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眠る場所




 熱が、さがらなかった。

 別に風邪をひいているわけでも、特に体調が悪いわけでもないのに、ただ、熱がある。
 そして、どんな理由によるものだろうと、熱があれば当然、体力は消耗する。同じ動作をしていても必要エネルギーは高いのだから、当然のことなのだけれど。
 ただ、体が熱くて、重い。

 眠っても、眠っても────寝たりない。
 足りない、というよりも、起きたくないのかもしれない。
 自分にとって十分な睡眠時間は取っているのに、起きたくない。起きていたくない。

 食欲も、ない。
 身体は健康で、そのうえ低くはない熱の所為で体力を消耗しているのだから、食べなければならないのは分かり切っているのに。
 何も口に入れたくない。
 食べ物も、水も。
 あの、オフィスに出入りするうちに───かの美貌の上司のそばにいるうちに、いつの間にか欠かせなくなっていたお茶も。
 淹れることが苦なのではなく。
 ただ、自分が摂りたくない。

 バイトにも、行きたくなかった。
 行けば───いや、行かなくても。
 あの場所にいる人は一人残らず自分を気にかけてくれることは知っている。
 今も、熱を理由に欠勤した自分を、ひどく心配してくれているだろうと、確信できる。
 けれど。
 兄のような、穏やかに優しい二人の同僚にも。
 「恋人」である冷徹な美貌の上司にも。
 
 会いたくは、なかった。

 オフィスが、自分にとって一番大切な「居場所」であることは分かっている。
 レギュラー、イレギュラー問わず、あのオフィスに関わるメンバーが、あの場所を大切にしていることも、知っている。
 けれど、それは自分の───「麻衣」のため、なのかもしれない。


 抱き締めて顔を埋めた枕を涙が濡らしていくのは分かったけれど────。
 そんなものは自分で無視して、眠りの闇の中に身を投げる。

 外界から遮断する。思考を、閉鎖する。
 どこか冷静なもう一人の自分が、こんなことに「訓練」が役に立つなんて、と皮肉に笑うのを意識しながら。
 閉じこもるように、逃げるように、意識を手放した。


   +  +  +  +  +


 かちゃりと資料室の扉を開けたリンは、オフィスの電話の受話器を持ったまま考え込んでいる同僚を目にして眉を寄せた。

「どうかしましたか?」
「………リンさん」

 扉が開いたことにさえ気づいていなかったのだろう安原は、はっと顔を上げて、苦笑混じりに受話器を電話に戻した。
 珍しいな、と思いながらもリンは尋ねた。安原が理由もない行動をしていることはあまりないのだ。その理由が自分に理解できるかどうかは別として。

「電話、ですか?」
「ええ。………所長は」
「ナルならもうすぐ戻ってくるはずですが」
「そうですか…………」
「何か緊急の連絡でも入りましたか」
「いえ。………ただ、谷山さんから」
「谷山さんから、電話、ですか?」
「そうなんです。………今日は休む、と」

 いぶかしげなリンに苦笑して、安原は付け加えた。

「熱があるそうです」
「熱?…………良くないですね」

 上司と同じく常に無表情のリンが眉を寄せた。明らかに心配げな色が、現れている黒い瞳に浮かぶ。
 自分も似たような表情をしているのだろうな、と内心苦笑しながら、安原はうなずいた。

「ええ。………多分時間的に動きようもない原さんはとにかく、松崎さんに連絡して行ってもらいましょうかと言ったんですが」
「それで、何と?」
「絶対にやめてくれと谷山さんが。………何か、雰囲気がいつもと違って」

 松崎さんに頼みましょうかと言った瞬間に落ちた沈黙と、やめてくださいと一言だけ返した麻衣の声の平坦さを忘れることができない。
 安原がもう一つ溜息をついたとき、オフィスの扉が開いた。

 入ってきたのは美貌の上司と、年長グループのイレギュラーメンバーで、安原はとりあえず表情を切り替えて笑顔を向けた。

「お帰りなさい、所長。………松崎さん、滝川さん、こんにちは。珍しい顔合わせで」
「よう。綾子とは渋谷でばったり、ナルとは下でばったり会ったんだよ」

 な、と同意を求めてひらひらと手を振った滝川を完全に無視してまっすぐに所長室に向かったナルを、安原は慌てて呼び止めた。

「所長!ちょっと」
「何か?」
「谷山さんから連絡がありました」
「麻衣から?」
「ええ。熱があるそうで、今日は休むと」

 振り返った白皙に、感情の色が掠める。
 一拍遅れて、滝川が安原に詰め寄った。

「熱!?麻衣がか?」
「ええ。谷山さんが」
「あいつ一人暮らしだろう、行ってやらないと」
「なに馬鹿言ってんのよ破戒僧!寝込んでる女の子のとこに乗り込む気なわけ?失礼な」
 今にもドアから飛び出しそうになった滝川を綾子の冷静な声が引き留めた。
 滝川は傍らに立った美女に詰め寄る。
「失礼ってなあ!!寝込んでるんだぞ?麻衣が!」
「だからまずいって言ってるんでしょうが。一人暮らしの女の子のところに男一人で行く気?寝込みを襲うって言われても知らないわよ」
「綾子………」
「別に怒らなくてもいいでしょうが。あんたがそこまで命知らずだとは思わないわよ。安心なさいな」
 詰め寄る男を整った爪の先だけであしらって、綾子は白皙の美貌に視線を向けた。

「破戒僧の戯言は聞き流してよ?」
「最初から聞いていませんので」
 さらりと返った言葉に、綾子は笑った。
「ならいいわ。………でも確かに心配だから、様子を見てくるわね。私一人ならかまわないでしょ?」
「僕の関知するべきところだとは思いませんね」
 相変わらずの無表情に、綾子は溜息をつく。
「冷たいわね。その男、つれてってもいいわけ?」
「ご随意に」
「………どうなってもかまわないなら勝手にしろってことかしら、それは」
「どうとでも」

 変わらない無表情。
 綾子は溜息をついた。

「分かった、一人で行くわ。………あとで真砂子を呼んでもかまわないわね」
「ちょっと待ってください、松崎さん」
 答えたのは、ナルではなかった。
 割って入った安原に、視線が集中する。

「安原君?」
「ちょっと待ってください。松崎さん。………僕も、谷山さんに聞いたんです。松崎さんに行ってもらいましょうか、と。そうしたらそれはしないで欲しいと」
「遠慮しているだけなんじゃないのか?」
「僕もそう思ったんですが。………様子が違うんです」
「雰囲気が違うと言われましたね」

 今まで黙って見守っていたリンの声が低く韻いた。
 視線がリンに、そして安原に移る。

「どういうことか説明してください、安原さん」
 促した上司に、安原は頷く。

「はい。………谷山さんは今日、四時……ちょうど今頃から入る予定だったんですが、15分くらい前に谷山さん本人から熱があるから今日は休むという電話があったんです。それで、熱があるなら松崎さんに連絡して行ってもらいましょうかといったら、それは絶対にしないで欲しいと」
「絶対に?」
「はい。………あの、谷山さんが、あなた並みに固い声で」

 受話器の向こうの、表情を見せない固い声と。
 明らかな、拒絶の響き。

「それは変ね。………他に変わったこと、気づいた?」
「いえ。何となく雰囲気が………いつもと違うと言うくらいしか。………ただ、強い拒絶だったことだけは確かです」
「つまり、私が無理に行かない方がいいってことね?」
「ええ」
 綾子は仕方ないわね、と溜息をついて、変わらず無表情を保った怜悧な美貌に視線を向ける。
「ナル」
「………なんでしょうか」
「あんた、あの子と喧嘩でもした?」
「僕と麻衣がですか?」
 ばかばかしい、とでも言いたげなその口調に、綾子は苦笑する。
「確認しただけよ。それなら、行って来てちょうだい」
「は?」
「は、じゃないわよ。麻衣のところに、行って来て。男どもは論外、麻衣が嫌がってるんなら私も真砂子も行けないわ」
「おいちょっと待て綾子、来てほしくないって言ってるんならナルもじゃないのか?」
 どこか狼狽したように口を挟もうとした滝川は無視して、綾子は言葉を継ぐ。
「何があったのか知らないけど、一人にさせちゃいけないような気がするのよ」
「………根拠は」
「女のカン」

 根拠にもならないことをきっぱりと言い切った綾子の、裏腹に真剣な瞳に軽い溜息をついて───ナルは長身の部下に漆黒の視線を滑らせる。

「リン」
「はい、ナル」
「僕は一度帰るが、作業を続けていてくれ」
「分かりました。────戻ってこられる必要はないと思いますが」
 ナルは微かに苦笑して、綾子に視線を向ける。
「松崎さん」
「何かしら?」
「場合によっては呼ぶかもしれませんが、かまいませんか」
「当然」
 打てば響くように、綾子が答える。
 それに視線だけで応えて。

 ナルはそのままオフィスを出た。


  +  +  +  +  + 


 眠っているわけでも、起きているわけでもない。
 曖昧な混沌に意識を浸して、一体どれくらい時間が経ったのか─────。

 麻衣は、薄いヴェールを隔てたように現実感のない「現実」で、何か音が鳴ったのに気づいた。
 それが玄関インタホンの呼び出しであることにはすぐ気づいたが。
 
 出る気には、なれない。

 唇を強く噛んで───そのまま枕に顔を埋めようとして。
 気付いた。

 鍵を、開ける気配。
 強引に、ではない。過敏になっている今の状態でなければ気付かなかっただろうと確信できるほど微かな、ごく普通にロックを解除する音が響いて。
 ふわりと意識に触れた気配に、麻衣は目を見開いた。

 麻衣が思わず身を起こすのとほぼ同時に、扉が開いた。
 予測に違わない美貌が、カーテンすら閉められたままの部屋の中を一瞥して、秀麗な眉を寄せる。

「麻衣」
「………どうして来たの」
 
 高い声が、ひどく固く、けれど壊れそうにもろく響くのを、麻衣は痛いほど意識した。
 一番、来てほしくなかった。
 ────そして、その裏側で。
 彼が来てくれることを狂おしいほど希っていた自分に、気付く。
 
 そして、気付いてしまえば、限界まで抑制していた感情を抑えることは、難しかった。
 爆発しそうな心を、必死に抑える。
 にらみつけるように綺麗に凪いだ漆黒の瞳を見上げて、麻衣は強い口調で言葉を継いだ。

「来ないでって」
「あいにく僕は聞いていない」
「安原さんは何も言わなかった?」
「僕が聞いたのは、麻衣が熱があることと、松崎さんには来てほしくないらしい、ということだけだが?」

 ナルは、数歩の距離を縮めない。怜悧な無表情も変わらないまま、平坦な闇色の瞳だけが麻衣を映す。

「おまえが帰れというなら、僕は帰るが?」

 声はひどく冷たく麻衣の耳を───心を、打った。
 感情が、抑制を破る。

「帰ら……で……!」
 
 半ば反射的に応えた声は震えて最後まで言葉にならず、麻衣は激しく首を振った。
 やわらかな髪が激しく揺れて白い頬に乱れる。どうしようもなく溢れた涙を抑えようとして抑えられずに、麻衣は両手で顔を覆った。

 震えた華奢な肩が今にも壊れそうに見えて、ナルは軽く息をつき、ゆっくりと歩み寄る。
 手を伸ばす必要もないほど近く。
「麻衣」
 ひどく抑制された声が、名前を呼ぶ。
 応えられない麻衣の顔を、冷たい指先が捕らえて半ば強引に仰向かせた。

 濡れた、頬を。
 涙の散った睫を。
 確かに常より熱いなめらかな肌を。
 
 冷えた指先が滑るように触れて、拭う。

「ナ、ル………」
「どうして欲しいのか、はっきりしろ」
 
 帰れといいたいのか、それとも帰らないで欲しいのか。
 平坦な漆黒の瞳の奥に何を見たのか────琥珀色の潤んだ瞳が一瞬だけ縋るような色を増して。

「そばに、いてって言ったら、居て、くれるの?」
「今は、麻衣がそうして欲しければ」
「それなら、そばにいて」

 祈るように呟いた高い声。
 のばされた華奢な手を受け止めて、ベッドに腰掛けたナルは、どこか縋るように抱きついてきたやわらかな少女の身体を抱き留めた。

 腕の中の華奢な身体の熱さに、秀麗な眉を寄せる。

「確かに、熱いな………」
「………そう?」
「熱は計ったのか?」
「計ってない。………風邪とかじゃないから」
「風邪じゃない?」
「うん。………体調が悪いわけでも、風邪な訳でもないの」

 離されることを懼れるように肩に縋る手を強める麻衣の髪を、長くしなやかな指先が規則的に優しく梳く。

「それならどうした?」
「精神的なもの、かな」
「オフィスに行きたくないからか?」
「……行きたくない訳じゃないの」
「それで?」
「…………多分、オフィスに行くのが怖いんだと思う」
「怖い?」
 
 極限まで抑えられた、囁くような声は変わらない。

「うん。………ナルやリンさんは外国の人だから、他に帰る場所があるのはちゃんと分かってたの。でも、他のみんなも、オフィスは大事な場所だって言ってるけど、帰る場所はあるんだよね」
「それで?」
 反論も肯定もせず、耳に快い低い声が響く。
「………でも、あたしは………他に帰る場所なんて、ないの。みんなが帰っちゃったらなくなる場所なのに、他にないの」
 声が、泣き出しそうに、壊れそうに、震えた。
「大丈夫だろう」
 
 レギュラー、イレギュラー含めて。
 あのメンバーは全員麻衣を大切にしている。だから彼女が一人置き去りになることだけはないはずで。
 
 妥当なはずのナルの言葉に、麻衣は首を振った。

「大丈夫なのは分かってるの。安原さんも、綾子もぼーさんも真砂子もジョンも。きっと居てくれるってわかってる」
「それなら何が?」
「………ちゃんと自分の居場所があるのにみんなが居てくれるのは、あたしのためだから」
「麻衣?」
「あたしのために、あたしだけのために………みんなを、引き留めて…………帰れなくするのは、いやなの」
 
 あの場所がすべて。
 そう思ってしまうことは怖かった。
 けれども、大切な人たちを縛ることは赦せなかった。
 そして、いつなくなるか分からない暖かな場所に、依存していくのは怖かった。

 何よりもそれが怖くて。
 なくなることを想定してしまうことすら怖くて。
 懼れている自分の心を見たくなくて。

「それでオフィスに行きたくなかったのか?」
「だ、て………なくなったら、あたし………」

 オフィスがなくなれば。
 たった一つの、「帰る場所」を喪う。
 気付いてしまえば、その「場所」に依存している自分を知っている分、どうしても行きたくなかった。

 まともに言葉にならない麻衣の想いを読みとって、ナルは溜息をつく。

「オフィスと、あのメンバーがいればいいわけか?」
「え………?」
「あそこはSPRの正規のオフィスだ。たとえ僕が帰国してもそう簡単には閉鎖されない」
 閉鎖されない限り、おそらくはあのイレギュラーメンバーは離れない。
 
 麻衣の肩がぴくりと震えた。琥珀色の、澄んだ瞳が漆黒の瞳を見上げる。

「帰国…………するの?」
 
 ナルが日本に帰化する理由はない。彼の半身を奪ったこの国に、彼が帰属するとは思わないし、その必要もない。そして、イギリスには、血がつながらなくても彼を愛する両親と、彼を助ける人たちが居る。
 だから、それは当然のことなのだ。

 考えるまでもなく知っていたことだというのに、その事実が心を苛む。

 麻衣は、唇を噛んだ。
 決して低くはない熱まで出した不安感の正体に初めて気付いた。

 初めて意識した、自分だけが「帰る場所」を持たないと言う事実。
 オフィスがなくなれば、たった一つの自分の居場所を喪うのだということ。
 そして。
 それ以上に、なによりもおそれたのは、当然だと分かっていたはずの、ナルの帰国。

 結局、他のどんなことよりも、それが一番怖かったのだ。はっきり意識に上らせることを無意識に拒むほどに。

「そう、だよね……」
 
 殆ど無意識に呟いた高い声はひどく傷ついて震えて、白皙の美貌に苦笑が掠めた。

「僕が帰国するのは嫌か?」
「………当たり前でしょ」
「何故」
「当たり前でしょ?………好きな人と、あえなくなるのは辛いよ」
「僕が帰国すれば、会えなくなるのか?」

 顔を上げることさえできずに俯いていた麻衣は、俯いたまま二度、三度と目を瞬いて────顔を上げた。

「え?」
「僕がイギリスに帰れば会えないと、誰が言った?」
「誰も言ってないけど………会えるの……?」
「会えるんじゃないのか?」

 飛行機で十数時間かかってしまう距離を近いと称することができるとは思わないが、それでも、会えないほど遠いわけではない。
 会おう、と思えば、地球の裏側にある日本とイギリスは、驚くほど近いのかもしれなくて。

 麻衣はぱちり、と目を瞬いて、表情を変えた。

「そう、だよね」
 
 溜息のように呟いて、ふわりと微笑む。縋るように、しがみつくように肩に縋っていた彼女の手から力が抜けるのを感じて、ナルは腕の中から麻衣を離させてベッドに横たえた。

「ナル?」
「寝てろ。………どうせまともに寝てなかったんだろう」
「ナルよりは寝てた」
「問題が違う。………松崎さんを呼ぶか?」
「綾子?どうして?」
「必要なければ別にいい。寝てろ」

 言葉を重ねられて、麻衣はくすりと小さく笑う。甘えるようにしなやかな長い指先を捕らえて指先を絡めて────ゆっくりと目を伏せた。



 急速に、意識を眠りの帳に包まれていく麻衣の髪を軽く梳いて、ナルは僅かに苦笑した。

 離れることを懼れた麻衣を、離す気はどこにもない。
 今更、離れることなど許す気はない。
 ─────それは、たとえ彼女が泣いて拒んでも、自分から離れることを願っても。

 口に出すつもりも麻衣自身に伝えるつもりもない感情を、凄絶なまでに冴えた美貌に今だけは上らせて。

 涙の痕の残る瞼に、熱の引きかけたやわらかな頬に、優しく冷たいキスを落とした。





 貴方のそばなら眠れるのvというだけの意味もない話を書きたいだけだったはずなのに、なんだってこんなに長くなったんでしょう……(遠い目)初期目的はどこへ消えたのか、私にも謎です(涙)そしてナルっ!なんか性格が(いつもとも)違う!!(吐血)……精進します……(滅)
2001.4.19 HP初掲載
 

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