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鏡像



 好き。
 あなたが、好き。
 叶わない思いだと知っても、混乱と絶望に心を染めて泣きじゃくっても。
 それでも、その想いだけは真実だったと思えるから。


 笑顔が、本当に綺麗で大好きだったの。

  +

 夜になっても気温も湿度も高いまま、不快指数は低下する兆しもない。そういう夜は、たとえ完璧に空調を効かせていても眠りは縁遠いものになる。温度も湿度も適切でも、窓の外から伝わる気配が睡眠を妨げるのかもしれない。
 いい加減自分の部屋より馴染んだ無駄に広いベッドルームの天井を見上げて、麻衣は溜息をついた。
 部屋の主が書斎に籠もったままなのはいつものことで、だから先に寝るよと言い置いてベッドを占領するのもまたいつものことだ。けれど今日はどうしてもひとりで眠る気にはならなくて、なれなくて、ソファに仰向けに寝転がった。
 明かりもつけないままの暗い部屋。下ろされたロールスクリーン越しに差し込む透徹した月光だけが、微かに青い陰影を空間に刻む。
 ぬくもりの感じられない無機質な空間は、焦燥を煽る。

 ちりり、と胸を灼いた感情に、麻衣は細い眉を寄せて、白い貌に苦笑を上らせた。
 
「駄目だなあ………」
 密やかに漏れた独り言は、停滞した空気に浸透していく。

 何年経っても、慣れることはできない。
 真実を知った、日。
 夢の正体を、自分の心の先を、知ったと思った日。
 ナルの前で泣いて、多分はじめて心をぶつけた日。
 
 今自分の心が向いているのは、今自分が好きなのは、あの時夢に見ていたジーンではなくナルで、それは何よりも真実だけれど。
 けれど、昼のあいだは思い出さないでいられても、夜になればあの月の光を思い出してしまう。
 
 麻衣はもう一度溜息をついて、そして、寝室の扉が開いて細く細く光の筋が差し込んだ事に気付いた。
 華奢な身体が起きあがるのとほぼ同時に、闇に沈んでいた寝室がぱっと明るくなる。照明が点けられたのだと認識するまでの数瞬をおいて、麻衣はせわしく目を瞬いた。
 柔らかめの間接照明とは言え、闇に慣れた色素の薄い瞳にいきなりの照明は眩しい。

「………ナル?」
 静寂に透る、けれど抑制した呼びかけに、答えは返らない。
 白皙の美貌は平坦な無表情のまま、彼はゆっくりと歩み寄ってソファの空きスペースに優雅な動作で腰を下ろした。琥珀色の視線を、少なくとも表面上は綺麗に無視して、持ってきたファイルを開く。
「ナル?どうしたの?」
「何が?」
「仕事中でしょ」
「見ての通りだが」
「………なら、何で……」
 問われて、漆黒の瞳がすい、と動いた。
 体温が伝わるほどすぐそばで、まっすぐに自分を見上げる澄んだ瞳を一瞥して、大仰に溜息をついてみせる。
「今夜はひとりで居たくないと言ったのはお前じゃなかったか?」
「言った、けど。さっきは無視したくせに」
「要らないなら書斎に戻る」
「え!?ちょっと待って、行かないで!」
 言葉通り腰を浮かせかけたナルを、麻衣は慌てて引き留めた。伸ばした指先がシャツに触れて大きな皺を刻む前に、漆黒の美貌が振り返る。
 凪いだ漆黒の瞳が、見上げてくる琥珀色の瞳と絡み合う。
 視線は数瞬、強く強く結ばれて、そして─────解けた。
「それで?」
 変わらない、平坦な声。
 表情の片鱗すら見せないナルの声に、麻衣は一瞬だけ怯んで、そして俯いた。
「麻衣?」
「………ごめん」
「何に謝ってる」
「邪魔してるし。ごめん」
「謝れと言った覚えはない。………邪魔は邪魔だが」
 さらりと冷たい言葉を返して、ナルは溜息をついた。
 麻衣がナーバスになっている理由は分かっているし、自分にどうすることもできないのは分かっている。
そして、それがどれほど自分にとって苛立ちを喚起するものであったとしても、それをとめる能力も権利も持たない。
 
 冷えた指先が、やわらかな頬に触れる。無意識のうちに琥珀色の瞳から溢れて白い肌を濡らした涙を指先で拭い取って、艶やかな栗色の髪を梳いた。
「何年経っても慣れないの………」
 高く震える声が落ちて、空気を震わせる。
 いつもいつも、とめられない感情に歯噛みしたくなるのに、半身を失ったナルの方が、自分よりもずっと辛いのだと思うのに。
 あの月の夜を思えば切なさは胸に迫って。
 
 ひとりで苦しまないでと言いたいのは、自分の方なのに。
 自分が泣いていてはいけないのに、あなたの力になりたいのに。
 強くなりたいという願いは今はまだ遠くて─────。

「ごめんね」
「お前が謝る事じゃない」
「謝ることなの」
「………何が」
 問い返されて、一瞬答えを躊躇った麻衣に、ナルは白皙に苦い笑みをかすませた。
「…………ジーンのことを気にしてるからか?」
 
 麻衣は表情を映さない漆黒の瞳を見上げたまま、琥珀色の瞳を瞠る。二度、三度と瞬いて────小さく溜息をついて苦笑した。そのまま恋人の腕に顔を埋める。
 どこか縋るようなその仕草を、ナルは拒まなかった。

「馬鹿」
「麻衣?」
「何回同じ台詞を言わせたら気が済むの?」
 何回、ナルが好きだと、ジーンではなくナルが大好きなのだと伝えさせれば気が済むのか。
 苛立ちと言うよりは溜息をまじえた澄んだ声に、ナルは苦笑した。
「違うのか?」
「違う。確かにジーンのことは考えてるけどね、それはナルに謝るようなことじゃないし」

 実際には逢うことすらなかった彼に対する哀惜の念はいまでも強く存在するけれど、そして時折助けてくれるジーンは大切な存在だけれど、それは「恋」ではないから、ナルに謝るようなことではない。
 答えは返さない漆黒を纏う美貌の青年を見上げて、麻衣は言葉を継いだ。

「だけど……………怖くて………………」
「怖い?」
 何を謝っているのかという当初の疑問からはずれている。
 腕を掴む細い指先に僅かに力が込められた気がして、ナルは秀麗な眉を寄せた。澄んだ高い声はひどく抑制されて、らしくないほど硬質な彩をまとう。
 酷く硬いその響きは、脆く壊れやすい硝子を連想させていく。
「怖いから………だから、ひとりでは居たくないの」
「麻衣?」
 
 問いかけには答えないで、ただ、しがみつく腕を強める。

 ひとりだと思っていたのに、二人だったのだと知った。自分が見ていた夢の中の彼は、ナルではなく彼の半身だったと知った。だから自分が好きだったのはジーンだと思った。けれど、ジーンなど見ていなかった。ナルだと思っていた。だから、ナルすらまともに見ていなかったのだと、思った。
 その、半ば混沌とした思考は、収束を求めて結論を急ぐ。
 ─────自分が見ていたのは、ジーンだけでもなく、ナルだけでもなく、二人ともで。
 けれど、それは──────二人ともを見ていなかったのだと言うことにもなる。
 結局自分は誰も見ていなかったのだと、自分はひとりなのだと。
 あの日、自分は「二人」を失ったのだと思った。

 混乱した想いはきちんと整理をつけたけれど、この日になれば失うことを怖れてしまう。また、大切なものを失う慟哭が蘇ってしまう。
 胸を切り裂く想いは、それでも絶対にナルにだけは言えるはずがなかった。
 あなたは、未だに自分がどれほど悲しいか分かっていないから。
 だから、本心は言えない。

「ごめんね。でも、そばにいて欲しいの」
「………ここでよければ」
「うん、ありがとう」

 こづくりの白い貌に、安堵を滲ませた笑みが過ぎる。
 答えが答えになっていないことに気付いてはいたけれど、ナルはそれ以上追求せずに抱きついてきた華奢な身体を抱き留めた。
 今日くらいは仕方がないと内心だけで溜息をついて、美貌の青年はファイルをぱたりと閉じた。



 ジーンみたいに居なくなったりしないで。
 二度とあなたまで見失わせないで、どうか、ずっとそばにいて。
 我が儘で、けれど祈るような想いは、鏡の中の彼には届いても、本当に伝えたいあなたには届かない。
 
 
 今は、まだ、伝えない。
 綺麗な笑顔が好きだったのは、多分、あたしだけではないから。




 一日遅れです(汗)ネタがネタなので(……)三日間限定で掲載しますv
 上手くかけないです、色々と思うことはあるのに………(遠い目)精進します。
2001.8.15 HP初掲載
2002.9.27再掲載
 
 
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