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4章







   4章


 現場には作業中の狩野と、一応の監査役として滝川を残して、他のメンバーは一度ベースに戻ることにした。動けない麻衣はもちろんだが、作業の役にも立たない人間が、広い部屋とはいえ十人近くも見物している場所も必要もないし、時間の無駄だ。
 それに、午後から来る来客の前に、ある程度全員の思考をまとめておく必要もあった。

 リンの運転するバンが、片野邸に戻ったのは正午を少し回った頃だった。
 ナルは麻衣をソファに下ろして、その両脇を真砂子と綾子がかためるのを見やってから、ほとんど指定席になっている一人がけのソファに座る。
「原さん、お願いした、アンティークの専門家の方は、いつ着く予定でしたか?」
 問われて、真砂子はまともに説明していなかったことにはじめて気がついた。
「申し訳ありません。説明するのをすっかり忘れていましたわ」
 それどころではなかった、という事情もあるが、手落ちであることに間違いはない。彼女は軽く会釈して、言葉を継いだ。
「あたくしの出入りしていますテレビ局で、アンティークを扱う番組があるのを思い出しましたので、マネージャーを通してお願いしましたの。ヨーロッパのものを扱っている出演者に連絡を取りましたら、その方は、分かることは分かるけれども、分かるのは鑑定のポイントと市場価値だけで、希少性や歴史などは明るくないということで、西洋アンティークの専門家を紹介してくださいました。大塚英夫さんというかたで、個人的にもビスクドールの蒐集家として著名だそうですわ。………ちょっと調べましたら信用できそうな方でしたので、その方にお願いしました」
 この調査自体、むやみやたらと広めてもらっては困るし、あのドールコレクションも、素人目にも相当な金額になりそうなものであることが分かる。心霊調査ではいつでもそうだが、特に今回は名家がかかわっている。トラブルになりそうな人間を、間違っても調査に入れるわけにはいかない。
 真砂子は言葉を切って、それから必要事項を自分でも確かめるように口にする。
「駅に到着するのは、二時すぎの予定です。到着されたらお電話頂くようにお願いしてはありますが、ここの住所もお教えしましたので、もしかしたらタクシーを使われるかもしれません」
「そうですか。わかりました」
 ナルは頷いて、安原に向き直った。
「夜の電車には間に合わないでしょうから、この近辺で、ホテルでもペンションでもかまいませんから一部屋押さえてください」
「了解しました、所長」
 この家に泊められればいいのだが、もう部屋は開いていないし、どんなに信用できる人物でも、調査の都合上外部の人間に深入りしてもらっては困る。そして、真砂子の立場を考えても、別にホテルをとった方が良策だった。
「いまシーズンオフですから、多分大丈夫です。ちょっと電話してきます。……;その大塚さんって方、お一人ですよね?」
「そう伺っていますわ」
「わかりました。……男性一人っと」
 安原はめくっていた資料からメモ用紙に走り書きして、部屋を出て行った。その背中を見送って、ナルは視線を戻す。
「それからジョン。体調は?」
 珍しくナルに問われて、ジョンは穏やかな微笑みを浮かべた。
「お気遣いありがとうさんです、渋谷さん。ですけども、僕のは聖書のお力を借りて、留まっている魂を神様に返すだけですから、僕自身は疲れへんのです」
「そうなの。じゃあ基本的に私と同じなのね」
 綾子が同調して、ジョンは頷いた。
「そうですね。………面白い、と思います」
 神道というアニミズムのシャーマンと、キリスト教の司祭の共通点としては、興味深いポイントというべきだった。が、宗教哲学者でもあるはずのナルは特にコメントせず、言葉を続ける。
「レディ・ハミルトンと松崎さんは、大丈夫ですね。原さんは如何ですか」
「あたくしももう大丈夫ですわ。…………エディスさんは、ほんとうに、とても優しいかただったのだと思います」
 だからこそ、たとえ彼女の聖域から、異分子である少女たちを弾いても怪我はさせなかったし、侵入しようとした彼らに対しても、傷つけようとはしなかった。彼女にとって、そこにいてはならない存在であるはずの真砂子の言葉を聞いて、その願いを聞き入れさえした。それほどやわらかい心の持ち主だったからこそ、客死という悲劇を招いたのかもしれなかったが、自分たちにとってはありがたい。
「そうですね。僕の言葉を、ものすごう素直に聞いてくれはりました。光に、ゆったりと身を任せてくださったさかい、あんなにすんなりお祓いできたんです。原さんの言わはるとおり、お優しい方やったんやと思います」
「……………あたしもそう思う」
 なぜか一人だけ甚大なダメージを受けている麻衣も、苦しげながら二人に同調した。
「あたしが耐えられなかったのは、エディスさんの思いが、すごく強かったから。………あの部屋で、エディスさんが泣いていた姿まで、見えるような気がしたから………」
 麻衣の言葉に、真砂子が心配げに眉を寄せて、そっと親友の手を撫でる。
「大丈夫ですの?麻衣。無理は感心致しませんわ。………サイコメトリ………ではありませんわね。もしそうでしたら、麻衣よりもナルの方が影響を受けているはずですもの」
「じゃあポストコグニションかしら?」
「原さんとは種類の違う霊視じゃないですか?」
 三人の台詞を遮って、ナルはうんざりしたように手を振った。
「能力の分類はどうでもいい。重要なのは、麻衣がどのタイミングで何を見たか、ということだ。おとなしい霊だったおかげで、幸い、カメラもサーモグラフィーも動いていたようだからな」
 仮にも「恋人」が倒れているというのに全く頓着せず、相変わらずの研究馬鹿ぶりを発揮したナルは、リンに視線を向ける。
「リン。データは」
「………まだチェックはできていませんが、一応計器は動いていました。角度からすると、谷山さんも入っていると思います」
「照合を急いでくれ」
「………分かりました」
 ほとんど諦めたようにため息をついて、リンは映像データとサーモグラフィーのデータの解析を始めた。
 急いでいるのは事実だから、ナルに文句を言う筋合いでもなかった。あとはもう彼の仕事だから、終わるまでは動けない。
「………研究馬鹿も大概にしなさいよ、ナル」
 呆れたように言った綾子は、物好きねーあんたも、と呟きながら麻衣の淡い髪を撫でながら、続けた。
「それはおいといて。………まだ時間はあるわよね。食事にしちゃいましょ。その、大塚とかいう人が来る前にこっちの態勢を整えておかないと」
「……………ミーティングは終わっていないんだが?」
「そんなの後でもできるわよ。腹が減っては戦はできぬって言うの。二時過ぎにその人が来るんなら、今から食事にしないと間に合わないでしょ。それに、麻衣の体力もなんとか回復してもらわないと困るわよ。そうじゃなくても、現場組にはデリバリーしなきゃ、いくらなんでも気の毒でしょ」
 ナルはため息をついて、頷いた。自分はともかく、狩野や滝川たちを食事抜きにするのは常識に照らせば気の毒だし、ジュリアに対しても食事抜きというのはいただけない。
「………誰も手伝えないが」
 麻衣が動けないからには、家事関係は綾子に任せるしかない。ナルの言葉を受けて、麻衣は申し訳なさそうに手を合わせた。
「ごめんねー綾子ー」
「いいわよ。たいした手間じゃないわ。………凝ったことはできないけど構わないわよね」
 綾子はひらひらと手を振って、リビングを出て行った。

 綾子の背中を見送り、それまで黙っていた真砂子が、ほとんど唐突な調子で口を開く。
「………それにしても、どうしても納得がいきませんわ。能力の種類はどうあれ、麻衣がこれほど影響を受けているのにあたくしはほとんど平気というのは………。あたくしは最初から弾かれたんですから、もっと抵抗があるのを覚悟していましたのに、あたくしではなくて麻衣がこうなるなんて」
 納得できない、という口調の真砂子に、ナルは一言で返した。
「ケースバイケースということでしょう」
 答えになっているようでなっていない返答に、麻衣が苦笑して、口を開く。
「能力が、どうとかじゃなくて。………あの部屋にずっといて、結局お屋敷全体に影響していたのは、エディスさんの想い、だと思うんだよね。真砂子は、金髪の女の人見たんでしょ」
「ええ。………彼女は、ブラウンさんのお祈りで浄霊されたようですけれど」
「うん。その人が、エディスさんだと思う。………それでね、エディスさんがあそこでずっと待ってたのは、多分、プリムローズさんだよね。だから、女の子を弾いていたんじゃないかな。プリムローズさんじゃない女の子は、エディスさんにとっては、違ったんだよね、多分」
「招かれざる客か」
「うん。そういうこと」
 麻衣はナルの言葉に同意を返してから、座っているのが苦痛になってきたのか、ソファにこてんと横になって、そのまま言葉を続ける。静かな口調は、変わらない。
「………どうしてエディスさんは、本国に帰らずに、ここでずっとプリムローズさんを待っていたのかはわからないけど………」
「それは、多分、この手紙を読めば分かるんだろう」
 抑制されたテノールが返ってきて、麻衣は僅かに目を瞠った。
「………うん。その手紙は、プリムローズさんが置いていったもの、だから………。あたしの夢がまちがってなければ、だけど」
「…………」
「ジョンのおかげでエディスさんは浄化されたし、プリムローズさんが作った、あの壁は、壊すんでしょ?」
「ああ」
「お屋敷は元のかたちに戻って、報告も、リンさんの解析と手紙の分析とかで終われるだろうけど、でも…………何がエディスさんにとって心残りで、どうしてプリムローズさんが手紙を置いてかなきゃいけなかったのか、知りたいって思うよ。………全然関係ないわけじゃないでしょ?」
「それはそうだろう。理由があって結果がある」
「だから、もう浄霊されてここにはいないかもしれないけど、心残りがなんだったのか調べて、もし分かれば解決してあげたい」
 ゆっくりとした、呟き。
 ナルはため息をついて、白い頬に指先で触れた。
「あまり気にしすぎるのがいいとは思えないが」
「だって、なんであんなに悲しかったのか───なにがあんなに、エディスさんは悲しかったのか、知りたいもん。あたしがここまで影響されたのって、多分、人形越しにエディスさんと同調したからだと思うから」
 エディスが、娘の姿を映して可愛がっていた人形に心を残し、死んでも離れられなかった異国で、どんな思いを重ねて娘を待っていたのか、何にそれほどの悲しみに沈んでいたのか、どうしても知りたい。
 麻衣は体を起こして、ジュリアをまっすぐに見つめる。
『ジュリアさん。………エディスさんは、なぜか分からないけれど、ここでずっとプリムローズさんを待っていました。プリムローズさんは一度ここへ来て、手紙と写真を置いていきましたけど、もうかなり歳をとっていたから、エディスさんのスピリットにはそれがプリムローズさんだって分からなくて、それからもずっとずっと、あの部屋のなかで待っていたんです』
『マイ………』
『ジョンのお祈りで、エディスさんは人形から離れて神様のところに行きました。でも、彼女はどうして百年もずっとひとりぼっちで、イギリスに帰りたかったと思うのにこんな遠いところで待たなきゃならなかったのか、知りたいんです。そして、できれば、エディスさんの心残りを果たしてあげたいと思うんです』
『マイは、本当に優しいのね』
 立っていたジュリアは、また横になった麻衣のすぐそばに膝をついて、額にキスした。
『そんなに苦しい思いをしても、レディ・エディスを恨んだりしないのね』
『とんでもないです。長い間苦しんでいたのは、エディスさんなんですから』
『………できるだけのことはしてみるわ。もしかしたらロバート様の日記や手紙もあるかもしれないし、エリオットおじさまが日本に来たことがあるなら、記録か、覚え書きみたいなものが残っているかもしれないから』
『ありがとうございます、ジュリアさん』
『お礼を言うのはこちらの方よ、マイ。アンドリューのひいおばあさまのために、あなたは心を砕いてくれているのだから』
 ジュリアは笑って、麻衣の額を撫でた。
『レディ・ハミルトン。アンドリューに連絡をとるなら、手紙の開封許可ももらって頂けますか。封は切ってありますが、読むのには許可が必要でしょう』
『分かったわ。連絡を取るのは夕方以降になるけれど。………他に私にできることはない?』
『…………その二人に、ついていてくださいますか』
 安原は宿の手配中、リンは分析に没頭していて、ジョンは「お勤め」後の祈りのために部屋に籠っている。そして、綾子は台所に立っていてここにはいない。
 霊視能力のある二人の少女は、座れもしない麻衣はもちろん、なんとか持ちこたえた真砂子も、表には出さないけれども相当の精神的ダメージを負っていて不思議はない。
 ひどく迂遠な、それでも確かな心遣いを見せたナルの台詞に、ジュリアは笑って、任せて、と言った。


 午後二時半を回った頃、呼び鈴がなって、復活しかけていた麻衣が立ち上がろうとした。それを制して、安原が玄関に出ると、外には中年の男が立っていて、営業用笑顔の安原は一応尋ねた。
「大塚さんですか?」
「そうです。………こちらでよかったですか」
 ほぼ予測通り、タクシーを使ってきたらしい大塚は、ラフなコートにジャケット、コーデュロイのスラックスに黒い革のスニーカーを履いていて、アンティークの専門家というよりは、休日のサラリーマンといった印象だ。
「遠いところ、ご足労をおかけしました」
 安原を追って出てきた和服姿の真砂子が、丁寧に頭を下げる。
「原です。今日はご無理を申しまして………」
「ああ、お会いするのははじめてですな。いつもテレビで拝見しています。………テレビよりおきれいだ」
 落ち着いた口調は学者のようで、服装とのギャップが激しい。───外見と口調のギャップという点においては、ジョンに勝るものではなかったが。
「ありがとうございます」
 真砂子はかるく笑みをうかべて会釈すると、言葉を続ける。
「寒い中、ほんとうに、どうもありがとうございます」
「いやいや、素晴らしい子を見れるかもしれないと伺いまして、楽しみにしてきました」
 相好を崩すと、ひどく人の良い表情になる。
 彼の手から安原が荷物を受け取ると、大塚はコートを脱いでから、お持ちします、と言った安原から笑顔で荷物を取り返した。
「寒いですから、リビングへどうぞ。………こちらのメンバーを紹介いたします」
「ありがとう」
 廊下の距離はそれほどない。リビングの扉までは数歩で、真砂子が扉を開けて大塚を通した。
 麻衣以外は全員が立ち上がって彼を迎える。ナルは一歩進みでて、軽く会釈した。白皙の美貌には表情の変化は一切ない。
「大塚さん、ですか。責任者の渋谷です」
「はじめまして、大塚です」
「あちらの、金髪の女性が、今回の依頼人だとお思いください。イギリスのヨーク伯爵の婚約者の、ジュリア嬢です」
『はじめまして、レディ・ジュリア』
 流暢な英語が穏やかな声で流れ出して、綾子と麻衣は一瞬目を見合わせたが、西洋アンティークの蒐集家なら、英語は操れて当たり前だ。
『はじめまして、ミスター・オオツカ?………詳しいことは彼に一任してありますの。彼から話をお聞きください』
 あらかじめ、ナルがすべてを取り仕切ることを決めてあったから、ジュリアは調査のことを一言も話さなかった。
 欧米人が、何かのビジネスの時に代理人に一任するのはよくあることだから、大塚は特に不審に思わず、真砂子に勧められたナルの正面のソファに腰掛けた。安原が彼の前に温かいお茶のカップを置いて、自分の席に戻る。
「渋谷さんでしたか。お話を伺いましょう。………原さんのマネージャーさんからは、イギリスの貴族の秘蔵のドールを見れるかもしれないとしか聞いていませんのでね」
 大塚は磊落に笑って、カップに口をつける。
「ありがたい。美味しいですね」
「説明不足で失礼しました。最近、ヨーク伯爵の代替わりがありまして、その相続整理の関係で、伯爵家所有の別荘が軽井沢にあったものですから、その調査を依頼されたわけです。ご承知の通り、イギリスの貴族の相続の際、税金はかなり綿密に調査されて徴収されますので」
「なるほど。そうですね、税金を払えないために、素晴らしいアンティークが、サザビーズなどのオークションに出されることはよくあることですから、わかります」
「おっしゃる通りです。………ヨーク家は日本でも、十九世紀末に建てられた別荘を所有していたのですが、戦後まったく使われていなかったので、今回綿密な調査をすることになったわけです」
「それをあなたがお受けになった?」
「そうです。………詳しい事情はご容赦ください。守秘義務もありますので」
 怜悧な声が、疑問を遮断する。
「それは承知しています」
 ナルの若さや、霊視で有名な真砂子が関わっているのは非常に奇妙だっただろうが、大塚は思いのほかすんなりと頷いて、それ以上の詮索をしなかった。
 ナルは、無表情のまま、言葉を続ける。
「その調査の過程で、ヨーク家が所蔵していた図面とは異なる壁があることがわかりまして───これは嵌め込み壁で、戦後すぐに作られたものだとこちらの調査でわかったわけですが、その壁を、ジュリア嬢の了承を得て外す作業をしました。これは現在も続行中の作業ですが、壁が嵌め込まれていた奥に、ビスクドールのコレクションがあることがわかりました。これは、三代前の伯爵夫人のものだと思われます」
「…………三代前と言われると」
「三代前のロバート卿は、外交官として一九〇四年から五年間、日本に赴任していました。そのときに伯爵夫人が持ってきたものと、在任中に蒐集したもののようです。我々はそういった人形に関しては全く素人ですが、状態は非常にいいように見えました。………ロバート卿が帰国してから、あの別荘は無人の状態でしたから、一九一〇年からは全く触られなかったことになります」
「それは素晴らしい………!人形の数はどのくらいありますか、コレクションと言われましたが」
「ざっと見た感じでは、五十体前後と思います。…………小さな人形もあったように思いますが、それについては分かりません」
「渋谷さん、三十センチにも満たない小さな人形も、ブリュエットあるいはミニヨネットと呼ばれる、大変に価値の高いものなんですよ。是非、拝見したい」
 目の色が変わるというのはこういうことを言うのだろう。
 悠然としていた印象から一変して、大塚はそれこそ「少年のように」興奮している。部屋を飛び出したくてうずうずしているのがはっきり分かったが、彼は一応の理性は持ち合わせていた。
「小さいものはたくさん、と言われましたが、それはどのくらいのサイズですか?大きい人形が多いわけですか?」
 素人目に大きいと感じる人形は、それこそ相当に大きいことになる。それに、小さい、という基準も曖昧だ。
「ええ。………大きい人形が多かったから小さい人形に目がいかなかったのかもしれません。測ったわけではありませんし、すべての人形が座っていましたのでわかりませんが、一番大きなものは一メートルを超えているんじゃないでしょうか?」
「それは全てヨーク伯爵家の所有ということになるわけですか」
「そうです」
「………………」
 大塚は言葉を飲み込んだ、というより、言葉にならなかったらしい。
「………本当に、今すぐにでも拝見したいです。一九一〇年から触られていなかったとなると、ミントコンディションに近い。どういうものかわからないですが、ドレスも楽しみです」
「こちらこそ是非見て頂きたいです。………そして、これは大塚さんにとっては「ついで」ということになるでしょうが、家具調度もその頃のものがそのまま、非常に良い状態で残っていますので、できればそちらも見て頂きたいのですが?」
「もちろんです。………いますぐ出発ですか」
 一人だけでも飛び出しそうな大塚に、ナルは怜悧な口調を全く崩すことなく答えた。
「大塚さんさえよろしければ。こちらの準備は整っています」
「私はもちろん、いますぐ飛んでいきたいくらいですから」
 立ち上がった大塚に、安原が声をかける。
「車で行きますが、必要なもの以外はここに置いていってください。荷物を置いておくような場所がありませんので」
「…………写真は………」
「申し訳ありませんが、こちらのカメラを使って頂きます。…………伯爵の許可が出ればお渡ししますので」
 残念そうな彼を宥めるように言葉を付け足して、ナルは優雅な動作で立ち上がった。大塚は安原とともに最初に部屋を出て、ジュリアがそれに続く。ナルはまだ貧血状態の麻衣を抱き上げて、最後にリビングを出る。
 片野家には、部屋で祈りを続けるジョンと、ベースで解析作業を続けるリンだけが、結局リビングにも顔を出さずに残った。


 ヨーク邸の一階を見て回り、あまりにも常識を外れて保存状態の良いビクトリア朝時代の調度に感嘆の声をあげた大塚は、安原を捕まえて幾分興奮気味に言った。
 ナルは麻衣を抱いたままだし、女性陣には話しかけにくいというわけで、安原はずっと彼につかまっている。
「まったく素晴らしい!私は今まで本当にたくさんのイギリスのアンティークをみてきましたが、ここまで保存状態の素晴らしいものは初めてですよ!まるで昨日まで磨いていたようだ」
 ナルは、プリムローズを待ち続けるエディスの思いがある種の隔壁となって、屋敷全体が時間の流れからある意味で隔絶された状態にあったのではないかという仮説をたてていたが、当然大塚はそんなことは知らない。
 大塚の言葉は正鵠を射ていたが、安原は何食わぬ顔で頷いた。
「ええ、僕たちも初めて見た時は驚いたんですよ。………きっと、ずっと閉めたままだったからでしょうね」
「そうとしか考えられませんが。………チェストやテーブル、椅子なども実に素晴らしいですが、あの色ガラスのランプも素晴らしい。近くで見てみたいですね」
「時間はありますから、後ででも、ゆっくりご覧ください。先に二階に行きます」
 ナルが口を挟んで、安原が先に立って大塚を先導した。
 緋色の絨毯を踏み、ゆっくりと階段を上る。大塚はその間にも窓ガラスや手すりの細かい細工に目を奪われていたが、階段上にたどり着くとナルが声をかけた。
「他の部屋にも完全な形で調度が残っていますが、一階と似たようなものですので、先にあの部屋へ行ってください。大塚さんには人形を見て頂くのが目的ですから」
「それじゃ、こっちです」
 上司の言葉を受けて、安原が歩き出す。作業の物音がはっきり聞こえていて、部屋の扉は開け放たれてそこに滝川がいた。
「お、来たのか。ご苦労さん」
「どうですか?」
「だいぶ進んだぞ。狩野さん、さすがに腕がいい」
「そうですか。………こちらが、原さん経由でお願いした専門家の方で、大塚さんです」
 安原に紹介されて、滝川は軽く会釈した。
「ご苦労さまです。どうぞ、中へ」
 自己紹介もせずに滝川は中を示し、一団の最後にいたナルが麻衣を抱いているのを見て、軽く眉を寄せた。
「ナル。麻衣はまだ具合が悪いのか?大丈夫か?」
「本人はそう言っている。立てないらしいが」
「無茶すんじゃないぞ、麻衣」
「わかってるよー。でも、特にあの、手紙と写真を持ってた子の話は聞きたくて、ナルに頼み込んだの」
「おかげで僕は大荷物だ」
 皮肉めいた口調に、麻衣は首をすくめる。
 確かに、ナルに多大な迷惑をかけているという自覚はあった。自分は決して重くはないかもしれないが、抱き上げて運ぶのに軽いというわけではありえない。
「ごめんなさい。復活したらちゃんと働くから」
「当然だろう」
「……………あっち、始まるみたいだぞ」
 二人のやり取りに滝川が割って入って、注意を促す。視線の向こうでは、壁が既に半分ほど取り除かれていて、まさに大塚が人形の群れに対面したところだった。
 ナルはゆっくりと、そちらに歩み寄る。作業を続けていた狩野に会釈して、ほとんど愕然としている大塚に声をかけた。
「どうですか、大塚さん」
「………………………信じられない。素晴らしい、こんなコレクションが眠っていたとは、考えられない……!」
 答えているようで答えていない、夢でも見ているかのような彼の様子を見ながら、どこまでも平静なテノールが言葉を続ける。
「位置関係から考えて、その椅子に座っている人形が中心、もしくは、人形を集めていた伯爵夫人が一番大切にしていた人形だと思いますが」
「…………そうですね……ああ。それにしても、信じられない」
「大塚さん、申し訳ありませんが、解説をお願いできますか」
 感嘆の溜息をついて、人形たちを見回している大塚に、ナルは言葉を促した。
「ああ、申し訳ない。思わず夢中になってしまいました。……この子は、ヘッドマークを確認しないと確かなことは言えませんが、おそらくテュイエのものでしょう。……こんなサイズのテュイエがあるなんて信じられませんが、あるのだから仕方がない」
「テュイエというのは?」
「非常に短い間、十九世紀の末の二十年ほどしか存在しなかったフランスの工房だと言われています。現存するものは非常に少ないので、実態はよくは分かっていませんが、この、特徴のある美しい顔に大変高い人気があります。この子は、顔立ちからみて初期の子ですね。………それに、この子に限りませんが衣装も実に美しい。シルクのドレスに、手編みのボビンレースがふんだんについている。下着も特注品でしょう。衣装だけでどのくらいの値段がつくかわかりません。………この、テュイエの子だけで八百万は下らないでしょう。値段がつけられない」
 麻衣が目を丸くし、真砂子もわずかに首を振った。安原の通訳を聞いてから、ジュリアも溜息をつく。
「こちらのジュモーも、まったく素晴らしい。ジュモーはもっとも有名なフランスの人形工房ですから珍しくはありませんが、ざっと見ただけで、プリミエール、ロングフェイス、トリステ、エミール・ジュモーのべべ、テートと揃っています。しかもどの子も非常に大きい。一番小さいこのエミールジュモーで六十センチはありますね。彼女たちのドレスも素晴らしい。これも、値段をつけるのが非常に難しいですが、一体あたり最低でも二百万から三百万、そちらの一メートル以上ありそうな子で、四百万くらいは最低でもつきますね。隣のブリュはもっと貴重です。すごい、べべ、サークルドット、ジュン、ブレベテと揃っている。こちらも大きい。信じられない。……ブリュもこのサイズでこれほど素晴らしいコンディションなら、四百万、いや五百万が最低ラインでしょう。……ああ、その隣にもテュイエがいますね。瞳がブラウンだ………その隣は………この中では小さく見えますね、五十センチくらいですか、………ちょっと待ってください、触ってもいいですか渋谷さん」
「…………どうぞ」
 熱を帯びて語っていた大塚の口調が変わった。震える手を一体の人形にのばし、後ろを向かせ、慎重な手つきで髪の毛を上げてマークを確かめる。
「…………やっぱりそうだ。これはフランスの、やはり幻と言われるアロポーという工房のものだと思われます。テュイエ以上に稀少です。………値段は付けられません。僕には無理だ。本物に触れることすら夢のようです」
「ありがとうございます、大塚さん、よく分かりました」
 この人形たちがとんでもない宝の山であることは、非常によく分かった。が、この調子で話を聞いていたら時間がいくらあっても足らない。
「ただ、お話をすべての人形に関して聞かせて頂くと時間がいくらあっても足りませんので、もし大塚さんさえよろしければ、目録を作っていただけませんか。参考価格とともに、工房、国、だいたいの年代をリストアップしていただきたいんですが………」
「もちろん、喜んでやらせていただきます。………その際に、触ってもよろしいですか?工房と年代の確認のためにヘッドマークを見る必要がありますので」
「どうぞ。ただ、扱いは長けていらっしゃるでしょうからこちらから言うまでもありませんが、元の位置に戻すことだけ気をつけてください。写真を撮るのでしたら、カメラはお渡しします」
「分かりました。やらせて頂けることを感謝します」
 触れるだけで、震えがくるほどの逸品ばかりだ。
 見るばかりか、分類まで任せてもらえるとなれば、仕事抜きで幸福としか言いようがない。
「早速取りかからせてもらいます」
 彼はさっそくペンとノートを取り出し、安原がカメラと予備のフィルムを取り出す。そこに、それまでずっと黙って話をきいていた麻衣が口を挟んだ。
「大塚さん。最初の、テュイエでしたっけ?その子はプリマヴェーラと呼ばれていたようです。彼女を一番最初に見てください」
「プリマヴェーラ、ですか。春、ですね。ぴったりだ。………分かりました、プリマヴェーラから順番にリストを作りましょう」
 淡いピンクのシルクのドレスを着た、淡い金髪と青い瞳の彼女は、まさに春の精のようだ。
「お願いします」
 麻衣はナルの腕の中から頭を下げて、それからナルの顔を見上げた。
 これからは、狩野の作業と大塚の作業が平行して行われることになる。それに、大塚にはどう考えても見張りが必要だった。夢中になって時間を忘れかねない。
「誰か付き添いをつけましょう………それでは安原さん、お願いできますか」
「分かりました、所長」
 安原が頷いて、カメラを持って大塚についた。


 安原が大塚をホテルまで送り、片野邸に戻ってきたときには時刻は午後七時に近かった。
 微苦笑を交えた疲れた表情で、カメラをテーブルの上に置く。
「お疲れさまでした、安原さん。…………大丈夫ですか?」
 だいぶ回復したらしい麻衣が、心配げに聞いた。同僚の琥珀色の瞳に微笑して、安原は軽く頷く。
「大丈夫です。ちょっと疲れましたけど、なんとか。………それより滝川さんは」
「綾子のこと手伝ってます。ぼーさん、あれで結構料理できたりするから。あたしが手伝うって言ったんですけど、止められて」
「当たり前ですわ!まともに立ってもいられない人に料理なんてさせたら怪我をします」
 間髪入れない真砂子の言葉に、安原はわずかに眉を寄せる。
「まだ、まともに立てないくらいなんですか?」
「………大丈夫だと思うんですけど……ちょっとふらふらするくらいで………」
「思ったより、影響長引いてませんか」
 安原に言われて、麻衣は苦笑した。
 指摘された通り、影響は予想していたより長引いている。二時間もすれば元に戻るだろうと思ったのに、まだまともに力が入らないというのはどう考えてもおかしかった。エディスは浄霊されたのだから、彼女の影響力は弱くなっているはずなのだ。現に、あの別荘の、麻衣と真砂子が最初に感じた「違和感」はもうなくなっている。
「………たしかに変なんですよねー。何かキーでもあるのかなと思うんですけど、それがなんなのか全然見当つかなくて。お人形かと思って、ナルに無理言って連れて行ってもらったんですけど、駄目だったし。ちょっと困ってます」
 白い顔に、わずかに苦笑が浮かんだ。
 困惑と、そして不安と、ないまぜになった表情が一瞬だけ現れて、そして消える。
「所長は?」
「今はベースにいます。リンさんの解析が一段落したとかで」
「そうじゃなくて、谷山さんの様子について何も言ってませんでしたか?」
「それは何も。………ナルは、基本的に不確定要素の多いことは言わないから」
 麻衣は苦笑を深めて、溜息をついた。
「気休めが欲しいこともあるんですけどね。…………ちなみに、ジュリアさんはいまアンドリューさんと連絡を取ってます。向こう、ちょうど午前中だから」
「そうですか…………」
「とりあえず、あたしは寝るしかないかなと思います」
「手がかりを得るのに?」
 真砂子に問われて、麻衣は頷く。
「なんか最終手段ぽくて嫌なんだけど、他に手はないし、仕方ないかなって思う。もしかしたら、何か残ってるのかもしれない」
「もしかしたら、プリムローズさんがおいていった手紙をみれば、分かるのかもしれませんね」
「そうですね。………エディスさんの遺品って、イギリスにもほとんどないらしくて、ロバートさんとプリムローズさんの手紙は残っているんですけど、エディスさんのは残ってなかったそうなんです。───結局、ここにあったから、なんですけどね」
「エディスさんが、あのお人形に小さい頃のプリムローズさんを重ね合わせて可愛がっていたことはわかりましたし、ずっとあそこで待っていたことも分かりました。でも、何で待っていたのかは今のところ分かってないんです。………だから、もしかしたら、その理由がわかればなんとかなるんじゃないかなと思います」
「ちょっと待って、麻衣。あなた、体がおかしいのは、エディスさんと同調しているからだと思っているの?」
 麻衣の言い方だとそうとしか聞こえないが、エディスは浄霊されたはずで、まだ同調しているというのはおかしい。
 真砂子の疑問は麻衣にも十分理解できたから、ひらひらと手を振って頷いた。
「正確には、エディスさんの記憶と、かな。とか言ってると、推測を簡単に口にするなって誰かに怒られそうだけど。………多分、あたしは夢でエディスさんに同調して、それが体に残っているところに、真砂子が見たエディスさん本人………って言い方はおかしいかな。とにかくエディスさんと会っちゃって、だから影響を強く受けたんだと思う。エディスさんが浄霊されても、痕跡は残るでしょ。ずーっときれいだったお屋敷がいきなり汚れたりしなかったみたいに」
「それで、記憶、ですの?」
「うん。あたしの考えだけど」
「ナルには話してませんの?」
「話してどうなるものでもないしね」
 麻衣は肩をすくめて、苦笑した。
「全部、あたしの印象だけで、根拠がないんだもん。ナルには話せないよ」
 そして、話したところでどうなるものでもない。不確定要素の多いことは、本当に口にすべきではないのだ。まして、上司であるナルに報告することなど論外だった。
「だから、せめて夢を見たらいいかなって思って。記憶の残滓があるなら、エディスさんがプリムローズさんを待ってた理由も分かるかもしれないから」
「………何か、二人の間に約束があったのかもしれませんね」
「………………ですね」
 安原の台詞が、記憶のどこかに触れて、麻衣はわずかに眉をひそめる。
「谷山さん?」
「なんでもないです。………やっぱり、ミーティングが終わったら寝ます」
 麻衣は極力笑って、安原の視線を受け流す。
 彼女自身も何がどうなっているかわからなくて、だから何も答えられないもどかしさを、ただ、胸の裡にのみこんだ。



   †


 夢を、探して。
 
 夢を探して闇をさまよう。
 エディス自身は浄霊されても、深い悲しみの記憶は残る。辛い涙の痕は消えない。

 痕跡をたどれば、記憶の櫃に辿り着く。


「プリマヴェーラ」

 いつものように、優しい声で名前を読んで、エディスは金髪の人形を腕に抱き上げた。
「ねえ、あとどれくらいかしら。わたしのプリムローズはもう十四歳になったのよ」
 誇らしげで、でも寂しい声が言葉を紡ぐ。
 美しい人形は、エディスに答えることはない。ただ、青いガラスの瞳が、どこまでも無垢に深くすきとおって光にきらめいた。
「プリマヴェーラ、あなたもかわいいけれどね。………ローズに、逢いたいわ………。………でも、まだあの子には、ここまで来るのは無理だし、ロバートのお仕事は帰れないし、仕方ないのだけれど………」
 細い腕が、大きな人形を抱きしめる。
「あの子が来てくれるまで、あと二年よ。ここに来て、もうすぐ四年。なのに、まだ二年もかかるの。…………長過ぎるわよね。はやく、一日も早く会いたいのに」
 腕の力が強まって、そっと閉じた目から涙が頬を伝った。
「逢いたいわ…………私のかわいいプリムローズ…………」

 切ない、囁き。強い、願い。

 けれど、それはどうしてもかなわない。
 約束の日まで、待たなければならないから。

「ねえ。プリムローズと、お約束しているのよ。いつもね、手紙で必ず確かめるのよ。いつでも愛しているわ、会える日まであと何か月ねって」
 切ない思いを込めて、囁く。
 頬を寄せる金色の髪は、記憶にある彼女の娘のものとは違うけれど、色はおなじ。青い瞳はよく似ていて、だから彼女の大切な娘を思い出させてやまない。
 ───だからこそ、愛しさもつのるのだけど、彼女がほんとうに逢いたい娘への切実な思慕も、抑えがたく募っていく。彼女を見るたびに、大切な娘の面影が人形の貌に重なって、みえる。
「プリムローズから手紙が来たのよ。学校は楽しいって手紙をくれたけれど、元気かしら。だって消印は四か月も前なんですもの、いまどうしているかなんて分からないわ。…………クリスマスプレゼントはちゃんと届いたかしら?お返事が来るのはきっと春の頃ね。………そうね、もうママを恋しがる歳じゃないかもしれないけれど、でも、きっとあの子も待ってくれているわ」
 エディスは、腕の中の人形に、囁く。
「ねぇ、プリマヴェーラ。………あと二年したら、あなたも会えるのよ。約束を、したから。プリムローズも、あなたに逢えるのを楽しみにしてるって手紙に書いてくれているのよ。楽しみね」
 白い手が、ビスクの冷たい頬に振れ、金の髪に触れる。
「あの子が学校を卒業するのは十六歳。その頃にはもう大人だから、一人でも来れるのよ。もちろん付き添いは頼むけれどね」
 囁くように、言葉が重なる。
 計画を、夢を語る彼女の声は、どこか幻のようで、あわやかに空気に溶けていく。

「そうしたら、ここへ会いにきてくれるの。そして、一緒に帰るの。あなたも、他の子たちもみんな連れて、プリムローズと一緒に帰るの」
 人形をしっかりと抱きしめて、夢見るように囁く。
「あの家へ、ロバートと、プリムローズと、あなたたちと、みんな一緒に」
 彼女の脳裡にあるのは、最後に見た、泣きそうな十歳のプリムローズの姿だけだ。花びらを散らして、きらきらと笑った幼い少女の笑顔だけだ。
「だからね、プリマヴェーラ。私は、待っているの。ロバートが来てくれるのを待っているみたいに、ここで、ずっと、待っているの。十六歳になってあの子が来てくれるまで、ここで、ずっと、あなたたちと一緒に…………」
 エディスの声は、優しいけれど、弱く震える。
 耐えきれない想いと、底のないような寂しさの波に時々飲み込まれそうになるけれど、それでも、彼女はもう一度囁いた。
「ロバートが、きっと立派なレディになったローズを連れてきてくれて、ほら、僕たちのかわいいローズだよって言ってくれるまで、私はここで待つのよ」
 柔らかな声が、ほそく、途切れて。
 掠れるような囁きになる。
「…………ずっと、ずっと……………」

 いつまでも、約束を待って。
 
 そこにはもう小鳥はいないのに、小鳥は自分で鳴くことはなかったから。
 だから、いないことに気付かずに、鳥籠だけを守り続ける。

 どれほどの時がたっても、想いは弱まることはなく。
 ずっとずっと、なによりも大切な彼女の青い鳥を守るために。




 頬を伝う涙の冷たさに、意識が醒める。
 月明かりに照らされる斜めの天井がぼんやりと視界に浮かびあがって、彼女は手を握りしめた。
「………………」
 半分入り交じっていた意識が、離れていく。思考がはっきりしてきて、手で頬を伝う涙を拭った。
 戻ってきた、と呟いて、起き上がる。
 眠る前までの不自然な倦怠感は、体のどこにも、もうない。
 麻衣はそばにあった上着を着て、ベッドからおりると、二階の客間に向かった。
 一瞬だけ躊躇って、軽く、一度だけ扉をノックする。
「………ナル」
 呼びかけは、声にもならない囁きだったけれど、彼には届いたはずだった。
 それほど待たずに、漆黒の青年が扉を開き、そして後ろ手に閉める。廊下に出た彼は、何か言いたげな麻衣を制して、足音も立てずに階下に降りた。一階にも安原や滝川、それにジョンも寝ているから、大きな音を立てるわけにはいかない。
 そのまま、静かにリビングに入って明かりと暖房をつける。
 麻衣はそっとドアを閉めて、ソファにすとんと座り込んだ。
 ナルは、定位置ではなく、彼女の隣に腰を下ろす。
「…………歩けるようにはなったようだな」
 抑制されたテノールが耳に響いて、麻衣は頷いた。
「うん。もう平気」
「どうした?」
 たとえ夢を見たとしても、こんな時間に起こしにまで来ることは、ひどく珍しい。彼は柔らかな頬に残った涙の痕を指先で辿って、見上げてくる琥珀色の瞳を漆黒の瞳で捉えた。
「夢をね、見たんだ」
「……………」
 ごく静かな、トーンを抑えた澄んだ声。
 ナルは言葉を挟まずに、視線だけで続きを促す。
「今度はエディスさんの夢、だった。あの人形………プリマヴェーラを抱いて、プリムローズさんとの約束の話をしてた」
「……………それで?」
「プリムローズと約束があるから、それまでお人形たちと一緒に待つんだ、って何回も繰り返してた。………もうすぐここへ来て四年、あと二年待てばプリムローズに逢えるのって。クリスマスプレゼントは届いたかしらって言ってたから、きっと今頃の時期だと思う。もう、かなり精神的に弱ってたんじゃないかな。泣いているんだけど、それにも自分で気付いていない感じで、プリマヴェーラを抱きしめて、繰り返し繰り返し、約束の日までずっと待つのって…………」
「麻衣。ひきずられるな」
「…………うん」
 琥珀色の瞳から、一粒溢れた涙を、冷えた指先がすっと払う。
「大丈夫。ごめん」
「約束とは何だったんだ?」
「………細かいことはよく分からないけど、プリムローズさんが十六歳になったら日本に来て、家族揃って帰るって約束していたみたいで、もう四年近く経って、あと二年って言ってたから、ロバートさんの任期、本当はもう少し長かったんじゃないかな」
 ロバートは一九〇四年に赴任して、五年後の九年に、エディスの死をきっかけにするようにして帰国している。
「調べれば分かるだろうが…………」
 イギリスの外務省の記録を調べれば分かる可能性が高いが、そこまでの必要は、多分ない。
 帰れなかったエディスにとって、何よりも心残りだったのは、成長した娘を迎えられなかったこと。そして、家族揃って帰れなかったということ。
 待っているわ、という約束が、エディスをあの屋敷に縛り付け、そして百年の間、ただ一途な想いの檻に閉じ込めた。
「エディスさんは、プリムローズさんに逢いたくてあいたくて、でも逢えなかった。ほんとうに、大切に思っていたのに」
「麻衣」
「だって分かるんだよ。胸が痛くなるくらい、金髪で青い目のかわいい女の子をずっと思い続けてるの。成長した姿を想像して、ほんとうに楽しみにしていたのに………」
 霊は浄化されても、強い想いと記憶は消え去ることなく残る。
「エディスさんは、あの家でロバートさんを待って、そしてずっとプリムローズさんを待ち続けて、心も体も壊してしまったんだと思う」
 麻衣の手がナルの腕に伸びて、ぎゅっと袖を掴んだ。
「………………あたしが、あそこまで同調しちゃったのは……」
 同調したのは、同種の寂しさが心の底に氷の澱のようにあるから。
「言わなくていい」
 言いかけた言葉を、強い口調の低い声が遮った。
 ナルは口調を和らげて、繰り返す。
「言わなくていい」
 言葉を切って、口調を変える。
「…………エディスはずっと待ち続けて、体が死んでもそれに気付かないほど強く思って、その結果あの屋敷はいつでもプリムローズを迎えられるようになっていた。そういうことだろう」
「…………うん。そういうこと。…………ありがとう」
 麻衣は頷くと、呟くように付け加えて。
 ずっと張りつめていた力を、抜いた。


 目を、閉じて。
 ただひたすらに願いを紡ぎつづけていた彼女は、なにかが動いた気がして、ふ、と目を開ける。
 ゆっくりとあたりの様子を見回し、そして視線を落として、大切に抱いていた鳥籠に、小鳥がいないことに気付く。あわてて辺りを見回したけれど、あまりに長いときが過ぎていて、さえずりも羽ばたきも聞こえない。

 大切な、たいせつな、ただ一羽だけの。
 私の青い鳥なのに。
 彼女はくずおれるようにすわりこむ。空の鳥籠を抱き締めたけれど、鳥籠はただ虚しく冷たいだけで、熱いものにでも触れたように、つ、と離した。

 いなくなった青い鳥。
でもそれはきっと唯一のものではないから。彼方に見える光の中に、もう一羽の青い鳥必ずいるにちがいないから。

 だから、たちあがって、光の中へ向かう。
 大切な小鳥は、きっと彼女を新しい光に導くために姿を消したのかもしれないから。


   †


 最初の目撃者は、朝食準備をするためにと降りてきた綾子と、ちょうど目をさました滝川だった。
 リビングのドアをあけて、ソファが目に入るなり、絶句する。
 ナルがパジャマに上着を着ただけの姿でソファに座り、彼のひざというよりは腕を枕にし、胸に顔をうずめるようにして、オフホワイトのカーディガンを着た麻衣が眠っている。白い素足は床に落ちているから、おそらく隣に座って話しているうちに倒れ込んだのだろうと推測できた。
「…………………ああ、松崎さん、ぼーさん」
「…………………なにやってんの?」
 さすがに言葉を失っていた綾子は、彼女にしては間の抜けた問いを発した。
「何をしているように見えますか?」
 怜悧な声が返ってきて、滝川が、条件反射のように答えた。言葉はたぶん脳を経由していない。
「麻衣が寝てるのか」
「そう。…………いい加減に起きてほしいんだが」
 わずかに眉を顰めた表情を、優しく華奢な体を抱きとめている腕が裏切っている。
 そこへ、ナルと同室のリン、滝川と同室(もしくは雑魚寝)の安原とジョンが、続いて綾子と同室で、身支度に時間がかかった真砂子が申し合わせたように相次いで降りてきて、同様に入り口で固まった。
「戸口で詰まっていたら通行できないんじゃないんですか?」
 もの倦げに言って、ナルは絹糸のような、やや乱れた漆黒の髪をかきあげる。
「………………あー。状況説明を求めたい」
 滝川の言葉に、ナルは漆黒の瞳をわずかに眇めて、それから言った。
「麻衣が夢を見て、僕は夜中に起こされて話を聞かされた。気が抜けたらしくて眠ったきり起きない。それだけだ」
「…………何時間そうしていたのか知りませんけど、谷山さんをソファに寝かせてあげれば良かったんじゃありませんか?それか、部屋に運ぶとか」
「いや、いくら何でも女性の部屋に入り込むのは問題があります。谷山さんに意識があればともかくとして」
 リンがピントを外したコメントをして、ナルは溜息をついた。
「動かしたら起きそうだったからな」
「…………ナル。麻衣の夢って、例の、夢だったんですの?」
「そうです。………でなければ相手にしません」
「浄霊したのに、か?」
 滝川の問いを、いち早く復活した綾子が遮った。
「話は後で聞くとして。ナル、着替えてらっしゃいよ。ついでにその子、部屋に寝かしてきてやって。神経参ってるんでしょ」
 そうでもなければ、ナルが破格の待遇をする理由がない。たとえ個人的にどんな関係にあろうとも、甘やかしたりする神経の持ち主でないことは全員が知り抜いている。
「ジュリアさんが起きてくる前に行かないと、あっちでどんな話が広まるか責任持てないわよ?」
「それは言えてますねー。客観的に見ると、今のおふたり、見るのが恥ずかしいくらいラブラブに見えますよ」
「全くだ。俺は一瞬目を疑った」
「僕も驚きましたです………」
 うんうんと安原が頷き、滝川とジョンが同意する。
 自分たちは普段の実態を知っているから、今の二人の姿を見ても「回れ右!」ではなく「何があったのか?」という方向に感想が行ったが、普通に見れば、どこからどう見てもラブラブカップルにしか見えない。…………実態を知っていると多少怖い感想ではあるが。
 ナルは秀麗な眉を顰めて、それから、麻衣を抱き上げて立ち上がった。
「わかりました。寝かしてきます。………原さん」
「はい?」
「すみませんが同行してください」
「……………はい」
 リンの言葉を受けたナルの台詞に、真砂子はくすりと笑って頷いて、先に歩き始めたナルの後を追った。


 朝食を済ませていつものようにベースに集まると、ジュリアがまず口を開いた。
『さっきからずっと気になっていたのだけど、マイの姿が見えないわね?どうしたの?』
『精神的に少し疲れているようですから休ませています。昨日ほど悪くはありませんが』
『そうなの。……でも、心配ね』
 ジュリアの台詞は単純明快だったため、英語はほとんど解さない滝川も理解でき、全員がいわく言いがたい沈黙を保った。まったく、今朝の状態を見ていないから言える台詞だ。
『たいしたことはありません。大丈夫でしょう』
 ナルは話題をそこで打ち切って、言語を日本語に切り替えた。
「麻衣の夢だが、エディス夫人の記憶をトレースしたらしい。どういう原理でそういうことになったのかは今のところ考えていないが、麻衣に言わせれば、一昨日の夢で人形を通して彼女と同調してしまったから、強く残された記憶と想いの残滓を読み取ったのだろうということだ」
「そういうことはあり得るのか?」
「証明手段は、存在しないな。あくまで、能力者としての麻衣の意見にすぎない。が、麻衣の夢はある程度、昨日の手紙と、それからロバート卿、エリオット卿の記録で裏付けることが可能だ」
「つまりどういうことですの?」
「麻衣は、どうしてエディスさんがずっとあそこに留まっていたのかにこだわっていたわよね。それに関すること?」
「そう。………麻衣の夢によれば、エディス夫人は、娘のプリムローズ嬢と、十六歳になったら日本に来て、家族全員で本国に帰ろうと約束していたらしい。が、彼女は約束の期限を待てずに他界し、ずっとこだわっていた約束を果たせなかった。死んでもなおあの屋敷にしがみついていたのはそういうことだと考えることはできる。成長したプリムローズ嬢を迎えるにふさわしい屋敷であることに、ずっとこだわっていたんだろう」
「なるほどな………」
「プリムローズさんが十六歳で来日するとすれば、ええと、一九一〇年ですか。その状態を保っていたわけですか」
「そうです。すくなくとも、それで説明はつく。………リンのデータ解析で、プリマヴェーラのまわりだけ他より三度から五度低いことがわかっている。これがエディス夫人の霊だとして、その上であの手紙と、ヨーク家サイドでの行動調査が合致すれば、裏付けにはなるだろう」
 玲瓏とした声が、響く。
 真砂子は目を伏せて、つぶやくように口にする。
「結局あのお屋敷は、プリムローズさんを迎えるためにエディスさんがつくっていた、彼女の強い願いを閉じ込めた箱だったわけですわね」

 それは、願いを閉じ込めた箱。
 その願いが叶わないことに気付かないまま、百年近くも守りつづけてきた、宝石箱のような洋館だった。
 
「手紙を見る必要はあるだろうが、調査としては、これ以上は必要ないな」
 ナルは言って、ジュリアに瞳を向けた。
 手紙の確認、人形のリストアップ、壁の取り外し作業の仕上げなど、まだ残っている作業はあるが、問題は解決された。
『まだ完全に終わったわけではありませんので、今日いっぱいはこちらで活動しますが、基本的にはよろしいですか?レディ・ハミルトン』
『ええ。アンドリューも納得すると思うわ』
 ジュリアは頷いて、呟いた。
『…………マイに、ありがとうと言いたいわ。彼女がいなければ、ひいおばあさまや、プリムローズ様が苦しんでいらっしゃることを知らないままだったから。彼女は自分を傷つけてもそれを解いてくれたから。もちろん、オリヴァーや他の皆さんにも感謝するけれど、誰よりも、あの子に』
『彼女を含めて、我々は全員プロですから、相応の仕事をしたまでです。………麻衣は、感情移入しすぎるきらいがありますが』
『たとえ相応の仕事だとしても、それが私たちにとって貴重なものであるなら感謝するのは当然のことだわ。オリヴァー。ありがとう、勿論あなたにもね』
 重ねての感謝に、ナルは黙って頭を下げて、それから立ち上がった。
「………安原さんはホテルまで大塚さんを迎えにいって、その足でヨーク邸に向かってください。九時から狩野さんと、二人ほど作業員が入るそうですから、それまでに」
「わかりました」
「リンはデータの解析の続きをしてくれ。僕は手紙をデータベースに移す」
「お許しは出たんかい?」
 滝川の問いに、ナルは無表情のまま頷く。
「許可はもらった。………そうだな、ぼーさんも安原さんに同行してくれ。力仕事になりそうなら必要だからな」
「ナルちゃんや。一回聞いてみたいと思ってたんだが、俺のことを力仕事要員だと思ってないか?」
「………日本語には適材適所という言葉があるそうだな」
「俺の本業は退魔法なわけよ?わかってる?」
「その退魔法が、今回役に立つと思うか?」
「いんや。おとなしい仏さん……いや、ご婦人だったからなあ………。女の子と弾き飛ばしたって聞いた時はかなり危険を覚悟していたんだが」
「そういうことだ。ぼーさんの本業とやらが使えないなら、他の使い道を考えるのが当然だろう」
「……………おっしゃるとおりでございます」
 ナルの情け容赦ない台詞に、滝川はがっくりと肩を落とした。その様子を一瞥すらせず、漆黒の青年は言葉を続ける。
「申し訳ありませんが、原さんも同行して、念のためもう一度霊視をお願いします」
「わかりましたわ。昨日との違いを視ればよろしいんですわね、ナル」
「そうです。それから、松崎さん。麻衣の様子を見ていてください。………それからジョン。悪いが、麻衣が起きたら、一応浄めの祈りをしてやってくれ」
「わかりました。喜んでやらしてもらいます。麻衣さんが落ち着きはったらよろしいんですけど」
「何か質問は?」
 ナルが見渡すと、全員の瞳が帰ってくる。
 一拍おいて、怜悧な声が、ベースに響いた。

「これが最後の現地調査になる。分かっているとは思うが、調査漏れのないようにしてくれ。………質問がないなら解散する。あとは各自の判断に任せる」

 ナルの言葉が終わるのを待って、全員が動き始めた。


 美しい洋館は、大切な夢を、それがもう存在しない幻影に過ぎないとも気付かないままに、守りつづけてきた。主だった貴婦人の想いが望むまま、百年の間、ずっと。
 それは、幻日の櫃。

 櫃は開いて、あたらしい光がともされる。
 幻日は夢と消えて、けれどそれよりも大切な、現実のときが紡がれ始めた。





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