back to novel_index
back to index


  
星待ち



 
 紙の音が、響く。

 本来幽かなものであるはずのそれは、静寂を乱して存外に耳についた。その音に僅かに眉を顰めて、彼は怜悧な視線を卓上の時計に滑らせる。

 2時30分。
 無駄な装飾を排除したシンプルなアナログの時計がまもなく指そうとしていた時間に、軽く息をつく。彼の主観では決して遅すぎはしない時間だが───そして、確認するまでもなく窓下のネオンは未だ華やかだろうが───そろそろ眠るべきだった。
 睡眠時間が短すぎるとかいう問題では、もちろんない。眠っているくせに何故だか確実に感知してくる彼女にいちいち対抗するくらいなら、多少の妥協をした方が早いという学習をしたのは、実は最近になってからだ。
 無表情な長い指が滑ってPCの電源を落とし、ページ数を一瞥してから彼は立ち上がった。漆黒の瞳が一瞬だけ滑って窓の外の空を捉える。

 既に冬の気配の色濃い空は、東京にしては珍しいほどに澄んでいた。
 この季節に特有の空気はしんと張りつめて、無数の星を散りばめる。

 漆黒の凪いだ瞳は美しい星空を無感動に一瞥しただけで、彼はすらりとした身体を翻した。


   +


 ほとんど音もなく。
 重い扉を開いて、そして閉める。
 視線を部屋の中に転じて、間をおかずに彼は眉を寄せた。

 いつもと同様静まりかえった部屋の中に、在るはずの気配がない。

 まるい窪みに淡い影をつくった枕の位置はずれているし、布団の裾はめくれ上がっている。サイドテーブルに出来たやわらかな光の輪の中に文庫本が置かれていて、少し前までは彼女が確実にそこに居て、しかも起きていたことを示していた。
 彼女がこんな時間まで起きているということ自体おかしい。
 けれど、そのことよりも、何よりも今彼女がここにいないという事実が、彼を苛立たせた。
 
 精神に触れる不快な危機感は、今はない。
 だから、彼女の不在はおそらく危険とは無縁。
 それでも、それとは全く異質な焦燥に似た感情が動くのを感じて、彼は秀麗な口元に自嘲の色の濃い苦笑を浮かべた。

「麻衣」
 名前を呼ぶ、抑制した低い声に、予測した通り答えは返らない。気配が感じられなければ部屋にいないことは確実だから、呼んでみたのは単なる、むしろ彼らしくないほど無意味な確認に過ぎない。
 すい、と部屋を見渡して、彼はまっすぐにバルコニーに出るドアに歩み寄った。レバーを軽く回して押すと、軽い抵抗の後に扉は開いて、夜の大気が顔を打つ。
 たたきつけるというほどではなくても、高層階の冷気は充分以上に強い風になる。
 

 狭い空間で、姿を探すまでもなかった。

 バルコニーの手すりにもたれ掛かって、白いコートを着込んだ彼女が一心に空を見上げていた。
 琥珀色の瞳は月のみえない夜の闇に透けて、ふかく深く、澄む。

「麻衣」
 
 空に心を奪われているように見えた麻衣が、名前を呼ばれた瞬間に身体ごとくるりと振り返った。
 手を伸ばせば届く距離で、やわらかな髪が、冷たい空気にふわりと拡がる。
「え?」
 驚いたように軽く瞠った瞳は、闇に浮き上がるような白皙を認めて綻んだ。
「あ、ナル」
「お前は一体何をやっている?」
「見て解らない?」
「空を見ているようにしか見えないが、この時間である必然性があるようには見えない」
 夜闇に降りた冷気よりも冷たく凪いだ、声。
 麻衣は軽く笑ってもう一度虚空に視線を戻した。離れたその視線の代わりのように、華奢な手がナルの腕に絡みつく。
 闇に半ば同化した黒い袖に細い白い指先が深い皺を刻んで、常にもまして強い対比をみせる。そのコントラストを漆黒の瞳に映しても、腕を掴んだ指先から伝わるぬくもりを彼が拒むことはない。
「星、見てたの」
 麻衣はにこりと笑って、冷たいコンクリートの手すりから離れた。
 視線が返って、けれども指先のぬくもりは離れない。
「星?」
「うん、星」
「この時間にしか見えない星でもあるのか?」
 皮肉を多分に含んだ笑みが美貌に浮かぶ。麻衣は困ったように首を傾げた。淡い色彩の髪が白い頬にさらさらとこぼれ落ちて、澄んだ瞳を隠しそうになる。
 華奢な手が伸びる前に、酷く冷えた白い指先がやわらかな髪をかき上げて、あたたかな頬に触れた。
 驚くほどひやりとしたその感触に、麻衣は小さく悲鳴を上げた。
「つめたい!」
「気温を考えろ」
「ナル、上着着てないじゃんか」
「今頃気付いたのか?」
 注意力が散漫なのにも程があるな。
 言外に篭められた皮肉は正確に伝わって、麻衣は軽く頬を膨らませた。
「どうして上着着てこなかったの?外寒いのに」
「まさかこんな所に長居する羽目になるとは思わなかったもので」
 凄絶なほどの美貌に完璧に作った笑み。
 彼女は軽くため息をついて、もう一度だけ空に視線を向けてから、変わらない闇色の瞳を見上げた。
 かるく苦笑して、彼女は掴んだ袖を引いた。
「……とにかく、風邪引く前に中に入ろっか」
 提案の形を取っていても、同意を求めているわけではない。
 そのまま腕を引っ張っていく麻衣に、ナルは逆らわなかった。

 扉に伸ばそうとした華奢な手を気配だけで遮って、ナルは部屋とバルコニーを隔てる扉を開いた。
 先刻より遙かに冷たいレバーと、同じほどの空気の抵抗を経て、対照的に暖かく優しい空気が、夜気に冷えきった身体を包み込む。
 上着を着ていてもそれなりに寒かったのだろう、麻衣の表情がやわらかく緩んで、安堵の色の濃いため息が零れた。
「やっぱり寒かったー………」
「当たり前だと思うが?」
 季節はもう、初冬。始まったばかりとはいえ、完全に冬になっている。
 その冬のさなか、しかもこんな夜中に外にいれば冷えるのは当たり前だ。
 ナルの冷たい視線に首を竦めて、ぱたぱたと部屋の中に走り込んだ麻衣は脱いだ白いコートをソファの背にかけた。くるりと向き直って、ゆっくりと歩いてきたナルの裾を捕まえる。にこりと笑って見上げてくる彼女の瞳に、彼は軽くため息をついて口を開いた。
「それで?」
「なに?」
「………星がどうした?」
 問いを重ねた低い声に、麻衣はくすりと笑った。
「ああ。うん、あのね、流れ星見てたの」
「流れ星?」
「そう。今日、流星群が見えるって言ってたから」
「それで待っていたのか?」
「そうだよ。二時から三時って言ってたから、寝ないように本読んで、待ってたんだからね」
 澄んだ琥珀色の瞳はきらきらと嬉しげに輝いて、彼女の目的が果たされたことを十二分に物語っている。ナルはもう一度ため息をついて、夜気に晒されて冷え切ったやわらかな髪に触れた。
「で、見えたのか?」
 聞いて欲しいんだろう。
 その予測に、らしくないなと内心だけで苦笑しながら、ナルは問いかけを唇に乗せる。
「うん、綺麗だったよ!!こんなに流れ星見たの初めてだった!日本ではあと何十年もこんな綺麗なのは見れないんだっていうからまってたんだけど、待ってて良かった!」
 頬を上気させて興奮気味な麻衣とは対照的に、ナルの表情から笑みが消える。
 絡み合った視線はそのままに、白皙の美貌はどこか作り物めいて、冷ややかさを際だたせた。
「………もうしばらく見てるか?厚着の必要はあると思うが」

 表情と同程度に表情のない問いかけに、麻衣は言葉を止めて漆黒の瞳を覗き込んだ。
 首を、横に振る。頬に、軽く触れた長い指先に色素の薄い髪がさらさらとこぼれ落ちる。
「ううん、もう要らない」
「見ていたいんじゃないのか?そのために起きていたんだろう?」
「うん、でも、見れたからもういい」
 言葉を切って、腕を伸ばす。
 細い指先で白皙の頬に触れて、彼女は綺麗に笑って見せた。
「待ってたのは、星だけじゃないから」
「僕を待っていたとでも?」
「そう。……ナルも、早めに切り上げたかいがあったでしょ?」
 ふふふ、と密やかな笑いが、深夜の静寂を揺らす。
 ナルはかすかに苦笑して、手を、伸ばした。

 
 
 星の降る冷たい夜に。
 きらめいて流れる星よりも希有なぬくもりを抱いて。




 えっと。まともに終わらせたの、一ヶ月ぶりかもです……すらんぷ……(吐血)言い訳になりませんが、本当に久しぶりです。少しでも、楽しんで頂けたら本当に幸せです。(泣)……もし良ければご意見ご批判など頂けると泣いて喜びます………(爆) 
2001.11.25 HP初掲載
 
 
back to novel_index
back to index