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パンドラの寓意





「ナルに絶対に欠けてるものって、何だと思う?」
 
 書類を抱えて研究室に入ってきて挨拶を済ますなり。
 片割れとどれほど造作が似通っていても絶対に見間違えようのない綺麗な笑顔を浮かべて、ジーンはそう言った。
 デスクで資料をめくっていたまどかは端正な少年の顔を見返して、くすりと笑う。
「あら。用事は済んだの?ジーン」
「うん、終わった」
「そう。お疲れさま。……珍しいわね、ひとり?」
「今日は僕が資料を出すだけだったから。……ナルに何か用?」
「そういうわけじゃないわ。ただ聞いただけだから気にしないで」

 にこりと笑って、まどかは軽く首を傾げた。

「で、なに?ナルに欠けてるものって」
「あ、聞いてたんだ」
 漆黒の瞳を瞠ってから、彼は最初の質問を繰り返す。
「ナルに欠けてるもの。何だと思う?」
「あの子に欠けてるもの?一言で言えば………………愛想かしら?」

 しばらく考え込んだ女性がさっくりと口にした言葉に、ジーンは一拍おいて爆笑した。
 確かに、間違いなく愛想はない。

「愛想……た、確かに愛想はないよねあの学者馬鹿には………」
「違うかしら?」
「違わないけど。違わないけど……」
 笑いすぎて目尻に滲んだ涙を白い手で拭って、ジーンは表情を綺麗に真顔に切り替える。
「でもそんなこと言いだしたら、人間らしい感情を全部列挙しなきゃならなくなると思わない?」
 たった一人の肉親を「人間らしくない」と言ったも同然の言葉に、まどかは僅かに目を瞬いた。
 くすくすと笑って、悪戯っぽい少年の瞳を見上げる。
「なにもそこまで言わなくても………」
「だって事実だから」
 さらりと帰った答えに、確かにね、と苦笑混じりに肯いて。
 彼女は問いを返した。
「…………それじゃ、どういう意味で聞いたの?」

 うん、と応えたジーンの瞳の色が深くなる。

「本当は必要なのに、欠けてるものってこと」
 少年の澄んだ声が、僅かに真剣味を増す。
「必要?」
「うん。いきていくのに必要なもの」
「空気と水と食べ物、っていうレベルで?」
「そう。体を維持するのは空気と水と食べ物だよね。でも人間って体だけで生きてるものじゃないでしょ?」

 体が生きていくためには、空気と水と食べ物が必要になる。けれど、生きていくには、体だけでなく心を維持することも必要になる。そして、確かに、心にも、必要なものは必ず存在する。
 どのような形にせよ、いきていくためには、エネルギーを生み出す何かが必要だから。

「あなたの言っていることは理解できるわ。……ナルに欠けてるものってそういう意味?」
「うん。誰にでも必要なのに、ナルが持っていないもの」
「あなたは何だと思うの?」

 解答を促す声の、変わらず穏やかに落ち着いたトーン。
 ジーンはふわりと笑って僅かに首を傾げて。
 そして、未だ幼い響きを残す綺麗な声が、言葉を刻んだ。

「パンドラの筺」



  *


 足りないものは、パンドラの筺。



 しん、と静まったリビングの中で、時折響く紙の音がやけに大きく響いた気がした。

 リビングで読み始めたから書斎に移るのも面倒で、そのまま読み進んだ本は、既に終章も半ばにさしかかっている。このペースで行けばあと15分ほどで読了できるだろう。
 そうすれば少しは休める。そう考えて、ナルは軽く息をついた。

 諦めを含んだ口調で、それを読み終わったら寝てね、と釘をさした麻衣の気配は、今はない。
 時刻から考えても、既に彼女は眠ったのだろう。

 どれほど精神が研究に精力的であってもそれをコントロールするのは体力で、体力を維持するためには一定時間の睡眠量は必要になる。生き物である以上避けられない原理は、彼にとっても無視できるものではない。

 思っていたよりも自分は疲れているらしいな、と半ば他人事のように考えて、内心だけで苦笑する。
 そして、束の間波間に浮上していた彼の意識は再び目の前の文字の海に埋没した。
 
  +
 
 一時途切れた意識が再び浮上するのに、それほど時間はかからなかった。
 思った通り、さしたる発見はなかったな、と。
 落胆もなく乾いた感想を抱いて、ぱたりと本を閉じる。
 抗いがたい疲労感を覚えて、ナルは冷えた指先で瞼を押さえた。

 溜息が漏れるよりも早く、軽く瞑目した彼を、思いがけなくやわらかな気配が包み込んだ。
 タイミングを図ったように横からあたたかい芳香が差し込む。
 
 酷く静かに差し出された白い磁器のカップを、そしてそれを支える華奢な手を捉える。
 漆黒の瞳は、内心の驚きを微塵も映さずに静かに凪いだまま、オフホワイトのパジャマの上にキャメルのカーディガンを羽織った麻衣を見上げた。

「………麻衣?」
「なに?」
「寝たんじゃなかったのか」
「うん」

 いつもと変わらない、やわらかな琥珀色の瞳。
 はい、ともう一度促してカップを受け取らせて、麻衣はふわりと笑う。
 薄めに淹れられた紅茶からは、どこか甘いブランデーの香りがして、ナルは僅かに眉を寄せた。
「ブランデー?」
「疲れてるかなと思って。嫌だったら淹れ直してくるけど?」
「いや。いい」
 光を含んだ琥珀色の瞳を視線だけで軽く捉えて、彼はゆっくりとカップを取り上げた。

 上質の紅茶の香気よりも、ブランデーの芳香よりも、間近で微笑む彼女の空気に、張りつめていた精神が解けていくのを感じる。
 瞳など見なくても、冷たく平坦だった空気は、やわらかくあたたかなものに変わる。
 
「やっぱり疲れてるね。平気?」
 ゆらゆらと、やわらかな頬に触れて髪が揺れる。
 すとんと、傍らに座り込んで覗き込んでくる麻衣の問いかけを彼は無視した。
「何で起きてる?」
 相変わらずの冷えた口調。けれど、そこに拒絶の響きは存在しない。
 軽く目を瞬いた麻衣は、小さく苦笑した。
「ちょっと眠れなかっただけ」
「眠れなかった?……どうかしたのか?」

 ナルは秀麗な眉を僅かに寄せる。
 麻衣は基本的にはそれほど寝付きの悪い方ではない。けれど、時に眠れないことがあることも、知っている。
 そして、彼女が眠れないのがどういうときなのかも、知っている。

 忘れたい記憶の比重は、彼女にとってそれほど軽いものではない。

 表層だけは変わらず凪いだままの漆黒の瞳に、それでも明らかな気遣いの色を見つけて、麻衣は微笑った。
「あたしは平気。何もないよ。ただ、ちょっと気になっただけ」
「何が」
「うん。まどかさんが言ってたんだけど」

 麻衣が口にした名前に、ナルは明らかに眉根を寄せた。
 相も変わらず鉄壁の笑顔で手を振って今日イギリスに発ったまどかの顔を思い出せば、またか、という思いを禁じ得ない。
 彼女が信頼できる上司であるのは確かだが、自分にとってある種の鬼門であるのは間違いなかった。
 
「まどか?」
「うん」
「今度は一体なんだ?」
「あ。うんざりしてるでしょ」
 らしくないほどあからさまなナルの表情にくすくす笑って、麻衣は言葉を継ぐ。
「ナルの話だよ。……ジーンの話、でもあるかな」
「………」

 今は亡き片割れの名前に憮然とした気配を感じとったのか、麻衣は肩を竦めた。

「……だから嫌な話じゃないってば」
「そう願いたいな」
「………嫌なら無理には話さないけど?」
「嫌といった覚えはない」
「……ならいいけど」
 彼女は小さく苦笑して、続ける。
「ナルに欠けてるものって何かって話をしてたんだって。生きるために必要なのに、欠けているもの」
「大きなお世話だな」
「今の話じゃないじゃんか。………で、その答えがどういう意味か見当つかなくて、気になってただけ」
「で?あの馬鹿は何て言ったと?」
「……パンドラの筺、って」
 何ですか?と聞いた麻衣に、まどかはにっこり笑って秘密、と言ったのだ。
「まどかさんは教えてくれないのに、今はちゃんとあるかしらね、って言うし」

「パンドラの筺?」
「うん。分かる?」
「………あの馬鹿の言いそうなことだな」

 余計なお世話だ、と思う。
 まどかが麻衣にそんな話をした意味も分かったが、それを麻衣に逐一説明するつもりはない。

「なに?どういう意味?」
「パンドラの筺も知らないのか?」
「名前くらいは知ってるよ!ギリシア神話で、悪いものをみんな閉じこめちゃった筺でしょ?パンドラって娘が、好奇心に負けて蓋を開けたから、世界中に悪いものが散らばってしまった、だっけ。一応まどかさんに聞いてからギリシア神話の本見たんだけど」
「大雑把にはそう言うことだな」
「でもそれじゃ、ジーンが何言いたかったか全然分からないんだもん」
 麻衣の語調も視線も、強くなる。

 何故自分がギリシア神話の解説をしなければならないのかとは思ったが、口には出さない。口に出したところで麻衣が折れるわけはないし、自分が教えなければ麻衣はリンか安原に聴きに行くだけなのは明らかで。
 まどかの意図を彼らに知られるくらいなら、自分で説明した方が遙かにマシだった。

 僅かに溜息をついて、ナルは口を開いた。
 
「パンドラが慌てて蓋を閉めたときにはもう全ての悪は飛び出してしまっていたが、最後に希望だけが箱のなかに残っていた、というのがひとつ。逆に、箱のなかには全ての善が詰められていて、パンドラが箱を開けたためにそれが全部なくなってしまったが、希望だけが残ったという神話もある。どちらにしても、希望が残ったという点では同じことだな」
「………ってつまり、ジーンは、ナルには希望がないって言ったってこと?」
「だろうな。よく、僕には将来に対する展望や予想はあっても、夢も希望もないと文句を言っていたから」
「………そうなの?ほんとに?」
 どこか信じ切れていない麻衣の瞳を、ナルはまっすぐに見返す。
「嘘をつく理由でもあるのか?」
「………わかんないけど。だったら、まどかさんがあたしにあんな顔する必要はないと思うんだけど」
 
 ねえ、麻衣ちゃん?と、含みがたっぷりありそうな笑顔にウインクまでされたのだ。
 それだけとはあまり考えられない。
 
「さあ」
 
 ナルは毛筋ほども表情を変えずにさらりと受け流して、空になった白磁のカップを優雅な動作でテーブルに戻した。
「寝るぞ」
「寝るぞってナル!」
「つかれているだろうと言ったのはお前じゃなかったか?」
「そりゃ言ったけど。疲れてるだろうとは思うけど」

 釈然としない表情で語尾を濁した麻衣に、ナルは妍麗な美貌に笑顔を刻んだ。
「何か問題でも?」
「ないけど」

「歩きたくないなら抱いていってやろうか?」

 言葉の内容と囁くような声と。それとは裏腹な、皮肉な口調。
 明らかに意図的な言葉に、麻衣は立ち上がった。
「自分で歩く!」
「結構」
 
 硬質な声を返して、ナルは立ち上がった。
 はあ、と溜息を一つ落として、麻衣の纏う空気が変わる。
 ナルの手からカップを受け取ってぱたぱたとキッチンに向かう彼女を見送って、ナルは白皙に苦笑を浮かべた。

 
 パンドラの筺に残されたのは、確かに希望。
 人間に希望を残した箱は、彼女が大神ゼウスから与えられたもの。
 そして、最初の女性である彼女の名は、全ての賜り物、を意味する。

 片割れが示し、上司が示唆したパンドラの寓意の在処は、希望という至高の糧を戴く神の賜物。
 

 ふわりと身を翻してキッチンから駆けてきて、麻衣は綺麗に笑う。
 彼は薄く笑って、その額に掠めるようなキスを落とした。




 サイト開設一周年記念です。一応……(吐血)ええ、こんなんですが(泣)一年間本当にどうもありがとうございました。精進しますので見捨てないでください………(涙)
2002.2.1 HP初掲載
 
 
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