back to novel_index |
back to index |
「ルエラ?」 「あら、マーティン」 居間のソファに座って、古びたビロードの宝石箱を開いていた彼女は、穏やかな呼びかけに顔を上げた。 「何を見ているんだい?さっきから嬉しそうに」 微笑して、彼は妻の隣に腰を下ろした。 白い手もとの古い箱に、記憶の糸を手繰り寄せる。 「ああ、それは」 深紅のビロードの箱に、大粒の真珠の指輪。金のリングが刻んできた歴史を映すように、鈍くひかる。 「ええそう。あなたのお母さまに、私がもらったものよ。おばあさまからずっと受け継がれてるものだって」 「婚約が決まった時だったかな」 「そうね。……懐かしいわ」 ルエラは目を細めて追憶を追って───そうして笑った。 「ねえ、マーティン。私が、また誰かの手に渡せるなんて思ってもいなかったわ」 「それでは、彼女に渡すのかい?」 「ええ」 歳を重ねた品の良い顔に、穏やかな笑みが広がる。隣に座る夫の肩に頭を預けて、そうして囁く。 「幸せよ、私」 「ルエラ?」 「受け取って、また、伝えることができる。そんなことが、こんなにも幸せなことだなんて思ってもいなかった。でも、今はわかるの。この指輪は、あなたのお母さまや、おばあさまたちの………それから、私の、幸せの証よ。そして、そうやって受け継いでいける想いがあるのは、なによりも幸せなことだわ。神様に感謝するわ」 † 広い、静かなリビング。 そこに、駆け込むように入って、両手に抱えた大荷物をソファの上にどさどさと投げ出す。 「お、重かった〜〜〜」 へたりと床に座り込んだ麻衣は、横をすっと通り過ぎていった長身を恨めしげに見遣った。 「ナル。今、あたしのこと馬鹿にしたでしょ」 「別に」 指定席になっているソファに座った彼の白皙にはなにも映らない。ソファテーブルの上にノートパソコンをおいて、開く。大きくはない起動音は、怜悧な声に紛れて消えた。 「持ってやると言ったひとの親切を受けなかったのは麻衣だからな」 「それは確かにね、持ってくれれば楽だったけど、今日のこれはみんなからのプレゼントなんだもん。だから自分で持ちたかったの」 恒例の誕生日パーティーは、夜のオフィスになった。 このところのごたごたで、主に事務作業は山積している。時間的余裕は無いに等しい。 「というわけで今夜一晩置かせてね。明日ちゃんと持って帰るから」 かるく首を傾げた麻衣に、ナルは液晶画面を見たまま口を開いた。 「今から持って帰って、戻ってくればすむことじゃないのか」 「それは、いや」 「何故」 「居たいから」 「麻衣?」 「あたしが。いま、ここに居たいから」 華奢な身体が立ち上がる。揺れた淡い色の髪は誰の目にも入らない。 ゆっくりと歩み寄って、ナルの足下に座り込む。 闇色の瞳がようやく液晶画面から離れた。 見上げる琥珀色の瞳に、照明の光が映り込んで、ゆれる。 視線が、絡む。 空気が、張りつめる。 痛いほど。 胸に、残る。 不意に視界が歪んで、麻衣は慌てて顔を背けた。 泣きたくない。 涙は、彼に見せたくない。 けれど、唐突に堰を切った感情の波は止めようとしても止められなかった。 「お茶、いれて、くる」 声を震わせないのは精いっぱいの自制心。 逃げるように立ち上がろうとした麻衣の肩を、ナルの手が押さえて止めた。 「麻衣」 低い、凪いだ声が、ひびく。 「はなして。お茶」 「いらない」 「………ごめん」 「なにが」 「泣くつもりなんてなかった」 「別に謝ることじゃない」 「子供みたいだよね」 「………麻衣」 名前を呼んで、しなやかな手が伸びる。 ひやりとした、大きな手のひらで濡れた頬を包んで、やや強引に振り向かせる。抵抗は途中までで、急速に力が抜ける。 一瞬だけ、視線が絡む。 そして、雫になってこぼれおちかけた涙を吸うように、唇を目元に落とした。 「日が経つのが嫌、なんて」 言葉の合間に、もう片方の目元に軽いキスが落ちる。 「夏休み後半の子供みたい」 堪えるように、スカートを握りしめる。 また唇を噛もうとして、それは優しいキスで阻止された。 先月あった博士論文の口頭論述。 うまくいったわよ、というまどかの言葉は真実だろう。 それなら、学位認定は確実で、ナルの帰国は確定したも同然だった。 帰国予定は八月。 チケットは、もう取れている。 華奢な身体を引き上げるようにソファの隣に座らせて、宥めるように軽いキスを繰り返す。 また涙が溢れてきて、伸ばした指先に、指を絡めるようにして麻衣がおさえた。 ふるふるとかぶりをふって、あいたほうの手で涙をぬぐう。 「待って」 「麻衣?」 「笑うから、待って」 からめた指先はまだ震えている。 うつむいた表情は、見えない。 しん、と。 リビングに静寂が、落ちる。 実質的にはほんの一分ほどだっただろう。 けれど短くは感じられない時間をおいて、麻衣はゆっくりと顔をあげた。 頬に涙のあとは残る。 けれど、琥珀色の瞳に涙はなかった。 まっすぐに漆黒の瞳を見上げて、そうして。 白い貌に、やわらかな笑みが咲いた。 つい先刻の、痛みを伴う涙が幻だったかのように、綺麗に笑う。 何か言いかけたまま言葉を失ったナルに、麻衣は笑った。 「なに?」 「………無理することはない」 「無理してない。笑いたいから、ていうか泣きたくないから。絶対」 「麻衣」 「あのね。………寂しいよ。離れたくないし、泣きたくないって言ったら嘘だし」 絡めたままの細い指先が、ひとまわり大きな手をわずかに強く握った。 「でも。泣いてばっかいるのは嫌なの。ナルはあっちで頑張るし、あたしは大学卒業するまでこっちで頑張る。そう決めたのはあたしなんだし。………それに」 「それに?」 「今日は笑うの。せっかく誕生日なんだから。………笑ってていいよね?」 今は、ただの現実逃避になっちゃうかもしれないけれど。 言葉にされなかった感情は、正確に伝わってしまう。 軽いため息をついて、ナルは口を開く。 紡がれかけた言葉は、声になることはないまま唐突に静寂をやぶった電話の音で破られた。 こんな時間に、ここに電話をかけてくる人間は限られている。ナルはもう一度ため息をついて、長い腕を受話器に伸ばした。 絡めた手はそのままに、ほどかない。 「………いる。分かった、ルエラ」 一言だけ答えて、ナルは麻衣の手に受話器を渡した。 「え?あたし?」 「そう」 麻衣は慌てて受話器を耳に当てる。 「ルエラ?麻衣です」 『マイ!やっぱりそこにいたのね』 「あ、もしかして探させてしまいました?」 『いいえ。心配しないで、最初にここにかけたから』 「………」 いたずらっぽく、ちょっとからかうように笑うルエラの顔が見えるようだった。 『そう、ハッピーバースデー!マイ。お祝いを送らなくてごめんなさいね』 「ありがとうございます。そんな、気にしないで下さい」 『あら、渡したいものはあるのよ。でも、どうしても手渡したかったから』 遠く、電話線でつながった西の果てで、くすくす笑う気配がする。 「ルエラ?」 『まどかに頼んでエアチケットは押さえてもらったから、八月、ナルと一緒に来てちょうだいね』 「え!?」 『無理かしら』 「無理じゃないです、けど。あの」 『じゃあ気にしないで。会えるのをとても楽しみにしているわね』 「………ありがとうございます。あたしも、とてもお会いしたいです」 『それじゃ、またね。邪魔してごめんなさいね、ナルにもそう伝えて?お休みなさい』 「あ、おやすみなさい」 おもいがけなくあっさりと通話が切られて、麻衣は数瞬呆然と受話器を見つめる。 頭が、混乱する。 ナルが秀麗な眉をひそめて、そして口を開いた。 「ルエラは何を言ってきた?」 「ええと。ハッピーバースデー、って」 「そう言えば何も届いていなかったな」 「どうしても手渡したいからって。………八月、ナルに同行して来てって」 「………僕は聞いていないが」 「まどかさんに頼んで、もうチケットは押さえたって」 引き継ぎもかねて、まどかは来週末に日本に来ることになっている。その時に持ってくるのだろう。 「………行ってもいい?」 「………僕はかまわないが」 ナルは深くため息をついて、苦笑した。 今さらだが、彼女たちにかかっては、自分の意志だけで行動することなど不可能に近い。 「ねえ、ナル」 呼びかけで、空気が変わる。 柔らかな頬にはもう、涙のあとはほとんどない。 視線だけで呼びかけに答えたナルの瞳をじっと見つめて、麻衣はゆっくりと口を開いた。 「さっき。何言いかけたの?」 「さっき?」 「電話がかかって来た時。何か言いかけてたでしょ」 「………ああ」 言葉にしようとした想いは未だそこにあって、記憶をたどるまでもない。 誤魔化そうかと一瞬だけ思って、ナルはやめた。 「離れるのは麻衣だけじゃない」 「は?」 「離れるのは僕もだろう」 抑制した低い声が、ほんのわずかに苦笑をはらんで静寂に落ちていく。 イギリスと日本。 決して近くはない距離に離れるのは、麻衣だけではない。 遠く離れることが堪え難いのは、麻衣だけではない。 それがたとえ自分が決めたことでも、自分の最も望む道でも───心の底で、どうしてもと渇望している事実を誰よりも自分が知っている。 離れることがどれほど怖いか、麻衣は絶対に知らない。 ───つきまとう恐怖が、緑のイメージへの危惧が、どれほど強いか、誰にも気付かせるつもりはない。 しなやかな指先を伸ばして、柔らかな髪を梳く。 深い色をした瞳から、目を逸らせなくなる。 「ナル?」 「それに、会いたければ」 「会いたければ?」 「会いにくればいい。まどかに言えばお膳立てくらいはしてくれるだろう」 麻衣は軽く目を瞠って、それから笑い出した。 「そうだね。………ところで、あたし、まだナルから誕生日プレゼントもらってないんだけど」 「特にいらないと言わなかったか?」 数日前に、何か欲しいかと一応聞かれて、麻衣は特に何もいらないと答えた。 そうだけど、と頷いて、続ける。 「今欲しくなったの」 「何が欲しい」 「約束」 「約束?」 「うん。………会いにいったら、会ってね。そばにいてなんて言うつもりはないけど」 「わかった」 「ほんとに?」 「さっきも言った。離れるのは麻衣だけじゃない」 「………会いたいのも、あたしだけじゃない?」 手を伸ばせば、触れるぬくもり。 かさねたくちびるの、甘い気配。 触れる、吐息の熱さ。 すべて───離れてしまえば記憶になる、怖さ。 キスが深まって、ほどける。 崩れ落ちかけた華奢な身体を、柔らかなソファが受け止めて、沈む。 「麻衣」 極限まで抑制した声。 耳元で囁かれて、麻衣は閉じていた目を開けた。 「………忘れるな」 「ナル?」 潤んだ、琥珀色の、瞳。 「忘れるな」 「忘れないよ」 繰り返した言葉に応えて、麻衣はもう一度目を閉じた。 「誕生日、おめでとう」 今日、はじめてのささやきと一緒に軽いキスがまぶたに落ちて。 そしてまた、キスで意識を奪う。 記憶をたしかなものにして。 約束を、確かめる。 忘れることのないように、失うことのないように、それがなによりもたしかなものであるように。 絡めた手は、ずっと離れないままで。 |
麻衣ちゃんお誕生日おめでとうSSです。←どこが。 約束、はpromiseです。誓い、に近いです。ルエラが言ってるのはengageのほうですが(笑)それにしてもマイ設定がフル稼働してますねー(遠い目)まあ、いたしかたないってことで許して下さい。(爆)どうでもいいですが、らぶらぶをひさっびさに書いた気がします。博士が怖い(涙) 2003.7.3 HP初掲載
|
back to novel_index |
back to index |