も言わせるな」
「そうだね。ごめん」
 麻衣は苦笑して、彼の白い手を取った。ひやりとした感触なのに、その奥の温もりは確実に伝わってきて、震えていた感情の波が収まっていく。
「………あのね。夢、見たんだ」
「馬鹿でも出たか?」
「ナルってほんと、最初にそれ聞くよね」
 間髪入れないナルの台詞に、麻衣はくすりと笑って、首を振った。
「ジーンは出ないよ。て、いうか、むしろ出てくれたほうがありがたかったかも。………なんなのかなあ?よくわかんないけど、多分ね、人形視点の夢」
「は?人形?」
 秀麗な眉が顰められて、麻衣は肩をすくめた。
「そう、人形。としか思えない。変でしょ」
 ポストコグニションと思われる夢を見たのは、これが初めてではない。が、それはいつも人間の誰かの視点をとっていて、それ以外の視点をとったことは過去に一度もなかった。無生物どころか動物植物の視点さえ経験したことはない。
 ナルは、漆黒の瞳を深くして、口調を変えた。
「………覚えている分を順番に話せ」
「うん。………最初ね。暗闇の中で、揺られてるの。馬車なのかな。で、次の場面で、はじめて光が入るの。私、っていうか、人形なんだけど、とにかく『私』をつれてきたのは男の人で、その男の人と女の人が一人ずつ出てきた。…………エディス、ロバートって呼び合ってたから、多分そういうことなんだと思う」
「ロバート卿か」
「うん、そう思う。………ヨーク家のロバートさんっていう根拠はないけど、ロバートさんの顔は見えたよ」
「写真を見れば分かるか?」
「多分ね」
 麻衣は軽く首を傾げて、言葉を続ける。
「で、『私』はエディスに抱き上げられて、ああこの人がこれから私の主人なんだって思うの。プリマヴェーラって名前を付けられて。なんか、フランスの珍しい工房で、三十インチくらいって言ってたかな。………三十インチってどのくらい?」
「八十センチ弱、というところだな」
「そんなにあるんだ。思ったよりおっきいね。………てことは人形としてはかなり大きくない?」
「よく知らないが、大きいんじゃないのか。二、三歳の子ども程度の大きさだろう。その当時なら、四歳くらいでもそのくらいだったんじゃないか。よくは知らないが」
「うん。てことは、相当だよね」
 麻衣は頷いて、それから口調を変えて言葉を続ける。
 ゆっくりと、表情が落ち着いていく。いつもの麻衣のペースを、取り戻していく。
 ガラス玉のようだった琥珀色の瞳が、生きた光を湛えていく。
「で。それから、『私』と一緒に来た、ええと、なんだっけ。………そうだ、ジュモーっていう工房のお人形と、ブリュ・ジュンっていうお人形にも、パンジーとヘレンって言う名前が付けられたんだよね。前からいた、四十インチのジュモーと姉妹みたいねってエディスが笑って………その大きい方のジュモーはヴァイオレットって名前らしいんだけど、でも四十インチってすごいね。もしかして一メートル超えるんじゃない?」
 麻衣は言葉を切って、ナルのコメントを待たずに続けた。
「ふたりとも、『私』のことを、『ローズ』………多分『プリムローズ』のローズだと思うんだけど、そのローズに似ているから、彼女が小さい頃きていた洋服を取り寄せようかとか、ヴァイオレットがプリムローズの服をきているとか、そのとき『私』がきていた服と、同じ型のものを『ローズ』に贈ったとかいう話をしていた、と思う」
「人形か……………」
「うん。だから自分では動けないし、視界がすごく限られたんだけど。で、だいたい八角窓を正面にして、座らせられたの。視界からして、だいたい部屋の真ん中くらいの椅子じゃないかなと思うんだけど。八つの窓が、全部見えたから」
「………あの壁のすぐ向こう、ということになるな」
「うん、あたしもそう思う。あの位置から向こうにほんとにたくさんの人形がいたから、そこが、人形のスペースになっていたんじゃないかな。エディスの慰めのための部屋、っていうか」
 麻衣は息を継いで、そして、続けた。
「それで、すこし間をおいて意識が切り替わって、あたりが薄暗くなって、すすり泣きの声が聞こえて、ロバートさんが険しい表情で見ていたのをおぼえてる。そのあとまた暗くなって、ずっと暗いままだったからそれで終わりかと思ったら───そうしたら、いきなり明るく、っていっても薄明かり程度なんだけど、とにかく闇ではなくなって、聞いたことのない声が聞こえたんだよね。多分、すこし年配の女の人だと思う。『私』を見下ろして、『この子がプリマヴェーラね』って。しばらく、エリオットって人と話してて、その声はずっと聞こえてたんだけど、その女の人の顔は見えなかったよ。エリオットさんは見えたんだけど」
「アンドリューの父親が、エリオットだな」
「うん。多分そのエリオットさんだよね。かなり若かったよ。それで、その女の人のことをお母さんって呼んでたから、その人はプリムローズさんなんだと思う。それで、『私』の上に紙の束と写真を置いて、ここを閉めてしまいましょうってその女の人が言って、エリオットさんが、お母さんの気が済むならそうしましょうって言うの。そうしたら、すごい音がして、真っ暗になって………ずっとエディスを待っているのに、暗いままで、エディスのことも忘れそうになって、声も顔も思い出せなくなって………」
 わずかに、高いトーンの声音が、かわる。表情がすっと沈んで、ナルは鋭い口調で名前を呼んだ。
「麻衣」 

 まだ、麻衣は夢の残滓と完全には切り離されていない。
 プリマヴェーラの、というよりは、おそらくエディスやプリムローズのかなしみに、引きずられそうになっている。彼女の精神の揺らぎが、麻衣に握られた手のひらから伝わってくる。
 俯いていた麻衣ははっとしたように顔を上げて、目の前の白皙を見上げた。真摯な闇色の瞳と視線が絡んで───そして、わずかに表情が緩む。
「平気。ごめん。………それで、目が覚めたの。あんまりいい感触の夢じゃなかったから、部屋にいたくなくて、降りてきた」
 かなり無理な笑みを浮かべて、麻衣は軽く首を振る。
「なんだったのか、よく分からないけど。こんな夢を見るのは、たしかに初めてじゃないけど、人間じゃない視点って初めてだよね。こういうのってサイコメトリ?それとも、どっちかいうとポストコグニションっぽい?」
「近いだろうが、いまは能力の分類はどうでもいい。話は分かった。…………それより、気分は」
「大丈夫、だと思う。………人間じゃなかったからなのかな。感情が薄くて、巻き込まれはしなかった。けど………これ、エディスさんの感情なのかもしれない。すごく悲しくて………何か、泣きそうな感じなんだけど」
「………麻衣」
 抑えたテノールが、響く。
 いつもなら信じられないほどやわらかな声が、ゆっくりと、ひろい空間にひろがっていく。静かな口調は、ひどく穏やかに、心に優しく韻いてくる。
「僕が、分かるか?」
「………うん。ナルだよね」
「そう。お前は?」
「あたし」
「分かってるな。お前は人形じゃない。それに、エディスでもプリムローズでもない」
「………うん。分かってる。ありがとう」
 笑った麻衣の頬に涙の雫が伝い落ちて、ナルは麻衣からそっと手を取り返して指先で涙をすくうと、立ち上がった。
「ナル?」
「ちょっと待っていろ」
 一言だけ残して姿を消すと、彼は五分ほどで戻ってきた。
 適当に、おいてあったティーバッグを使ったのだろう、薄い紅茶のカップを持って戻ってきて、麻衣の手に渡す。
「落とさないように気をつけろ」
「うん。…………ありがと」
 麻衣は頷いて、湯気に顔をうずめるようにして紅茶を一口口に含んだ。ほんのりした甘さが喉を滑り落ちて、麻衣は小さく笑う。
 ───多分、ナルの紅茶はストレートだ。だから、わざわざ、普段使わない砂糖を入れてくれたのだろう。泣いている子供を飴で宥めるように、優しい甘さで涙を止めようとして。
「人形って今までどこにもなかったよね。…………ちょっと聞いてみた方がいいんじゃない?それに、結構高いもののような気がするんだけど、会計記録にのこってないかな」
「そうだな。………今は……」
 目線で時計を探したナルに気付いて、先に置き時計を見つけた麻衣が答える。
「六時前だよ。あと五分」
「ちょうどアンドリューが捕まりそうか。一応電話をしてみる」
「うん、そうして。それから、ありがとう」
 麻衣はうなずいて、ちょうど脇にあった電話機をナルに渡すと、もう一度ほんのり甘い紅茶を口に含んだ。

 午後八時半すぎになれば、外はもう完全に明るい。空気は冷たく澄み渡って、冬鳥の声が時折響くのがガラス越しに聞こえる。
 朝食を片付けると、全員がベースに集まる。ナルはまず最初に真砂子に話を振った。
「原さん。あなたの知り合い関係で、西洋アンティーク、特にアンティークドールに詳しい人に心当たりはありませんか?」
「はい?ドール、と言うと……ビスクドール、ですの?」
 唐突なナルの言葉に、真砂子はきれいな黒い瞳を瞬く。
「そうです」
 今日は梅模様の綸子の小紋を着た真砂子は、少し考えてから、口を開いた。
「ちょっと聞いてみますけれど、報酬は考えてよろしいの?」
「それは適当にしてください。僕には相場が分かりませんから。ただ、男性か、そうでなければ既婚の女性が望ましいですね」
「わかりました。すぐに連絡を取ります」
 突っ込んだ質問はせず、真砂子はすぐに頷いた。
「ナル坊?なんでまたいきなり人形が出てきたんだ?」
「ぼーさんは、狩野工務店と親交を深めてきてくれ」
 ナルは、滝川の問いには答えない。何も聞かなかったかのように言葉を続ける。
「できれば明日、例の壁をなんとかしたい」
「了解。………しかし、壊すにしても、ヨーク家の、アンドリュー氏だったっけか。了解はとったのか?」
「今朝連絡して、許可はとった。だから問題はない。心置きなく工務店を取り込んできてくれ」
「わーかった。なんとかしてみる」
「調度は一切動かさない、傷つけないというのは絶対条件だ。それは忘れないで交渉を進めてくれ。必要な費用は出す」
「わかってるよ」
「頼む。それから松崎さん、この辺りを巡って、使えそうな木を探してください」
「木?樹にお縋りしなきゃいけないほどの問題なの?」
「というより、記憶を借りたい」
「なるほどね。一応見てみるわ。………それはいいけど、ぼーずも言ったけど、何でいきなり人形なわけ?キーが分からないんじゃ、おすがりできる樹があっても聞きようがないわよ?だいたい、昨日まで、人形なんて影もかたちもなかったじゃない。あの洋館にもなかったし」
 綾子の主張に、ナルは軽く息をついて、一言で答えた。
「麻衣が夢を見た」
 ───麻衣の、夢。
 綾子を含めて、彼らにとっては既にそれは十分な説明になった。
 綾子は黙って頷くとそのまま準備を始め、滝川も納得顔で資料を集め始める。
 ナルはそのままの口調で指示を続けた。
「それから、安原さん、それにリン。あの屋敷の測量をしてきてくれ。基本的なものだけでいい。気温はあの部屋だけでかまわないが、十地点程度で計測を」
「わかりました」
「基本的なもの、ということは、見取り図との照合ですか、ナル」
「そうだ。特に齟齬がなければ、それでいい。別にポルターガイストらしき現象があるわけじゃないから、屋敷のゆがみが関係あるとは思えないからな。ただ、あの八角窓の部屋と同じく塞がれた空間がないかということだけ、気をつけてくれ」
「わかりました」
「所長。地下室とかはどうですか」
「…………一階では、今のところは特になにも起こっていないようですから、地下室までは必要ないでしょうが。気になるところがあれば、一応調べてみていただいて結構です」
「わかりました」
「原さん。あなたは、連絡が終わったら、ヨーク邸の霊視を、東翼二階を重点的に、もう一度お願いします。………昨日は弾かれて、中を見るどころではなかったでしょうから、内側からと外側から、両面からお願いします。結果はどんな内容でもかまいません。ただ、絶対に一人きりにならないように注意してください」
「わかりましたわ。………リンさん、安原さん、ちょっと待っていていただけます?すぐに連絡をとりますから」
「わかりました、原さん」
「急がなくて結構ですよ」
「あたしは?ナル」
 珍しく、唯一最後まで残された麻衣がナルの袖を引いた。ナルは微塵も動揺せず、きっぱりと答える。
「お前はベースで待機。資料の整理でもしていろ」
「測量なら、あたしもできるよ?」
「倒れてからでは遅いだろう。今日はおとなしくしておけ。明日はイヤでも休んでいる暇はないだろうからな」
 本格的に動き出すのは明日になる。
 明日には、ジョンが合流する予定になっているし、それにうまく交渉がまとまれば、あの部屋を開けられる。けれども、今麻衣が倒れれば、大幅とまでは行かなくても予定に支障をきたすのは間違いない。
「………………」
 言葉に詰まった麻衣に、彼は畳み掛けるように問いを重ねる。
「何か文句でも?」
「ありませんっ!」
 麻衣は憤然と言って資料が積んである一角へ向かった。
「それなら解散。何かあれば必ず連絡を入れるようにしてくれ」
「了解。んじゃ行ってくる」
「わかりました。原さんには危険がないように気をつけます」
「特に二階に行くときには、注意してくれ」
「言われなくてもついていきます」
 安原がきっぱりと返して、微苦笑をうかべた真砂子は小さく会釈して部屋を出て行った。廊下で電話をかけるつもりなのだろうから、誰もあとを追わない。
「測量器は……」
「バンに入っています」
 リンが答えて、安原が頷く。外側の測量は、メジャーを使うよりずっと正確で早い。最近導入したばかりのハンドサイズの測量機、電子メジャーは面積まで分かる上早くて正確だが、心霊調査の場合はぶれが生じる可能性が無視できないため百パーセントは信用できず、屋内ではメジャーと併用することになるのだが。
「電子測量機にメジャー、それに勾配計、温度計にICレコーダー、それにビデオっと………カメラも要りますか。昨日谷山さんが持ってたの、フィルム余ってます?」
「あ、はい。二十枚くらいは余ってるはずです。二階の八角窓の外観、十枚くらい角度変えて撮ってますけど」
 麻衣は立ち上がって、バッグに入れたままだったカメラを安原に手渡した。
「ありがとうございます。………谷山さんが撮ったなら、二階の外観の写真はあんまり要らないですね」
 同僚に笑顔を向けて、安原は確認しながら荷物を入れていく。
「フィルム、一応余分に入れときましょうか」
 予備のフィルムと電池も取り出して、ノートパソコンと一緒に鞄に入れると、安原は同僚を振り返った。
「あと何かあります?谷山さん」
「見取り図を忘れてます、安原さん」
 麻衣はくすりと笑って、テーブルの上に載せられたままの屋敷の見取り図のコピーを、差し出す。これは、重要書類だ。
「らしくないですねー?安原さん」
「猿も木から落ちるってやつですね。………見取り図のコピーもう一枚と、あとペンも要りますね」
 安原は苦笑して、かばんに紙の束とペンを入れた。


 夕食が片付いて、ミーティングに入ろうとする頃になって、予定より早くジョンが到着した。ミサの終課を終えてすぐに東京を発ったらしかったが、穏やかな微笑をたたえて金色の頭を下げる。
「どうも遅くなりまして、すみませんです」
「いらっしゃい、ジョン。待ってたよー」
 玄関まで出迎えた麻衣は、ジョンから荷物を受け取ろうとしてさりげなく手をよけられる。
「日曜日のミサは外せませんよって、ご迷惑をおかけしました。調査はどうなってますやろか?」
「明日が山かな。ちょうどこれからミーティングっていうとこなの。ジュリアさんにも紹介するよ。………それより。ご飯は?」
「電車の中で頂きましたから平気です」
 深い青い瞳はどこまでも穏やかで、麻衣はつられたように微笑んで、リビングのドアを開けた。
「こんばんはです、遅くなってしもうてえろうすみません、渋谷さん」
 ジョンは開口一番そういって、きらきら光る金髪をさらりと揺らして会釈した。
「いや。来てもらえて助かった、ジョン」
「そうですよ、ブラウンさん。むしろこんな早く来られるとは思いませんでした」
「気になりましたよって、できるだけ早めに来ました。電車がちょうどとれたのが、運がよかった思います」
 ジョンはにこりと笑って、綾子と真砂子、それにリンに会釈して、初対面のジュリアに瞳を向ける。
「あ、ジョン。あのひとがジュリアさん。ハミルトン伯爵のお嬢さんで、ヨーク伯爵の婚約者で、代理人のひとだよ」
『はじめまして、レディ・ハミルトン。ジョン・ブラウンと言います。カトリックの修道会司祭です』
『ジュリアさん、ジョンは、ものすごく優秀なエクソシストなんですよ』
『それほどではないです。麻衣さんはほめすぎです』
 麻衣の補足にジョンは苦笑すると、ジュリアの手を取って軽く足を引いてお辞儀する。それはひどく優雅に見えて、滝川が思わず軽く口笛を吹いた。
『はじめまして、神父様。ヨーク伯爵アンドリューの代理に参りましたジュリアと申します』
 位のある聖職者ということで、ジュリアは他のメンバーとは一線を画した相応の敬意を払った。この年齢で司祭、というのは相当に高位だ。
 ジョンは彼女の手を離して、それからナルに向き直った。
「渋谷さん、まず、詳しいお話を聞かせてもらえますか。ほとんど伺っとりませんし、どういう事情かようわからんのです」
 ジョンの質問に、麻衣がファイルをめくりながら順を追って話し始めた。一番最初に問題になった夜月里の話に始まって、昨日の調査内容と体験を話し、今日の調査の振り分けを説明する。
「で、今日の成果なんだけど。安原さんたちは、測量は異常なしって言うか図面通り。床もほぼ全部水平、気温も異常なし、でしたよね?」
「ええ。まったく異常なしです。………多少、例の壁あたりが、本当に心持ち低いかなって程度ですが、誤差の範囲ですね。ついでに、一回の床叩いてみましたが、地下室もないみたいですね。超音波使って調べないと確かなことはわかりませんけどね」
「そこまでは今のとこ必要ないんだよね、ナル。真砂子の霊視はどうだった?」
「何とも……。何かあるような感じはするんですけれど……」
 真砂子は歯切れ悪く、美しい顔を曇らせた
「とにかく、よくわかりませんの。外からは、違和感以外は感じられませんし、中でも、あの部屋にはあたくしは入れませんから、奥の、その壁を視るのは無理で。言い訳めいていますけれど」
「いえ、そんなことは思いませんけど。原さんはいつも一生懸命しはりますし」
「そういう問題じゃありませんのよ。………とにかく、その壁自体にも、なにか強い思念が絡み付いているように見えます。その向こうの、何か強いものを、壁が、そうですわね、言ってみれば霊の壁にもなっているようですわ」
 麻衣は、綾子に視線を転じる。
「綾子は、どうだった?樹、たくさんあるけど?」
「駄目だわね。この辺りの、気、そのものは綺麗なんだけどね、人の手が入りすぎてて、残念だけどお縋りできそうな樹はなかったわ。ずいぶん探したんだけど、もっと奥にいかないと無理ね」
「そっか。じゃあやっぱり壁だね」
「工務店との話はついたから、明日壁を一部切り取って中に入ってみることになっている。壁の中の八角窓の部屋にあるのは、おそらく人形だろう」
「麻衣さんが夢に見たという、ビスクドールのことですやろか」
「そう。アンドリューにも確認はとれた。ヨーク家の家計として買っていたわけではなく、ロバート卿の管理範囲で買っていたらしくて正確な数はわからないらしいが、相当数のフランスのビスクドールを買っていたらしいことは分かっている。麻衣もそのような夢を見ているから、可能性は高いだろう」
「問題は、人形に何が憑依しているのか、ってことだな。憑依じゃなければ、百年の間に人形が意志を持ったってことになるが…………ナルの意見は否定的なんだよな」
「無生物が、霊的な精神を持つとは考えにくい。麻衣は確かに人形の視点の夢を見たらしいが、それとこれとは別の話だ」
「それなら、ナルは、麻衣はどうして、人形の視点で夢を見たと思いますの?」
 真砂子に問われて、ナルはわずかに眉を寄せた。
「それでは、原さんは、人形が、いわゆる『魂』といわれるものを持つと考えられますか?」
「いいえ。そうではありませんわ。可能性がゼロとは言えませんけれど、経験的にございませんから。………でも、麻衣がお人形の視点で夢を見たと聞くと、どうしてか気にはかかります」
「あの部屋には、エディス、ロバート、プリムローズという三人の思念が強く残っていると考えていいでしょう。それが、当時、一番かわいがられていた人形に依っている可能性が高いと、僕は考えていますが」
「ナルがそう考えるのは、あたしの思考が二重だったせいだと思うんだけど。…………つまりね、あまり感情が動いていない、表層と、どうしてか分からないけれど泣きそうになるくらいになる、悲しい感情と、二重写しになっていた、みたいなんだよね。いままでこんなことなかったから、どういうことになってるのかよくわかんないんだけどさ。もう何がなんだか………」
 眉を寄せた麻衣は、溜息をついて途方に暮れた顔をした。まったく、考えれば考えるほど、何がどうなっているのか分からなくなっていく。
 話を聞いていたジョンは、青い瞳に深い彩をうつして、ナルに視線を向けた。
「つまり、渋谷さんは、僕に、そのお人形から、エディスさんか、プリムローズさんか、おふたりの思考かはわからしませんけれども、とにかくそれを落とすようにと言わはるわけですね」
「そういうことだ。…………人形と、霊あるいは思念が強く結びついていた場合、浄霊は難しくなる。それに、原さんが感じたように壁にも思念が強く絡み付いているなら、作業前に、あの壁そのものの浄化も必要だろう」
「渋谷さんの言わはる通りですね。聖水も多めに持ってきていますし、できるだけのことはさしてもらいます」
「頼む」
 ナルの短い要請に、ジョンは穏やかな微笑で、応えた。


   †


 真砂子が伝手を辿って頼んだ西洋アンティークの専門家は、午後到着することになっていた。個人的にもビスクドールの蒐集家として名の知られた人物らしいから、人形が出てきた場合には、かなり力を借りることになるだろう。そうでなくても、多数の調度の鑑定は必要だったが。
 彼が来る前に当面の作業を終わらせる必要から、壁の一部撤去作業は午前中から始められることになり、ヨーク邸には朝早くから狩野工務店の店主がやってきた。ジュリアを含めたメンバーは、約束の時間の少し前に屋敷に入り、機材の設置を始めている。
 真砂子はあらかじめジョンに渡された銀のクロスをかけ、祈りも受けて、なんとか部屋に入ることができた。

「難しい仕事をお願いしましてすみません」
 ナルが軽く会釈をすると、狩野政則は笑って首を振った。
「とんでもありません。もともとうちがやった仕事ですし、ちょうど別荘族の皆様は今はいらっしゃいませんから、かえって好都合ですよ。もう少しすると補修の依頼が入ってくるんですが」
 彼は、白髪頭を揺らして、懐かしそうに部屋を見渡した。
「ええ、この部屋です。懐かしい。………イギリスのご婦人に頼まれて、壁を作ったと父が言っていましたよ。当時は見習いの立場でしたので詳しいことはなんともいえませんが、ここですね」
 彼はまっすぐに、図面に描かれていない壁に歩み寄り、拳でコンコンと軽く叩いた。
「たしかに空洞です。向こうに部屋がある」
「この、古い図面でもそうなっています。こちらの、滝川からも説明したと思いますが」
「ええ。伺いました」
 狩野は言葉を切って、ナルに向き直って確認した。
「作業ですが、人が入れるほどの穴をあけてほしいということ、でよろしかったですか?」
「そうです」
 ナルはうなずいて、言葉を続ける。
「それから、部屋の調度は、壁の両側ともに傷つけないでいただきたいんですが、それは可能ですか?」
「難しいですが、なんとかやってみましょう」
 狩野は頷いて、壁を直接指差して説明を始める。
「滝川さんにはご説明したんですが、この壁は四枚の板をはめ込むかたちでできています。金具、留め具はまったく使っていません。父にも確認しましたから、工法は間違いありません」
「それは伺いました」
 ナルの肯定に、狩野は頷いて、言葉を続ける。
「ですから、例えば、一枚の板の下半分を切ったとすると、支えを失って上半分が落ちてくることになります。両脇からも圧力がかかっていますから、すとんと落ちることはないでしょうが、ずるずると落ちてくる可能性は高い。ですから、これは当然、たいへん危険です。また、四枚あるうちの一枚だけを外すという方法も考えられます。ただ外すだけなら雑作もありません。何度も言うようですが、この壁は、ちょうど寸法ぴったりに作ってはめてあるだけですから、外そうと思えば外せます。………ですが、板が大きいですので、調度の上に倒れる危険を考えれば避けた方がいいと思います。何もなければ問題はありませんが」
「では、狩野さんはどういう方法を考えておられますか?」
「そうですね。ちょうど中央。部屋の真ん中です。ここに、幅一メートル、高さは……あなたがくぐれる程度の穴をあけようと思います。板にあく穴は、中央の二枚に、幅五十センチずつということになります。L字型をさかさにした形の板が二枚残るわけですが、床から天井まで板が残りますし、両脇にも別の板がありますから、強度は十分でしょう。それに、真ん中ですので調度を傷つける危険性が低いと思います。向こうの様子は分かりませんので、板はこちら側に倒す必要がありますが」
 狩野の説明はひどく明快で、ナルは頷いた。
「では、それでお願いします。………ヨーク家の了承はとってありますから、ご心配なく」
「本当に、壊してしまっていいんですね?」
「やってください。………卿からの直接の許可はもらっていますし、彼女はヨーク伯爵の代理人ですから、問題はありません」
 ナルが視線だけでジュリアを示すと、ジュリアは視線を受けてにこりと笑ってみせる。
 あらかじめ話は聞いていたが、ジュリア自身も問題の壁に穴をあけることについては異論を持っていなかった。彼女はアンドリューへの報告はしていないし、ナルが話をしたことも知らなかったが、この際全部事後報告にすることにする。いちいちお伺いを立てていたのでは、なんのための「全権代理」かわからない。
「では、やりましょう。ちょっと時間がかかると思いますが、穴をあけるだけなら、さほど時間はかかりません。どんなに丈夫な板をつかっていたとしても、お昼までには終わるでしょう」
「結構です」
 ナルは答えて、美しい絨毯の上にシートを敷いて作業道具を並べ始めた狩野から、視線を司祭服姿のジョンに移した。
「ジョン」
「わかっとります。………これから、この部屋の浄化をさしてもらいます」

 ジョンは聖水の入ったクリスタルの瓶を捧げ持ち、胸にかけたロザリオに触れて、一歩前に進み出た。胸の前で十字を切り、聖水を手に取って、飛沫をはじくようにして壁にかける。

「天にましますわれらの父よ、み名を崇めませたまえ。み国を来させたまえ」
 穏やかな、けれど強い口調。
 部屋の中が、しん、と、静まっていく。
 ただ、ジョンの祈りのことばだけが、決して大きな声ではないのに、朗々と響いていく。
「み心が天になされるとおり、地にもなされるように。われらに罪を犯すものをわれらが許すゆえに、われらの罪をも許したまえ。われらを試みに遭わせず、悪から救いたまえ」
 普段の彼の口調とは全く違う、抑揚をつけない祈りは、敬虔さに満ちている。声が広がっていくたびに、強い圧迫感をもった空気が清浄になっていくような気がする。

 真砂子は、はっと気づいて息をのむ。となりで、麻衣も目を見張ったのが分かった。
 植物模様の壁を、他の誰にも見えない、淡い光が包み込んでいるのが、真砂子と麻衣には、はっきりと視える。

「我はなんじに言葉をかけるものなり。我はキリストの御名によりて命ずる。いかなる場にひそみいようともその姿を顕し、 なんじの占有せし場から離れるべし」
 ジョンの手が、再び聖水の清らかな飛沫を散らす。聖水の雫は、きらきらと、光を反射してきらめく。
「我は、主によって清められたるこの場から離れんことをなんじに求めるものなり」
 麻衣と真砂子は、無意識に伸ばした手を絡め合う。二人には、今、聖水と一緒に光の飛沫が散ったように見えた。
 やや強い口調だったジョンの声が、そこでわずかにトーンを変えた。
 それは祈りには変わりはないが、追おうとするものへの強い命令から、自分も含めた人間のための祈りへと、気配が変わる。
「初めに言があった。言は神とともにあった。言は神であった。この言は、初めに神とともにあった。万物は言によって成った」
 司祭服の手元に小さな聖書が開かれていることには、誰一人気付かなかった。聖書は十字架とともにそれ自体が聖具でもある。ジョンはクロスをかけた胸元に聖書を引き寄せ、呟くように祈りの言葉を続ける。
「成ったもので言によらずしてなったものは、なにひとつなかった。言は命であった」
 ジョンは、再び聖水をとり、十字を切る。聖書を懐にしまい、深い青の目を、閉じる。
「その言によりて聖別された場より、なんじは永遠に禁じられるべし。父と子と精霊の御名により、この場は主のものと成るべし。………アーメン」
 光が、満ちた。
 絡み付いていた強い思念の網が、光に溶けていく。
 反発ではなく、緩やかな協調と、光への喜び。その歓喜が、光とともに広がって、空間に満ちる。
 ジョンだけでなく麻衣と真砂子もそれをはっきりと感じ取る。麻衣は目を瞠り、真砂子は目を閉じて、光の乱反射を受けた。

「終わりました、渋谷さん。もう大丈夫やと、思います」
 ジョンが振り返って、ふわりと笑う。その姿に、つい数瞬前までの威厳さえ漂わせていた雰囲気は、もう、感じられない。
 二人して言葉をなくして、ただ壁を見つめる少女二人をちらりと見やり、ナルは頷いた。
「分かった」
 ジョンは苦笑して、壁を見直した。
「本番はこれからですよって、気は抜けません。確かに、この奥の気配は、壁の比ではあらしませんね」
「それはそうだが、これで作業に入れる」
「それにしても、本当に上手いなあジョン」
「あんたが役に立たなさすぎ、ぼーず。ご苦労さま、ジョン」
「お前にいわれたかねーな、綾子」
「あら、私は樹さえあれば役に立つわよ」
 綾子はきっぱりと言って、ほとんど呆然とジョンを見ていたジュリアを振り返った。
『ジュリアさん、大丈夫ですか』
『………ええ、アヤコ。大丈夫。………彼は、ほんとうに本物の聖職者なのね。彼のところになら天使がおりてくる気がしたわ』
『そのお気持ちは分かりますね』
 珍しくリンが口を挟んで、そして、表情を引き締めた。
『ですが、これからが本番です』
「そうですわね………」
「ふたりとも、気をつけてください。どういうことになるか、まったく予測がつきませんので」
「わかっていますわ」
「了解」
 麻衣の表情がわずかに緊張して、一歩前に出た。その位置は、開かれる予定の壁の、ほぼ正面になる。
 麻衣の行動には気付かないまま、ジョンをひとまず下がらせたナルは、準備を終わらせていた狩野に向かった。
「狩野さん、準備はできました。作業の方をお願いします」
「わかりました」
「それから、途中で作業を止めるかもしれませんが、たとえ理由が分からなくてもそこで止めてください」
「はい、わかりました。では始めます」
 狩野は時間を無駄にはしなかった。ナルに答えるのとほぼ同時に、まず慎重に壁に穴をあけ、糸鋸を通してまっすぐに線をひくようにして切り始める。
 壁になっていた板は、やはりというべきか、当初予想していたよりもかなり薄いもので、作業は予期していたより簡単に進んでいく。
「………戦後で、ろくな木材がなかったんでしょうかねえ」
 ファイルを手にした安原のつぶやきが漏れる。木の板は、何の抵抗もなく、狩野が持ち替えたのこぎりの刃を受けて、あまりにも順調に切れていく。
 サーモグラフィーや暗視カメラ、赤外線探知機など機材のの焦点をいくつもあわせたリンは、緊迫した面持ちで作業を見守った。
 麻衣は凝然と、開いていく穴を見つめる。無意識に真砂子が腕を掴み、二人は寄り添って作業の進行を見守った。

 それほど待つこともなく、ほどなくぽっかりと、人間一人分程度の穴が開いて、狩野が振り返った。
「できました」
「ご苦労様です」
 一歩退いた狩野のかわりに中を覗き込んだナルが、非常に珍しいことに絶句し、それに驚いて、続いて覗き込んだ安原が思わず声を出した。
「うわ………っ!」
「何ですかいったい…………これは………………」
 歩み寄ったリンまでが、穴のところで目を瞠る。
「何?」
 麻衣と真砂子は歩調を合わせてゆっくりと歩み寄り、よこから綾子も覗きこんで、そして、絶句した。
「………………………何、これ………」
『どうしたの?』
 一歩引いていたジュリアが、尋ねる。顔色を失った麻衣が振り返って、無言のまま穴の向こうを指差した。彼女はゆっくりと近づいて、そして、同様に美しいヘイゼルの瞳を見張る。
『………ドール?』
「麻衣の夢、的中ね。ビスクドールだわ。…………それにしても、いったい何体あるのかしら。……ざっと見ただけで五十体以上はいるような感じだわ………」
 息をのんだまま、硬直した麻衣は、そのまま言葉もない。
「……………こんなにたくさん………しかも大きなものばかりですわ。信じられない。ドールはあると思いましたけれど、こんなにあるなんて………それに、これは………」
 真砂子がほとんど無意識に呟いて、ナルが我に帰った。何事もなかったかのように、けれど幾分固い声で言葉を紡ぐ。
「リン。いますぐぼーさんとジョンを呼び戻せ」
 滝川とジョンは、休憩と称して作業中外に出ている。リンはかるく頷いて、部屋を出て行った。
 まだ凝然と固まったままの麻衣の肩に、ナルが手を置く。
「麻衣」
「……………」
「……麻衣」
『オリヴァー、マイはどうしたの?大丈夫なの』
 心配そうなジュリアは視線だけで制止して、ゆっくりと彼女の身体の向きを変えさせ、顔を上げさせてもう一度名前を呼ぶ。
「麻衣」
「………………ナ、ル………」
 ようやく反応が返ってきて、ナルは小さく息をついた。
「大丈夫か」
「……………………」
「気分が悪いか?」
「へいき………大丈夫」
「顔色が悪いようだが?」
「平気。…………あのね。あの中、だよ。エディスさんの、鳥籠」
「………鳥籠?」
「記憶の、はこ………鳥がもういないのに、閉じられたままの鳥籠………」
 麻衣の言葉は、確かに麻衣が紡いだ言葉なのに、ひどく託宣めいていて彼女らしくない。
「プリムローズさんはなにもかも閉じ込めてしまったから、彼女も………ここを守るしかなかった………」
「麻衣。しっかりしろ」
「………平気だよ。ねえ、ナル」
「………ああ」
「見てきて。中、入れるでしょ。中にね、一番大きいお人形が一人用のソファに座ってるから。そのお人形の膝の上に。写真と、手紙が、おいてあるはず」
「何か、見たのか」
「……………」
 ナルの問いかけに、麻衣は答えない。
 ただ、縋るように握った手を強くする。茫洋とした琥珀色の瞳は、まだ、焦点を結ばない。
「僕、見てきます」
 焦れたように安原が声をかけて、早速壁の穴を覗き込んだ。それを、ナルの声が制止する。
「安原さん、待ってください。………原さん」
「はい」
「あの中に、何か見えますか」
「ええ。見えますわ。はっきり分かります。今までは、多分あの壁で遮られていたんですわ………。信じられない」
 何かに必死に耐えるように、真砂子の表情は緊迫している。今はどうにか入れているとはいえ、一度は部屋から弾かれたのだ。相当の圧力がかかっていても不思議はない。
「………若い、金髪の女性が、いらっしゃいます。一番こちら側の、こちらに背を向けているお人形を抱きしめるようにして…………違う、と繰り返し…………。違いますわ、聞いてください」
 途中から真砂子の声が苦しげになった。たどたどしい英語を、絞り出すように口にする。
『あたくしたちは、あなたの邪魔をしにきたわけでは、ありません……っ!あなたのプリムローズさんではない、ですが、あなたが欲しい手がかりは持っています、ですから………っ!』
 真砂子は苦しい息を継いで、呆然としたままの親友を見て、しっかりした視線で続けた。
『あたくしも、あの子も、あなたを傷つけたりはしません。ですからしばらくの間、許してください。決してあなたの大切なお人形たちを荒らしたりしませんし、お部屋も荒らしません。あなたの力になりたいだけです…………レディ・エディス』
 真砂子が、意を決して名前を呼ぶと、急に圧力が弱くなった。真砂子はくたりと座り込んで、それでも中空に視線を据えて、弱い、けれどはっきりした笑みを浮かべる。
『ありがとうございます。あたくしにはあなたの声が聞こえますわ、だからあなたのお手伝いができます。あなたのプリムローズさんを探すことも、できます』
 真砂子は浅く息をつく。駆け寄ってきた綾子に体を預けて、最後の言葉を絞り出した。
『ですから、しばらくの間、私たちを受け入れて、ください』
「原さん」
「大丈夫ですわ。今なら」
 抑えたナルの声に、真砂子が請け合う。安原がそれを受けて素早く動いた。
「では僕が行ってきます」
「安原さん、間違っても人形たちに触れないように気をつけてください。何が起こるか、まったく予測ができない」
「分かってます、所長」
 彼の姿が穴の向こうに消える。
 心配するほどもなく、すぐに戻ってきた安原は、かなり厳しい表情をしていた。
「谷山さんの言う通り、一番じゃないですけどかなり大きな………そうですね、身長八十センチ近くはあると思います。部屋のほぼ真ん中に座らせれている大きな人形の膝の上に、モノクロの写真と、かなり変色した紙の束が置いてありました。それにしても夥しい数の人形です。僕は詳しくありませんが、アンティークドールの特集番組は見たことがあります。そんなのが、確かに五十体は下らないです。しかも大きいものがほとんどのようでした」
「この中が…………その子が、一番、気配が、残ってる………」
 意味をなさない単語を、ほとんど聞き取れないほどかすかに呟いて、麻衣が意識を手放した。そのまま崩れ落ちかけた華奢な体は、ナルが抱きとめる。
「撤収しますか?」
 ちょうど戻ってきたリンの声に、ナルは厳しい表情で、全員を振り返る。
「いや。このまま落とす。ジョン」
「分かりました。このお子ですね」
 ジョンは身軽に暗い中に入り、人形たちの中央に立った。

 中央の、写真と紙の束を持った人形に、銀のクロスをかけ、残っていた燭台に灯をともした。
 ジョンの金髪が、ともされた幾本かのろうそくの光に照らされて、淡い闇の中でやわらかく光をはらむ。
「では、お浄めをさせていただきます。………イギリスのお方ですから、英語の方がよろしいかと思いますので、英語でやらさしてもらいます」
 ジョンは一礼して、クリスタルの小瓶を取り出した。
 聖水で十字を切り、人形の額と、手紙、それに写真を並べて触れておいて、部屋の中央に立つ。
 いつもは穏やかな青い瞳が、一転して真摯な光を宿す。
「Our Father who art in heaven, hallowed be thy name」
 低く抑制された声が祈りの言葉を紡ぎだす。
 ろうそくの炎が揺れ、人形の青いガラスの瞳が揺れた。声だけは、わずかな抑揚をもって、けれど揺らがない意志をたたえて紡がれる。
 開けられた穴の外で待つメンバーも、わずかの変化も見逃さないように、真剣にジョンに見入る。音はない。ただ、据えられたいくつかの機械の作動音だけが低く響く。
「………thy kingdom come; thy will be done; on earth as it is in heaven.」
 ろうそくの、炎が、揺れる。
 自然では考えられないほど、無風状態の部屋で、大きく、ジョンの影を、人形のガラスの瞳を、揺らす。よどみなく続く祈りの言葉だけは揺らがず、滝川が万一に備えて、足音を殺して穴のすぐそばに待機した。
「Give us this day our daily bread. And forgive us our trespasses,as we forgive those who trespass against us.」
 静謐な空気をはらんだ声はどこまでも穏やかで、揺らがない。
 ジョンの指先が、再び聖水をとって十字を切った。
「Lead us not into temptation; but deliver us from evil.」

 唐突に。
 ろうそくの炎が一斉に消える。

 淡い闇に戻った部屋の中で、ジョンの祈りだけが響く。
 誰にも見えなかったが、古びた手紙の束と写真、それに人形の青い瞳は、闇の中で淡い光をまとったまま、消えなかった。
「……For thine is the kingdom, the power and the glory, for ever and ever.」
 祈りの言葉が途切れる。
 ジョンはもう一度聖水をとって十字を切り、人形の額に、手紙に、そして写真にふれ、目を閉じる。
「I am the man that give you the words.ÅcÅcÅc By the name of our Lord, I give you orders. You must appear in the light, and leave out of the place where you occupy.」
 きれいな言葉が、水のように流れて、光の帯を描く。金髪をきらめかせ、青いガラスの瞳を映して離れていく。
「In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God. He was in the beginning with God. Everything was made through Him, and without Him nothing was made that was made. In Him was life, and that life was the light of mankind. The light shines in the darkness, but the darkness hasn't overcome it. By the name of the Father and Child and the Sprit, this place should be possessed by the Lord.」
 さざ波のような言葉が、ゆっくりと、終わる。
 息をのむような沈黙と、柔らかな光が溢れて、ジョンは青い瞳に微笑を浮かべる。
「………… Amen.」
 つぶやきのような祈りが落ちて、それきり、針が落ちても聞こえるような静寂が、部屋を支配した。

 壁の外でじっと見守っているメンバーに笑って、ジョンが身軽に穴から出てくる。
「終わりましたです。レディ・エディスは素直に離れてくださいましたよって、楽でした」
「ご苦労さまでした」
 声をかけたリンにジョンは笑顔を返して、ナルに古びた紙の束を渡す。
「お人形の膝に、麻衣さんがおっしゃった通りのせてありました。手紙と、写真やないかと思います」
「わかった、ありがとう。…………他にまだ落とす必要のありそうなところはあるか?ジョン」
「いえ、大丈夫やと思います。レディは、あの、真ん中のお人形さんを核にしてはりましたし、主にあのお子から落とさしてもらいましたけど、お祈りは全部の子に届くようにやりましたから、もう平気やと思います。…………それよりも、麻衣さんは大丈夫ですやろか」
 ジョンは、心配そうに麻衣の顔を覗き込んだ。
「大丈夫だと思いますが」
 ナルが軽く彼女の体を揺すって、声をかける。
「麻衣。………麻衣」
 何度めかのよびかけで瞼が震えて、琥珀色の瞳がひらいた。
 茫洋とした瞳は、次第に焦点を結んで、そして、覚醒する。
「………………え?」
「気付いたか」
「良うおました」
 ジョンは満面の笑みで、二人のそばを離れる。やはり相当の圧力がかかっていただろう真砂子にも声をかけて、それからジュリアのもとへ説明に行った。

「…………あれ?終わった、の?」
「終わった。相変わらずジョンの腕は確かだな」
「…………そっか」
「お前は大丈夫なのか」
「うん。もうすごい圧力で、耐えきれなかった。…………情けないなあ。もうほんとに」
 ため息をついた麻衣の頭を軽くはたいて、ナルは彼女を起き上がらせ、自分も立ち上がる。
 ジョンの「浄化」をほとんど呆然と見守っていた狩野に、漆黒の青年は怜悧な声をかけた。
「狩野さん」
「………あ、はい」
「バラバラにしてしまってかまいませんので、すべての壁を撤去できますか?」
「少しずつ切ってしまっていいなら、できると思います」
「そうですか。では、できるだけ調度に傷をつけないようにお願いします。必要な費用は請求してください」
「わかりました。………急ぎますか?」
「………どのくらいかかりそうですか?」
「そうですね、きょう、明日いっぱいくらいは…………」
「でしたらかまいません。それで、よろしくお願いします」
「ではすぐに取りかかります」
 狩野は軽く会釈して、工具を手に壁紙を剥ぎにかかった。あまり耳に優しくないその音を聞きながら、ナルはジョンの説明を聞いていたジュリアに声をかける。

『それからレディ。アンドリューに連絡をしますか』
『ドールが見つかったっていうの?…………必要ないわ。専門家を呼んだんでしょう?そのあとで十分よ』
『そうですか』
『それより、マイは大丈夫なの?気は、ついたようだけれど』
『おそらく。気配に当てられただけでしょう』
『大丈夫です、ジュリアさん。すぐ、平気に、なります』
 起き上がりかけて失敗し、また倒れ込みそうになってぺたんと座り込んだ麻衣は、血の気が引いて透けるように白い貌に、淡い笑みを浮かべてみせた。





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